瀬戸内海で沈没した駆逐艦を戦後再利用
海上自衛隊は太平洋戦争後に発足し、旧日本海軍の文化や伝統の一部を継承している組織ですが、護衛艦についても一隻だけ旧日本海軍の中古を使ったことがあります。それが、1950年代後半から1970年代初頭にかけて用いられた「わかば」です。
木造艇などを除くと、旧日本海軍の戦闘艦艇で唯一、海上自衛隊に再就役した護衛艦「わかば」(画像:海上自衛隊)。
護衛艦「わかば」の前身は、旧日本海軍の駆逐艦「梨」です。この艦は太平洋戦争中、大量に建造された松型駆逐艦のひとつで、艦の大きさは全長100m、基準排水量1350トン、満載排水量1580トン、主兵装として12.7cm高角砲(高射砲)を単装と連装各1基計3門、4連装魚雷発射管1基、対潜水艦用の爆雷投射機2基、爆雷投下軌道(レール)2条などを装備していました。
「梨」は1945(昭和20)年3月15日に竣工したものの、太平洋戦争はすでに最終局面を迎えつつあり、もはや動かす燃料にも事欠く状況でした。やがて終戦直前の7月28日、瀬戸内海にある山口県の平郡島沖合にて停泊中、「梨」はアメリカ海軍の艦載機による攻撃を受けて転覆沈没しました。
本来ならここで艦歴はピリオドを打ちます。実際、沈没したのち除籍もされています。しかし、「梨」の歴史の歯車は止まりませんでした。沈没地点の水深が浅かったため、民間企業がくず鉄として「梨」を流用しようと、1954(昭和29)年に引き揚げたのです。
沈没艦の再使用 整備で苦労し国会でも追及
駆逐艦「梨」は沈没から約9年経っていましたが、状態は良好だったため、防衛庁(現在の防衛省)が引き取ることを表明、翌年の1955(昭和30)5月から広島県呉市の造船所で復旧工事を実施しました。こうして1956(昭和31)年5月31日、警備艦(後に護衛艦に改称)「わかば」と命名されて、発足間もない海上自衛隊に再就役しました。
駆逐艦「梨」とほぼ同時期に竣工した同型艦の「初桜」(画像:アメリカ海軍)。
ただし「わかば」は、引き揚げ時の状態がよかったといえ約9年も海水に浸っていたので不具合が多く、蒸気タービンやボイラーなどの機関部は整備してもすさまじい雑音が消えることはなかったそうです。
また「わかば」として復旧させるにあたり、引き揚げた民間企業に対して、くず鉄としては高値である約9億円を支払いました。これは2020年現在の価格に換算すると約18億6300万円です(日本銀行調査統計局「企業物価指数」を基に算出)。またそれとは別に沈没地点の漁業協同組合に対して約160万円、こちらも現在の価格に換算すると約331万円(同)を、それぞれ税金から拠出し、そのことが国会で問題視されました。
しかも「わかば」として再就役した1956(昭和31)年当時、すでに戦後に設計建造された国産護衛艦が就役し始めており、さらなる新型護衛艦の建造も計画されるなかで、あえて沈没艦を再使用する意義も問われました。
新装備のテストベッドとして海自に貢献
それでも1957(昭和32)年には改装され、各種武装やレーダーなどを搭載、護衛艦としての本格運用が始まります。1960(昭和35)年には海上自衛隊艦艇として唯一、アメリカ軍供与の遠距離目標の高度がわかる大型レーダー(高角測定レーダー)を装備し、海上自衛隊のレーダー運用能力の向上に貢献しました。
これ以降、新装備のテストベッドとなる実験艦的な任務が多くなり、1963(昭和38)年4月には護衛艦にまつわる各種の試験を担当する実用実験隊(当時)へ編入されて、各種テストに専念することになります。
1958(昭和33)年9月、日本海を航行中のソ連駆逐艦TSL-24。賠償艦として同国に引き渡された「初桜」の晩年の姿である(画像:アメリカ海軍)。
こうして護衛艦「わかば」は再就役から約15年間、駆逐艦「梨」の艦歴よりも大幅に長く運用され、1971(昭和46)年3月31日に再除籍されました。ちなみに真偽の程はわかりませんが、「わかば」は沈没艦を引き上げて再就役させたということで、幽霊騒ぎもあったそうです。
駆逐艦「梨」から自衛艦「わかば」への転身は、終戦直前の沈没がなければあり得なかったことです。沈没は多数の犠牲を出した悲しいできごとですが、沈没しなかったほかの戦闘艦艇が、終戦後に賠償艦として他国に引き渡されて、~艦によっては原爆実験などに用いられたことを鑑みると、引き揚げられて再び就役した「わかば」は強運だったのかもしれません。
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