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浅草の人力車夫、南極点に立つ 阿部雅龍の冒険人生

2019年6月24日 11:00 秋田魁新報電子版

俺は人類未踏の「白瀬ルート」で、南極点に立つ男だ!

世界の果て。年間平均気温マイナス50度という極寒の南極点で、漫画「ONE PIECE」のルフィばりのポーズを決めて叫ぶ男の名は阿部雅龍(まさたつ)、36歳。

普段は浅草で人力車を引き、金をためては世界へ冒険に出かけている。
名刺に書いた肩書は「夢を追う男」。
大好きな仮面ライダークウガの主人公をまねて、そう名乗っている。

昨年11月から今年1月にかけて、阿部は南極点への単独徒歩冒険に挑んだ。
日本人未踏の「メスナールート」と呼ばれる約900キロを55日間、ひとり歩き通して南極点にたどり着いた。

その感動も冷めやらぬうち、銀色に輝く南極点モニュメントの横で「次は『白瀬ルート』でここに帰ってくる」と誓いを立てた。

孤独な少年時代、南極に憧れる


阿部は1982年、秋田県秋田市に生まれた。
4歳で父を亡くし、そのときの葬儀の場面が最も古い記憶だ。

父の死後、別れて暮らしていた母に引き取られ、同県潟上市に移り住んだ。
母の家では押し入れの中で本を読み、あまり笑わない子どもだった。
それでも自然の中で遊ぶのは好きだったという。

「幼いころ父を亡くしたから、人の死を身近に感じていたように思う。いつか死ぬ人間が、そのときまでどうやって生きるのか。心のどこかでずっと考えていた」

小学校低学年のころ、その後の人生に影響を与える本に出会った。およそ100年前、人類初の南極点到達をかけて競争を繰り広げたノルウェーのアムンゼン、イギリスのスコット、そして日本の白瀬矗(のぶ)の伝記漫画である。

白瀬は秋田県出身の陸軍中尉。
明治末期の1910年から12年にかけて、日本人として始めて南極を探検した。
探検先進国のライバルたちに比べて性能の劣る船と粗末な装備で南極点一番乗りを目指したものの、あと一歩のところでたどり着くことはできなかった。

自分と同じ秋田に生まれた探検家が人類未到の地に挑んだエピソードは、幼い阿部に強烈な印象を残した。

ベースキャンプに郷土の英雄の名前


2018年11月19日。
阿部を乗せて南米パタゴニア地方を飛び立った飛行機が、南極ユニオン氷河ベースキャンプの氷上滑走路に着陸した。

アムンゼンやスコット、白瀬たちが命がけで探検した時代とは違い、今の南極には観光客も大勢やってくる。
ユニオン氷河のベースキャンプでは、観光客を世話するため100人近いスタッフが働いていた。

阿部のような冒険家は自分が持ってきたテントで寝るが、観光客は耐風性が強く、中にベッドが備えられた快適なテントに泊まる。
各テントには世界の著名な探検家や冒険家の名前が付いていた。

阿部はそれらの中に「SHIRASE」と名付けられたテントを見付けた。

「郷土の英雄、白瀬中尉の業績が世界に評価され、名前が刻まれている。それがとても誇らしかった」

ベースキャンプ到着から4日後、阿部はプロペラ機に乗って単独徒歩冒険の出発点であるロンネ棚氷に移動した。

ここからは完全にひとり旅。
南極点にゴールするまで、人間どころか他の生き物に会うこともない。
南極沿岸にはペンギンやアザラシが生息しているものの、極寒の内陸はウイルスすら生存できない厳しい世界なのだ。

観光客が訪れる南極とはいえ、内陸を冒険するとなれば、ベースキャンプ運営会社による厳格な審査を通る必要がある。
阿部は2014年から3年連続で北極圏を単独徒歩冒険した実績が認められ、そのスタートラインに立つことができた。

大気中の水蒸気が凍り、ダイヤモンドダストとなってきらきら輝く中、歩行用のスキーを履いて真っ白な氷原に踏み出す。
大陸沿岸から南極点までは2500メートルの標高差があり、ほぼ全行程が上り坂だ。
食料や燃料を積み込み、重量100キロを超えたそりを引いて歩くのは重労働だが、憧れの南極にいる幸福感が体を満たして気分は上々だ。

笑って死ねる人生を生きるために


「自然の中で遊ぶのが好きだったけれど、決してやんちゃだったわけではない。あまり明るい性格ではなく、体も弱かった」

子どもの頃の自分について、阿部はこう振り返る。

秋田中央高校から秋田大学に進んだ阿部は空手を習い始め、やがて道場に住み込むほど本気で打ち込むようになった。
体が弱いことやスポーツが苦手なことに対するコンプレックスを克服したかったからだ。
加えて、幼い頃、冒険に憧れていたことを思い出し「世界を旅して回るには強い体を手に入れなくては」とも考えた。

卒業後の進路を考えなくてはいけなくなった大学3年の終わり、冒険への思いを胸に秘めながら、就職すべきかどうか悩んだ。
その答えを探そうと、インターネットで世界の冒険家たちの記事を探していると、ある言葉に行き当たった。

「笑って死ねる人生を生きるために冒険をしている」

北極と南極を単独で徒歩横断した日本人冒険家・大場満郎は「なぜ冒険をするのか」という質問にそう答えていた。

阿部の背中に衝撃が走った。

「いつか俺も死ぬときが来る。このまま冒険の夢を追わずに就職してしまったら、笑って死ねるはずがない」

すぐに大学に休学届を出し、山形県最上町で大場が営む冒険学校に飛び込んだ。スタッフとして働きながら山で体を鍛え、大場の言葉に耳を傾ける日々。
冒険学校で7カ月間過ごした後、人生最初の冒険を南米大陸自転車縦断に決めた。

2005年5月、エクアドルの首都キトを自転車で出発。いったん北上し、赤道をまたいでから反転、ひたすら南下する。
冒険の過程を多くの人に伝えようと道中でつづったブログは、テレビ番組で紹介され評判となった。

06年2月、パタゴニア地方のウシュアイア(アルゼンチン)にゴール。約300日間、1万キロの道のりを駆け抜けた。
パタゴニアは船や飛行機で南極へ向かう際の出発地でもある。

「俺はいつかここに帰ってくる。そのときは南極冒険だ」

食べた者は必ずパタゴニアに帰るという言い伝えがある、カラファテという植物の実をかじりながら、阿部はひそかに誓った。

異常な降雪、行く手を阻む


南極点を目指し、意気揚々とロンネ棚氷を出発した阿部。
しばらくの間は順調に歩行距離を伸ばしていた。

異変を感じたのは7日目。
ブリザードが吹き荒れるのは想定内だが、ドカ雪が一緒に降るのには面食らった。
南極は気温こそ低いものの、降水量は極端に少なく「白い砂漠」と呼ばれることもあるくらいなのだ。

それなのに、夜中に起きて雪かきをしなければテントが潰れそうになるくらい降り続ける。
ドカ雪は何日も降り続き、ベースキャンプにいる気象の専門家は衛星携帯電話で「この雪の降り方は異常」と伝えてきた。

雪に埋もれたそりはずしりと重く、肩と腰に装着したハーネスがきつく食い込む。
全力で引いてもちっとも進まないどころか、そりの重さに負けて前のめりに転ぶ始末。
顔中雪まみれになりながら、何度も唇をかむ。

スタートから21日目にはそりが雪に完全に埋まり、1時間に800メートルしか進めないほどペースは落ちた。

思うように前に進めぬ日々。
到達距離は予定から遅れていく。
40日でゴールする計画で、10日間の予備を含め50日分の食料を積んで出発した。
どんなに時間がかかっても50日でゴールできる自信があったが、それも怪しくなってきた。

距離は稼げなくても、日々食料は減っていく。
極寒の世界では高カロリーの食料を摂取し続けなくては生きられない。

阿部は全行程をひとりで行動し、途中で食料や燃料の補給を受けない「単独無補給」という最も難易度の高い冒険スタイルで南極点に到達することを公言していた。
それがプレッシャーとなって心に重くのしかかる。

31日目、スタートから350キロ地点にあるチェックポイントに到着した。
予定では20日かからないはずだった。
ここにはベースキャンプ運営会社が管理する食料庫がある。

南極点まであと550キロ。
このままドカ雪が続けば、途中で手持ちの食料は尽きるだろう。
一方、食料を補給すれば南極点到達の可能性は高まるが、「無補給冒険」というタイトルを手にすることはできない。

食料を補給すべきか否か。
阿部は難しい決断を迫られた。

ロッキー大縦走が教えてくれたもの


南米大陸自転車縦断を終えた阿部は、秋田大に復学して2008年に卒業。
東京に出て浅草の人力車夫となった。

「人力車を引くことはそのままトレーニングになるし、海外の人たちと付き合うのに必要な日本文化の知識を学べる。自分に欠けていたコミュニケーション能力を磨くこともできる。冒険を続ける上で最適な仕事だと思う」

下町風情が残る浅草を、観光客を乗せてさっそうと走る日々を過ごしながら、阿部は次の冒険の目標を北米ロッキー山脈縦走に定めた。
アメリカのカナダ側国境からメキシコ側国境まで続く4200キロの大陸分水嶺。
そこを歩ききった日本人はまだいなかった。

「日本人初というタイトルを手に入れるチャンスだ」

2010年6月、阿部はカナダとアメリカの国境からロッキー山脈を南下し始めた。
標高1200メートルから4350メートルまで上り下りを繰り返し、巨大グマ・グリズリーを警戒しながらキャンプする日々。

ルート全体の7割は道らしきものが見えるが、残り3割は踏み跡さえ分からず、地図とコンパスで自分の進むべき方向を確かめる。

4カ月以上、ロッキーの稜線を歩き続け、ゴールが近づいたニューメキシコ州で、阿部はある日本人男性に出会った。
男性はこの年、阿部と同じくアメリカ側のロッキー山脈縦走に挑み、既にゴールして車で引き返す途中だったのだ。

あと一歩のところで「日本人初」のタイトルを手に入れられなかった阿部。
失意のうちに残りの山道を歩き、147日間の縦走を終えた。

翌2011年、阿部は再び「日本人初」を狙い、今度はロッキー山脈のカナダ側の1100キロ縦走に挑戦した。

ところが途中で出会ったカナダ人から、過去に日本人の妻と一緒にそのルートを踏破していたことを聞かされる。
日本人女性の踏破は記録に残っていなかったが、知ってしまったからには阿部が「日本人初」と誇るわけにはいかない。

阿部は結局、カナダ側のロッキーを42日間で歩ききった。
「日本人で初めて、アメリカとカナダの両側のロッキーを完全踏破した」とも言えるが、そんなことにこだわっていても仕方ないように思えてきた。

「もともと何かタイトルが欲しくて冒険を始めたわけじゃない。自分がやりたいことに挑戦し、人に伝える。それこそが俺の冒険だ」

足かけ2年にわたるロッキー大縦走を経て、阿部は自分の冒険の原点を見つめ直した。

「無補給」断念 今なすべきことは…


南極点まであと550キロ地点にある食料庫を目の前にして、阿部はなぜ自分が南極点を目指すのかを思い起こしていた。

「白瀬中尉の未完の夢を自分が受け継ぎ、完成させること。それが最大の目標だ」

白瀬の最終到達地・南極ロス棚氷の「大和雪原」へ行き、そこから人類未到のルートを進んで南極点に到達する。
そのルートを阿部は「白瀬ルート」と呼んでいる。

白瀬と同じ秋田で生まれた自分がルートを完成させることに意義がある。
今回歩いているメスナールートは、あくまでも白瀬ルートへのステップだ。

白瀬ルートの起点はベースキャンプから遠く離れているため、飛行機のチャーター代だけで1億円を超える資金が必要になる。
今の阿部に工面できる金額ではない。
今回、日本人未踏のメスナールートを選んだのは、スポンサーを納得させるだけの実績をつくるのが狙いだった。

だからこそ、最低でも南極点まで歩いて行けることを証明しなくてはならない。

阿部は食料を補給し、確実に南極点に到達することを選んだ。

「無補給というタイトルに固執している場合じゃない。今なすべきことは、何が何でもゴールすること。必ず行くぞ、南極点!」

皮肉なことに、食料を補給してからドカ雪はやみ、順調に距離を稼ぐことができるようになった。

その代わり寒波が来た。
気温マイナス30度、風を考慮すれば体感気温マイナス40度にまで冷え込んだ1月初旬、左頬にどす黒い凍傷ができた。

スタートから40日余りが過ぎ、標高2500メートルを越えると、氷原に無数のクレバスが走っている危険地帯に入った。

クレバスとは氷にできた深い裂け目のこと。
単独行動で落ちてしまったら、命はまず助からない。
雪にかくれたクレバスに落ちないよう、細心の注意を払いながら通り抜ける。

北極の凍てつく海に落ちる


ロッキー大縦走後の2012年、阿部は南米アマゾン川2000キロを自作のいかだで下る冒険を行った。
恩師の大場満郎や日本を代表する冒険家の故植村直己も、それぞれ極地やエベレストへ向かう前にアマゾン下りをやっている。

「偉大な先人が見たこと、感じたことを自分も体験したかった」

2014年には、南極冒険を実現するための本格的な準備に入った。
極地の寒さに体を慣らし、徒歩で氷原を冒険する技術を身につけるため、3年連続で北極圏へ通うことにした。

1年目と2年目はカナダ北極圏の計1250キロを単独踏破。
3年目の2016年は、デンマーク領グリーンランド北極圏へ向かった。

北極は近年、地球温暖化などの影響で海氷の面積が縮小し、徒歩で冒険するのが難しくなっている。
3月3日に世界最北の村・シオラパルクを出発した阿部も、例年より早く解け始めた海氷上でしばしば身の危険を感じていた。

出発から22日目。
スキーを履いて歩いていた阿部の足元の氷が割れ、海に落ちてしまった。
昼でも気温マイナス20度の北極で海に落ちるのは、生命の危機を意味する。
阿部はこのピンチにも冷静に行動できた。
自分と一緒に落ち、近くを漂っていたそりにはい上がって凍てつく海を脱出。
低体温症から体を回復させるため、安定した氷の上で2時間マラソンした。

翌朝、自ら衛星携帯電話で呼んだヘリに救助され、病院に運ばれた。
10日ほど静養した後、再び氷の世界に戻って冒険を続けた。

「人生でうまくいかないことはある。そんなとき、どう行動するか。今できることを必死でやらなければ、その先の大きな目標には届かない」

5月24日まで、計750キロを踏破してこの年の冒険を終えた。

翌2017年、阿部は体力強化と南極冒険実現への願掛けのため、人力車を引いて鹿児島から秋田まで約6000キロを縦断した。

そして2018年。
企業スポンサーからの支援やクラウドファンディング、人力車の稼ぎ、カンパパーティーとあらゆる手段を使って1500万円の資金を集め、阿部は初めての南極冒険へ旅立った。

世界の果て、再訪を誓う


恐怖のクレバス帯を通り抜けると、ゴールはぐっと近づいてきた。
ベースキャンプから、阿部の衛星携帯電話に「南極点へ徒歩で向かった8人の冒険家のうち5人がリタイアした」と情報が入った。
南極冒険に挑戦できるのは実績のある冒険家だけなので、例年成功率は高い。
今シーズンは、それだけ雪の多い悪条件だったといえる。

1月16日(日本時間17日)、冒険前半のドカ雪がうそのように晴れ渡った青空の下、阿部は南極点にゴールした。
銀色に輝くモニュメントの横で、日本国旗や秋田県旗、それに南十字星を描いた白瀬南極探検隊の旗を掲げてフォトセッション。
傍らには、冒険中の孤独を慰めてくれたペットロボット「aibo(アイボ)」がいる。

南極点から1キロほど離れたキャンプに移動すると、スタッフが「アムンゼン・スコット基地(米国の南極点基地)へ見学に行きますよね?」と聞いてきたが、阿部は断った。

「なぜ? こんなチャンスは人生で2度とありませんよ」と言うので、こう答えた。

「俺に限っては2度目があるさ。次は白瀬ルートで南極点に帰ってくるのだから」

「無補給冒険」を達成できなかったが、阿部に後悔はなかった。
今回、ドカ雪に苦しめられたのは、次に白瀬ルートの冒険を実現するために、自分に課された試練だったのだと思えた。

みちのくの青空の下で


2019年6月。
阿部は人力車を引きながら岩手、宮城、福島と東北を南下していた。
4月28日に故郷の秋田を出発し、2カ月かけて東北を1周する旅。
白瀬ルートで南極へ行くための体力強化を図りながら、自分が生まれ育った東北を見つめ直す。

白瀬ルートの南極冒険に向けて、10月に日本を旅立つつもりだ。
極地に通い続け、寒さには十分慣れたし、36歳の今なら体力もピークにある。

必要な資金1億円のうち、半分ほどは調達できるめどがたった。
昨年は1500万円を集めるのにも必死だったが、異常な降雪の中で南極点にたどり着いたことで冒険家としての評価が高まり、資金集めにもつながっている。

白瀬の夢を継ぐための冒険が近づいている。
「人の夢は100年たっても残り、それを受け継ぐ者が現れる。白瀬中尉の夢を完成させることは、俺の夢でもあるんだ」

自分も必死に夢を追い続ければ、100年後の誰かが夢のバトンを受け取ってくれるはず。
阿部はそう信じている。

【取材・文 安藤伸一(秋田魁新報社)】

外部リンク

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吉田輝星、地元紙記者が追い続けた進化と成長

2018年12月25日 11:00 秋田魁新報電子版

 12月中旬、秋田市北部の金足農業高校グラウンド。夏の甲子園で有名になった校歌の歌詞のように白く凍った土を踏みしめ、吉田輝星は黙々と走っていた。

 高校生として最後の大会となった10月の福井国体の後も、毎朝6時に起き、7時前に部室に入る。授業前にウエートトレーニングをこなし、放課後は1時間ほどランニングする。短い距離のダッシュを繰り返したり、バッテリーを組んできた菊地亮太を相手にキャッチボールしたりすることもある。

 金農野球部は秋田県下でも猛練習で知られる。学校周辺の田園地帯が雪に埋もれる長い冬も、吉田は長靴を履いて走り続けることで強靱な体を作り上げてきた。年明けの合同自主トレから始まる本格的なプロ生活を見据え、残り少ない高校生活の中でも自らを鍛え抜く。

「ギアチェンジ」の片鱗は中学時代から


 2015年7月、秋田市の八橋球場。吉田は天王中(潟上市)のエースで主将として「全県少年野球大会」に臨んでいた。硬式ボールを使うリトルシニアリーグが盛んではない秋田県にあって、軟式ながら中学ナンバーワンチームを決める重要な大会である。

 天王は部員15人の小所帯だったが、地区大会を勝ち抜き21年ぶりに全県の舞台に立った。大会屈指の速球派右腕との呼び声が高かった吉田と打線がかみ合い、1、2回戦を快勝し準々決勝にコマを進める。

 相手は、春季県大会2回戦で当たり、延長八回(七回制)の末に0―1で敗れた横手南。吉田は「今度こそ自分がゼロに抑えて勝つ」と強い気持ちでマウンドへ向かった。

 試合は吉田と横手南のエースとの白熱した投手戦。0-0のまま延長に突入した。十一回表に天王が1点を先制。2死満塁で打席を迎えた3番・吉田は走者一掃の二塁打を放った。

 「1点取ってくれれば、守り切る自信があった」

 吉田の球威は延長に入っても衰えることなく、横手南から計11三振を奪って完封、春の雪辱を果たした。

 吉田の投球は、この大会を取材した秋田魁新報の佐藤亮真記者(29)に鮮烈な印象を残した。

 「ピンチになればなるほど切れが増すストレート。甲子園で『ギアを上げる』と話題になったが、その片鱗は中学時代からありました」

 もう一つ、佐藤の印象に残っているのは取材に対する吉田の受け答えだ。

 「聞いたことに素直に答えてくれず、短く返事をするだけ。生意気盛りの中学生という感じで、取材はやりにくかったです」

 能代一との準決勝で、吉田は四回のピンチに3点を奪われ、天王は1-3で敗れて決勝進出はならなかった。

 それでも関係者の間では、吉田のストレートが大会を通じて最大の話題となった。高校でどれだけ成長を見せてくれるのか―。周囲の期待を背負い、吉田は父の母校である金足農業高校に進む。

大阪からやってきた強力ライバル


 金農は夏の甲子園で1984年ベスト4、1995年ベスト8という輝かしい成績を誇る。OBには中日で最多勝のタイトルを取った小野和幸、ヤクルトの守護神・石山泰稚らがいる。県内では強豪校の一つに数えられるが、2007年夏以来、甲子園から遠ざかっていた。

 金農にとって11年ぶりの甲子園で、秋田県勢103年ぶりの準優勝という快挙の立役者となった吉田。「県内屈指の好投手」から「高校球界ナンバーワン右腕」へ成長を遂げた背景には、強力な同期のライバルの存在があった。

 明桜(秋田市)からロッテにドラフト4位で指名された山口航輝である。

 隣町にある父の母校に進んだ吉田と対照的に、山口は大阪から「野球留学」で秋田にやってきた。「100回大会で甲子園へ行く。投手でも打者でも秋田で1番になる」と明確な目標を胸に抱いていた。

 2人は1年から公式戦で登板機会を得たが「いいピッチャーだな」とお互いを意識するようになったのは2年になってから。ともに球速140キロを超えるストレートを身に付けていた。夏の秋田大会では、エースで4番として決勝でぶつかった。

 この時は明桜が5―1で勝利した。明桜打線は甘い球を逃さず吉田から10安打を放った。対する山口は抜群の球威で打者をねじ伏せ、五回まで無失点。だが、アクシデントが起きた。

 五回に四球で出塁した山口は、吉田の素早いけん制で思わず右腕から帰塁し、右肩を負傷した。

 「けん制がうまいと聞いていたが、あそこまで速いとは思っていなくて。自分は投手だから、手から戻るなんて普段はしない。たぶんあれが初めて」

 甲子園はライトで出場したが初戦敗退だった。

 一方、2年生エース同士の戦いに敗れた吉田は「本当に悔しかった。あの負けを忘れることはない」と雪辱を誓った。

 冬場のトレーニングはこれまでになく苛酷なものとなった。膝まで埋もれる雪の中、チームメートを背負って走り込みを繰り返した。その成果もあって、腰周りは5センチ増え、翌年夏には105センチとなっていた。

 山口の右肩は、冬を越して3年生になっても完治しなかった。しかし「打者でも秋田で一番になる」という目標は現実になろうとしていた。春の公式戦から本塁打を打ちまくり、長打力と勝負強さは他チームを恐れさせた。

 100回目の甲子園出場校を決める夏の秋田大会。吉田は初戦で自己初の球速150キロをマークし、金農は順調に決勝まで勝ち進んだ。山口は主将で4番としてチームを引っ張り、準決勝は本塁打を含む3安打4打点の活躍で勝利に導いた。

 2年連続で決勝の舞台で相まみえた吉田と山口。

 「打者の山口をイメージして練習してきた。決勝で倒さないとすっきりしない」。吉田はこんな思いを抱いてマウンドへ上がった。

 一回に訪れた最初の勝負。山口は一度もバットを振ることができなかった。それまで吉田の直球を「速いことは速いが、打てない速さではない」と思っていたが、最後の球速145キロに手が出ず、見逃し三振。「気付いたらキャッチャーに来ていた。えげつない球だった」

 2打席目は一飛。3打席目は変化球で空振り三振。金農2点リードで迎えた九回、4度目の勝負が回ってきた。

 打席の中で山口は「これが最後。楽しんで終わろう」。吉田も「最後になりそうな雰囲気」と感じていた。

 渾身のフルスイングで向かっていった山口。2球目はホームラン性の大ファウルになり、球場に歓声とどよめきが入り交じる。2人は笑顔で視線を交わした。

 そして、1ボール2ストライクからの5球目。吉田の変化球に山口のバットが空を切る。「自分らしくはなかったが、勝負の世界なので」と吉田。2―0で金足農が逃げ切り、甲子園出場を決めた。

 吉田は試合後「おまえの分まで頑張るから」と声を掛けた。「負けて悔しいけど、向こうの完全勝利」(山口)、「努力なしではかなわない相手だった」(吉田)とたたえ合った。

 甲子園でも堂々の投球を見せた吉田。強豪横浜との3回戦では「レベルが違う相手」と認めた上で、縦のスライダーを投げた。大舞台で慣れない球種を使う器用さを見せつけたが、実は「山口に1回だけ使った」という球だった。宿敵に対して効果的に使えたという裏付けがあってのものだった。

 2年生の夏、吉田のけん制球をきっかけに右肩を負傷し、マウンドに上がることができなくなった山口は、打者として長打力に磨きをかけ、プロへの道を切り開いた。プロで対戦したい投手を問われると「吉田をまず打ちたい。そこからもっとすごい投手と勝負したい」と対抗心をむき出しにする。2人のライバル物語はプロのステージで続く。


「チームキャプテン」任命、メンタルも成長


 甲子園でスターダムにのし上がった吉田の成長ぶりを、2年続けて秋田の高校野球を取材してきた大久保瑠衣記者(35)はこう見る。

 「体力、技術面で伸びたのはもちろん、メンタル面で成長したことが大きかったと思います」

 2年生エースの昨夏は「俺の力で勝たなくては」という気張りが強過ぎるように思えた。秋に新チームになり、吉田は監督から主将とは別に「チームキャプテン」という役割を与えられた。チーム全体に目配りし、練習では積極的に仲間にアドバイスを送った。

 「仲間を信頼し、試合中に『抜くところは抜く』ことを覚えたのでしょう。昨年は試合終盤にコントロールを乱したとき、バテているのが顔に出ていることもありましたが、今年はそんな場面はみられませんでした」

 進路表明、ドラフト会議、プロ入団発表―。吉田の会見には多くの記者が集まり、新聞・テレビで一挙手一投足が報じられる。質問者の目をまっすぐ見据え、自分の言葉で真摯に答える姿に、中学時代の吉田を取材するのに苦労した佐藤は「人間的にも大きく成長したな」と感じた。

 11月23日、日本ハムの一員となった吉田は、他の新人選手とともにクラーク博士像が立つ札幌市の「さっぽろ羊ケ丘展望台」を訪れた。ここでは誰でも夢を紙に書いて、像の台座のポストに入れることができる。

 「日々進化して日本一の投手になる。野球だけでなく人間としても成長する」

 そう記してポストに投函した吉田。秋田よりも寒い北の大地で、どんな進化と成長を見せてくれるだろうか。

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