山咲トオル
アイドル歌手になりたい
「絵を描きたいという理由で休んだので、特に休業宣言はしなかったんです」
「LGBTという言葉がなかった時代ですからね。小学生のときは石を投げられることもあったし、中学生のときは学校中から“オカマ!”と呼ばれていました」
「個性的な学生が多かったこともあり、私のキャラクターも受け入れてもらえたんです。同級生は今でも連絡を取り合う大切な存在ですね」
「3歳のころからテレビの世界に入りたいと思っていたのですが、16歳のときに2歳年上の姉(中沢初絵)が歌手デビューしたんです。身近な存在が芸能界入りしたことで、アイドル歌手になりたいという思いが強くなりましたね」
「200~300回ぐらい受けましたね。これで最後という覚悟で受けたホリプロ主催の『第3回 飛び出せ! 日本男児』コンテストでようやく最終審査に進むことができたんです。でも優勝することはできず、きっぱり諦めることにしました」
「ホラー漫画の雑誌を立ち読みしたら、新人賞の募集をしていたんです。もともとデザインの学校に通っていたこともあり、自分でも描けるんじゃないかなと急いで画材を買いそろえ、応募しました」
「1作だけかと思っていたのですが、半年後にはその雑誌の表紙に起用され、1年後には単行本を発売と、トントン拍子に進んでいきましたね」
ふとしたことからテレビへ
「編集部の人から提案されて、顔出しでお悩み相談のコーナーをすることになったんです。どこかで“漫画家で有名になれば、楳図かずお先生のようにテレビに出られるかもしれない”という気持ちも芽生えていきましたね」
「そのときに“元アイドル歌手を目指していた、オネエ言葉を話すホラー漫画家だからいい”とはっきり言われました(笑)。オネエとしても、兼業タレントとしても先駆けのような感じでしたね」
「すぐに“『さんま御殿』の出演が決まった”と連絡があって。そして、さんまさんに面白がってもらえたこともあり、事務所に所属してから3か月後にはスケジュール帳が真っ黒になっていました」
「当時のオネエはキワモノ・ゲテモノ枠。笑ってもらえてナンボみたいな世界だったので、小中学生時代の“オカマ”と呼ばれていたころに戻った感じでしたね。私自身はそう言われることに対して耐性があったので、特に傷つくことはなかったです。でも、同性が好きというのはテレビにおいて倫理的に問題があると。番組によっては“女性が好きと言ってくれませんか”と頼まれることもあって……。仕方なくそう発言したこともありましたが、罪悪感が拭えませんでした」
「さんまさんが“つらいとか泣いたら、視聴者は引くで。夢を与えるのがトオルちゃんの役目だよ! ”と指南してくれたんです。その言葉があったから、つらいときでも頑張ることができました」
「オネエ=毒舌というイメージに変換されていきましたが、私はそういう性格ではないんです。派手に罵り合って番組を盛り上げるオネエたちの中で、ただ座ってニコニコするだけの日が続いて……。こういう状態でテレビに出るのは申し訳ないなと思い、休業することを決めました」
活動再開を決意するも「もう戻る席はない」
たね。でも、いつお仕事がきてもいいようにコンディションは整えていました。すると当時、ADだった方たちが“トオルさんにはお世話になったので”とお仕事を回してくれるようになって。芸能界も悪い部分ばかりじゃないですよね」
「高校時代から体重が変わらないのですが、年をとってやせていると貧相に見えるようで、心配されましたね(笑)。だから昨年はコロナ禍を利用して、4か月かけて7kg体重を増やしました」
「忙しかったころはお休みが月に1日だけ……という状態でしたが、余裕ができたことで、すべての仕事において全力投球できるようになりましたね」
「4年前に沖縄のLGBTイベントの大使をやらせてもらい、生の声を聞かせてもらう機会があったんです。1000人いたら1000個の悩みの形があると実感したので、簡単には語れないなって。私はバラエティータレントなので、オカマキャラで笑ってもらえるならそれでいい。私たちが伸び伸びと活動をすることで、悩みを抱えている人たちが自分たちの形を模索してくれたらいいですね」