俺は人類未踏の「白瀬ルート」で、南極点に立つ男だ!
世界の果て。年間平均気温マイナス50度という極寒の南極点で、漫画「ONE PIECE」のルフィばりのポーズを決めて叫ぶ男の名は阿部雅龍(まさたつ)、36歳。
普段は浅草で人力車を引き、金をためては世界へ冒険に出かけている。
名刺に書いた肩書は「夢を追う男」。
大好きな仮面ライダークウガの主人公をまねて、そう名乗っている。
昨年11月から今年1月にかけて、阿部は南極点への単独徒歩冒険に挑んだ。
日本人未踏の「メスナールート」と呼ばれる約900キロを55日間、ひとり歩き通して南極点にたどり着いた。
その感動も冷めやらぬうち、銀色に輝く南極点モニュメントの横で「次は『白瀬ルート』でここに帰ってくる」と誓いを立てた。
孤独な少年時代、南極に憧れる
阿部は1982年、秋田県秋田市に生まれた。
4歳で父を亡くし、そのときの葬儀の場面が最も古い記憶だ。
父の死後、別れて暮らしていた母に引き取られ、同県潟上市に移り住んだ。
母の家では押し入れの中で本を読み、あまり笑わない子どもだった。
それでも自然の中で遊ぶのは好きだったという。
「幼いころ父を亡くしたから、人の死を身近に感じていたように思う。いつか死ぬ人間が、そのときまでどうやって生きるのか。心のどこかでずっと考えていた」
小学校低学年のころ、その後の人生に影響を与える本に出会った。およそ100年前、人類初の南極点到達をかけて競争を繰り広げたノルウェーのアムンゼン、イギリスのスコット、そして日本の白瀬矗(のぶ)の伝記漫画である。
白瀬は秋田県出身の陸軍中尉。
明治末期の1910年から12年にかけて、日本人として始めて南極を探検した。
探検先進国のライバルたちに比べて性能の劣る船と粗末な装備で南極点一番乗りを目指したものの、あと一歩のところでたどり着くことはできなかった。
自分と同じ秋田に生まれた探検家が人類未到の地に挑んだエピソードは、幼い阿部に強烈な印象を残した。
ベースキャンプに郷土の英雄の名前
2018年11月19日。
阿部を乗せて南米パタゴニア地方を飛び立った飛行機が、南極ユニオン氷河ベースキャンプの氷上滑走路に着陸した。
アムンゼンやスコット、白瀬たちが命がけで探検した時代とは違い、今の南極には観光客も大勢やってくる。
ユニオン氷河のベースキャンプでは、観光客を世話するため100人近いスタッフが働いていた。
阿部のような冒険家は自分が持ってきたテントで寝るが、観光客は耐風性が強く、中にベッドが備えられた快適なテントに泊まる。
各テントには世界の著名な探検家や冒険家の名前が付いていた。
阿部はそれらの中に「SHIRASE」と名付けられたテントを見付けた。
「郷土の英雄、白瀬中尉の業績が世界に評価され、名前が刻まれている。それがとても誇らしかった」
ベースキャンプ到着から4日後、阿部はプロペラ機に乗って単独徒歩冒険の出発点であるロンネ棚氷に移動した。
ここからは完全にひとり旅。
南極点にゴールするまで、人間どころか他の生き物に会うこともない。
南極沿岸にはペンギンやアザラシが生息しているものの、極寒の内陸はウイルスすら生存できない厳しい世界なのだ。
観光客が訪れる南極とはいえ、内陸を冒険するとなれば、ベースキャンプ運営会社による厳格な審査を通る必要がある。
阿部は2014年から3年連続で北極圏を単独徒歩冒険した実績が認められ、そのスタートラインに立つことができた。
大気中の水蒸気が凍り、ダイヤモンドダストとなってきらきら輝く中、歩行用のスキーを履いて真っ白な氷原に踏み出す。
大陸沿岸から南極点までは2500メートルの標高差があり、ほぼ全行程が上り坂だ。
食料や燃料を積み込み、重量100キロを超えたそりを引いて歩くのは重労働だが、憧れの南極にいる幸福感が体を満たして気分は上々だ。
笑って死ねる人生を生きるために
「自然の中で遊ぶのが好きだったけれど、決してやんちゃだったわけではない。あまり明るい性格ではなく、体も弱かった」
子どもの頃の自分について、阿部はこう振り返る。
秋田中央高校から秋田大学に進んだ阿部は空手を習い始め、やがて道場に住み込むほど本気で打ち込むようになった。
体が弱いことやスポーツが苦手なことに対するコンプレックスを克服したかったからだ。
加えて、幼い頃、冒険に憧れていたことを思い出し「世界を旅して回るには強い体を手に入れなくては」とも考えた。
卒業後の進路を考えなくてはいけなくなった大学3年の終わり、冒険への思いを胸に秘めながら、就職すべきかどうか悩んだ。
その答えを探そうと、インターネットで世界の冒険家たちの記事を探していると、ある言葉に行き当たった。
「笑って死ねる人生を生きるために冒険をしている」
北極と南極を単独で徒歩横断した日本人冒険家・大場満郎は「なぜ冒険をするのか」という質問にそう答えていた。
阿部の背中に衝撃が走った。
「いつか俺も死ぬときが来る。このまま冒険の夢を追わずに就職してしまったら、笑って死ねるはずがない」
すぐに大学に休学届を出し、山形県最上町で大場が営む冒険学校に飛び込んだ。スタッフとして働きながら山で体を鍛え、大場の言葉に耳を傾ける日々。
冒険学校で7カ月間過ごした後、人生最初の冒険を南米大陸自転車縦断に決めた。
2005年5月、エクアドルの首都キトを自転車で出発。いったん北上し、赤道をまたいでから反転、ひたすら南下する。
冒険の過程を多くの人に伝えようと道中でつづったブログは、テレビ番組で紹介され評判となった。
06年2月、パタゴニア地方のウシュアイア(アルゼンチン)にゴール。約300日間、1万キロの道のりを駆け抜けた。
パタゴニアは船や飛行機で南極へ向かう際の出発地でもある。
「俺はいつかここに帰ってくる。そのときは南極冒険だ」
食べた者は必ずパタゴニアに帰るという言い伝えがある、カラファテという植物の実をかじりながら、阿部はひそかに誓った。
異常な降雪、行く手を阻む
南極点を目指し、意気揚々とロンネ棚氷を出発した阿部。
しばらくの間は順調に歩行距離を伸ばしていた。
異変を感じたのは7日目。
ブリザードが吹き荒れるのは想定内だが、ドカ雪が一緒に降るのには面食らった。
南極は気温こそ低いものの、降水量は極端に少なく「白い砂漠」と呼ばれることもあるくらいなのだ。
それなのに、夜中に起きて雪かきをしなければテントが潰れそうになるくらい降り続ける。
ドカ雪は何日も降り続き、ベースキャンプにいる気象の専門家は衛星携帯電話で「この雪の降り方は異常」と伝えてきた。
雪に埋もれたそりはずしりと重く、肩と腰に装着したハーネスがきつく食い込む。
全力で引いてもちっとも進まないどころか、そりの重さに負けて前のめりに転ぶ始末。
顔中雪まみれになりながら、何度も唇をかむ。
スタートから21日目にはそりが雪に完全に埋まり、1時間に800メートルしか進めないほどペースは落ちた。
思うように前に進めぬ日々。
到達距離は予定から遅れていく。
40日でゴールする計画で、10日間の予備を含め50日分の食料を積んで出発した。
どんなに時間がかかっても50日でゴールできる自信があったが、それも怪しくなってきた。
距離は稼げなくても、日々食料は減っていく。
極寒の世界では高カロリーの食料を摂取し続けなくては生きられない。
阿部は全行程をひとりで行動し、途中で食料や燃料の補給を受けない「単独無補給」という最も難易度の高い冒険スタイルで南極点に到達することを公言していた。
それがプレッシャーとなって心に重くのしかかる。
31日目、スタートから350キロ地点にあるチェックポイントに到着した。
予定では20日かからないはずだった。
ここにはベースキャンプ運営会社が管理する食料庫がある。
南極点まであと550キロ。
このままドカ雪が続けば、途中で手持ちの食料は尽きるだろう。
一方、食料を補給すれば南極点到達の可能性は高まるが、「無補給冒険」というタイトルを手にすることはできない。
食料を補給すべきか否か。
阿部は難しい決断を迫られた。
ロッキー大縦走が教えてくれたもの
南米大陸自転車縦断を終えた阿部は、秋田大に復学して2008年に卒業。
東京に出て浅草の人力車夫となった。
「人力車を引くことはそのままトレーニングになるし、海外の人たちと付き合うのに必要な日本文化の知識を学べる。自分に欠けていたコミュニケーション能力を磨くこともできる。冒険を続ける上で最適な仕事だと思う」
下町風情が残る浅草を、観光客を乗せてさっそうと走る日々を過ごしながら、阿部は次の冒険の目標を北米ロッキー山脈縦走に定めた。
アメリカのカナダ側国境からメキシコ側国境まで続く4200キロの大陸分水嶺。
そこを歩ききった日本人はまだいなかった。
「日本人初というタイトルを手に入れるチャンスだ」
2010年6月、阿部はカナダとアメリカの国境からロッキー山脈を南下し始めた。
標高1200メートルから4350メートルまで上り下りを繰り返し、巨大グマ・グリズリーを警戒しながらキャンプする日々。
ルート全体の7割は道らしきものが見えるが、残り3割は踏み跡さえ分からず、地図とコンパスで自分の進むべき方向を確かめる。
4カ月以上、ロッキーの稜線を歩き続け、ゴールが近づいたニューメキシコ州で、阿部はある日本人男性に出会った。
男性はこの年、阿部と同じくアメリカ側のロッキー山脈縦走に挑み、既にゴールして車で引き返す途中だったのだ。
あと一歩のところで「日本人初」のタイトルを手に入れられなかった阿部。
失意のうちに残りの山道を歩き、147日間の縦走を終えた。
翌2011年、阿部は再び「日本人初」を狙い、今度はロッキー山脈のカナダ側の1100キロ縦走に挑戦した。
ところが途中で出会ったカナダ人から、過去に日本人の妻と一緒にそのルートを踏破していたことを聞かされる。
日本人女性の踏破は記録に残っていなかったが、知ってしまったからには阿部が「日本人初」と誇るわけにはいかない。
阿部は結局、カナダ側のロッキーを42日間で歩ききった。
「日本人で初めて、アメリカとカナダの両側のロッキーを完全踏破した」とも言えるが、そんなことにこだわっていても仕方ないように思えてきた。
「もともと何かタイトルが欲しくて冒険を始めたわけじゃない。自分がやりたいことに挑戦し、人に伝える。それこそが俺の冒険だ」
足かけ2年にわたるロッキー大縦走を経て、阿部は自分の冒険の原点を見つめ直した。
「無補給」断念 今なすべきことは…
南極点まであと550キロ地点にある食料庫を目の前にして、阿部はなぜ自分が南極点を目指すのかを思い起こしていた。
「白瀬中尉の未完の夢を自分が受け継ぎ、完成させること。それが最大の目標だ」
白瀬の最終到達地・南極ロス棚氷の「大和雪原」へ行き、そこから人類未到のルートを進んで南極点に到達する。
そのルートを阿部は「白瀬ルート」と呼んでいる。
白瀬と同じ秋田で生まれた自分がルートを完成させることに意義がある。
今回歩いているメスナールートは、あくまでも白瀬ルートへのステップだ。
白瀬ルートの起点はベースキャンプから遠く離れているため、飛行機のチャーター代だけで1億円を超える資金が必要になる。
今の阿部に工面できる金額ではない。
今回、日本人未踏のメスナールートを選んだのは、スポンサーを納得させるだけの実績をつくるのが狙いだった。
だからこそ、最低でも南極点まで歩いて行けることを証明しなくてはならない。
阿部は食料を補給し、確実に南極点に到達することを選んだ。
「無補給というタイトルに固執している場合じゃない。今なすべきことは、何が何でもゴールすること。必ず行くぞ、南極点!」
皮肉なことに、食料を補給してからドカ雪はやみ、順調に距離を稼ぐことができるようになった。
その代わり寒波が来た。
気温マイナス30度、風を考慮すれば体感気温マイナス40度にまで冷え込んだ1月初旬、左頬にどす黒い凍傷ができた。
スタートから40日余りが過ぎ、標高2500メートルを越えると、氷原に無数のクレバスが走っている危険地帯に入った。
クレバスとは氷にできた深い裂け目のこと。
単独行動で落ちてしまったら、命はまず助からない。
雪にかくれたクレバスに落ちないよう、細心の注意を払いながら通り抜ける。
北極の凍てつく海に落ちる
ロッキー大縦走後の2012年、阿部は南米アマゾン川2000キロを自作のいかだで下る冒険を行った。
恩師の大場満郎や日本を代表する冒険家の故植村直己も、それぞれ極地やエベレストへ向かう前にアマゾン下りをやっている。
「偉大な先人が見たこと、感じたことを自分も体験したかった」
2014年には、南極冒険を実現するための本格的な準備に入った。
極地の寒さに体を慣らし、徒歩で氷原を冒険する技術を身につけるため、3年連続で北極圏へ通うことにした。
1年目と2年目はカナダ北極圏の計1250キロを単独踏破。
3年目の2016年は、デンマーク領グリーンランド北極圏へ向かった。
北極は近年、地球温暖化などの影響で海氷の面積が縮小し、徒歩で冒険するのが難しくなっている。
3月3日に世界最北の村・シオラパルクを出発した阿部も、例年より早く解け始めた海氷上でしばしば身の危険を感じていた。
出発から22日目。
スキーを履いて歩いていた阿部の足元の氷が割れ、海に落ちてしまった。
昼でも気温マイナス20度の北極で海に落ちるのは、生命の危機を意味する。
阿部はこのピンチにも冷静に行動できた。
自分と一緒に落ち、近くを漂っていたそりにはい上がって凍てつく海を脱出。
低体温症から体を回復させるため、安定した氷の上で2時間マラソンした。
翌朝、自ら衛星携帯電話で呼んだヘリに救助され、病院に運ばれた。
10日ほど静養した後、再び氷の世界に戻って冒険を続けた。
「人生でうまくいかないことはある。そんなとき、どう行動するか。今できることを必死でやらなければ、その先の大きな目標には届かない」
5月24日まで、計750キロを踏破してこの年の冒険を終えた。
翌2017年、阿部は体力強化と南極冒険実現への願掛けのため、人力車を引いて鹿児島から秋田まで約6000キロを縦断した。
そして2018年。
企業スポンサーからの支援やクラウドファンディング、人力車の稼ぎ、カンパパーティーとあらゆる手段を使って1500万円の資金を集め、阿部は初めての南極冒険へ旅立った。
世界の果て、再訪を誓う
恐怖のクレバス帯を通り抜けると、ゴールはぐっと近づいてきた。
ベースキャンプから、阿部の衛星携帯電話に「南極点へ徒歩で向かった8人の冒険家のうち5人がリタイアした」と情報が入った。
南極冒険に挑戦できるのは実績のある冒険家だけなので、例年成功率は高い。
今シーズンは、それだけ雪の多い悪条件だったといえる。
1月16日(日本時間17日)、冒険前半のドカ雪がうそのように晴れ渡った青空の下、阿部は南極点にゴールした。
銀色に輝くモニュメントの横で、日本国旗や秋田県旗、それに南十字星を描いた白瀬南極探検隊の旗を掲げてフォトセッション。
傍らには、冒険中の孤独を慰めてくれたペットロボット「aibo(アイボ)」がいる。
南極点から1キロほど離れたキャンプに移動すると、スタッフが「アムンゼン・スコット基地(米国の南極点基地)へ見学に行きますよね?」と聞いてきたが、阿部は断った。
「なぜ? こんなチャンスは人生で2度とありませんよ」と言うので、こう答えた。
「俺に限っては2度目があるさ。次は白瀬ルートで南極点に帰ってくるのだから」
「無補給冒険」を達成できなかったが、阿部に後悔はなかった。
今回、ドカ雪に苦しめられたのは、次に白瀬ルートの冒険を実現するために、自分に課された試練だったのだと思えた。
みちのくの青空の下で
2019年6月。
阿部は人力車を引きながら岩手、宮城、福島と東北を南下していた。
4月28日に故郷の秋田を出発し、2カ月かけて東北を1周する旅。
白瀬ルートで南極へ行くための体力強化を図りながら、自分が生まれ育った東北を見つめ直す。
白瀬ルートの南極冒険に向けて、10月に日本を旅立つつもりだ。
極地に通い続け、寒さには十分慣れたし、36歳の今なら体力もピークにある。
必要な資金1億円のうち、半分ほどは調達できるめどがたった。
昨年は1500万円を集めるのにも必死だったが、異常な降雪の中で南極点にたどり着いたことで冒険家としての評価が高まり、資金集めにもつながっている。
白瀬の夢を継ぐための冒険が近づいている。
「人の夢は100年たっても残り、それを受け継ぐ者が現れる。白瀬中尉の夢を完成させることは、俺の夢でもあるんだ」
自分も必死に夢を追い続ければ、100年後の誰かが夢のバトンを受け取ってくれるはず。
阿部はそう信じている。
【取材・文 安藤伸一(秋田魁新報社)】