“世界で一番悲しいVゴール”から358日後。初のJ2降格を味わい、悲嘆に暮れた駒場スタジアムで再びドラマが待っていた。
2000年11月19日、11クラブの総当り4回戦で行われたJ2リーグは最終節を迎えていた。J1昇格切符の1枚は、岡田武史監督(現・FC今治オーナー)の率いるコンサドーレ札幌がすでに確保し、残りは1枠のみ。2位の浦和レッズと3位の大分トリニータとの差は勝ち点2ポイント。得失点差は同じで、延長勝ちでもレッズの昇格が決まる状況だ。
チームは3連勝と波に乗っており、最後の相手は昇格の可能性がないサガン鳥栖。先発に名を連ねた面々は、終盤戦のほぼベストメンバーが揃った。
GK:⑯西部洋平
DF:㉑室井市衛、③ピクン、⑫西野努
MF:②山田暢久、⑤石井俊也、⑳阿部敏之、㉝路木龍次、㉟アジエル、⑧小野伸二
FW:⑬大柴健二
レッズの苦戦を予想する人は多くなかったはずだ。46分に先制ゴールが決まると、当時のJ2記録となる2万207人が詰めかけたスタジアムは沸きに沸いた。しかし、その7分後、ミスから追いつかれると、暗雲が垂れ込める。1-1のまま、まさかの延長戦に突入。この時点でライバルの大分は90分以内に勝利を収めており、勝たなければ、“J2残留”という重圧がのしかかった。
異様な緊張感が漂う延長戦の95分、真っ赤に染まったスタンドが総立ちになる。FKのこぼれ球を拾った途中出場の土橋正樹(ジュニアコーチ)が左足を振り抜くと、ボールはゴール右隅へ突き刺さった。
「サポーターと選手の気持ちがボールに乗ってくれた」(土橋)
1年分の思いが詰まったVゴールが決まった瞬間、ベンチで見守っていた選手、コーチングスタッフ、チーム関係者らが一斉にグラウンドの中に飛び込み、興奮のるつぼと化す。このときばかりは、運営スタッフとともにピッチレベルで観戦していた立花洋一現代表も我を忘れて走り出していた。「いまだとまずいかな」と笑うが、あのときばかりはクラブに関わる全員のあふれる思いが爆発した。誰も予想していなかったのだ。1年でのJ1復帰に、これほどまでに苦労するとは——。
シーズン開幕前の下馬評は、文句なしのJ1昇格筆頭候補。新しく就任した斉藤和夫監督の下、前年以上の巨大な戦力をそろえていたのだ。当時、日本屈指のプレーメーカーとして脚光を浴びていた小野伸二(現FC琉球)の慰留に成功し、外国籍選手も旧ユーゴスラビア代表で98年ワールドカップに出場したゼリコ・ペトロヴィッチ(元監督)が残留。攻撃の核を担う20歳の天才には、キャプテンを託した。チームの歯車はうまく噛み合っているはずだった。
開幕から8連勝を飾り、幸先こそ良かったものの、シーズン中盤からじわりじわりと苦しめられた。J2でのアウェー行脚は想像以上に選手たちの負担となっていたのだ。移動距離が長く、宿泊環境なども大きく変化。J1時代のようにハイグレードのホテルばかりではない。当時、移動や宿泊先の手配をしていた主務の水上裕文氏(現強化部スタッフ)は何年経っても当時のことを覚えている。
「これまでに泊まったことのないビジネスホテルにも泊まりましたし、食事だって違いました」
一部の選手たちからは不平不満も出たというが、納得してもらうしかなかった。「俺たちはいまJ2なんだから仕方ないだろ」と。
慣れない40試合の長丁場にコンディション面でも苦戦。小野をはじめ、岡野雅行、室井市衛、ペトロヴィッチと負傷者が続出した。徐々に黒星が目立つようになり、6月10日の新潟戦では1-6の大敗。6月下旬にはついに首位から転落する。夏場は何とか2位でしのいだが、秋以降は試練の連続だった。9月中旬にペトロヴィッチが退団。同月28日の札幌戦で7敗目を喫すると、残り8試合の段階で監督交代に踏み切る。GMの横山謙三氏が総監督に就任し、立て直しを図った。
終盤のターニングポイントは、昇格を争った大分との直接対決だろう。10月22日、3位まで順位を落としたレッズは、この大一番で2-0の完勝を収め、昇格圏内の2位に浮上。「ヤマ場で勝ち点3を取れたことが一番うれしい」と横山監督も素直に喜んだ。
ラストの一戦だけではない。フィナーレにたどり着くまでも苦労に苦労を重ねた。J2時代を知るチーム関係者は、いまも多くクラブに残っている。そして、誰もが口をそろえて言う。
「あのシーズンを忘れてはいけない」
あれから20年。いま一度、初心にかえれば、思いを新たにすることがあるかもしれない。
J2リーグ:2位
ナビスコカップ:1回戦敗退
天皇杯:4回戦敗退
(取材/文・杉園昌之)