栄冠にあと一歩届かなかったが、間違いなく選手たちは闘志であり、気迫、気概、そして浦和レッズとしての誇りを見せた。
2011年10月29日、舞台は国立競技場——。浦和レッズは鹿島アントラーズとのナビスコカップ決勝に臨んだ。秋空が広がる決戦のピッチに立ったメンバーは以下の通りだった。
FW:⑮エスクデロ・セルヒオ
MF:⑦梅崎司、⑧柏木陽介、⑬鈴木啓太、㉒山田直輝、㉔原口元気
DF:⑥山田暢久、⑭平川忠亮、⑰永田充、㉖濱田水輝
GK:⑯加藤順大
チームを率いるのは、約10日前に指揮を託されたばかりの堀孝史監督だった。
振り返れば2011年の浦和レッズは、ゼリコ・ペトロビッチを新指揮官に迎えて新たなスタートを切った。
ポンテが去った中盤には、マルシオ・リシャルデスが加わり、FWのエジミウソンも健在。開幕戦こそ神戸に0−1で敗れたが、柏木陽介や宇賀神友弥の成長も頼もしく戦術理解が進めばと、期待は高かった。
3月11日には東日本大震災が発生。各地に未曾有の惨事を引き起こした地震により、Jリーグは一時中断を余儀なくされた。
再開初戦となった4月23日のJ1第7節対名古屋グランパス戦で、浦和レッズは3−0と快勝する。新加入のマルシオ・リシャルデスが12分に先制点をマークし、25分には田中達也が追加点。78分には原口がダメを押す3点目を挙げ、クリーンシートで終えた守備も含め、期待はさらに膨らんだ。
ところが、だった。ここから歯車は狂いはじめていく。
第8節から3連敗。第17節のアビスパ福岡戦で勝利を挙げるまで、9試合も勝ち星から見放されたのである。不用意な失点を許し、劣勢で試合を進めることもあれば、得点しても追いつかれるなど、試合の運び方であり、ゲームコントロールが大きく損なわれていた。7月になり14試合を終えた時点で、降格がチラつく15位まで低迷してしまったのである。
さらに歯車が狂った要因としては、夏場にエジミウソンがアル・ガルファ(カタール)へ移籍。得点源を欠くことになったのも痛かった。
7月末のヴァンフォーレ甲府戦、川崎フロンターレ戦に連勝して一時は10位まで盛り返したが、第24節から3連敗。残り試合もわずかとなり、否が応でも降格の二文字を意識せざる得なくなった。
そして、10月15日に行われた大宮アルディージャとのさいたまダービーに敗れ、16位に転落すると、クラブはペトロビッチ監督を解任。当時ユースを率いていた堀に、チームの窮地を託したのである。
就任から2日後に行われたJ1第30節の横浜F・マリノス戦では、原口、梅崎司のゴールで2−1と競り勝つ。開始4分に失点しながら逆転での勝利は、選手たちの気迫と思いが結実した結果だった。その証拠に勝利した後、原口はひと目もはばからず号泣した。GK加藤順大は何度も拳を突き上げて喜びを噛みしめた。
それから1週間後に行われたのが冒頭のナビスコカップ決勝である。鹿島との一戦は、まさに死闘——。
50分に山田直輝が2枚目の警告を受けて退場。10人での戦いを強いられたが、選手たちは体を張り、好機と見るや攻め上がり、息の合ったコンビネーションから梅崎やエスクデロがゴールを狙った。
80分には、鹿島も退場者を出し、試合は10対10の戦いに。0−0のまま延長戦に突入した105分、ポストプレーから左右に揺さぶられると、大迫勇也にゴールを決められ、0−1で敗れた……。
準優勝に終わったが、ピッチで選手たちが見せた闘志と姿勢は心に強く響いた。
そうした選手たちの覚悟があったからだろう。第32節のベガルタ仙台戦で勝ち点1を拾い、第33節の福岡戦に2−1で勝利。堀監督はリーグ戦5試合を2勝2分2敗で乗り切ると、15位でJ1残留を勝ち取った。
ただし、ホーム最終戦となった柏レイソル戦では1−3と敗れ、力の差を見せつけられるとともに、目の前で相手にJ1優勝を達成された。
チームをどう築いていくか。どのようなサッカーを目指していくのか。今一度、考えさせられた2011年シーズンだった。
Jリーグ:15位
ナビスコカップ:準優勝
天皇杯:ベスト8
(取材/文・原田大輔)
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