ソフトボール日本代表・上野由岐子さん 写真提供/(公財)日本ソフトボール協会
ネットニュースで知った東京五輪の延期
「1年後が見えない」と、7人制ラグビー挑戦を断念した福岡堅樹さん、現役を退いた女子バレーボールの新鍋理沙さんらがいる一方で、今夏の引退を表明していながら競技続行を決めたスポーツクライミングの野口啓代選手のような人もいる。
「1月までは、ごく普通に代表合宿に参加していたんです。コロナといってもそこまでではないだろうという気持ちもありました。でも2月~3月になって、これは完全にヤバイという感じになり、3月24日に延期が決定した。その一報はひとり自宅でネットのニュースで見ました。
「麗華監督は親でも親戚でもないのに、自分に尽くしてくれる。自分のことをいちばんに考えてくれるんです。麗華監督と出会っていなかったら、ここまでソフトボールを続けることもなかった。だからこそ、恩返ししたい。熱い思いに応えたいという感情が湧いてくるんです」
「でも上野は問題ない。1年くらい五輪が延びたからといって、実力が落ちるわけじゃないし、まだまだ伸びると思います。上野を超えるピッチャーはそう簡単には出てこない。彼女を中心に戦っていくのは変わりません」と、大きな信頼を寄せている。
母との口論、父の喝
「仕事より家庭が第一。子どもがやりたいことは何でもバックアップする」という考えの父は、娘の習い事を積極的にサポート。母も夜勤の多い常勤看護師を辞め、非常勤のパート看護師になるなど、子育てを最優先に考えた。
●「はい」という素直な返事
●「すみません」という謝罪の気持ち
●「私がします」という積極的な行動
●「おかげさまで」という謙虚な気持ち
●「ありがとう」という感謝の気持ち
「ウチの家訓は今も自分の中に焼きついていますけど、特に母の言葉にはハッとさせられることが多いですね。“人の悪口は言わない”“人に好かれる人間になれ”という普通のことなんですけど、自分が生きるうえでの指標になっていると思います」
「小3くらいのころだったと思います。体育の時間に使った紅白帽の洗濯を私に頼んだのに翌朝、洗濯されていないことに、由岐子と言った言わないで揉めたことがありました。それからは必ずやってほしいことをメモに書いてテーブルに置くようになったんです。本当は私のほうがそうするように教えなければいけなかったのに、何も言わなくても自分で考えて行動していた。そういうところは感心させられましたね」
再起不能もありえた大ケガ
「“嫌なことや人の悪口を言葉にしてしまうと、ますます嫌な気持ちになるから言わない”と、由岐子は中学生のころからよく言っていました。もともと愚痴るような子ではなかったけど、苦しいときでも親の前で弱音を吐くことはなかったです」と、母・京都さんも娘の強靭なメンタリティーに驚かされた。
「18歳当時の上野は口数が多いほうではなかったですね。でも周りへの気配りは飛び抜けていました。当時、チームを率いていた宇津木妙子監督(ビックカメラ高崎シニアアドバイザー)が“ピッチャーは特別なんだから、あまり雑用や用事をさせないように”という方針を示していたのに上野はいつも先に動いて練習の準備や片づけはもちろん、食事会場では率先してお皿を並べたり、配膳を手伝ったりしていました。外野手だった自分はよく怒られましたね」
「自分は速いボールを投げられちゃった感じ(笑)。時速120キロを投げようとして投げているわけじゃないんです。いいボールを投げたいと努力する中で、だんだんスピードが上がってきました」と淡々と言うが、やはり天賦の才によるところが大きい。
「足の速さと同じで、スピードボールを投げるのも生まれ持った才能。上野も新人時代は細身だったけど、時速110キロは投げていたと思います。その後、筋力がつき、体幹も強くなり、174センチの長身をうまく使えるようになって、一段と速さが増した。あれだけのピッチャーはそうそう出てきません」と、岩渕監督。
アテネ五輪での挫折
「あのときは22歳。“自分の結果を出すことが何よりのアピールだ”としか考えていませんでした。でも結果的に全くダメだった。大会中に胃腸炎になり、体調を崩したのも響いて、“自分はホントにまだまだだな”という挫折感だけが心に残りました。いちばん悔しかったのは、大事な場面を任せてもらえなかったこと。“上野、頼んだぞ”と監督やチームメートに言ってもらえるピッチャーにならなきゃいけないって思ったんです」
「上野を世界一のピッチャーに育てて、北京五輪を託すしかない」と考え、上野選手を強豪国アメリカでの“武者修行”に誘った。頂点を目指す彼女も賛同。'05年6月、ふたりでアメリカ・ヒューストンへ赴いた。
「あなたは今、投げる気がないでしょう。この1球を打たれたら終わりだという責任を感じながら、自信を持ってやりなさい」
「上野はそれまでのソフトボールへの取り組みを反省したと思います。単に時速120キロのスピードボールを投げればいいわけじゃない。常に感謝と責任を感じ、人間力を高めながらプレーしなければいけない。それを学べたのは財産になりました。アメリカでは、右バッターの内角に食い込むシュートを覚えさせるのが目的でしたけど、それ以上にスポーツマンたるべき姿勢を身につけた。そちらのほうが大きかったかもしれません」
自己チューからチームのために
「麗華監督に“配球とは何か”を教わったのは本当にプラスになりました。ピッチャーの仕事は“個人として抑えた、打たれた”という勝負じゃない。試合に勝つか負けるかが第1なんです。打たれなくても負けは負けだし、どんなに打たれても勝ちは勝ち。それが理解できてから、あまり自分の結果にとらわれなくなりました。確かに記録は残したかもしれませんけど、あくまで重要なのはチームの勝利。そのためのピッチングをしようと気持ちを奮い立たせていたんです」
「日本の勝利のために」と言い聞かせてマウンドに立った大黒柱は、予選リーグからフル回転。ラスト2日間には、準決勝・アメリカ戦、決勝進出を決める豪州戦、決勝・アメリカ戦の3試合を投げ切った。日本悲願の金メダル獲得の原動力となった上野選手の“魂の413球”は、多くの国民を感動させた。
「この先、投げられなくなっても後悔しない。肩が壊れてもソフトボール人生が終わってもいいというくらい、すべてを懸けてマウンドに立ちました。誰にも譲る気などなかったです」と語気を強めた。
「試合が終わるたびに連絡していました。“調子どう?”“こういうプランで投げられたらいいね”という軽い感じの会話でしたけど、話をするたびに迷いが吹っ切れた。“麗華さんがこう言ってくれるならやろう”と決断もできた。背中を押してもらいました」
「スケジュール管理や取材対応、テレビ収録の立ちあいを2年間やりましたけど、本当に目まぐるしい状況で、帰りが深夜になることも少なくありませんでした。本人はもともと人前に出るのが得意ではないので、疲れるうえに、緊張やストレスも重なる。競技に集中しづらくなっていきましたね」
「あなたは子どもたちにとってはスターなんだから、スターらしく振る舞いなさい」
「基本的に注目されるのが好きじゃなくて、“嫌だ嫌だ”と言っていたけど“立場上、しかたないんだから、駄々をこねずに受け入れなさい”と、母から言われた気がした。
特に子どもたちから憧れの存在として見られていることに気づいて、ガッカリさせる態度はいけないと感じた。母の言うことは腑に落ちましたね。ストレートに自分を叱ってくれるのは、麗華監督と母くらい。そういう意味では胸に響くものがありました」
「このままだとチームに迷惑をかけるし、自分自身もダメになる……」
「やる気がなくてもいいから続けなさい。続けることに意味があるんだから」
「上野は世界一のピッチャー。彼女を失うのは日本にとって損失以外の何物でもない。ソフトボールへの思いを取り戻してくれるまで待とうと思ったんです。'10年の世界選手権も辞退したいなら、私が批判を背負おうと。“あなたは世界一。嫌なことを背負うために自分が横にいるから”と、彼女を励ましたのをよく覚えています」
「やる気が湧かなくても、続けさせてもらえるのならやろうと思ったし、どこかうれしい気持ちもありました。
子どもたちのスターに
「30歳になったとき、母から“あなたも30なんだから、もっと大人の対応のできる人間になりなさい”と、言われて自覚を持ったんです。
人間は、年相応の振る舞いが必要ですよね。'16年にソフトボールが東京五輪の正式種目に認められてからは、注目度も上がりましたし、数多くの子どもたちがカメラを向けてくる。それに対して笑顔で明るく対応をしなければいけない。だんだんそう思えるようになりました」
「上野には老若男女問わず、たくさんのファンレターが来るんですが、可能なかぎり、直筆で返事を書いています。ご両親の教育もあって非常に礼儀正しく、マメなのが彼女のいいところ。子どもたちへの気配りは素晴らしいですね。妹さんに甥っ子2人が生まれたことも大きいのかな。以前にも増して子どもたちを可愛がるようになったと感じます」
「私は上野さんのひと回り年下。バッテリーを組んで6年になりますが、“ああしろこうしろ”と言われたことはないし、ぶつかり合ったことも1度もありません。私の意見を聞いてくれて、的確なアドバイスもしてくれる。チームを勝たせるために力を尽くしているのがよくわかります。
ネットの活用、1年後に向けた展望と勝機
「いつもは試合を考えて、メリハリをつけながら練習しますが、練習しかやることがなかったので、ひたすら追い込んだ感じです(笑)。こんなに時間があるのは(オフの)冬以来かな。ただ、冬は寒くて投げ込みもそんなにできない。自分のスキルアップのためにここまで時間をさけるのはなかなかない。チームの個人練習以外にはオンラインでヨガをやったり、かなり充実していたと思います」
「今まで“ネットは危ない”という印象があって消極的だったんですけど、今後、自分が指導者になったときに、群馬に居ながらにして沖縄や北海道、海外の人にも教える機会をつくることができる。そう考えると幅も広がるし、引き出しも増えますよね。
「正直、この夏に東京五輪があったら……と考えると準備期間が足りなかった。来年でよかったです」と、我妻選手も偽らざる本音を口にしたように、新たな準備期間を最大限有効活用していくしかない。
「私も北京のときのように若くない。“自分ひとりで投げて完投して金メダルをとる”イメージは全く湧かないですし、次の五輪はいかに周りの選手に助けてもらうかを考えていく必要がある。15人のメンバー全員でサポートしながら戦っていかなければいけないと思います」
選手としてのこれからと結婚観
「自分の課題は、よく打たれている気がする左バッターをどれだけ抑えられるか。世界的には左バッターのほうが多いので、打たれる確率も上がるのはありますけど、そこでしっかり抑えることが最大のポイントでしょうね。
でもアメリカとは実力的には互角だし、ガチの勝負になってくる。決して勝てない相手じゃないと思いますよ」
「今までずっと頑張ってきて、今もまた頑張り続けている娘に私が言えることはありませんが、娘が自分らしく生きていくことを応援していますし、信じています。本当は“身体を大事にして”と、言いたいですけど、やはり“頑張って”としか言えないですね」
「今の上野はすごく調子がいいです。ただ、来年7月21日に決まった豪州との開幕戦ピッチャーにするとは断言できません。先発は1週間前じゃないと決められないし、現時点では上野はないと思います。だけど、1年あれば私の考えも相当に変化するでしょう。上野とはこれからもコミュニケーションをとりながら、成長を促していければと思います」
「ゴールは(選手を)辞めるときでしょうけど、それは突然、来ると思う。すべて流れに身を任せます」
「今は考えられないし、余裕もないけど、自分を“普通の上野由岐子”と見てくれる男性が好きですね。いつか必要なタイミングで必要な人と出会う……。そういう運命だと信じて生きていきます」
取材・文/元川悦子(もとかわえつこ)1967年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心としたスポーツ取材を主に手がけており、ワールドカップは'94 年アメリカ大会から'14 年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1〜4』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌、松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか。