11月4日、ナビスコカップ決勝。5万6064人が集まった旧国立競技場の客席は、レッズの鮮やかな赤ばかりが目立った。快晴の空に大きなフラッグがはためき、まるでホームの雰囲気である。ファン・サポーターの大きな声援がどこまでもこだましていた。初戴冠への期待の高まりは、プレッシャーにもなっていたのだろう。試合前、ベンチ前に一列に並んだイレブンの顔には緊張の色がにじんだ。
FW:⑪トゥット、⑩エメルソン、⑦永井雄一郎
MF:㉘平川忠亮、⑬鈴木啓太、⑨福田正博、②山田暢久
DF:⑲内舘秀樹、③井原正巳、⑳坪井慶介
GK:㉑山岸範宏
ベンチで悠然と構えるのは、就任1年目のハンス・オフト監督だ。
「進歩は急に起きない。急に起きているように見えるだけだ」
名伯楽の口癖である。当時55歳の指揮官は地道に基盤を築き上げ、徐々に力をつけていった。第1ステージは11位。決して肯定的な声ばかりではなかったが、焦らず慌てず歩を進めていく。「オフトマジック」という言葉を何よりも嫌った。第2ステージに9戦負けなしで一時首位に立っても、積み重ねの結果だと言わんばかりに表情をほとんど変えなかった。ナビスコカップでも順調に勝ち進み、準決勝では延長戦の末にガンバ大阪を撃破。ついにクラブ史上初めてとなるファイナルまでたどり着く。
最後に立ちはだかったのは、豊富な優勝経験を持つ鹿島アントラーズ。大舞台の場数を踏んでいる相手は手強かった。勝負どころを知っており、0-1で逃げ切られてしまう。ボランチとして出場していた福田正博は終了の笛を聞くと、静かにピッチ中央へ足を運んだ。下を向くこともなく、途中交代した井原正巳から譲り受けたキャプテンマークを腕に巻き、どこか遠くを見ていた。現役のラストイヤー。どうしても欲しかった自身初タイトルを目の前で逃したのだ。ただショックに打ちひしがれるよりも、本人はチーム力の差を素直に認めていた。引退後、あらためて当時のことを聞いたことがある。
「あのときは、まだ早かったんだと思う。あの試合は負けるべくして負けた。スコア以上に鹿島との差はあったから。鹿島の選手たちは勝ち方を知っていた」
秋以降はリーグ戦でも勢いを失っていた。ナビスコカップ決勝前から含めると6連敗を喫し、第2ステージはそのまま終幕。初のステージ優勝も見えていたが、8位まで転落してしまった。
その年の暮れにはプロの鏡となった井原と、三菱重工、三菱自工のJSL時代から14シーズン、レッズでプレーした福田(元コーチ)がスパイクを脱いだ。偉大な二人がクラブに残した財産は大きい。同年のJ1新人王とナビスコカップのニューヒーロー賞を獲得した坪井慶介は、井原からプロ精神を学んだという。ピッチ内のプレーだけではない。生活面から振る舞いまですべてである。坪井は大敗したあとでも、自らのミスで負けたときも、取材ゾーンでは報道陣の質問には必ず答えていた。
「負けたときこそ話すのがプロ」
40歳でプロキャリアに幕を下ろすまで、尊敬する井原の言葉を胸に留め続けていた。
ミスターレッズの異名を取った福田は、浦和の子供たちに夢を与えた。そして代名詞の背番号9は、レッズの特別なナンバーになった。
「将来、僕もレッズの9番を背負いたい」という思いを秘め、アカデミーに入ってきたのが原口元気(現ハノーファー=ドイツ)。負けん気の強い神童は順調に育ち、17歳でトップ昇格。プロ契約を結んでしばらくした頃、目を輝かせて話してくれた。
「僕もいつか福田さんのような存在になりたい。勝負どころでゴールを決めているイメージが強くて、本当にカッコよかったから。Vゴールも多かったですよね」
背番号の重みを深く理解する男は、プロ6年目で憧れの9番を背負ってプレーし、ドイツへ旅立って行った。
先人たちが築いた歴史は継承され、それが伝統になっていくのだろう。
Jリーグ・第1ステージ:11位
Jリーグ・第2ステージ:8位
ナビスカップ:準優勝
天皇杯:3回戦敗退
ベストイレブン:エメルソン
(取材/文・杉園昌之)