cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_28884c8aae02_聴くだけで聴覚を鍛え耳の老化を予防する「耳トレ」とは? 28884c8aae02 28884c8aae02 聴くだけで聴覚を鍛え耳の老化を予防する「耳トレ」とは? oa-serai 0

聴くだけで聴覚を鍛え耳の老化を予防する「耳トレ」とは?

2018年3月7日 16:00 サライ.jp

文/鈴木拓也

人は年を重ねてゆくと、高音域の音が聞き取りにくくなる。これが、いわゆる耳の老化(老人性難聴)で、早い人だと50代には発症するという。たとえ本人は自覚しなくとも、「テレビの音をもっと下げて」、「声が大きい」と言われることが増えたら、聴覚が衰えている可能性がある。

聴覚は、いったん衰え始めるともう後戻りはきかないと考えている人は多いかもしれない。しかし、筋トレで筋力低下を抑えるのと同様、聴覚も鍛えて衰えを防ぐことができるとし、実際にそれを体験できるという本『1分で「聞こえ」が変わる耳トレ!』( 小松正史著、白澤卓二監修/ヤマハミュージックメディア)が刊行された。

同書付属のCDをガイダンスに沿って聴き取るだけで、耳の老化を抑えることができるという。CDの内容は、「耳のベーシックトレーニング」と「耳の応用トレーニング」に分かれ、それぞれ「音を分離しよう」、「音の大きさを感じよう」といったテーマ別に、音源が収録されている。

※出版社のサイトで音源が公開されているので、イヤホンやヘッドホンで聴いてみていただきたい。

例えばベーシックトレーニングの Track 2 は「音の数を感じる」と題され、水滴の落ちる音が約1分間にわたり収録されて、その「低い水滴」だけを数えるよう指示がある。できれば指を使わず、頭の中だけで音を意識しながら数えるようにする。数えるのが難しければ、それぞれの音が現れる瞬間を意識するだけでも十分だという。

そして続く Track 3 は「ふたつの音を聞き分ける」トレーニング。こちらは別々の音が同時に現れるので、目立つほうの音を感じ取ることに専念する。慣れてきたら、目立つ音と目立たない音を同時に意識する。最終的に、両方の音を分けて聞ければ、耳の感度は飛躍的に上がるという。

こうした「耳トレ」は、ふだん音というものを特別意識していない我々にとって、案外難しいかもしれない。しかし、それを難儀に思わなくなれば、聴覚が良くなっている証拠で、継続する励みになる。

著者によれば、耳を鍛えることは、単に老人性難聴を予防・改善するのとは
別に、様々なメリットがあるという。それには、「脳の活性化」、「身体の活性化」、「コミュニケーション力の向上」など多岐にわたり、創作意欲すら向上させることができるという。

本書の巻末には体験者の声が記されているが、「今まで気づかなかった虫の音、せせらぎ、風の音、葉っぱの音の美しさに感動した。心が明るくなった」(Hさん、65歳)など、その効果は人生の質そのものをアップさせる力があるようだ。聴覚の衰えに心当たりのある方は、耳トレにチャレンジしてみてはいかがだろう。

【今日の健康に良い1冊】
『1分で「聞こえ」が変わる耳トレ!』
(小松正史著、白澤卓二監修、本体1,500円+税、ヤマハミュージックメディア)

文/鈴木拓也
2016年に札幌の翻訳会社役員を退任後、函館へ移住しフリーライター兼翻訳者となる。江戸時代の随筆と現代ミステリ小説をこよなく愛する、健康オタクにして旅好き。

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cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_fab510dbd2ba_小型船「バルジ」で行くブルゴーニュ地方の運河クルーズ fab510dbd2ba fab510dbd2ba 小型船「バルジ」で行くブルゴーニュ地方の運河クルーズ oa-serai 0

小型船「バルジ」で行くブルゴーニュ地方の運河クルーズ

2018年3月7日 16:00 サライ.jp

フランスでは18〜19世紀にかけ、生活物資を運ぶための河川交通網として、各地に複数の運河がつくられた。やがて鉄道や高速道路の発展とともに忘れ去られていったが、地域の人々の命脈としての機能を果たした運河は近年、観光資源として再評価されている。

たとえばその魅力のひとつが、運河沿いに点在する小さな村や、その周辺ののどかな風景だ。というのも、それらの町や村は主要な交通網から外れた場所にあるためガイドブックで紹介されることが少なく、昔ながらの生活風景がいまも残っているのである。

大型船での移動が困難な運河の航行には、「バルジ」と呼ばれる小型船が活躍する。この「バルジ」を使ったリバークルーズが人気を集めている。

一般的に、フランスのリバークルーズといえば、セーヌ川、ライン川、ローヌ川などの大きな河川をたどるものに焦点があたりがちだ。しかし旅慣れた人にとっては、素朴な村々やのどかな田舎の風景が広がる小さな河川や運河沿いがおすすめだ。とくに注目すべきは、中世に公国として栄えたブルゴーニュ地方を行く旅だ。

パリの南東に広がるブルゴーニュ地方は、ご存知のとおりワインの生産地として有名。また、かの地をリヨンに向けて流れるソーヌ川には、かつての河川交通の要地として複数の運河が造られたことでも知られている。

この運河を「バルジ」と呼ばれる小型船に乗ってゆったり移動することができる。つまり船上から小さな町や村の風景を眺めつつ、古都ボーヌやワイナリーを訪ねることができるのだ。少なからず好奇心を刺激させられる話である。

バルジは、運河に造られた計39もの閘門を超えて行くことになる。その過程においては、水位が増していく閘門でエレベーターのように昇降する船を眺めたり、その間に村を散策するなど、さまざまな楽しみ方が可能だ。

多くの文化遺産が残されるディジョンをはじめ、ブルゴーニュのワイン街道、古都ボーヌなど、運河沿いには見所も多彩。ボーヌはローマ時代にまで歴史を遡ることができる由緒ある街で、コート・ドールはブルゴーニュワインの中心地。ブルゴーニュ公国の都がディジョンに移る前の首都でもあった。

つまり、バルジで行くブルゴーニュの運河の旅は、かつての繁栄の跡が残る古都から小さな村々まで、この地方ならではのさまざまな表情を確認することができるのである。

バルジの最大のポイントは、小型船ならではの快適性だ。キャビン数は10室程度なので、必然的に乗客とスタッフとの距離は縮まる。たとえば食事の量も食べ具合を見ながら調節してくれるなど、きめ細かく、それでいてさりげないサービスを受けることができる。

美食の国として知られるフランスの船なので、当然のことながら食事のクオリティも申し分ない。夕食は満足感の高いコースメニューで、魚から肉までがバランスよくサーブされ、ワインの種類も豊富。土地のさまざまなチーズのサービスもあるため、ブルゴーニュの魅力を満喫できる。

ガラスの仕切りがついたシャワーブースや、ゆったりくつろげるサンデッキやラウンジが付いた船もある。景色を眺めながら会話に花を咲かせたり、読書を楽しんでみたりと、自宅のリビングのような感覚で贅沢な空間を楽しめる。

「バルジ」を使ったクルーズツアーを企画しているワールド航空サービスの萩原雄太さんは、この船旅の魅力について、「ブルゴーニュ運河の船旅の特徴は39を数える閘門ひとつひとつで下船できること。その両岸に遊歩道が整備されているので、船と併走するように、ウォーキングしたり、サイクリングを楽しめたりできるのが大きな魅力です」と語る。

小型船「バルジ」でのんびりと行くブルゴーニュ地方の運河クルーズ。一味違った優雅な欧州の旅を楽しめそうだ。

【参考ツアー】
※ 陽春のブルゴーニュ 川と運河の船旅 - ワールド航空サービス

文/印南敦史
協力/ ワールド航空サービス

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cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_2e11c907df20_【文士の逸品】壺井栄の姫鏡台 2e11c907df20 2e11c907df20 【文士の逸品】壺井栄の姫鏡台 oa-serai 0

【文士の逸品】壺井栄の姫鏡台

2018年3月7日 16:00 サライ.jp

壺井栄の姫鏡台

文/矢島裕紀彦

高さ70.5センチ。薄茶色の小さな姫鏡台。それが、小豆島・内海(うちのみ)町の壺井栄文学館内、奥にしつらえられた畳の間に、遠来の客を待つかのようにちょこなんと座っていた。

この島に生まれ育ち、やがて作品を通して郷里の名を全国津々浦々にまで知らしめる壺井栄。その栄が娘時代から使い、後年、東京の住まいにまで持ち込んだ鏡台である。

栄は淡泊かつ清楚。きらびやかな絹より木綿を好んだ。貧しい家計を支えていた郵便局員時代は、決まって母の手織りの着物と紺の袴姿。だが同時に、独得の髪型を考案して村娘の流行をリードするお洒落な一面もあった。新しい髪型を試す時、栄はきっとこの鏡台の前に座ったに違いない。

ある時、喉を傷めた栄が思案の末に白い包帯を頸に巻いた。それを見た娘たちは、最新のファッションと勘違いして真似をしたという。まるで中国・漢代の「折角」の故事に似た挿話だ。『二十四の瞳』の作中、颯爽と潮風切って自転車で岬の分教場に通う大石先生のモデルは、鏡の中に映った栄自身でもあったろうか。そう思うと、この鏡台に無性に海を見せたくなった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。

※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。

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cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_92005a1e1adc_かつてない新感覚のLPジャケットを考案してみた 92005a1e1adc 92005a1e1adc かつてない新感覚のLPジャケットを考案してみた oa-serai 0

かつてない新感覚のLPジャケットを考案してみた

2018年3月7日 16:00 サライ.jp

文・絵/牧野良幸

アナログ・レコードとジャケットとは、昔から切っても切れない関係であった。特にLPのジャケットは30センチ四方の大きさが絶妙で、凝ったジャケット・デザインはそれ自体がアート作品と言ってよかった。たとえ同じデザインでもCDのサイズになってしまうと味けない。

とは言っても、50年近くアナログ・レコードと付き合っていると、少々飽きてくるものである。これはこれで別に不満はないのだが、最近はアナログ・ブームでもあることだし、若い人にアナログ・レコードを手に取ってもらうためにも、新しいコンセプトのLPジャケットを考えてみてもいいのではないか。

ということでオーディオ小僧も何か考えてみることにした。

まずは身近なものを応用して考えてみる。若い人に馴染みの深いCDのプラケースを、LPが収納できるサイズに大きくしたらどうか。

LP用だからプラケースの大きさは30センチほどの大きさになる。トレイにはCDと同じように、LPレコードをパチリとはめ込むやり方でいいだろう。「むき出しだから、盤面に傷がつきやすいね」という忠告はこの際無視する。

LPサイズだから、当然ブックレットも30センチ四方の大きさだ。ブックレットにはLPレコードによく入っている解説書をそのまま滑り込ませてもいいだろう。表紙にはオリジナルと同じデザインを印刷すればいい。帯も一緒にしまっておくことにしようか。

こうしてできあがったLP用のプラケース。頭の中で空想してみるのだけれど、やっぱりよくない。

まず30センチもあるプラケースというのが不気味だ。厚みも180g重量盤LPを入れるくらいだからCDのプラケースより厚くなる。ブックレットはLPジャケットとほぼ同じ大きさなのに、どこから見てもアート作品に感じない。ただの印刷物である。

じゃあブルーレイとかDVD用のケースをLPサイズに拡大してみたらどうか。解説書の類は十分に収納できる。縦長のケースだけど、もうう21世紀だ、今さら正方形にこだわることもあるまい。

しかしこれもよろしくないのは想像しただけでわかる。LPサイズになったブルーレイ風のケースは、大きいくせにペコペコ、表面も妙にツヤツヤして得体が知れない。こんなものがリスニングルームに何百枚もあったらそれこそ不気味である。

結局プラスチックという素材が良くないのだ。やはり素材は紙にするべきだろう。CDだってプラケースよりも“紙ジャケ”の方が愛されているではないか。あと、むやみに大きく厚くすると不気味なのも分かったから、サイズはLPが入るギリギリにとどめる必要があるだろう。

ということは、なんのことはない、これまでのLPのジャケットがベストだったのだ。なんだか「古女房がやっぱり一番いい」と気がついたような話になってしまった。こんなことカミさんには言えないけれど。

文・絵/牧野良幸
1958年 愛知県岡崎市生まれ。イラストレーター、版画家。音楽や映画のイラストエッセイも手がける。最近『僕の音盤青春記 花の東京編 1981-1991』(音楽出版社)を上梓した 。

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cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_5a78970978ff_70代の半数が悩む「老人性難聴」にはどう対策すべきか 5a78970978ff 5a78970978ff 70代の半数が悩む「老人性難聴」にはどう対策すべきか oa-serai 0

70代の半数が悩む「老人性難聴」にはどう対策すべきか

2018年3月7日 16:00 サライ.jp

取材・文/わたなべあや

加齢とともに音が聞こえにくくなる「老人性難聴」の症状は、程度の差こそあれ、70代になれば約半数の人に現れます。これを聴こえないまま放置しておくと、周囲との円滑なコミュニケーションが阻害されるだけでなく、なんと「認知症」の原因にもなることが分かっています。

加齢に伴う聴力の低下には、早く気付いて対策をとることが大切ですが、いったいどうすればよいのでしょうか。

今回はこの老人性難聴の原因と対策について、近畿大学医学部耳鼻咽喉科の土井勝美教授にお話を伺いました。

■老人性難聴の原因と症状
人の聴力は、40代から少しずつ落ちていきます。加齢とともに音を聞き取る内耳の感覚細胞や神経の細胞が減ってしまうのです。糖尿病や高血圧、動脈硬化などの生活習慣病やストレスがあると、さらに細胞が劣化しやすくなりますので、これらの病気は適切に治療しましょう。

また、老人性難聴にはミトコンドリア遺伝子という遺伝子が関与しているため、遺伝も原因のひとつと考えられています。早くから難聴になる方、80代でもよく聞こえる方、いろいろです。また、年齢に関係なく、大きな音で音楽を聴いたり、騒音にさらされたりすることも難聴の原因になるので注意が必要です。

老人性難聴は、初期のうちに本人が気づくことが少なく、会話してもコミュニケーションが取りにくい、テレビやラジオの音が不自然に大きいといったことに、まず家族や周囲の人が気づくことが多い病気です。さらに進行すると、耳鳴りがする、会話が聞き取りにくい、といった自覚症状が現れます。

■老人性難聴を判定する2つの検査
老人性難聴が疑われる場合、病院では「語音聴力検査」と「純音聴力検査」を行います。語音聴力検査は、母音・子音をどこまで正確に聞き取れるのか調べる検査で、純音聴力検査は、低音から高音まで異なる周波数の音を聴いて、聞き取れる音の大きさを調べる検査です。

会話に必要な音域は、図に表すとバナナのような形になるため、「スピーチバナナ」と呼ばれています。スピーチバナナの部分が聞き取れると会話が成リ立つのですが、聞き取れない部分が増えるにつれて会話がしにくくなるのです。

多くの人は、高音の部分から聞き取りにくくなっていきます。難聴が軽度なら鳥のさえずりや水の音、葉ずれの音など自然の音が聴こえにくくなり、中等度の難聴になれば、会話が困難になっていきます。高度~重度の難聴の方は、犬の鳴き声やピアノの音、飛行機のジェット音も聞こえません。

■補聴器は試聴と調整が不可欠
老人性難聴の対策としては、補聴器や人工内耳をつけて、できるだけ聴力を維持することが大切です。

補聴器の購入に当たっては、大学病院など大きな病院の補聴器外来で、日本耳鼻咽喉科学会が認定した補聴器相談医か、補聴器適合判断医の診察を受けて購入してください。公益財団法人テクノエイド協会が認定した専門店で、補聴器の調整をするための認定資格を持った販売員に相談して購入する方法もあります。

また補聴器は、その場ですぐに購入するのではなく、まず1~2週間は試聴しましょう。病院の検査室は静かなので、実際に日常生活を送る中で装着感や聴こえる範囲など使い心地を確認し、補聴器の調整をしてもらう必要があるのです。

補聴器は、隙間ができないように外耳道にピタッと密着して装着する必要があり、耳がつまった感じがしたり、自分の声が響いたりするなどの不快感が生じます。隙間があると、「ピー」というハウリングが起きて、装用ができなくなります。

調整しても、子音の聞き取りに必要な高音部が聞こえにくいといったことがありますが、老人性難聴が原因で認知症にならないようにするには、少しでも聴こえる範囲を広げるように補聴器をつけることが望ましいのです。

■人工内耳という手もある
補聴器では思うように聞こえない、音が割れて聞こえて不快だという方には、人工内耳をつけるという方法があります。人工内耳は手術をして装着するのですが、低音から高音まで正常に近いところまで聴こえるようになるので、静かな環境下での言葉の聞こえも大きく改善します。会話に必要な高音部だけを聴こえるようにする残存聴力活用型の人工内耳の手術にも保険が適応されています。

いまのところ、壊れてしまった内耳の細胞を元に戻すことはできません。しかし、補聴器や人工内耳で一定の聴力を取り戻すことは可能です。会話がスムーズにできない状態を和らげ、認知症を予防するために、老人性難聴が疑われる方は、まずは専門の耳鼻咽喉科医師を受診してみましょう。

指導/土井勝美
近畿大学医学部 耳鼻咽喉科学講座 教授。1990年米国国立予防衛生研究所客員研究員(NIH, NIDCD)、1992年大阪大学医学部助手(耳鼻咽喉科学講座)、1995年大阪大学医学部講師(耳鼻咽喉科学講座)、2000年大阪大学大学院医学系研究科准教授・副科長(感覚器外科学耳鼻咽喉科学講座)、2005年大阪大学大学院医学系研究科病院教授・副科長(脳神経感覚器外科学耳鼻咽喉科学講座)。

取材・文/わたなべあや
1964年、大阪生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。2015年からフリーランスライター。最新の医療情報からQOL(Quality of life)を高めるための予防医療情報まで幅広くお届けします。趣味と実益を兼ねて、お取り寄せ&手土産グルメも執筆。

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cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_d10fc9d36b49_【インタビュー】小林稔侍さん(俳優) d10fc9d36b49 d10fc9d36b49 【インタビュー】小林稔侍さん(俳優) oa-serai 0

【インタビュー】小林稔侍さん(俳優)

2018年3月7日 16:00 サライ.jp

俳優生活55 年で映画初主演

「高倉健さんとの出会いが、僕の生き方を決めた。人生にはなによりも、出会いが大事なんです」

※この記事は『サライ』本誌2018年2月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──初の主演映画が公開されました。

「役者をやって半世紀以上になります。時宜を得たというか、今回の『星めぐりの町』( 黒土三男監督・脚本 出演:小林稔侍、壇蜜、六平直政、平田満 他)が僕の初主演作となりました。

役どころは昔気質の豆腐屋のオヤジで、ある日、亡き妻の遠縁の少年を引き取って暮らすことになる。この子は東日本大震災で家族を失って以来、誰にも心を開こうとしない。それでも寡黙に豆腐を手作りするオヤジとの交流を通じて、やがて少年は立ち直ってゆく。その心の再生を描いた映画です」

──脇役と主役は何が違いますか。

「主役は責任が伴います。昔のように、映画会社が製作して1か月に何本も撮る時代でしたら“当たらなかったな”で済みますが、『星めぐりの町』は監督の黒土さんはじめ、多くの人に支えられてできた作品です。

テレビは1日に120カットや130カットも撮りますが、映画は3カットや4カットなので時間がかかります。神輿
を担ぐ人、担がれる人といいますが、その通りですね。黙っていても、監督は主役として撮ってくれる。

いつもは役を作り込んでから撮影に臨みますが、この映画で黒土さんは素のままの僕を撮っています。衣装も普段、僕が着ているもので、僕自身そのままです。すごい責任を感じています」

──休みの日はどのようにお過ごしですか。

「でたらめです。寝ていたければ寝てますし、ぶらっとしたいと思えば、意味もなくぶらつく。趣味ってものが何もない。いい加減な小原庄助さんです。といっても、朝寝はしても朝酒はなし。お酒は一滴も飲めません」(笑)

──和歌山県のご出身です。

「高野山の麓の草深いところで、有吉佐和子さんの小説『紀ノ川』の舞台になった町(現かつらぎ町)です。親父は洋服の仕立屋でね、職人気質で短気。お袋は近所でも評判のきちんとした人でした。僕は芝居がどうこう言え
るような俳優じゃないんですけど、自分では“この役は親父の性格だ、これはお袋でいこう”とか、親父とお袋を思い浮かべて芝居をやっています。そういう俳優です」

──テレビドラマでは全力で走っています。

「全力で、1回だけ走るんですよ。ゴールではスタッフが酸素ボンベを用意して待っていてくれます。まだ1回も吸ったことはないんですが“みんなが心配する歳なんだな”と思います。だから、よけい全力で走ってやるんですよ。“あの年齢で小林稔侍が走ってるよ”ってね」(笑)

──生まれた年に太平洋戦争が始まりました。

「終戦のときは4歳でしたが、空襲警報発令やB29の爆音、焼夷弾の音を憶えています。夜になると30km離れた和歌山市が燃えているのを、お袋の背中におんぶされて見ました。防空壕に頭から放り込まれたこともあります。
怖かったですよ。

親父が兵隊にとられた日はね、朝起きると“万歳!万歳!”と声が聞こえて、近所の人が大勢集まっていた。だから僕は今でも戦争の記憶につながる万歳が嫌いなんです。選挙で当選して万歳している光景も見たくない」

──映画との出会いは。

「小学校の同級生の家が、町で唯一の映画館でした。友達の顔馴染みでいつでもすぐに入れますからね、僕が人生でいちばん映画を観たのは小学生のときですよ。ストリップや芝居のドサ回りも来ました。まだ畳が敷いてありましてね、履物は自分で持って入る。もう面白くて面白くてね、映画ばかり夢中で観ていました。

あれは黒澤明監督の『野良犬』のシーンだったなとか、いろんな作品の仕草や立ち回りのカットを憶えているんです。2時間ドラマを撮っているときも、子供時代に観た映画の1シーンがふと浮かんできて、それを真似てみたりもするんですよ」

──中学を受験して猛勉強されたとか。

「和歌山大学教育学部の附属中学に入りたくてね。成績は真ん中より上でしたけど、それだけでは学校に推薦してもらえない。だから、後にも先にも、あれほど勉強したことはありません。

なぜ頑張れたかといえば、“附属中学の女の子はすごく可愛い”と聞いたから(笑)。二宮金次郎じゃないけど、学校の帰りも歩きながら、ときには道に座り込んで勉強しました。友達3人で受験したんですが、合格したのは僕だけ。女性の力って強いですね」(笑)

──いつ俳優になろうと思ったのですか。

「俳優というよりも、僕は東京に憧れをもっていました。大学受験の願書を書こうとしていたとき、“東映ニューフェイス募集”の新聞広告を見たんです。これに応募すれば、不合格でも3~4日は東京に滞在できると思ったんです。もうひとつは親孝行をしたかった。家が借家だったので、そこから親父・お袋を出してやりたい、そのためにおカネを儲けたい。俳優になれば儲かると思ったんですが、じつはいちばん儲からない世界でした」(笑)

──大学受験より狭き門だったのでは。「昭和36年、映画産業に陰りが見え始めた頃です。それでも僕が応募した

10期の東映ニューフェイスは男女合わせて2万4000人の応募があり、合格したのは男性4人、女性15~16人ですから、もう運でしょうね。最終面接に学生服で臨んだのは僕だけで、東映の大川博社長の前で“こんな田舎者が最終面接に残れるなんて夢のようです”と言ったのを今でも憶えています(笑)。

僕には銀行員をしていた兄貴がひとりいましてね。俳優養成所に放り込まれて演技の勉強を始めたとき、テープレコーダーとカメラを買ってくれました。サラリーマンの給料が1万7、8000円の頃に、両方合わせて8万円近くしたんですよ」

──いいお兄さんですね。

「兄貴は僕が30歳のときに亡くなったんですが、よく小遣いをくれたり、いろいろな形で応援をしてくれました。テープレコーダーは俳優養成所へすぐ持っていき、みんなで声を入れて遊びました。でも、帰りにはカメラも一緒に質屋に放り込んで、それっきり」(笑)

──俳優仲間はどういう人たちでしたか。

「種々雑多ですが、ずっと仕出し( 端役)専門という志の人は少なく、誰もがスターになりたくていました。みんな頑張り屋でしたよ。“仕出し180人”という撮影があっても、ぜんぶ東映の俳優で間に合うほど大勢、いま
した。だから、少しでも目立つようにいつもミカン箱の上に立って顔を出していた奴もいて。映ってなんぼの世界ですからね。

僕はそこまではしなかったけれど、走るのだけは速かった。“速すぎて映らない”って助監督によく怒られたけど、思い切り走って鬱屈を発散させていました」

──いつかはスターになると。

「いや、僕にはそれがなかったんです。俳優養成所を終え、撮影所の門の前へ立ったとき、“ああ、俺は50歳頃まで俳優の芽は出ないだろうな”と思いましたから。当時の撮影所には、それくらいの圧迫感があったんです。

でも、高倉健さんと知り合って“俺は芽が出なくてもいい、この人と一緒にいられればいい”と思いました。結果的に、それが僕の俳優人生にとって凄く大きかったんです」

──高倉健さんとの最初の出会いは。

「同期のニューフェイスと、高倉健さんに挨拶へ行ったんです。そのときは女性が前に出て挨拶しますから、僕は隙間から様子を見るくらいでした。それからは仕出しばかりの毎日じゃないですか。でも、廊下で高倉さんとすれ違ったとき“稔侍、頑張れよ”って、小さい声で言ってくれたんです。嬉しくてね。何がどうのこうのじゃなく、尻
尾ふってついていこうと決めました(笑)。高倉さんは徒党を組みません、それもよかったんです」

──付き人のような感じですか。

「違います。高倉さんにね、“稔侍、俺とおまえは友達だから、付き人みたいな真似は絶対にするな”って言われたんです。だから、手に持っているバッグや荷物なんかを“ 旦那、持ちましょうか”と言っても、そうさせなかった。一度言ったことは絶対に守る人です」

──“旦那”と呼んでいたんですか。

「映画の世界は、他の社会から見るとおかしなところで。現東映会長の岡田裕介氏はその頃“若”。高倉さんは“旦那”。僕もそう呼ばせていただきました。

酵素風呂へご一緒したときのことをよく憶えています。風呂の番をしているお爺ちゃんに心づけを渡すんですが、そのさりげなさがじつに格好いいんですよ」

──高倉健さんは気配りの人なんですね。

「僕はね、高倉さんと出会うまで、タクシーや車のドアをいつもバターンと思い切り閉めていました。そしたら“稔侍、車のドアってのは5cmあれば閉まるんだよ”って教えてくれた。その言葉を今でも僕は車を乗り降りする度に思い出します。

これは笑い話みたいなものですが、映画『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年公開)の撮影が終わり、飛行機に乗って帰ったときのことです。そのときは疲れ果てて、僕は靴も靴下も脱いで素足になって寝ていました。それから10
年くらい経ってからですよ、突然、“稔侍とは飛行機には絶対一緒に乗らない”って言うんです。何の話かなと思ったら“野蛮人じゃあるまいし、飛行機の中で裸足になりやがって”と」

──10年後に言われたんですか。

「高倉さんは、いい意味で執念深いといえば、執念深い(笑)。だから、映画界であそこまでのぼりつめたんだと思います。

高倉さんと仕事をすると、皆さん、緊張するとおっしゃいますが、僕はいちばん楽しかった」

──高倉健さんも楽だったんでしょうね。

「晩年、高倉さんがある人にこう言ったそうです。“稔侍は本当のことを教えてくれるからいいんだ”って。僕は思ったことを素直に言っていただけなんですが…。でも“おまえに言われる筋合いじゃねえよ”ってこともあったと思うんです。高倉さんが飼い主なら、僕は子犬みたいなもんです。じゃれているけど、度が過ぎればポンと頭を叩
た たかれる(笑)。

今度の映画でいえば、少年を導いてゆく寡黙な豆腐屋の職人が高倉健さんで、少年は昔の僕なんです。いろいろ思い出し、感謝しながら僕は演じていました」

──映画で一番伝えたかったことは。

「人の出会いの大切さです。俳優としてだけじゃなく、人間として生きてゆくには、出会いが何よりも大事です。僕は自分の人生を振り返ってみても、痛切にそう思います。

じつは今回の作品もそうです。黒土監督とはこれまでに何度かお仕事をさせていただきましたが、ある時“稔侍さん、今度映画をやりましょう”と声を掛けていただき、それこそ頭が真っ白になるくらい嬉しかったですよ。僕のことを見ていてくれたんですね」

──いつまで俳優を続けますか。

「普通の人間として、この世から普通に消えていければいい。そう思っています。ただ、それまでは飯を食わなければならない。俳優をやるより仕様がない。志の低い人間です。

ところが、僕は『学校III』(1998年公開)という映画で、初めて山田洋次監督に呼ばれましてね。現場の空気に“飯が食えりゃいいや”と思っている自分が恥ずかしくなりました。それで“よし、志を高く持とう”と決めて頑張ったんですが、その自覚も次第に薄れてきて(笑)。

ただ、いくつになっても一所懸命こつこつやっていれば、誰かが必ず見て声をかけてくれる。そう願って、いまも俳優稼業を続けているんです」

── 台詞を憶えるのが辛くなることは。

「じつはね、僕は昔に比べると、台詞憶えがよくなっているんです。若い頃は全体の6~7割しか憶えていなくて、現場で“稔侍さん、本番いきます”となっても“あ、もうちょっと待って”の繰り返し(笑)。今は台詞を憶えていかないと“大丈夫かな”と思われる歳だから、頑張って憶えるんですよ」(笑)

●小林稔侍(こばやし・ねんじ)
昭和16年、和歌山県生まれ。同36年東映ニューフェイスに合格して映画界入り。NHK連続テレビ小説『はね駒(こんま)』(昭和61年)で地歩を築き、TBS『税務調査官・窓際太郎の事件簿』(平成10年~)他のドラマシリーズに多数出演。平成11年、高倉健と共演した『鉄道員(ぽっぽや)』で第23回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞受賞。『学校III』(平成10年)以降、山田洋次監督作品の常連俳優である。

※この記事は『サライ』本誌2018年2月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工 スタイリスト/高橋匡子 衣装提供/パパス)

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高村光太郎が雪深い山暮らしで愛用した長靴【文士の逸品】

2018年3月7日 16:00 サライ

高村光太郎の長靴
文/矢島裕紀彦

胸に消ゆることなき妻・智恵子の俤(おもかげ)を抱いて、高村光太郎は岩手県花巻近郊の寒村に移住。独居し農耕自炊の生活に入った。昭和20年(1945)秋。智恵子没後7年、光太郎は数え63歳の老境に入っていた。

住まうは、粗末な鉱山の飯場小屋を移築したわずか7.5坪の陋屋(ろうおく)。屋根は杉皮葺き、周囲は粗壁に障子一重。みちのくの冬、吹雪の夜には夜具の肩に雪が降り積もった。光太郎はここで内省の時を重ね、『暗愚小伝』『智恵子抄その後』などの詩作品を編む。胸を蝕む病のため時に血を吐きながらの修行にも似た質素な生活は、十和田湖畔の彫刻「裸婦像」制作のため東京に帰るまで、7年に及んだ。

その間の農作業や雪深い山暮らしの中で光太郎が愛用した長靴が、花巻市の高村記念館に残されていた。13文半というのだから、およそ32.5センチ。大柄な体格、服も特注品を身につけていた光太郎には、既製の靴ではなかなか合わない。ある日、靴屋のショーウインドウに飾ってあったこの長靴を村人が発見。「何に使うのか」と訝(いぶか)る靴屋から買い求め、届けてくれた。それでも、指を少し縮めるようにして履いていたという。

黒色。ゴム製。どっしり威風さえ漂うその姿には、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(『道程』)と綴った若き日の光太郎の、傲慢なほどの覚悟と気概が重なって見える。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。『サライ.jp』で「日めくり漱石」「漱石と明治人のことば」を連載した。

※この記事は、雑誌『文藝春秋』の1997年7月号から2001年9月号に連載され、2001年9月に単行本化された『文士の逸品』を基に、出版元の文藝春秋の了解・協力を得て再掲載したものです。

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cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_3803f75db387_【朝めし自慢】眞賀里文子さん(人形アニメーション作家) 3803f75db387 3803f75db387 【朝めし自慢】眞賀里文子さん(人形アニメーション作家) oa-serai 0

【朝めし自慢】眞賀里文子さん(人形アニメーション作家)

2018年3月2日 16:00 サライ.jp

「20数年来、朝食はコーヒーとチョコレートです」

(画像、右から、ブラックコーヒー、チョコレート。かつては甘くない普通の板チョコだったが、最近はカカオ72%のチョコレートを愛食。コーヒーカップは、平成15年、青森県立三沢航空科学館開館を祝して作られた人形アニメーション『ミス・ビードル号の大冒険』の記念品。太平洋無着陸横断飛行の物語だ。)

取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆

昨2017年、日本に国産アニメーション映画が誕生して100年を迎えた。そんな中で、人形アニメーション(立体アニメーション)という新分野を切り開いたのが持永只仁(1919~99)である。

人形アニメーションとは人形を少しずつ動かし、コマ撮りすることによって生まれる映像作品。現在、その第一人者といわれるのが眞賀里文子さんである。

眞賀里さんと人形アニメーションとの出会いは、学生時代のアルバイト。持永只仁率いる『人形映画製作所』に、美術スタッフとして入ったのがきっかけだ。

「ある日、持永さんの撮影を見学する機会があり、後日、完成した動画も見せてもらった。すると撮影の時はじっと止まって見えた人形が、まるで人間のように動いている。“これだ!”と思いました」

その頃、持永の元にアメリカからテレビシリーズの制作依頼が舞い込む。持永に認められて早々に“眞賀里班”ができた。これが幸運だった。人形アニメーションの基本を学ぶことができたのである。

以来、『コンタック』や『ドコモダケ』『液キャベ』など、手がけたCMは1000本以上。『コメットさん』『帝都物語』『遣唐使ものがたり』『ミス・ビードル号の大冒険』などテレビ、映画、展示映像とその活動分野は幅広い。

50年以上、人形に命を吹き込み、喜怒哀楽を演じさせてきたが、今は人形アニメーション風のCG(コンピュータ・グラフィック)が台頭しつつあるのが現状だ。

「けれど、CGでは人形の匂いが伝わらない。私は生の人間の気持ちが十指から人形に伝わったほうが、絶対面白いと思っています」

同じ釜の飯を食う

長きにわたってヒット作品を生みだしてきた秘訣は、好きだったことはもちろん、元気だったことだという。とはいえ、特別な健康法があるわけではない。朝食は、いたって簡素。カカオ含有量の多いチョコレートとコーヒーのみ。スタジオで、スタッフと打ち合わせをしながら摂るのが習慣だ。

昼食は皆で手分けして作り、一緒に食卓を囲む。

「ご飯と味噌汁の和食が定番。出汁は鰹節で取ります。それと年齢の割に骨密度が高いのは、よく登場するカルシウム豊富な小松菜お陰かも……」

“同じ釜の飯を食う”のが、『マガリスタジオ』の流儀である。

後継者を育て、彼らが活躍できる場を作りたい

平成19年、東京・阿佐谷に『アート・アニメーションのちいさな学校』が開校した。日本で唯一の人形アニメーションのコースがあり、眞賀里さんが学校長を務める。

「期間は1年ですが、5年目を迎える生徒もいます。テーマから人形制作、コマの練習、撮影と、初心者でもゼロから学べます。大事なのはテーマで、2~3人のチームに分かれて何を表現したいかを話し合いながら決めます」

テーマは絵本からヒントを得たり、独自に創作することもあるが、必読を課しているのが『今昔物語集』。この説話集は、想像力を刺激される物語の宝庫だという。

生徒は美術系の大学を卒業した若者から50~60代の人まで幅広い。年齢、性別、学歴不問。興味があれば、誰でも入学できる。チームごとに1年で1作品を完成。年度末には上映会が開催される。

「夜間コースは週2回ですが、1年で皆が育ってくれるから面白い」

日本の人形アニメーションの父・持永只仁の最後の弟子として、後継者を育て、彼らに発表の場を提供するのが使命である。

取材・文/出井邦子 撮影/馬場隆

※この記事は『サライ』本誌2018年1月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。

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cat_8_issue_oa-serai oa-serai_0_d66511ab2ee6_黒の画家ルドンの色彩豊かな明るい世界を発見 d66511ab2ee6 d66511ab2ee6 黒の画家ルドンの色彩豊かな明るい世界を発見 oa-serai 0

黒の画家ルドンの色彩豊かな明るい世界を発見

2018年3月2日 16:00 サライ.jp

《ルドン―秘密の花園》展

(画像は、《グラン・ブーケ(大きな花束)》(部分)1901年 パステル/カンヴァス 三菱一号館美術館蔵)

取材・文/藤田麻希

オディロン・ルドン(1840-1916)といえば、不思議な生物が登場するモノクロームの版画作品を思い浮かべる方が多いことでしょう。

でもルドンには、色彩に満ちた明るい作品もあるのです。

1840年にボルドーで生まれたルドンは、病弱だったために生後2日でペイルルバードという田舎町に住む叔父のもとに預けられました。その荒涼とした地で、ルドンは空想の世界に思いを馳せながら、孤独な少年時代を過ごしました。

学業は不振でしたが、音楽やデッサンは得意で、20代半ばからは放浪の画家ロドルフ・ブレスダンに師事し、版画技法の手ほどきを受けます。当時、印象派の画家たちが戸外で人々の生活を描いて活躍していましたが、ルドンは目に見えるものではなく、悲しみや孤独など人間の内面を描くことに重きを置きました。

39歳のときに初の版画集『夢のなかで』を、45歳で『ゴヤ頌』を刊行。なかなか世間の注目は浴びなかったものの、ユイスマンやマラルメなどの文学者をはじめ、特定の人々には熱烈に支持されました。

これらの一連の作品の印象から、ルドンを「黒」の画家として認識している方も多いかと思いますが、じつは、ルドンは50歳を超えたころから、それまでの作品とは180度違う方向性の、油彩やパステルによる色彩豊かな作品を多く描くようになります。

「黒」の時代の神秘的な雰囲気を残しつつ、沈鬱な表現から解放された明るい画面は、次第にルドンの評価を押し上げていきました。そして63歳でレジオン・ドヌール勲章を受賞、翌年には、サロン・ドートンヌという展覧会で1室を与えられて、作品を展示するまでになります。

そんなルドンが、色彩の絵画に移行してからの、もっとも重要な大作がドムシー男爵の食堂装飾画です。美術愛好家のドムシー男爵が、城館の大食堂を飾るために注文したもので、ルドンは1年以上の時間をかけ、総計36平方メートルを超す装飾画を完成させました。しかし、それらは長いあいだ非公開で、80年近く人目に触れることなく秘蔵されてきました。

この幻のドムシー城の食堂壁画を、いま東京・三菱一号館美術館で開催中の展覧会《ルドン―秘密の花園》で見ることができます。同館の高橋明也館長に見どころを伺いました。

「ルドンという作家は、一般的には不思議な怪物や妖精がうごめく黒い作品で著名な作家ですが、その画業の後半は、色彩豊かな明るい世界の作品に移行しました。そのあたりのことが、これまであまりフォーカスされていませんでしたので、展覧会でとりあげたく思いました。

また今回の展覧会に展示する〈グラン・ブーケ〉を含むドムシー城の装飾パネル16点は、ルドンが後半の明るい色彩の世界に入る出発点になる大作です。すべてが、花や樹木など、自然の生命を中心に構成されていますので、秘密の花園という副題をつけ、花のモチーフを中心に作品を集めてみました」

現存するドムシー城の食堂壁画16点が、東京で一堂に会する初めての機会です。他にも、国内有数のルドンコレクションを有する岐阜県美術館やオルセー美術館、ボルドー美術館、ニューヨーク近代美術館など、国内外の主要な美術館の作品が集結しています。

またとない機会、ぜひ観賞にお出かけください。

【展覧会情報】
『ルドン―秘密の花園』
■会期:2018年2月8日(木)~5月20日(日)
■会場:三菱一号館美術館
■住所:東京都千代田区丸の内2-6-2
■電話番号:03-5777-8600(ハローダイヤル)
■開館時間:10時~18時(祝日を除く金曜、第2水曜、会期最終週平日は21時まで)※入館は閉館の30分前まで
■休館日:月曜(祝日の場合、5/14とトークフリーデーの2/26、3/26は開館)

取材・文/藤田麻希
美術ライター。明治学院大学大学院芸術学専攻修了。『美術手帖』などへの寄稿ほか、『日本美術全集』『超絶技巧!明治工芸の粋』『村上隆のスーパーフラット・コレクション』など展覧会図録や書籍の編集・執筆も担当。

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JAL日本航空の歴代主力ジェット旅客機まとめ

2018年3月2日 16:00 サライ.jp

懐かしい機体も!

(画像は、ダグラスDC−8スーパー61)

文・写真/杉崎行恭

2018年2月14日に羽田空港の日本航空(JAL)格納庫で行われた、エアバス社の最新鋭旅客機「A350−1000」のデモフライト機のレポート(「エアバス A350|JAL日本航空の次代を担う最新ジェット旅客機を見た」)に引き続き、今回は、日本航空の歴代の主力ジェット旅客機をまとめてふり返ってみよう。

《ダグラスDC−8》
客機としてダグラスDC−8が1960年12月に登場。パンアメリカン航空が太平洋路線に投入したボーイング707の後塵を拝していた日本航空は、ここから巻き返しを図った。このボーイング707とDC−8の登場により、プロペラ機よりも圧倒的に早く、しかもほとんど揺れない、成層圏を飛ぶジェット旅客機時代の幕が開いた。

とくにDC−8はストレッチ(胴体の延長)が可能だったため、旅客の増加に伴って順次ストレッチタイプが投入され、1987年の退役まで合計60機を導入。日本航空の顔として活躍した。

後年は国内線にも使われ、とくにDC−8スーパー61では全長が11mも延長された。細長いチューブのようになった客室が印象に残っている。

【ダグラスDC−8スーパー61】
全長:57.12m 
全幅:43.41m 
高さ:12.92m 
座席数:253席(1クラスの場合)
最大離陸重量:147t
航続距離:6035km

《ボーイング747》
そして1970年4月には、航空史に残る革命的な大型機ボーイング747が日本航空に引き渡された。

ジャンボジェットの愛称で親しまれた最大546席の2階建て旅客機は、その座席数の多さゆえに格安航空券も登場。一気に空の旅を大衆化させた。私は初めて747の着陸を見た時、あまりの大きさに空中で止まっているように見えたのを覚えている。

もともとはアメリカ空軍の戦略輸送機として開発されたもので、貨物スペースを確保するためにコクピットが2階にあった。軍用機を旅客形に改造したということもあって、当初はキワモノ扱いされていたが、就航するや爆発的な人気を呼び、各航空会社のドル箱路線に投入され、収益の柱になっていった。

低騒音・高燃費のターボファンエンジンの採用や、長距離洋上飛行が可能になった慣性航法装置(ILS)の搭載などで安全性が向上。客席で映画が見られるエンターテイメントシステムを最初に備えた旅客機になった。

日本航空は747の世界最大のユーザーとして、一時は100機以上も保有し、さらに長距離型として作られた747を国内線でも多用した。そして日本航空の747は、2009年7月に惜しまれつつ引退するまで、実に39年間も飛び続けた。

【ボーイング747−300】
全長:70.66m 
全幅:59.64m 
高さ:19.33m 
胴体幅:6.49m
座席数:584席( 1クラスの場合)
最大離陸重量:377t
航続距離:10463km



《マグダネル・ダグラスDC−10》
そんな1970年代には、300席クラスのワイドボディ機(客席の通路が2本ある)が次々に登場した。1976年11月、日本航空に登場したマグダネル・ダグラスDC-10は、主翼の下と垂直尾翼にエンジンを備えた3発機で、胴体直径が6mと余裕あるキャビンが特徴だった。

飛行機ファンにとっては、国際線用で主脚が胴体下に追加された4本足と、国内線用の3本足の違いを見分けるのが楽しかった。


ロッキードL−1011トライスター
日本航空ではDC−10を20機、胴体をストレッチしたMD−11を10機導入。このMD−11は2003年7月まで在籍していた。ちなみにDC−10のライバルだったワイドボディ3発エンジン機がロッキードL−1011トライスターで、あの「ロッキード事件」はこの機種の導入にまつわる事件だった。こちらは全日空に採用され、1995年11月に引退するまで使用された。

【マグダネル・ダグラスDC-10-40】
全長:55.5m 
全幅:50.41m 
高さ:17.7m 
胴体幅:6.02m
座席数:295席( 1クラスの場合)
最大離陸重量:251t
航続距離:6485km

《ボーイング777》
現在の日本航空のフラッグシップといえるのはボーイング777、トリプルセブンである。エンジンの信頼性が向上したことから洋上長距離航路での双発機就航が可能となり、400席クラスの長距離双発機として開発されたのがこの777だ。のちに日本航空に吸収されるJASが1997年に導入した機体が、日本航空では最初の機体。現在まで40機が就航している。

第2世代のワイドボディ機で胴体直径は6.2mと拡大、あの747の引退後は日本最大の旅客機として君臨している。とはいえ777も初就航から20年を経て引退する機体も出始めている。

【ボーイング777−200】
全長:63.7m 
全幅:60.9m 
高さ:18.44m 
胴体幅:6.19m
座席数:312席( 2クラスの場合)
最大離陸重量:297t
航続距離:14316km

*  *  *

以上、日本航空の歴代の主力ジェット旅客機をまとめてふり返ってみた。懐かしい機体もあったことだろう。新たな主役「A350」の活躍に注目していきたい。

文・写真/杉崎行恭
乗り物ジャンルのフォトライターとして時刻表や旅行雑誌を中心に活動。『百駅停車』(新潮社)『絶滅危惧駅舎』(二見書房)『異形のステーション』(交通新聞社)など駅関連の著作多数。(※杉崎の崎は正しくは「たつさき」)

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