「五感に訴える」メロディーつき駅弁
JR紀勢本線と近鉄山田線が接続する松阪駅(三重県松阪市)では、「松阪牛」の産地だけあって、牛肉をメインにした駅弁が多く販売されています。そのなかで、いま最もその名を知られているのが、「モー太郎弁当」でしょう。
松阪駅弁「モー太郎弁当」。容器のふたを開けるとメロディーが鳴る(2012年5月、宮武和多哉撮影)。
弁当を製造する「あら竹」(新竹商店)のイメージキャラクター「モー太郎」のイラストが描かれた紙包みを取ると、牛の顔をかたどった容器が現れます。この時点でもインパクトがありますが、驚くのは、この容器のふたを開けたときです。ふたの内側についたセンサーが反応し、「うさぎ追いしかの山」のフレーズで知られる唱歌『ふるさと』のメロディーが流れるという、日本初の「メロディーつき駅弁」なのです。
肝心の中身は、甘辛く煮た市内産黒毛和牛のすき焼きが、ご飯の上にびっしり敷き詰められたもの。脂の甘さがじわじわとしみ出し、あめ色に煮込まれた玉ねぎや付け合わせの紅生姜が、それをさらに引き立ててくれます。
この弁当についてあら竹は、容器で「視覚」に、メロディーで「聴覚」に、すき焼きの香りで「嗅覚」に、その味わいで「味覚」に、そして駅弁の持つ郷愁で「心」にと、「五感に訴える駅弁」としています。過去には、同様の仕組みで容器のふたを開けると牛の鳴き声がする駅弁が和田山駅(兵庫県朝来市)にありましたが(現在は販売終了)、これに着想を得て「メロディーつき駅弁」を開発したところ、ヒット商品に。近鉄特急やJRの快速「みえ」などに乗っていると、松阪駅を過ぎたころに車内の至るところで『ふるさと』のメロディーが聴こえてくることもあり、その人気ぶりがうかがえます。
あら竹の歴史は古く、いまから120年以上前、1895(明治28)年には松阪駅で駅弁の販売を行っていました。いまでこそ「モー太郎弁当」など、「牛肉メインの駅弁」は全国に多数ありますが、その元祖である「元祖特撰牛肉弁当」を作ったのも、あら竹です。そこから「モー太郎弁当」が誕生するまでには、いくつもの苦難がありました。
画期的だった「牛肉メインの駅弁」 危機を救った「モー太郎」
「元祖特撰牛肉弁当」は昭和30年代、紀勢本線の全線開通を目前に控えた国鉄天王寺鉄道管理局が、観光の目玉として「地域の顔となる駅弁を作ってほしい」と、あら竹に要請して誕生したものです。
松阪という地域色を打ち出せば当然、松阪牛となりますが、当時から高級品でした。「原価の高い松阪牛を使っては大衆の駅弁にはならない、しかしおいしいものをつくるには、松阪牛のいい部分を使わなければ」と、あら竹の4代目主人だった新竹亮太郎さんは、松阪牛卸の名門である丸中本店に協力を仰ぎ、何とか採算の合う仕入れ値を実現します。また、冷めても脂の旨味を損なわない独自の調理方法を確立しました。
こうして1959(昭和34)年7月、紀勢本線の全線開通にあわせて発売された「元祖特撰牛肉弁当」は、他地域の駅弁が50~100円というなか、全国最高額の150円をつけました。当時の駅そば4、5杯ぶんに相当する高額であり、初日にたった3個しか売れなかったそうです。しかし、その評判は全国に広がり、1964(昭和39)年には国鉄主催の駅弁品評会で1位を獲得、その後も人気商品の座を保ち続けます。
60年以上の歴史を持つ「元祖特撰牛肉弁当」(2009年5月、宮武和多哉撮影)。
しかし21世紀に入った2001(平成13)年、あら竹は大きな問題に直面します。全国でBSE(牛海綿状脳症)感染牛の問題が取りざたされ、牛肉の消費量が大きく落ち込んだのです。あら竹が弁当に使用していた黒毛和牛はBSEとは無関係でしたが、商品のほとんどが牛肉をメインとしていたこともあり、売り上げはそれまでの10分の1にまで減りました。
この危機を救ったのが、のちにあら竹6代目主人となる新竹浩子さんが開発した「モー太郎弁当」だったのです。松阪の名物に親しんでもらいたいという思いから2002(平成14)年に誕生した「五感に訴える駅弁」は大ヒットし、松阪のみならず、全国の駅弁大会やイベントには欠かせない存在となっています。
ちなみに、あら竹には駅弁以外の名物もありました。かつて4代目主人の新竹亮太郎さんが国鉄から購入したC11形蒸気機関車312号機です。あら竹が経営するドライブインに置いていたところ、保存状態がよかったことから、静岡県の大井川鐵道に引き取られ、1988(昭和62)年に同線で現役復帰を実現。2007(平成19)年まで走り続けたあと解体されました。その汽笛などの部品を譲り受けたC11形227号機は、同線でいまも現役です。
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