その女子学生は「すいません」と申し訳なさそうに手を挙げた。
学生

きょうの授業とはまったく関係のない話になってしまうんですが……。
どうぞと促すと、か細い声が続いた。
学生

私は新屋の実家から大学に通っているんですけど、イージス・アショアの問題がとても気になっています。
2019年7月初め、秋田県内の大学で開かれた職業教育の授業。
地元紙・秋田魁新報の社員として、仕事の意義ややりがいについて一通り話した記者は、学生からの質問を受けつけていた。
そこで一人の女子学生が持ち出したのは、政府が秋田市への配備を計画する陸上配備型弾道ミサイル迎撃システム「イージス・アショア」の問題だった。
政府・防衛省が配備候補地に挙げる陸上自衛隊「新屋演習場」からほど近い住宅地に、学生の自宅はあるという。
学生

個人的な考えでけっこうなんですが、この先、政府が配備計画を見直す可能性ってあると思いますか?
記者は言葉に詰まった。
不安。戸惑い。なぜ地元に防衛兵器?
イージス・アショアという耳慣れない防衛兵器の配備計画が浮上したのは、その1年半余り前のことだった。
2017年11月11日。読売新聞の朝刊に「陸上イージス、秋田・山口に/政府調整、陸自が運用へ」という見出しが躍った。
国の弾道ミサイル防衛網を強化するため、イージス・アショアという最新の防衛システムを秋田と山口に配備する計画があるという。
イージス・アショアとはどのようなものなのか。
地元に降ってわいた問題として、明日の紙面では大きく扱う必要がある。編集会議でそう方針が固まり、取材を展開した。
記事の見出しは「地上イージス、本県候補/県民、にじむ不安」「やむを得ない/狙われる/どこに配備」。
取材先の人々が口にした思いを、そのまま見出しとして取った。それはすなわち、取材するわれわれ自身の戸惑いでもあった。
この問題について取り上げる記事が、それからの2年半で1200本を超えることになろうとは、この時はまだ思わなかった。
「なぜ秋田?」の声に政府は…
全国紙とは違い、地方紙である秋田魁新報は安全保障や国防、軍事といった領域を扱う機会に乏しかった。
だが、取材でも伝わってきた県民の不安を受けて、担当記者を置いてこの問題を取り上げていくことになった。
有識者へのインタビュー、地元議員に見解を問う連載、もう一つの配備候補地・山口を訪ねた連載ルポ……。
報道を途切れさせないように、あらゆる視点から記事を書き、掲載した。
だがこの間、政府は沈黙を続けていた。
読売報道から1カ月あまりたった2017年12月19日、政府はイージス・アショアの2基導入を閣議決定した。しかし、この時点で政府は配備先を明らかにしなかった。
報道ベースでは、秋田市の新屋演習場と山口県のむつみ演習場という二つの陸上自衛隊施設への配備計画が公然と語られる。
だが、政府は一切関知しない。そんな奇妙な状況が続いた。
その沈黙が破られたのは2018年6月1日。福田達夫防衛政務官と佐竹敬久知事らとの会談が用意された。
われわれはこの場に大きな期待を持っていた。なぜあのような場所を配備候補地に選んだのか、その理由が明らかになるという期待だった。
納得しにくい「理由」
「あのような」と表現するしかない場所。それが配備候補地、新屋演習場だ。
日本海を臨む高台にある南北約2キロ、東西約800メートルの細長い敷地は、すぐそばにまで秋田市の市街地が迫る。
フェンスから500メートルほどの範囲に小学校や中学校、保育所が点在。ヤクルトの今季開幕投手、石川雅規を輩出した強豪・秋田商業高校のグラウンドは、演習場のフェンスから200メートルほどしか離れていない。
敷地の狭さと生活空間に隣り合った立地から、演習場としても「空包」を使った小規模な戦闘訓練やパラシュート降下訓練が時折行われる程度での存在でしかない。
大規模な実弾射撃訓練が行われる東富士演習場(静岡県)などとは比べるべくもない。
そんな場所を国内初の固定的なミサイル基地とすることへの違和感に、どんな答えが示されるのか。しかし、われわれの期待は裏切られた。
秋田県庁で佐竹知事と相対した福田政務官は、新屋演習場への配備方針を告げ、配備が可能かどうかを調べる現地調査に入る考えを伝えた。
だが、その会話の中では、新屋演習場を「新屋駐屯地」と4回言い間違えた。
演習の際にしか使わない無人の「演習場」と、大勢の自衛隊員が常時駐在する「駐屯地」を取り違えるなど、通常はあり得ないことだ。
配備先として選ばれたことに戸惑うわれわれ秋田県民と、選ぶ側である防衛省との間にある「意識のギャップ」を垣間見てしまったような気がした。
肝心の配備理由については、次の4点を挙げた。
①防護範囲=日本全域を防護する観点から、北と西の日本海側
②レーダー遮蔽=弾道ミサイルの探知に支障のないよう、山などの遮蔽物がない場所
③地形=広くて平坦な敷地を確保できる場所
④インフラ=電気や水道などの安定的な供給が見込める場所
この程度の大ざっぱな条件であの場所を選んだというのか…。
とうてい納得できる話ではなかった。
「ミサイル基地隣接の小学校に…」
地元紙としてのわれわれが計画を問題視するのは、他でもない住民が不安を覚えているからだ。
2週間ほど後に防衛省が初めて開いた住民説明会。地元住民から矢継ぎ早の質問が上がった。
「外国から狙われることはないのか。有事の際はどの範囲の住民が避難することになるのか」
「攻撃のターゲットにならないと断言できるか」
「地元の理解が得られなくても配備を進めるのか」
防衛省幹部は淡々とした受け答えを繰り返すだけだったが、一度だけ、答えに窮する場面があった。
「あなたに小さな子どもがいるとしたら、近くにミサイル基地のある学校に安心して子どもを通わせられますか」
地元の小学校でPTA役員を務める女性がただすと、防衛省幹部は「あの、えー」と言いよどんだ末に続けた。
「ご心配になるのは当然です。住む地域に負の遺産になるようなものを残すということは、あってはならないと思います」
翌月には、新屋演習場近くの2つの自治会が、配備計画に反対する意向を決議。その声は周辺の自治会、さらには新屋地区から距離のある秋田市内の他地区へと広がっていった。
東欧の人々も驚く。なぜ街の中に…?
住民の動きと歩調をひとつにして、報道も加速した。
「ルーマニアに取材に行こう」。そういうプランが浮上した。
イージス・アショアが世界で唯一、実戦配備されているのが東欧のルーマニア。核兵器の開発疑惑が指摘されるイランを仮想敵国として、米軍がルーマニア軍基地の内部にイージス・アショア基地を設けて運用している。
担当記者は半年がかりでアポイントを取りつけ、2018年9月、成田空港を出発した。
広大な原野と農地に囲まれた中にぽつんと置かれたルーマニア軍基地は、周辺数キロの範囲に集落がわずかにあるだけ。住宅密集地がすぐそばに迫る秋田市とはまるで異なる環境だった。
施設内への立ち入りを許された記者に、現地司令官はこう語った。
ルーマニアの司令官

軍地である以上、(テロなどの)標的になり得るのは当然だ。
米国はルーマニア国内の100カ所以上を検討し、この場所を選んだ。日本も同じように、さまざまなリスクを計算した上で最適地を選んでいるはずだ。
配備計画の進むポーランドでは、現地の行政長に新屋周辺の地図を見せたところ、こんな言葉が返ってきた。
ポーランドの行政長

街の中で驚いた。ルーマニアの配備地のように、人里離れた場所が本来望ましい。
そうした場所にミサイル基地を築こうというのが、日本政府の計画だった。
2019年1月、秋田魁新報はさらに、配備計画の狙いを根本から問う「盾は何を守るのか」と題する長期連載をスタートさせた。
シリーズを重ねる中で、やがてこの問題の「ヤマ場」がやってきた。
流れ変える「宝」報告書の中に
2019年5月27日。原田憲司防衛副大臣が秋田県庁を訪れ、7カ月にわたって防衛省が行った現地調査の結果を佐竹知事らに伝えた。
「イージス・アショアは、新屋演習場において安全に配備・運用できると考えています」
全101ページの調査報告書は、結論をそう記していた。
だが、報告書を一読した記者には、直感があった。
「これは宝の山だぞ」
注目したのは、報告書の中ほどにある「他の国有地の検討」という17ページの箇所。
隣接する青森・山形両県を含む19カ所の国有地と比較し、それらの場所には配備に適さない何らかの理由があるが、新屋演習場はすべての条件をクリアしているとするものだった。
記者は報告書をファイルにとじて毎日持ち歩き、ひまさえあれば読み込んだ。
そして公表から1週間、「ほころび」に気づいた。
断面図への「違和感」
6月3日午前、報告書のあるページに目が留まった。
イージス・アショアの配備に適さないと断定された箇所には、いずれも迎撃するミサイルの軌道をはかる「レーダー波」をさえぎる山が近くにあるとされていた。
そのページには、各地の地形断面図が並べられている。新屋演習場以外についてはやはり「レーダー波が山でさえぎられてしまう位置関係」が示されていた。
その中のひとつ、男鹿市の国有地の断面図には、頂上を見上げた角度が「15度」を成す標高700メートル余りの山が描かれている。
隣の断面図を見ると、そこにある山は2200メートル級。だが、図の上ではどちらの山も高さをそろえて描かれている。そして、山頂を見上げた角度はいずれも「15度」だった。
違和感を覚えたのは、図上に引かれた線が描き出す角度が、どちらも同じように見えることだった。
男鹿の山は高さを3倍程度にデフォルメして描かれているはず。であれば、図上に表れる角度もそれに比例して実際より大きくなるはずなのでは?
試しに分度器を当てると、図上の角度はどちらも15度。ふに落ちない。
高校で習った三角関数を思い出し、男鹿の山の角度を計算で割り出してみると「4度」と出た。
夕日が暴いた「データのずさんさ」
頭が混乱する。こういう時は現場へ。
車で1時間の現地へ飛んだ。
だが当然、目測だけでは「山の角度」はわからない。
なすすべのないまま、夕刻が迫ってきた。
ふと、山の上方に太陽が落ちてきていることに気がついた。
そうだ。太陽高度がわかれば、山の角度も測れるはず…。
手元のスマホで調べると、カシオ計算機のサイトが見つかった。
時刻ごとの太陽高度について、詳細なデータを示してくれている。
午後5時半すぎ。
高度15度の太陽は、山のはるか上にあった。
1時間後。
高度4度まで下がった太陽は、山頂にぴたりと重なった――。
翌日、業者に依頼して測量を行った。得られた山の角度はやはり「4度」だった。
調査報告書には過大なデータが書き込まれていた。そうすることで「他に配備可能な場所はない」という結果を導き出している疑いが色濃くなった。
東京・市ケ谷の防衛省に質問状をファクスで送り、見解を求めた。
3時間後に電話を折り返した報道室職員は「本日中の回答はできません」と言うばかりだった。
翌5日、1面トップで「適地調査、データずさん」と報じた。
燃え上がる「反発」
このスクープを機に、配備問題の局面は一変した。
秋田のローカルな問題でしかなかった配備計画は、国会で重要案件として取り上げられるようになった。
岩屋毅防衛相(当時)は「調査全体の信頼を失いかねないもので、本当に申し訳ない」と陳謝。安倍晋三首相も「地元のみなさまがさまざまな不安や懸念を持っていることは真摯に受け止めている」と釈明した。
スクープ3日後の住民説明会では、こんな一幕があった。
「あなた方にとっては、どこか遠い国の出来事みたいな感じかもしれないが、われわれは毎日、ここに住んでいる」
住民の男性(40)は、マイクを手に切々と訴えた。視線の先には、伏し目がちな表情で並ぶ防衛省職員たちが座る。
突然、男性が叫んだ。「後ろの席のあなた! 居眠りしていましたね!」
指をさした先では、列の端に座る男性職員がうつらうつらとしていた。男性の声で目を覚ました職員の視線が宙をさまよう。
住民側からは怒声が上がった。「何を考えているんだ! われわれは人生かかってるぞ!」
この模様はテレビニュースで繰り返し放映されることになった。
住民の反発は、高まる一方だった。
しっかりと声を上げていけば…
職業教育の授業で、記者が女子学生から問いかけられたのは、このころのことだった。
「政府が計画を見直す可能性はあると思うか」という質問に言葉が詰まったのは、答えに窮したからではない。
高校を卒業してまだ間もないような若者が、国策という巨大な存在に対して、ここまでの不安を口にせざるを得ない。
その現実へのやるせなさからだった。
記者はやや間を置いて言った。
記者

政府がいったん決めたプランを見直すということは、あまりないことです。
学生のまっすぐなまなざしを感じながら、続けさせてもらう。
記者

でも、地元に住むわれわれがしっかりと声を上げていくことで、計画が変わる余地は十分にあると思います。地方の声、地域住民の声にちゃんと耳を傾ける社会であってほしいし、そういう社会でなければならないというのが、新聞記者としてのわたしの考えです。
現実はその方向に進んでいった。
まもなく行われた参院選では、配備反対を訴える野党新人が自民現職を破る波乱が起きた。知事と秋田市長は防衛省批判のトーンを強め、防衛省は、新屋に代わる配備候補地がないか再調査することになった。
12月には共同通信が「政府が新屋配備を見直す方向で検討に入った」と報道。
年が明けた2月には自民党秋田県連が菅官房長官らとの会談で「新屋配備には無理がある」と伝達した。
そして6月15日、河野太郎防衛相が「配備撤回」を突如表明し、イージス・アショアを日本に導入する計画そのものが葬り去られることになった。
「政治を動かす力」とは
政府が配備計画を断念したいま、彼女は何を思うのか。メールで連絡を取ると、返信が届いた。
――あの授業の後、配備計画が変わる可能性についてどう考えていましたか?
学生の返信

少しは政府に県民の思いが届いているところはあるのではないかと感じていましたが、アメリカや日本の政府が方針を変えない限り、変わることのない計画なのだろうという考えもありました。
もし配備地を再検討するとなれば、新屋のように住民が悩んだり反対運動をせざるを得ない地域が他にも生まれるかもしれないということであり、複雑な心境でした。
――計画の撤回を知ったとき、どう思いましたか?
学生の返信

テレビのニュースで知りましたが、驚きが何より大きかったのを覚えています。安心する気持ちはその後に生まれました。
――配備撤回となったいま、政府や防衛省に対してどういう思いを持っていますか?
学生の返信

以前は、政府というものは自分には直接関係のないところで動いているような感覚があり、良くも悪くも特に何も感じてはいませんでしたが、初めて政府に対して『信用できない』と思いました。
配備計画の撤回以降、秋田魁新報への投稿にこんなことを記した人がいた。
「声を上げることの大切さを痛感した」
こう記す人もいた。
「『ダメなものはダメ』と訴え続けることが、政治を動かす力になると改めて学んだ」
こうした実感を多くの人が肌身のものとする機会だったと考えれば、イージス・アショアがもたらした2年半の混乱もむだではなかったのかもしれない。
もちろん、地元新聞社で働く記者自身にとってもだ。
【取材=秋田魁新報取材班、文=松川敦志】
※この記事は秋田魁新報によるLINE NEWS向け特別企画です。
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秋田の雪山の中にひとり、ギターを弾いて歌う少年がいた。
誰かに聞いてもらいたいと願いながら、自分で曲を作っていることが恥ずかしくて友だちにも言えず、毎日ひとりきりで歌っていた。
観客はキツネとタヌキだけだった。
ただ、ひたすら音楽が好きで、大人たちに「意味がないからやめろ」と言われても声が枯れるまで歌い続けた。
その少年の名は高橋優。やがて東京に出てプロのミュージシャンとなり、この夏デビュー10周年を迎えた。
少年時代もコロナ禍の今も。抱える思い
デビュー10周年に合わせてネット配信が始まった新曲「one stroke」。爽快で力強いメロディーに乗せて、新たな旅の始まりを高橋は歌っている。まるでミュージシャンとして新たなステージへ踏み出す「宣言」のようにも聞こえる。
高橋優さん

そういう気持ちはありましたね。
この曲は昨年12月に始まった「free style stroke」というツアーの中で演奏し、お客さんの反応を見ながら歌詞を変えたり、感覚的に調整したりして進化させてきました。
ツアーとともに成長してきた曲です。
旅はここから始まるみたいだ
会えるのがたまらなく嬉しいんだ
待ち受ける景色はどんなだろう
どんなでも楽しめそうさ僕らなら
君のまま 少年のまま
高橋優さん

自分と自分の歌を聞いてくれる人たちを解き放てるような空間をこのツアーでつくりたかった。
その空間を象徴する曲にしようと思ってやってきたわけです。
結果的に、10年やってきた自分の新たな一歩と呼べるような曲になったと思います。
自分と自分の歌を解き放てるような空間を―。
少年時代からコロナ禍の今に至るまで、高橋はいつもそんな思いを抱えて歌を歌ってきた。
雪山で熱唱。思春期の衝動
時が流れ 大人になって
僕の中で高鳴るstroke stroke
歳をとって 大人になっても
僕の中で高鳴るstroke stroke stroke
少年の夢の延長線上に生きる現在の自分を鼓舞するような歌詞が「one stroke」にはある。
それは秋田で育った高橋が高校時代、毎日のように家の近くの山でギターを弾きながら歌っていたというエピソードを思い起こさせる。
高橋優さん

雪山でギターを弾いていたころのことは鮮明に覚えています。
思春期に、自分はほかの人たちからどう見られてるんだろうって気にしますよね。
クラスのほかの男子がめちゃくちゃかっこよく見えて、自分だけがしょぼく見えたりとか。
実際しょぼかったんですけど(笑)。
生まれ育ったのは、秋田県内でも有数の豪雪地帯の山内村(現・横手市)。氷点下の真冬の夜も高橋は歌い続けた。
高橋優さん

クラスには、女性もきれいな人たちがいて、自分は決して交わることはなくて。
勝手にひとりでコンプレックスを抱いてほかと比べてしまうようなところが、僕にはあったんです。
そんなとき、僕は「自分って何なんだろう」という疑問に答えられる人間になりたかった。
高橋優さん

中学生のときはそれがあいまいで、サラリーマンになってちゃんと稼いで、ひとりで生きられるようになればいいやって答えることが正解のような気がしていた。
でも、歌に出会ってしまって、歌を書いて歌うことがどんどん、自分のライフワークというか、ルーティンワークになっていったんです。
1日1回は大声を出して歌っておかないと、自分を自分たらしめるものがなくなってしまうような感覚ですね。
コードを押さえる手はかじかむ。歌声は降り積もった雪に吸われる。
そんな環境の中で、なぜ歌い続けたのだろうか。
高橋優さん

雪山で歌っていたエピソードは自慢できることではありません。
でも、それをやることで、ちょっとずつでもギターがうまくなったり、声の出し方が分かるようになったりするかもしれない。
高橋優さん

そして、いつか誰かに歌を聞いてもらったとき「ああ、何の取りえもないやつだと思っていたけど、歌は歌えるんだな」と思ってもらえるかなと。
自分として生きていくための衝動みたいなものが、当時の僕を駆り立てていたような気がします。
ずっと片思い。それでも焦がれるのは…
聞こえるよ 聞こえるよ
あの日の夢と希望
叶えられやしないとか
本気で言ってないだろう?
毎日のように雪山で歌い、高橋はやがてプロのミュージシャンへの道を切り開く。
だが当時はその夢を、友だちや周囲の大人に語ることはなかった。
高橋優さん

腹の中では「将来は音楽で食べていきたい」と思っていました。
でも「歌でやっていくぜ、俺!」なんて言ったら山内村の人たちから笑われるとも思っていました。
だってオリジナルの曲を歌っても笑われましたもん。
高橋優さん

コピーバンドをやっている人は周りにたくさんいたけれど、オリジナルをやると「そんなことすんの? 恥っ!」みたいな。
最初、オリジナルは内緒でやっていたんです。
できれば誰かに見せたいと思っていたけれど。
自分の夢を語ったりしたら、笑われたり頭から否定されてしまったりするような閉塞感。
そんなものを当時の秋田には感じていたという。
高橋優さん

高校のときは雪山で歌いながら、何百人、何千人の人たちが自分を囲んでいるという妄想をしていました。
実際は山の中で、目の前にはタヌキしかいなかったし、キツネの鳴き声が歓声みたいな(笑)。
クマと遭遇しなくてよかったですよ。
高橋優さん

多くの人の前で歌うのを妄想していたけれど、実際はびびりまくり、恥ずかしがりまくりで。
いつか絶対に「この曲がいい」って言ってくれる人が現れるから、そのときに歌おうなんてしたたかに思っていました。
少年はやがて東京に出て、「妄想」を現実のものにした。
自分の才能に確信を持っていたから、夢を持ち続けることができたのだろうか。
高橋優さん

デビューして10年やっていると、そうやって「才能」の話をされることがあります。
才能があったから今があるよねと。
でも才能の話をするのは、僕は好きじゃない。
それなら好き嫌いの話をした方が分かりやすいと思うんですよ。
高橋優さん

へたくそでも好きな人はずっとやるじゃないですか。
才能があっても好きじゃない人は途中でやめるじゃないですか。
それを考えたら、生まれた場所とか、周囲の環境がこうだから、あるいは才能がないから自分は好きなことをやれないというのは、論点がずれちゃってるような気がするんですね。
「自分に才能あると思ったことは1回もない」。高橋はそう言い切る。
高橋優さん

ただ好きだったんです。
ずっと音楽に片思いしているような気持ちです。
振り向いてもらえないことがまだ多いです。
でも好きだから、やっちゃう。
高橋優さん

やめろと言われたことは何回もあります。
「路上ライブなんて意味ないんだから」と言われたり。
「才能がある人はほかにいっぱいいるんだから」とも言われました。
それでも音楽を続けたのはなぜか。
その答えこそ、高橋が自らの活動を通じて伝えたいことのひとつだ。
高橋優さん

僕は才能もないのに、歌しかなかったから、ずっと好きで歌い続けてきただけ。
これを言うと才能のない人に失礼だとか、成功したやつにしか言えない言葉だとか言われる。
高橋優さん

それでも今これを読んでいる人に言いたいのは、もし周囲が全員イケてて、自分だけイケてないとか、逆に器用貧乏で何をやっていいか分からないというあなたでも、好きなことがあるんだったら、それをやり続けてほしい。
故郷で音楽フェス。続ける理由
高齢化率日本一だって元気を出してこう
置かれた環境に関わらず夢は叶うよ
「閉塞感」を感じ続けた秋田を離れ、高橋は東京で成功する。
全国的な人気を獲得する一方で、2016年から「秋田キャラバンミュージックフェス」を主催するようになった。
高橋優さん

佐竹敬久知事から2015年に秋田音楽大使に任命していただいて、秋田を音楽で盛り上げられたらという思いを持ち続けています。
それを形にしたものが秋田キャラバンミュージックフェスです。
やるごとに、新しい意味が見つかっていますね。
高橋に縁のあるミュージシャンやお笑い芸人らを招き、県内各地を回りながら毎年祝祭的な空間を創り出してきた。
高橋優さん

小学生以下のお子さんを入場無料にしているのですが、近所に「ゴスペラーズ来た」とか、お笑いの「ロバート」がリズムネタをやってくれたとかっていうのは、子どもにとって大きな経験になると思うんです。
子どもって自分の目の前で起こることに感動する力を持っています。
そう思うのは、高橋自身が同じような経験をしたからだ。
高橋優さん

僕が小学生のころ、地元の有名人で大好きだった大潟八郎さん(秋田在住の漫芸家、2010年死去)が近所の老人ホームに来てくれました。
会場はおじいちゃん、おばあちゃんばっかり。
「珍しく若いのがいるな、来い来い」って僕を壇上に呼んでくれて。
それが僕にとって人生で最初に「スター」に触れた経験なんですよ。
高橋優さん

「高橋優くんへ」って書いてくれたサインを今でも家に飾っています。
いつもカセットテープで聞いていた大潟さんに、生で触れられたという感動はいまだに忘れられない。
その感動はやがて、夢を追う原動力になった。
だから同じような機会を、地元のみんなのためにつくりたい。その一念で、フェスを続ける。
高橋優さん

ミュージシャンやお笑いの方たちが来てくれて、表現しているのを目の前で見たら「秋田からはスターやテレビに出るような人なんて出ないんだ」というような保守的な考え方を打ち破る子たちがどんどん出てきてくれるんじゃないかと期待しています。
先が見えないからこそ…
愛着のあるイベント。だが新型コロナウイルスの影響が広がった今年は、高橋自身が中止することを決断した。
高橋優さん

いろんな選択があった中で、最終的にやらないと決めたのは僕です。
楽しみにしてくれていたみなさんには申し訳ないです。
ただ、想像することを忘れちゃいけないなと思っていて。
大事なのは、現状をどう受け止めるか。確信もないまま夢を追い続けた自分の過去に重ねて、高橋は語る。
高橋優さん

コロナ禍の中でメディアに「先が見えない」という言葉が飛び交いました。
僕は先が見えたことが一度もなかったんです。
明日というものが分からない。プレゼントをもらって、中身が分からない方が、それがいいものでも悪いものでも開けたときに驚けるじゃないですか。
高橋優さん

明日という日は、常に自分たちがもらえるプレゼントだと思うんです。
いいものがもらえるかもしれない、明日はどんなことが起こるのだろうとわくわくして、想像する気持ちをなくしちゃいけない。
そんなことを僕は今、思っている。
雪山でタヌキ、キツネに向かって歌ったあの日と同じように。たとえ未来が見えなくとも、高橋は夢を持ち続ける。
高橋優さん

今年9月に秋田キャラバンミュージックフェスはないけれど、ないからこそ見つけられる明日があるかもしれない。
フェスがなかった1年間を経験したからこそ、2021年には僕自身も改まった気持ちで素晴らしい瞬間を一緒に迎えられるかもしれない。
高橋優さん

そういう日を迎えるためには、わくわくする気持ちとか、明日という玉手箱を開けるモチベーションを持っておきたいんですよね。
この1年を絶対に無駄にしないっていうものを来年見せられたらいいなと思っています。
明日というプレゼントが待っている
明日はきっといい日になる
いい日になる いい日になるのさ
笑い合えたらいい日になる
いい日になる いい日になるでしょう
少年時代に閉塞感を感じた故郷に対し、高橋は日本のミュージックシーンの最前線から前向きなメッセージを送り続ける。
高橋優さん

秋田県って、人口減少率がナンバーワン、高齢化率も自殺率も高い、日照時間は少ない、脳卒中で亡くなる人も日本で一番多いって、100年後になくなってしまうんじゃないかっていわれたりします。
今だけを見渡したら、今日だけを見渡したら、確かに先が見えなくて苦しいし辛いかもしれない。
そんな僕にも、そんなあなたにも、何が起こるか分からない明日というわくわくできるプレゼントが常に用意されています。
高橋のメッセージは、秋田県民はもちろん、先の見えない時代をもがきながら生きる全ての人を勇気づけるかもしれない。
高橋優さん

いろんなことをいう人がいますよ。
今度は地震がやってくるとか、次のウイルスが来るんだぞとか。あるんだかないんだか分からないことで情報は錯綜してる。
でも僕は明日何をやろうとか、何が起こったらうれしいだろうとか、常に想像する気持ちを持ち続けている。
明日というプレゼントを開けるモチベーションだけは、秋田県に対しても持ち続けています。
高橋優さん

辛いことはたくさんあって、それを無視したくはないけれど、それを踏まえた上でも、わくわくできる明日が待っている。
それを秋田県の皆さんにも、この記事を読んでくださっている皆さんにも、思ってもらえたらうれしい。
思ってもらえなくても、そんなことをほざいているやつがこの日本にいるんだということを知ってもらえたらうれしいです。
【取材・文=安藤伸一(秋田魁新報社)】
※この記事は秋田魁新報社によるLINE NEWS向け特別企画です。
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俺は人類未踏の「白瀬ルート」で、南極点に立つ男だ!
世界の果て。年間平均気温マイナス50度という極寒の南極点で、漫画「ONE PIECE」のルフィばりのポーズを決めて叫ぶ男の名は阿部雅龍(まさたつ)、36歳。
普段は浅草で人力車を引き、金をためては世界へ冒険に出かけている。
名刺に書いた肩書は「夢を追う男」。
大好きな仮面ライダークウガの主人公をまねて、そう名乗っている。
昨年11月から今年1月にかけて、阿部は南極点への単独徒歩冒険に挑んだ。
日本人未踏の「メスナールート」と呼ばれる約900キロを55日間、ひとり歩き通して南極点にたどり着いた。
その感動も冷めやらぬうち、銀色に輝く南極点モニュメントの横で「次は『白瀬ルート』でここに帰ってくる」と誓いを立てた。
孤独な少年時代、南極に憧れる
阿部は1982年、秋田県秋田市に生まれた。
4歳で父を亡くし、そのときの葬儀の場面が最も古い記憶だ。
父の死後、別れて暮らしていた母に引き取られ、同県潟上市に移り住んだ。
母の家では押し入れの中で本を読み、あまり笑わない子どもだった。
それでも自然の中で遊ぶのは好きだったという。
「幼いころ父を亡くしたから、人の死を身近に感じていたように思う。いつか死ぬ人間が、そのときまでどうやって生きるのか。心のどこかでずっと考えていた」
小学校低学年のころ、その後の人生に影響を与える本に出会った。およそ100年前、人類初の南極点到達をかけて競争を繰り広げたノルウェーのアムンゼン、イギリスのスコット、そして日本の白瀬矗(のぶ)の伝記漫画である。
白瀬は秋田県出身の陸軍中尉。
明治末期の1910年から12年にかけて、日本人として始めて南極を探検した。
探検先進国のライバルたちに比べて性能の劣る船と粗末な装備で南極点一番乗りを目指したものの、あと一歩のところでたどり着くことはできなかった。
自分と同じ秋田に生まれた探検家が人類未到の地に挑んだエピソードは、幼い阿部に強烈な印象を残した。
ベースキャンプに郷土の英雄の名前
2018年11月19日。
阿部を乗せて南米パタゴニア地方を飛び立った飛行機が、南極ユニオン氷河ベースキャンプの氷上滑走路に着陸した。
アムンゼンやスコット、白瀬たちが命がけで探検した時代とは違い、今の南極には観光客も大勢やってくる。
ユニオン氷河のベースキャンプでは、観光客を世話するため100人近いスタッフが働いていた。
阿部のような冒険家は自分が持ってきたテントで寝るが、観光客は耐風性が強く、中にベッドが備えられた快適なテントに泊まる。
各テントには世界の著名な探検家や冒険家の名前が付いていた。
阿部はそれらの中に「SHIRASE」と名付けられたテントを見付けた。
「郷土の英雄、白瀬中尉の業績が世界に評価され、名前が刻まれている。それがとても誇らしかった」
ベースキャンプ到着から4日後、阿部はプロペラ機に乗って単独徒歩冒険の出発点であるロンネ棚氷に移動した。
ここからは完全にひとり旅。
南極点にゴールするまで、人間どころか他の生き物に会うこともない。
南極沿岸にはペンギンやアザラシが生息しているものの、極寒の内陸はウイルスすら生存できない厳しい世界なのだ。
観光客が訪れる南極とはいえ、内陸を冒険するとなれば、ベースキャンプ運営会社による厳格な審査を通る必要がある。
阿部は2014年から3年連続で北極圏を単独徒歩冒険した実績が認められ、そのスタートラインに立つことができた。
大気中の水蒸気が凍り、ダイヤモンドダストとなってきらきら輝く中、歩行用のスキーを履いて真っ白な氷原に踏み出す。
大陸沿岸から南極点までは2500メートルの標高差があり、ほぼ全行程が上り坂だ。
食料や燃料を積み込み、重量100キロを超えたそりを引いて歩くのは重労働だが、憧れの南極にいる幸福感が体を満たして気分は上々だ。
笑って死ねる人生を生きるために
「自然の中で遊ぶのが好きだったけれど、決してやんちゃだったわけではない。あまり明るい性格ではなく、体も弱かった」
子どもの頃の自分について、阿部はこう振り返る。
秋田中央高校から秋田大学に進んだ阿部は空手を習い始め、やがて道場に住み込むほど本気で打ち込むようになった。
体が弱いことやスポーツが苦手なことに対するコンプレックスを克服したかったからだ。
加えて、幼い頃、冒険に憧れていたことを思い出し「世界を旅して回るには強い体を手に入れなくては」とも考えた。
卒業後の進路を考えなくてはいけなくなった大学3年の終わり、冒険への思いを胸に秘めながら、就職すべきかどうか悩んだ。
その答えを探そうと、インターネットで世界の冒険家たちの記事を探していると、ある言葉に行き当たった。
「笑って死ねる人生を生きるために冒険をしている」
北極と南極を単独で徒歩横断した日本人冒険家・大場満郎は「なぜ冒険をするのか」という質問にそう答えていた。
阿部の背中に衝撃が走った。
「いつか俺も死ぬときが来る。このまま冒険の夢を追わずに就職してしまったら、笑って死ねるはずがない」
すぐに大学に休学届を出し、山形県最上町で大場が営む冒険学校に飛び込んだ。スタッフとして働きながら山で体を鍛え、大場の言葉に耳を傾ける日々。
冒険学校で7カ月間過ごした後、人生最初の冒険を南米大陸自転車縦断に決めた。
2005年5月、エクアドルの首都キトを自転車で出発。いったん北上し、赤道をまたいでから反転、ひたすら南下する。
冒険の過程を多くの人に伝えようと道中でつづったブログは、テレビ番組で紹介され評判となった。
06年2月、パタゴニア地方のウシュアイア(アルゼンチン)にゴール。約300日間、1万キロの道のりを駆け抜けた。
パタゴニアは船や飛行機で南極へ向かう際の出発地でもある。
「俺はいつかここに帰ってくる。そのときは南極冒険だ」
食べた者は必ずパタゴニアに帰るという言い伝えがある、カラファテという植物の実をかじりながら、阿部はひそかに誓った。
異常な降雪、行く手を阻む
南極点を目指し、意気揚々とロンネ棚氷を出発した阿部。
しばらくの間は順調に歩行距離を伸ばしていた。
異変を感じたのは7日目。
ブリザードが吹き荒れるのは想定内だが、ドカ雪が一緒に降るのには面食らった。
南極は気温こそ低いものの、降水量は極端に少なく「白い砂漠」と呼ばれることもあるくらいなのだ。
それなのに、夜中に起きて雪かきをしなければテントが潰れそうになるくらい降り続ける。
ドカ雪は何日も降り続き、ベースキャンプにいる気象の専門家は衛星携帯電話で「この雪の降り方は異常」と伝えてきた。
雪に埋もれたそりはずしりと重く、肩と腰に装着したハーネスがきつく食い込む。
全力で引いてもちっとも進まないどころか、そりの重さに負けて前のめりに転ぶ始末。
顔中雪まみれになりながら、何度も唇をかむ。
スタートから21日目にはそりが雪に完全に埋まり、1時間に800メートルしか進めないほどペースは落ちた。
思うように前に進めぬ日々。
到達距離は予定から遅れていく。
40日でゴールする計画で、10日間の予備を含め50日分の食料を積んで出発した。
どんなに時間がかかっても50日でゴールできる自信があったが、それも怪しくなってきた。
距離は稼げなくても、日々食料は減っていく。
極寒の世界では高カロリーの食料を摂取し続けなくては生きられない。
阿部は全行程をひとりで行動し、途中で食料や燃料の補給を受けない「単独無補給」という最も難易度の高い冒険スタイルで南極点に到達することを公言していた。
それがプレッシャーとなって心に重くのしかかる。
31日目、スタートから350キロ地点にあるチェックポイントに到着した。
予定では20日かからないはずだった。
ここにはベースキャンプ運営会社が管理する食料庫がある。
南極点まであと550キロ。
このままドカ雪が続けば、途中で手持ちの食料は尽きるだろう。
一方、食料を補給すれば南極点到達の可能性は高まるが、「無補給冒険」というタイトルを手にすることはできない。
食料を補給すべきか否か。
阿部は難しい決断を迫られた。
ロッキー大縦走が教えてくれたもの
南米大陸自転車縦断を終えた阿部は、秋田大に復学して2008年に卒業。
東京に出て浅草の人力車夫となった。
「人力車を引くことはそのままトレーニングになるし、海外の人たちと付き合うのに必要な日本文化の知識を学べる。自分に欠けていたコミュニケーション能力を磨くこともできる。冒険を続ける上で最適な仕事だと思う」
下町風情が残る浅草を、観光客を乗せてさっそうと走る日々を過ごしながら、阿部は次の冒険の目標を北米ロッキー山脈縦走に定めた。
アメリカのカナダ側国境からメキシコ側国境まで続く4200キロの大陸分水嶺。
そこを歩ききった日本人はまだいなかった。
「日本人初というタイトルを手に入れるチャンスだ」
2010年6月、阿部はカナダとアメリカの国境からロッキー山脈を南下し始めた。
標高1200メートルから4350メートルまで上り下りを繰り返し、巨大グマ・グリズリーを警戒しながらキャンプする日々。
ルート全体の7割は道らしきものが見えるが、残り3割は踏み跡さえ分からず、地図とコンパスで自分の進むべき方向を確かめる。
4カ月以上、ロッキーの稜線を歩き続け、ゴールが近づいたニューメキシコ州で、阿部はある日本人男性に出会った。
男性はこの年、阿部と同じくアメリカ側のロッキー山脈縦走に挑み、既にゴールして車で引き返す途中だったのだ。
あと一歩のところで「日本人初」のタイトルを手に入れられなかった阿部。
失意のうちに残りの山道を歩き、147日間の縦走を終えた。
翌2011年、阿部は再び「日本人初」を狙い、今度はロッキー山脈のカナダ側の1100キロ縦走に挑戦した。
ところが途中で出会ったカナダ人から、過去に日本人の妻と一緒にそのルートを踏破していたことを聞かされる。
日本人女性の踏破は記録に残っていなかったが、知ってしまったからには阿部が「日本人初」と誇るわけにはいかない。
阿部は結局、カナダ側のロッキーを42日間で歩ききった。
「日本人で初めて、アメリカとカナダの両側のロッキーを完全踏破した」とも言えるが、そんなことにこだわっていても仕方ないように思えてきた。
「もともと何かタイトルが欲しくて冒険を始めたわけじゃない。自分がやりたいことに挑戦し、人に伝える。それこそが俺の冒険だ」
足かけ2年にわたるロッキー大縦走を経て、阿部は自分の冒険の原点を見つめ直した。
「無補給」断念 今なすべきことは…
南極点まであと550キロ地点にある食料庫を目の前にして、阿部はなぜ自分が南極点を目指すのかを思い起こしていた。
「白瀬中尉の未完の夢を自分が受け継ぎ、完成させること。それが最大の目標だ」
白瀬の最終到達地・南極ロス棚氷の「大和雪原」へ行き、そこから人類未到のルートを進んで南極点に到達する。
そのルートを阿部は「白瀬ルート」と呼んでいる。
白瀬と同じ秋田で生まれた自分がルートを完成させることに意義がある。
今回歩いているメスナールートは、あくまでも白瀬ルートへのステップだ。
白瀬ルートの起点はベースキャンプから遠く離れているため、飛行機のチャーター代だけで1億円を超える資金が必要になる。
今の阿部に工面できる金額ではない。
今回、日本人未踏のメスナールートを選んだのは、スポンサーを納得させるだけの実績をつくるのが狙いだった。
だからこそ、最低でも南極点まで歩いて行けることを証明しなくてはならない。
阿部は食料を補給し、確実に南極点に到達することを選んだ。
「無補給というタイトルに固執している場合じゃない。今なすべきことは、何が何でもゴールすること。必ず行くぞ、南極点!」
皮肉なことに、食料を補給してからドカ雪はやみ、順調に距離を稼ぐことができるようになった。
その代わり寒波が来た。
気温マイナス30度、風を考慮すれば体感気温マイナス40度にまで冷え込んだ1月初旬、左頬にどす黒い凍傷ができた。
スタートから40日余りが過ぎ、標高2500メートルを越えると、氷原に無数のクレバスが走っている危険地帯に入った。
クレバスとは氷にできた深い裂け目のこと。
単独行動で落ちてしまったら、命はまず助からない。
雪にかくれたクレバスに落ちないよう、細心の注意を払いながら通り抜ける。
北極の凍てつく海に落ちる
ロッキー大縦走後の2012年、阿部は南米アマゾン川2000キロを自作のいかだで下る冒険を行った。
恩師の大場満郎や日本を代表する冒険家の故植村直己も、それぞれ極地やエベレストへ向かう前にアマゾン下りをやっている。
「偉大な先人が見たこと、感じたことを自分も体験したかった」
2014年には、南極冒険を実現するための本格的な準備に入った。
極地の寒さに体を慣らし、徒歩で氷原を冒険する技術を身につけるため、3年連続で北極圏へ通うことにした。
1年目と2年目はカナダ北極圏の計1250キロを単独踏破。
3年目の2016年は、デンマーク領グリーンランド北極圏へ向かった。
北極は近年、地球温暖化などの影響で海氷の面積が縮小し、徒歩で冒険するのが難しくなっている。
3月3日に世界最北の村・シオラパルクを出発した阿部も、例年より早く解け始めた海氷上でしばしば身の危険を感じていた。
出発から22日目。
スキーを履いて歩いていた阿部の足元の氷が割れ、海に落ちてしまった。
昼でも気温マイナス20度の北極で海に落ちるのは、生命の危機を意味する。
阿部はこのピンチにも冷静に行動できた。
自分と一緒に落ち、近くを漂っていたそりにはい上がって凍てつく海を脱出。
低体温症から体を回復させるため、安定した氷の上で2時間マラソンした。
翌朝、自ら衛星携帯電話で呼んだヘリに救助され、病院に運ばれた。
10日ほど静養した後、再び氷の世界に戻って冒険を続けた。
「人生でうまくいかないことはある。そんなとき、どう行動するか。今できることを必死でやらなければ、その先の大きな目標には届かない」
5月24日まで、計750キロを踏破してこの年の冒険を終えた。
翌2017年、阿部は体力強化と南極冒険実現への願掛けのため、人力車を引いて鹿児島から秋田まで約6000キロを縦断した。
そして2018年。
企業スポンサーからの支援やクラウドファンディング、人力車の稼ぎ、カンパパーティーとあらゆる手段を使って1500万円の資金を集め、阿部は初めての南極冒険へ旅立った。
世界の果て、再訪を誓う
恐怖のクレバス帯を通り抜けると、ゴールはぐっと近づいてきた。
ベースキャンプから、阿部の衛星携帯電話に「南極点へ徒歩で向かった8人の冒険家のうち5人がリタイアした」と情報が入った。
南極冒険に挑戦できるのは実績のある冒険家だけなので、例年成功率は高い。
今シーズンは、それだけ雪の多い悪条件だったといえる。
1月16日(日本時間17日)、冒険前半のドカ雪がうそのように晴れ渡った青空の下、阿部は南極点にゴールした。
銀色に輝くモニュメントの横で、日本国旗や秋田県旗、それに南十字星を描いた白瀬南極探検隊の旗を掲げてフォトセッション。
傍らには、冒険中の孤独を慰めてくれたペットロボット「aibo(アイボ)」がいる。
南極点から1キロほど離れたキャンプに移動すると、スタッフが「アムンゼン・スコット基地(米国の南極点基地)へ見学に行きますよね?」と聞いてきたが、阿部は断った。
「なぜ? こんなチャンスは人生で2度とありませんよ」と言うので、こう答えた。
「俺に限っては2度目があるさ。次は白瀬ルートで南極点に帰ってくるのだから」
「無補給冒険」を達成できなかったが、阿部に後悔はなかった。
今回、ドカ雪に苦しめられたのは、次に白瀬ルートの冒険を実現するために、自分に課された試練だったのだと思えた。
みちのくの青空の下で
2019年6月。
阿部は人力車を引きながら岩手、宮城、福島と東北を南下していた。
4月28日に故郷の秋田を出発し、2カ月かけて東北を1周する旅。
白瀬ルートで南極へ行くための体力強化を図りながら、自分が生まれ育った東北を見つめ直す。
白瀬ルートの南極冒険に向けて、10月に日本を旅立つつもりだ。
極地に通い続け、寒さには十分慣れたし、36歳の今なら体力もピークにある。
必要な資金1億円のうち、半分ほどは調達できるめどがたった。
昨年は1500万円を集めるのにも必死だったが、異常な降雪の中で南極点にたどり着いたことで冒険家としての評価が高まり、資金集めにもつながっている。
白瀬の夢を継ぐための冒険が近づいている。
「人の夢は100年たっても残り、それを受け継ぐ者が現れる。白瀬中尉の夢を完成させることは、俺の夢でもあるんだ」
自分も必死に夢を追い続ければ、100年後の誰かが夢のバトンを受け取ってくれるはず。
阿部はそう信じている。
【取材・文 安藤伸一(秋田魁新報社)】
外部リンク
12月中旬、秋田市北部の金足農業高校グラウンド。夏の甲子園で有名になった校歌の歌詞のように白く凍った土を踏みしめ、吉田輝星は黙々と走っていた。
高校生として最後の大会となった10月の福井国体の後も、毎朝6時に起き、7時前に部室に入る。授業前にウエートトレーニングをこなし、放課後は1時間ほどランニングする。短い距離のダッシュを繰り返したり、バッテリーを組んできた菊地亮太を相手にキャッチボールしたりすることもある。
金農野球部は秋田県下でも猛練習で知られる。学校周辺の田園地帯が雪に埋もれる長い冬も、吉田は長靴を履いて走り続けることで強靱な体を作り上げてきた。年明けの合同自主トレから始まる本格的なプロ生活を見据え、残り少ない高校生活の中でも自らを鍛え抜く。
「ギアチェンジ」の片鱗は中学時代から
2015年7月、秋田市の八橋球場。吉田は天王中(潟上市)のエースで主将として「全県少年野球大会」に臨んでいた。硬式ボールを使うリトルシニアリーグが盛んではない秋田県にあって、軟式ながら中学ナンバーワンチームを決める重要な大会である。
天王は部員15人の小所帯だったが、地区大会を勝ち抜き21年ぶりに全県の舞台に立った。大会屈指の速球派右腕との呼び声が高かった吉田と打線がかみ合い、1、2回戦を快勝し準々決勝にコマを進める。
相手は、春季県大会2回戦で当たり、延長八回(七回制)の末に0―1で敗れた横手南。吉田は「今度こそ自分がゼロに抑えて勝つ」と強い気持ちでマウンドへ向かった。
試合は吉田と横手南のエースとの白熱した投手戦。0-0のまま延長に突入した。十一回表に天王が1点を先制。2死満塁で打席を迎えた3番・吉田は走者一掃の二塁打を放った。
「1点取ってくれれば、守り切る自信があった」
吉田の球威は延長に入っても衰えることなく、横手南から計11三振を奪って完封、春の雪辱を果たした。
吉田の投球は、この大会を取材した秋田魁新報の佐藤亮真記者(29)に鮮烈な印象を残した。
「ピンチになればなるほど切れが増すストレート。甲子園で『ギアを上げる』と話題になったが、その片鱗は中学時代からありました」
もう一つ、佐藤の印象に残っているのは取材に対する吉田の受け答えだ。
「聞いたことに素直に答えてくれず、短く返事をするだけ。生意気盛りの中学生という感じで、取材はやりにくかったです」
能代一との準決勝で、吉田は四回のピンチに3点を奪われ、天王は1-3で敗れて決勝進出はならなかった。
それでも関係者の間では、吉田のストレートが大会を通じて最大の話題となった。高校でどれだけ成長を見せてくれるのか―。周囲の期待を背負い、吉田は父の母校である金足農業高校に進む。
大阪からやってきた強力ライバル
金農は夏の甲子園で1984年ベスト4、1995年ベスト8という輝かしい成績を誇る。OBには中日で最多勝のタイトルを取った小野和幸、ヤクルトの守護神・石山泰稚らがいる。県内では強豪校の一つに数えられるが、2007年夏以来、甲子園から遠ざかっていた。
金農にとって11年ぶりの甲子園で、秋田県勢103年ぶりの準優勝という快挙の立役者となった吉田。「県内屈指の好投手」から「高校球界ナンバーワン右腕」へ成長を遂げた背景には、強力な同期のライバルの存在があった。
明桜(秋田市)からロッテにドラフト4位で指名された山口航輝である。
隣町にある父の母校に進んだ吉田と対照的に、山口は大阪から「野球留学」で秋田にやってきた。「100回大会で甲子園へ行く。投手でも打者でも秋田で1番になる」と明確な目標を胸に抱いていた。
2人は1年から公式戦で登板機会を得たが「いいピッチャーだな」とお互いを意識するようになったのは2年になってから。ともに球速140キロを超えるストレートを身に付けていた。夏の秋田大会では、エースで4番として決勝でぶつかった。
この時は明桜が5―1で勝利した。明桜打線は甘い球を逃さず吉田から10安打を放った。対する山口は抜群の球威で打者をねじ伏せ、五回まで無失点。だが、アクシデントが起きた。
五回に四球で出塁した山口は、吉田の素早いけん制で思わず右腕から帰塁し、右肩を負傷した。
「けん制がうまいと聞いていたが、あそこまで速いとは思っていなくて。自分は投手だから、手から戻るなんて普段はしない。たぶんあれが初めて」
甲子園はライトで出場したが初戦敗退だった。
一方、2年生エース同士の戦いに敗れた吉田は「本当に悔しかった。あの負けを忘れることはない」と雪辱を誓った。
冬場のトレーニングはこれまでになく苛酷なものとなった。膝まで埋もれる雪の中、チームメートを背負って走り込みを繰り返した。その成果もあって、腰周りは5センチ増え、翌年夏には105センチとなっていた。
山口の右肩は、冬を越して3年生になっても完治しなかった。しかし「打者でも秋田で一番になる」という目標は現実になろうとしていた。春の公式戦から本塁打を打ちまくり、長打力と勝負強さは他チームを恐れさせた。
100回目の甲子園出場校を決める夏の秋田大会。吉田は初戦で自己初の球速150キロをマークし、金農は順調に決勝まで勝ち進んだ。山口は主将で4番としてチームを引っ張り、準決勝は本塁打を含む3安打4打点の活躍で勝利に導いた。
2年連続で決勝の舞台で相まみえた吉田と山口。
「打者の山口をイメージして練習してきた。決勝で倒さないとすっきりしない」。吉田はこんな思いを抱いてマウンドへ上がった。
一回に訪れた最初の勝負。山口は一度もバットを振ることができなかった。それまで吉田の直球を「速いことは速いが、打てない速さではない」と思っていたが、最後の球速145キロに手が出ず、見逃し三振。「気付いたらキャッチャーに来ていた。えげつない球だった」
2打席目は一飛。3打席目は変化球で空振り三振。金農2点リードで迎えた九回、4度目の勝負が回ってきた。
打席の中で山口は「これが最後。楽しんで終わろう」。吉田も「最後になりそうな雰囲気」と感じていた。
渾身のフルスイングで向かっていった山口。2球目はホームラン性の大ファウルになり、球場に歓声とどよめきが入り交じる。2人は笑顔で視線を交わした。
そして、1ボール2ストライクからの5球目。吉田の変化球に山口のバットが空を切る。「自分らしくはなかったが、勝負の世界なので」と吉田。2―0で金足農が逃げ切り、甲子園出場を決めた。
吉田は試合後「おまえの分まで頑張るから」と声を掛けた。「負けて悔しいけど、向こうの完全勝利」(山口)、「努力なしではかなわない相手だった」(吉田)とたたえ合った。
甲子園でも堂々の投球を見せた吉田。強豪横浜との3回戦では「レベルが違う相手」と認めた上で、縦のスライダーを投げた。大舞台で慣れない球種を使う器用さを見せつけたが、実は「山口に1回だけ使った」という球だった。宿敵に対して効果的に使えたという裏付けがあってのものだった。
2年生の夏、吉田のけん制球をきっかけに右肩を負傷し、マウンドに上がることができなくなった山口は、打者として長打力に磨きをかけ、プロへの道を切り開いた。プロで対戦したい投手を問われると「吉田をまず打ちたい。そこからもっとすごい投手と勝負したい」と対抗心をむき出しにする。2人のライバル物語はプロのステージで続く。
「チームキャプテン」任命、メンタルも成長
甲子園でスターダムにのし上がった吉田の成長ぶりを、2年続けて秋田の高校野球を取材してきた大久保瑠衣記者(35)はこう見る。
「体力、技術面で伸びたのはもちろん、メンタル面で成長したことが大きかったと思います」
2年生エースの昨夏は「俺の力で勝たなくては」という気張りが強過ぎるように思えた。秋に新チームになり、吉田は監督から主将とは別に「チームキャプテン」という役割を与えられた。チーム全体に目配りし、練習では積極的に仲間にアドバイスを送った。
「仲間を信頼し、試合中に『抜くところは抜く』ことを覚えたのでしょう。昨年は試合終盤にコントロールを乱したとき、バテているのが顔に出ていることもありましたが、今年はそんな場面はみられませんでした」
進路表明、ドラフト会議、プロ入団発表―。吉田の会見には多くの記者が集まり、新聞・テレビで一挙手一投足が報じられる。質問者の目をまっすぐ見据え、自分の言葉で真摯に答える姿に、中学時代の吉田を取材するのに苦労した佐藤は「人間的にも大きく成長したな」と感じた。
11月23日、日本ハムの一員となった吉田は、他の新人選手とともにクラーク博士像が立つ札幌市の「さっぽろ羊ケ丘展望台」を訪れた。ここでは誰でも夢を紙に書いて、像の台座のポストに入れることができる。
「日々進化して日本一の投手になる。野球だけでなく人間としても成長する」
そう記してポストに投函した吉田。秋田よりも寒い北の大地で、どんな進化と成長を見せてくれるだろうか。