三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城
写真・文/藪内成基
戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。
今回は、織田信長の信頼を勝ちとり、本能寺の変後も織田家への忠誠心を失わなかったものの、ライバルであった豊臣秀吉との争いで敗北。その後、豊臣秀吉との関係悪化によって、不運な最期を遂げた佐々成政(さっさなりまさ)を取り上げます。
織田信長に見いだされ、長篠の戦いで鉄砲隊を率いる
尾張国(現在の愛知県)に佐々盛政(成宗とも)の子として生まれます。織田信長に仕え、親衛隊の役割をもつ馬廻衆の中で、精鋭の「母衣衆」に選抜。美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏攻めの際には、赤と黒の母衣衆のうち、黒母衣衆の筆頭に選ばれました。ちなみに赤母衣衆の筆頭は、後に争うことになる前田利家でした。
天正3年(1575)、武田勝頼率いる騎馬隊と織田・徳川連合軍が戦った長篠の戦いでは、鉄砲奉行に任じられ、織田信長の勝利に貢献。その後、柴田勝家の与力として前田利家や不破光治とともに「府中三人衆」になりました。
織田信長の勢力が加賀から越中に広がると、佐々成政は越中新川・砺波を得て、越後の上杉景勝に備えます。この頃の越中富山では、神保(じんぼ)氏が勢力を有していましたが、越後の上杉氏に攻められ苦戦していました。強力な上杉氏に対抗するために、越中富山に配置されるほどに、佐々成政は織田信長に信頼されていたのです。
武田の騎馬軍団を鉄砲で迎え撃つために築かれた馬防柵。長篠城(愛知県新城市)近くに再現されている
本能寺の変の後、羽柴秀吉との争いが始まる
天正10年(1582)、本能寺の変が起こった時には、北陸方面軍は上杉氏の越中の拠点、魚津城を攻略したばかりでした。その後の天正11年(1583)、織田信長の後継者争いから、柴田勝家と豊臣(羽柴)秀吉が争った賤ヶ岳の戦いが起こります。佐々成政は、上杉氏に対する防備に追われていたため、叔父の佐々平左衛門が率いる、若干の援兵を出すに留まります。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が討たれると、佐々成政は豊臣秀吉に帰服。ただし、織田信長の次男、織田信雄を主君に立てることを条件にしました。佐々成政はあくまで、織田家へ忠誠を第一に考えていたのです。
天正12年(1584)、徳川家康と組んだ織田信雄と、豊臣秀吉が戦う小牧・長久手の戦いが起こりました。佐々成政は織田信雄・徳川家康連合軍に味方し、豊臣秀吉についた前田利家の末森城を攻撃。わずか半日で本丸に迫るほどの勢いをみせます。同年12月には、徳川家康と同盟を結ぶため、豊臣秀吉方に気付かれないよう、厳冬の飛騨山脈・立山山系を越えました。「さらさら越え」として伝わっています。
残念ながら、命がけで雪深い峰々を越えたにも関わらず、徳川家康は話を聞き入れませんでした。織田信雄にも説得を行いましたが、不調に終わってしまいます。
豊臣秀吉によって破却された富山城。江戸時代に前田家の分家が独立し、居城として改修した。現在の天守は昭和29年に建造
九州征伐後に肥後へ移るも一揆により失脚
天正13年(1585)、豊臣秀吉自ら越中の攻略に乗り出し、富山城を約10万の大軍で包囲。佐々成政は降伏し、命は助けられたものの、越中東部の一部をのぞいて全土を没収され、妻子とともに大坂へ移住させられました。御伽衆として豊臣秀吉に仕えることになります。
豊臣秀吉の九州征伐に従った佐々成政には、肥後一国が与えられます。ところが、佐々成政の検地に反発して国人衆が一揆を起こし、自力では鎮められない事態となってしまいます。
内心では佐々成政を快く思わない豊臣秀吉が、わざと一揆の起こりやすい肥後国を与えたとも、豊臣秀吉の政策を愚直に実行した佐々成政の性格が災いしたとも、諸説あります。
熊本城南面の古城堀端公園。佐々成政が肥後に入った時期には、隈本古城があった
加藤清正によって、隈本古城は熊本城二の丸として組み入れられた
秀吉の怒りにふれ尼崎城下で切腹
天正16年(1588)7月7日(閏5月14日)、肥後国人一揆の責めを受けて、摂津国(現在の大阪府・兵庫県)尼崎城下の法園寺にて切腹。安国寺恵瓊による助命嘆願は聞き入れられませんでした。生年がはっきりしないため諸説ありますが、享年53歳といわれます。
死を目前にして、豊臣秀吉の居城・大坂城に向かって、自らの臓腑を投げつけたという逸話が残ります。豊臣秀吉に対する、佐々成政の激しい感情が偲ばれます。
一方で、佐々成政には別の一面もうかがえます。富山市(旧大山町)馬瀬口の常西用水の川底には「佐々堤」とよばれる堤防の跡が残っています。急流で知られる常願寺川は、大水によって、 富山城下に水害をおよぼすことが多かったのです。そこで、佐々成政が堤防を造り、治水を実現したのです。
織田信長に忠義を尽くして出世し、死後も織田家への忠誠心を失わなかった佐々成政。豊臣秀吉と争い続け、雪山を越えてまで徳川家康を説得しようとした、行動力を備えた人物です。さらに、富山城主時代には治水事業で功績も残しています。そんな佐々成政が、肥後国の統治に失敗した「真実」とは、いったい何だったのでしょうか?
2019年3月に再建された尼崎城。建てられた場所は、以前の西三の丸の位置に当たる
法園寺本堂内には墓石の五輪塔が立つ。佐々成政の肖像画は寺宝のひとつ
※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。
写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。