世界遺産で特別史跡の平城宮跡(奈良市)は令和4年、国史跡に指定され、100年という節目を迎える。平城宮は1300年前の首都・平城京の中枢で、現在でいえば皇居や国会議事堂、霞が関の官庁街を集めたような所だ。実態の解明は古代律令国家のあり方を知るうえでも意義が大きいが、約60年にわたり奈良文化財研究所(同市)による継続調査が行われているが、いまだベールに包まれた部分は多い。調査の進捗(しんちょく)はどうなっているのか。(岩口利一)
約1万人が「出勤」
平城宮には、平城京に住む役人ら約1万人が出勤し、政務空間の朝堂(ちょうどう)院や役所で、仕事に従事していたとされる。
当時の官庁組織は「二官八省」と総称され、太政(だいじょう)官と神祇(じんぎ)官、中務(なかつかさ)、式部、治部(じぶ)、民部、兵部(ひょうぶ)、刑部(ぎょうぶ)、大蔵、宮内の各省が存在していた。
これまでの発掘調査では、軍事に関わる兵部省や文官の人事などを担当する式部省、祭祀(さいし)を統括する神祇官などの場所が分かっている。だが、大蔵省などはわかっておらず、今後の調査、研究の進展が待たれる。
昨年から今年にかけては役所が集まっていたとされる平城宮跡の「東方官衙(かんが)地区」の発掘調査で、大きな石組みの排水施設などが見つかり、当時の国政の最高機関である太政官の可能性がある中枢施設の重要性を示した。
奈文研都城発掘調査部の箱崎和久部長は「今は東方官衙地区と、(皇太子の居所や天皇の離宮があった)東院地区が調査の重点。各役所の特徴や構造を解明し、後の平安宮(京都市)との連続性も知りたい」と話す。
8割掘らないと…
令和2年度末現在の平城宮跡での発掘調査の進捗率は「37・8%」。対象面積123・6ヘクタールのうち46・7ヘクタールに当たる。国家的儀式が行われた大極殿などについては判明しているが、周囲には未調査の空白地帯が残る。
奈良大の渡辺晃宏教授(古代史)は「少なくとも80%は掘らないと全貌は分からない。ようやく道半ばという数字」と分析するが、発掘の進捗とともに期待されるのが、木簡による解明だ。
これまで平城宮跡では役人の勤務状況や食べ物などについて知る木簡が多く出土。東方官衙地区の調査でも排水路跡で千数百点を超える木簡が見つかり、解読が進められている。
関係者は「初めて見るようなものも含まれ、新発見につながるかもしれない」と期待を込める。
保存運動尽くした人物
国営歴史公園として整備が進み、休日は家族連れが訪れる光景が日常となっている平城宮跡。
復元された正門、朱雀門近くにある「平城宮いざない館」のそばには、宮跡の方向を指さす一人の男の像がたっている。宮跡の保存に尽くした地元の植木職人、棚田嘉十郎(1860~1921年)だ。
棚田は放置されたままの宮跡を見て心を痛め、私財を投じて保存運動を展開、「奈良大極殿址保存会」が設立されると寄付金を募って宮跡の土地を買収するなどした。こうした壮絶な努力によって大正11(1922)年、一部が国史跡に指定されたが、棚田はその前年にこの世を去っていた。保存をめぐるトラブルなどがあり自殺したという。
今年は棚田の没後100年にもあたる。奈文研の箱崎部長は「棚田らの努力があったからこそ、平城宮跡は史跡指定され残ったといえる」と話している。
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