J1復帰1年目。浦和レッズは大きく変わろうとしていた。Jリーグ元年からチームを支えてきた土田尚史(スポーツダイレクター)、広瀬治(元コーチなど)らが現役を退き、外国籍選手は総入れ替え。そして、指導体制も根本からテコ入れした。これまで外国籍の監督はドイツ、オランダとヨーロッパから呼び寄せてきたが、2001年は初めてブラジル路線に舵を切る。フロントの肝いりでチッタ監督を招へいし、外国籍選手はトゥット、アドリアーノ、ドニゼッチとブラジル人トリオをそろえた。万全の体制でチームを一からつくり直すつもりだった。
しかし、現実はクラブの思惑どおりに進まずに迷走してしまう。土台づくりをしている9月に指揮官が急きょ辞任。大慌てで川崎フロンターレのコーチを務めていたピッタ監督をエメルソンとともに迎えたものの、事態は好転しなかった。
10月13日、埼玉スタジアムのこけら落としには当時、Jリーグ最多となる6万553人の観客が集まったものの、J2降格の危機にさらされていたチーム状況をそのまま写しだすような結果になる。横浜F・マリノスに0-2で敗れ、真新しいスタジアムには大ブーイングが鳴り響いた。それでも、メンバーを振り返ると、希望の光も見えた。
FW:㊱エメルソン、⑱永井雄一郎
MF:⑥石井俊也、⑬鈴木啓太、④土橋正樹、⑭福永泰
DF:②山田暢久、③井原正巳、㉝路木龍次、㉒城定信次
GK:⑯西部洋平
20歳を迎えたばかりの鈴木啓太である。数年後、レッズの黄金期を支えることになるボランチは、東海大一高校(現・東海大付属静岡翔洋高)から加入して2年目で頭角を現し始めていた。
同年7月、日本代表の小野伸二がオランダのフェイエノールトへ移籍し、チャンスが巡ってきたのだ。2ndステージの開幕戦で初めてリーグ戦のピッチに立つと、豊富な運動量を生かし、アグレッシブな守備でその存在感を示す。2節からは全試合で先発出場し、J1残留に貢献。本人は小野伸二が抜けたことで、戦力ダウンしたと言われないようにがむしゃらに働き続けた。ポジションや役割こそ違うものの、意地があった。
1stステージは思い悩んだりもした。練習中に激しいチャージで主力の小野伸二と阿部敏之を削ってしまい、チッタ監督に「帰れ」と言われたこともあった。持ち味である球際のファイトを咎められたのだ。紅白戦で持ち味をアピールすることばかりを考えていた若者にとっては、随分とこたえるひと言だった。それでも、「試合に絡む」という目標を見失わず、自ら道を切り拓いたからこそ、その後、レジェンドと呼ばれるようなサッカー人生があったのだろう。
苦しいシーズンにピッチで躍動した若手は、鈴木だけではない。帝京高から加入した田中達也は、ルーキーイヤーから持ち前の鋭いドリブルで観客を沸かせた。
「前を向いてボールを受けたら、ドリブルすることしか考えていなかった」
勇猛果敢に仕掛けて、ボールを奪われれば必死に取り返しにいく。情熱あふれるプレースタイルは、すぐに熱狂的なレッズサポーターからも支持される。金髪の背番号31がボールを持つと、スタジアムのボルテージは一気に上がった。主に後半途中からジョーカーとして起用されていたが、ワンダーボーイの伝説はここから始まったと言っていい。
レッズのファン・サポーターが高卒新人に胸を膨らませたのも、無理はないだろう。94年に加入した山田暢久(藤枝東)に始まり、永井雄一郎(三菱養和ユース)、小野伸二(清水商)といずれも高卒で加入した生え抜きが主力となっていた時代である。その流れで、闘志がにじみ出るボランチの鈴木啓太、さらには胸踊るドリブラーの田中達也という次代を担う新星が登場したのだ。
暗い影を落とした1年でもあったが、栄光への礎を築く年でもあった。
Jリーグ・1stステージ:7位
Jリーグ・2ndステージ:12位
ヤマザキナビスコカップ:ベスト8
天皇杯:ベスト4
(取材/文・杉園昌之)