1993年のJリーグ開幕を迎えるにあたり、浦和レッズの前評判はすこぶる高かった。
浦和レッズは優勝候補の一角――。
サッカー専門メディアの中には、そう予想する媒体もあったほどだ。
もちろん、それなりの理由があった。
前年9月から11月に行われたナビスコカップで、攻撃的なスタイルが開花。4位の鹿島アントラーズに得失点差で及ばずベスト4こそ逃したものの、5勝4敗と勝ち越した。
年末の天皇杯では準決勝でPK戦の末に散ったが、タレント軍団・ヴェルディ川崎(現東京V)を大いに苦しませもした。
さらに93年に入って、現役アルゼンチン代表FWのビクトル・フェレイラと、同代表MFのマルセロ・モラレスを獲得。FW池田伸康(現ユース監督)、DF西野務(現TD)、DF池田太といった、即戦力となる大卒ルーキーも迎え入れたのだ。期待が膨らむのも当然だった。
93年1月から2月に掛けて約3週間、アルゼンチン・パラグアイ遠征を敢行。4月には新装された駒場スタジアムでマンチェスター・シティと親善試合を行った。こうして5月16日、いよいよガンバ大阪とのJリーグ開幕戦を迎える。
記念すべき一戦に臨んだレッズのスターティングラインナップは、次の11人だ。
GK:①土田尚史
DF:②田中真二、③トリビソンノ、④村松幸典
MF:⑤名取篤、⑥望月聡、⑧広瀬治、⑨福田正博、⑩モラレス
FW:⑦フェレイラ、⑪柱谷幸一
登録こそMFだが、エースの福田正博(元コーチ)をFWで起用。3−4−3の攻撃的なシステムは健在で、キックオフ直後からレッズは圧倒的に攻め続けた。放ったシュートは相手の3倍以上となる15本。
しかし、惜しくも0-1で敗れ、この試合で肉離れを起こしたキャプテン柱谷幸一(元GM)の長期離脱が決まると、雲行きが怪しくなっていく。
福田は日本代表として4〜5月にアメリカ・ワールドカップ・アジア1次予選に出場した疲労を残しており、鳴り物入りで加入したアルゼンチン代表コンビもチームにフィットせず、まさかの開幕4連敗を喫してしまう。
前年に掴んだ手応えと自信が、音をたてて崩れていく……。
ようやく初白星を掴んだのは5節のV川崎戦だった。河野真一の同点ゴールで1-1とし、PK戦で4-2の勝利を飾る。3連敗を挟み、9節の清水エスパルス戦では福田、水内猛のゴールで2-1の勝利。ところが、その後5連敗と黒星がかさんだ。
低迷の要因は、守備の崩壊にあった。
開幕戦で負傷した柱谷が復帰すると、今度は福田がリタイアする始末。さらに、3トップの攻撃的なスタイルが相手チームに分析され、手薄になった後方のスペースを狙い撃ちされた。週2試合の過密日程のため、チームを立て直す時間も取れず、サントリーシリーズ(第1ステージ)は3勝15敗の最下位に終わった。
ニコスシリーズ(第2ステージ)では巻き返しを図るべく、アルゼンチン路線からドイツ路線へと変更。元ドイツ代表の名手カールハインツ・ルンメニゲの実弟であるミヒャエル・ルンメニゲと、ブンデスリーガ得点王にも輝いたウーベ・ラーンを獲得する。
さらに、守備の立て直しを狙ってスロバキア人GKミロスラフ・メンテル(ミロ)まで獲得したものの……。
ベテランMF名取篤(現育成/スカウト)や日系ペルー人のMFエドウィン・ウエハラ、アルゼンチン人DFトリビソンノらの健闘も虚しく、ニコスシリーズも5勝13敗の最下位。森孝慈監督の退任と、横山謙三新監督の就任が発表された。
福田が当時を振り返る。
「僕自身のコンディションも良くなかった。そのうえに周囲の盛り上がりと期待に応えなければという義務感が先行して、悲壮感が漂ってしまってしまいましたね」(『浦和レッズ25年史』より)
「ドーハの悲劇」で知られる日本代表のワールドカップ・アジア最終予選中に行われたナビスコカップ、リーグ戦終了後の天皇杯でも早期敗退に終わったが、そんななかでも「Jリーグ1」と言われたのが、駒場スタジアムの雰囲気だった。
前年からレッズサポーターの熱狂度は評判になっていたが、そのパワーはさらに増した。不甲斐ないプレーを見て相手チームを応援し始めたり、無様な敗戦後、スタンドに居残って揉めたりすることもあったが、どれだけ負けが込もうと、スタンドは真っ赤に染まり、「浦和レッズ」コールの大合唱に包まれるのだった。
Jリーグ・サントリーシリーズ:10位
Jリーグ・ニコスシリーズ:10位
ナビスコカップ:グループステージ敗退
天皇杯:2回戦敗退
(取材/文・飯尾篤史)
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