ピンク・フロイドによる前人未到のヒット作『狂気』(原題:Dark Side of the Moon)。幻に終わったポール・マッカートニーのゲスト参加、シルヴァー・サーファーのジャケットなど、1973年発表の一大サイケデリック叙事詩にまつわる秘話の数々を紹介。
ヒット作と呼ばれるアルバムは数あれど、ピンク・フロイドの『狂気』は別格だ。色褪せることのない珠玉の名曲揃いの同作は、1973年3月1日に発売されて以来アメリカだけで1500万枚、全世界で合計4500万枚以上を売り上げている。まさにクラシック中のクラシックである本作は、ベース/ヴォーカルのロジャー・ウォーターズ、ギター/ヴォーカルのデヴィッド・ギルモア、キーボード/ヴォーカルのリック・ライト、そしてドラマーのニック・メイソンの4人に莫大な富をもたらし、Billboard 200において937週間ランクインという前人未到の記録を生み出した。
『狂気』はとてつもない商業的成功を収めただけでなく、4人の英国人男性からなるバンドの代表作となった。かつてはジャムを基本とした実験的なプログレバンドであり、主に大学生や様々な「ヘッズ」をファンベースとしていた彼らは、同作によって優れたソングライティングとウォーターズの辛辣な世界観を武器とするロックの最高峰バンドへと進化した。1972年5月から1973年1月にかけて、ロンドンのアビーロード・スタジオで断続的にレコーディングされ、大脳を刺激するようなランドスケープ(アビーロードの専属エンジニアであるアラン・パーソンズのレコーディング技術と、ミキシングにおけるベテランプロデューサーのクリス・トーマスの貢献が大きい)、そして人間の内面を深く掘り下げる歌詞を魅力とする同作は、明かりを消した部屋でヘッドフォンで聴くようなケースだけでなく、FM(およびAM)ラジオでも力強く響いた。
しかし何より特筆すべきなのは、それが真摯なメッセージを宿したレコードであるという点だ。『狂気』の当初はコンセプトは、ミュージシャンとしての人生に伴う重圧について歌った曲のコレクションというものだったが、結果的には富(「マネー」)や紛争(「アス・アンド・ゼム」)、狂気(「狂人は心に」)、浪費される人生(「タイム」)、そして死(「虚空のスキャット」)など、多様なテーマを持ったアルバムとなった。2011年に行われた本誌の取材で、ウォーターズは次のように語っている。「『狂気』は真摯なテーマと誠実なメッセージを宿した(ピンク・フロイドとしての)初のレコードだ」。レディオヘッドやフレーミング・リップス(どちらも『狂気』から多大な影響を受けている)が証明しているように、同作の音楽と歌詞の美しさは今でも色褪せていない。
あなたが知らないかもしれない、『狂気』についての10の事実を紹介する。
1.『狂気』は初めてロジャー・ウォーターズが全ての歌詞を手がけたピンク・フロイドのレコードである
1968年作『神秘』以降、バンドのベーシストであるロジャー・ウォーターズは歌詞の面でピンク・フロイドの作品に貢献し続けていたが(彼は1967年発表のデビューアルバム『夜明けの口笛吹き』におけるインスト曲「パウ・R・トック・H 」「星空のドライブ」でも共同作曲者としてクレジットされている)、『狂気』では初めて全編の歌詞を単独で手がけている(以降そのケースは何度も繰り返されることになる)。コンセプトに基づいて一貫性を持たせるだけでなく、ウォーターズは『狂気』の歌詞をバンド史上最も明快でストレートなものにしようと決めていた。
「バンドにおいて、私は以前からそのことを強く主張し続けていた」Mark Blake著『Comfortably Numb – The Inside Story of Pink Floyd』内で、ウォーターズはそう話している。「宇宙の境界線だとか、そういうシド・バレット(バンドの最初のリーダーであり、『夜明けの口笛吹き』の曲の大半を手がけている)が入れ込んでいた奇妙な世界観や政治的で哲学的なものに、私は必死で反発していた」
『狂気』の歌詞の全編をウォーターズが手がけたことは、後にエスカレートする他のメンバーとの対立の火種となるものの、当初それは歓迎された。「私は自分の作詞能力を決して高く評価していなかったし、ロジャーはずっとやりたがっていた」ギルモアは2011年に本誌にそう語っている。「彼が全編の歌詞を担当することになって、私は安堵したくらいだ。しかし、それによって彼がバンドの主導権を握ることになったとしても、作曲面までもが彼に一任されるわけじゃない。その点において、私たちは長く対立することになった」
2. アルバムのタイトルは『Eclipse』でほぼ確定していた
制作に着手した当初から、バンドはそのアルバムを『Dark Side of the Moon』(宇宙というテーマとは対極的だった)と名付けることを決めていたが、1972年にイギリスのヘヴィなブルースロッカーのメディスン・ヘッドが同名のアルバムをリリースしたことを受け、彼らはタイトルを『Eclipse』に変更しようとした。「メディスン・ヘッドの連中に腹を立てたりはしなかった」ギルモアはSound誌にそう語っている。「彼らのアルバムが出る前に、私たちはあのタイトルを思い付いていただけに悔しかったけどね」。しかしメディスン・ヘッドのアルバムがあまり注目されなかったため、ピンク・フロイドはタイトルの変更は必要ないと判断した。
3. 『狂気』がリリースされる1年以上前に、バンドは同作の曲をコンサートで披露していた
リッチなテクスチャーとスペーシーなアレンジが魅力の『狂気』は純粋な「スタジオ」プロジェクトのように思えるが、バンドはアルバムが発表される1年以上前に、コンサートの場で全曲を収録順通りに演奏している。同作からの曲が初披露されたコンサート『Dark Side of the Moon: A Piece for Assorted Lunatics』(当初はこれが正式なタイトルになる予定だった)は、1972年1月20日にBrighton Domeで行われた。当日のショーは思いがけず中断してしまったものの(ウォーターズは「極めて深刻な機材トラブル」が理由だったとしている)、バンドは1972年に行ったその他の公演でもアルバムを丸ごと再現しており、楽曲(および曲間のトランジション)に磨きをかけていった。結果的にバンドは、アルバムに収録される10曲全てをアビーロード・スタジオの16トラック・マスターテープの同一リールに録音した。その風変わりなアプローチにも関わらず、同作は途方もない成功を収めることになる。
「曲と曲のトランジションは、あの作品において極めて重要な要素となっている」アラン・パーソンズは2011年に本誌にそう語っている。「だからこそ私たちは、それをミキシングの過程ではなく、あくまでレコーディングプロセスの中で生み出すことにこだわった」
4. 「走り回って」の当初のライブアレンジは、エレクトロニクスを多用した音源バージョンとは完全に別物だった
『狂気』の全曲は1972年の時点で既にステージで披露されていたが、スタジオ作業で最も劇的な変化を遂げたのは「走り回って」だった。「The Travel Sequence」という仮タイトルが付けられていたそのインスト曲は、当初はギターを軸としたジャム調の曲だった。しかしポータブルなモジュラーアナログシンセのEMS Synthi AKSが登場したことで、同曲にはエレクトロニクスを多用したアレンジが施されることになる。スーツケース型の筐体の中にキーボードとシーケンサーが組み込まれていたそのシンセサイザー(皮肉なことに、同曲はウォーターズの飛行機に対する恐怖心から生まれた曲である)は、同じく『狂気』に収録されている「望みの色を」でも使用されている。「あの機材の可能性は無限大だった」ギルモアは本誌にそう語っている。「私たちは常に、自分たちの音楽にエレクトロニックな要素を見出していた。3次元的に響くサウンドを、私は常に探し求めていたんだ」
5.「マネー」はブッカー・T&ザ・MGsの影響を受けている
ピンク・フロイドにとって初の全米TOP20ヒットとなった「マネー」(1973年7月のBillboard Hot 100で13位を記録)は、『狂気』の中で最もロックでアグレッシブな曲だ。トリッキーな7/4拍子(ギターソロの部分だけは4/4拍子に変わる)、ウォーターズによる印象的なベースリフ、ギルモアのむせび泣くギター、ディック・パリーによる突風のようなサックス、そしてレジの開閉音と硬貨の摩擦音のコラージュループを特徴とするこの曲は、メンフィス産R&B界の巨匠ブッカー・T&ザ・MGsにインスパイアされているという。一見そうは思えなくとも、彼らからの影響は顕著だとギルモアは話している。
「何にどう影響されたのかを具体的に説明するのは難しいんだ」彼は2003年に本誌にそう語っている。「私はブッカー・Tの大ファンだった。10代の時に『グリーン・オニオン』を買ったんだ。2〜3年続けた前のバンドではビートルズやビーチ・ボーイズの他に、Staxのソウル系アクトの曲を演奏していた。「グリーン・オニオン」もステージでプレイしたことがあるよ。私はそういう経験をたくさんしていたから、自分が受けた影響をストレートすぎない形でバンドのサウンドに反映させることができたんだ。うまくいったと自分では思っているよ。建築を学ぶ白人のイギリス人の学生がファンクをやるっていうのは変かもしれないけどね、実際それほどファンキーでもないしさ(笑)」
6. ポール・マッカートニーのインタビュー音源はボツにされたが、アルバムにはビートルズの曲がひっそりと登場している
『狂気』の楽曲の結びつきをより強化する目的で、ロジャー・ウォーターズはアビーロード・スタジオの従業員やツアークルー、その他スタジオで働く様々なスタッフにインタビューを行うことを思いついた。他愛のないトピック(好きな色や食べ物など)やシリアスなテーマ(狂気や死について)を含む質問に答えてもらい、そのインタビュー音源の一部をファイナルミックスに挿入するというのが彼のアイディアだった。当時アビーロードでウイングスのアルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』の仕上げに取り組んでいたポール・マッカートニーもインタビューに応じたが、ウォーターズは彼の回答は使えないと判断した。「回答者の中で唯一、彼は『演じる』必要を感じたようだった。言うまでもなく、それだと無意味だったんだ」ウォーターズはピンク・フロイドの伝記作家John Harrisにそう語っている。「彼が『愉快』であろうとしたことは興味深かったけど、それは私たちが求めていたものではなかった」
しかしなお、マッカートニー(の音楽)はアルバムにわずかに貢献している。アルバムの最終曲「狂気日食」の終盤の部分をよく聴いてみると、ビートルズの「涙の乗車券」のオーケストラバージョンのパッセージが流れているのがわかる。アビーロード・スタジオのドアマンGerry ODriscoll(彼はこの時に次のような名言を残している。「実のところ、月に暗黒面なんていうものは存在しない。あらゆる面が闇だからだ。太陽が月を照らしているに過ぎないのさ」)のインタビューを録音していた際に、スタジオ内で流れていた同曲の音をマイクが拾ってしまったのだ。
7. 「アス・アンド・ゼム」は映画『砂丘』のサウンドトラックへの収録が見送られた曲が元になっている
『狂気』からの2枚目にして最後のシングル(1曲めは「マネー」だった)となった「アス・アンド・ゼム」は、アメリカとカナダでマイナーヒットを記録した。同曲は1969年にライトとウォーターズが書いたピアノとベースのみのインスト曲が元になっており、当初「The Violent Sequence」と題されていた同曲は、ミケランジェロ・アントニオーニによるカウンターカルチャーをテーマとした映画『砂丘』のサウンドトラックのために制作された。イタリア映画界の巨匠は同作に、ピンク・フロイドの「若者の鼓動」「崩れゆく大地」「51号の幻想」の3曲を収録したものの、「The Violent Sequence」は映画に合わないとして採用しなかった。『Classic Albums: The Making of Dark Side of the Moon』でのインタビューで、ウォーターズはこう語っている。「アントニオーニにこう言われたんだ。『美しい曲だが、物悲しすぎる。教会を思わせるんだ』ってね」。それから2年以上が経ってから、バンドは同曲を戦争と貧困をテーマにした感動的な瞑想録へと昇華させた。
8. アルバムのジャケットとして『シルヴァー・サーファー』のイラストが候補に上がっていた
イギリスのグラフィックデザイナーであるジョージ・ハーディが、ヒプノシスのストーム・ソーガソンとオーブリー・パウエルによる助言を得て生み出した、光をマルチカラーへと変えるプリズムを描いた『狂気』のカバーは、音楽史上屈指の名デザインとして知られている。「ストームからいくつかアイディアを見せてもらって、私たちは迷うことなくあれを選んだ」ギルモアは2003年に本誌にそう語っている。「『これしかない』というくらいピンときた。とても美しいカバーだと思う。初見のインパクトだけでなく、商業的な面でも優れたアイディアだと感じたんだ。荒涼としたシンプルなデザインは、店頭でも客の目を引くだろうと思った。どこかの田舎町で野郎4人がはしゃいでいるような写真はまっぴらだったからね」
今となっては他のカバーなど想像もできないが、驚くべきことにヒプノシスが提示した当初のアイディアの中には、コミック『シルヴァー・サーファー』のキャラクターのイラストが含まれていた。「私たちは皆マーベル・コミックスのファンで、シルヴァー・サーファーも大好きだった」パウエルはJohn Harrisとのインタビューでそう語っている。「許可は降りなかっただろうけどね。でも私たちは、全身シルヴァーの男が銀のサーフボードに乗って宇宙を駆け巡るという画が気に入ってた。とても神秘的で好奇心をくすぐられるし、ものすごくコズミックだからね」
9. 『狂気』はピンク・フロイドにとって初の全米Top 40入りを果たしたアルバムだった
『狂気』はマルチプラチナムを達成し、バンドの以降のスタジオアルバムもアメリカで優れたセールスを記録したが、『狂気』以前の7作に対するアメリカでの反響は乏しかった。『狂気』以前の作品で最も成功したのは、フランス映画『La Vallée』のサウンドトラックとして発表された『雲の影』であり、同作は1972年の夏にBillboard 200で46位を記録している。しかしCapitol Recordsの強力なプッシュと、全米のラジオ局のDJたちが「マネー」を頻繁にプレイしたことで、『狂気』は発売から2カ月経たずしてBillboard 200の頂点に上り詰めた。
「あのアルバムはアメリカのチャートを急速に駆け上がった」ウォーターズは2003年に本誌にそう語っている。「その頃、私たちは全米ツアーの最中だった。あのレコードが大きな成果を上げることは目に見えてたよ。特にAMとFMラジオで『マネー』が頻繁に流れるようになってからは、それが確信に変わった」
10. アルバムの売り上げの一部は『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の制作費にあてられた
『狂気』はポップカルチャーにおけるランドマークとなっただけでなく、1975年発表の名作コメディ映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の誕生に貢献している。ピンク・フロイドのメンバーたちは『狂気』の制作期間中、気分転換としてBBC2で放送されていた『空飛ぶモンティ・パイソン』をよく観ていた。同番組のチームが初の長編映画制作のための資金繰りに苦戦しているという話を耳にすると、『狂気』の成功によって莫大な金を手にしていたバンドのメンバーたちは、当初の制作資金20万ポンドの10分の1を負担することを申し出た。
「スタジオ側からとやかく言われることはなかった。何しろそんなものは存在しなかったからね。誰も金を出そうとしなかったんだ」同映画の監督を務めたテリー・ギリアムは、2002年にガーディアン紙にそう語っている。「(イギリスの)所得税が90%に達しようとしていた当時、私たちはロックスターたちに経済援助を申し出ることにした。エルトン・ジョン、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン等はみんな金を持ってたし、私たちの作品への投資は経費の使い道として妥当だと考えた。まぁ、その考えは間違ってたわけだけどね。まるで『ザ・プロデューサーズ』のシナリオみたいだったよ」