なぜ女性差別をめぐる論争はたびたび炎上するのか。性問題の解決に取り組んでいるホワイトハンズ代表理事の坂爪真吾氏は、「多くの問題は、原因をジェンダーに還元するだけでは解けない。しかし『ツイフェミ』と呼ばれる動きは、すべてをジェンダーに還元するため、『被害者/加害者』という二元論に陥っている」という――。
※本稿は、坂爪真吾『「許せない」がやめられない』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
「明らかな味方」を執拗に叩く心理
ここ最近、「ツイッターフェミニズム」(ツイフェミ)と呼ばれる動きが一部で広がっている。一見すると、ツイフェミはミサンドリー(男性嫌悪)によって突き動かされているように思える。だが、ツイフェミ=ミサンドリストという理解は、決して正確ではない。
ツイフェミの言動が過激化する背景には、「男が許せない」という怒りに加えて、もう一つの大きな怒りが存在する。
ツイフェミが攻撃するのは、女性嫌悪に満ちた男性だけではない。女性嫌悪に染まっておらず、フェミニズムに対して理解を示すリベラルな男性たちもまた、彼女たちの攻撃対象になる。女性への性暴力に反対するデモやイベントに来た男性に対して、主催者が「男性の方もこんなに来てくださった」「賛同してくださる素敵な男性もいらっしゃった」と感謝の意を述べると、「少しでもまともな男に出会った時に感謝する癖は見直すべき」「被災者がボランティアの接待をさせられているのと一緒だ」といった批判が飛び交う。
フェミニズムから派生した学問であり、男性に対して「男らしさの呪縛を解き、女性とお互いを尊重する対等な関係を築こう」という視点から啓発活動を行っている男性学も、一部のツイフェミからは「男性がフェミニズムの言葉を簒奪して自己弁護をしているだけ」と、親の仇(かたき)のごとく敵視されている。
なぜ彼女たちは、女性を搾取するヤクザやホスト、DV夫といった「明らかな敵」ではなく、「明らかな味方」=自分の身近にいる、フェミニズムに理解を示すリベラル男子たちを執拗に叩くのだろうか。
リベラル男子はツイフェミの言葉を理解・共有できてしまう
最大の理由は「自分たちの攻撃が最も通じる相手だから」である。「何でも斬れる刀」としてのフェミニズムは、基本的に近距離戦でしか使えない。フェミニズムの理論は独特の言い回しや専門用語に満ちているので、使い道を間違えると、同じ文脈や言説空間を共有している人(=フェミニスト!)にしか届かなくなる。
そのため、フェミニズムに親和的なリベラル男子は、ツイフェミの言葉を理解・共有できてしまうがゆえに、最もツイフェミからの被害に遭いやすい。
2020年4月22日、馳浩元文部科学大臣を含めた国会議員らが、一般社団法人Colaboが虐待や性暴力で居場所を失った少女たちのために運営しているカフェを視察した際、10代の少女に対するセクハラ行為があったとして、同法人代表の仁藤夢乃(@colabo_yumeno)は、参加した議員ら全員に文書で謝罪することを求めた。
この事件はツイフェミの間で大規模な炎上を巻き起こし、安倍晋三首相は同月29日の参院予算委員会で、馳元文部科学相を厳重注意する意向を示した。
女性支援に取り組んでいる男性の政治家や社会起業家、ジェンダー平等を目指した政策提言や署名キャンペーンを行う男性の社会活動家やジャーナリストは、ツイフェミにとって格好のターゲットだ。
彼らの言動や事業の一部を恣意的に切り取って、「差別に無自覚」「儲け主義」「自己顕示欲を満たすために、女性を利用している」といったレッテルを貼って炎上させる。
燃え盛るタイムラインを眺めながら、「コスト優先で人権感覚のない人たちの運動って、やはりこういうことだよね」「化けの皮が剥がれたよね」とうなずき合うことが、彼女たちにとって至福の時間になる。
実はフェミニズムそのものが最も許せない
しかし、ツイフェミが最も激しく攻撃するのは、女性差別に無自覚な男性でもなければ、リベラル男子でもない。フェミニズムそのものである。
ツイフェミが抱く「フェミニズムが許せない」という怒りは、「男が許せない」という怒りと同様、あるいはそれ以上に激しく燃え上がる傾向がある。
著名なフェミニストによる記事がウェブ上でアップされると、待ってましたとばかりに、すぐに発言の一部を切り取ってSNS上で拡散させ、「この発言は、○○への明らかな差別だ!」「こんな人がフェミニストと名乗るなんて、絶対に許せない」と一気に怒りをヒートアップさせる。
普段は「女性はこうあるべき」という性規範を否定的に捉えているにもかかわらず、「フェミニストはこうあるべき」という規範にがんじがらめになってしまい、その規範から1ミリでもはみ出した言動をする人が許せなくなる。
ポルノや性産業を批判しない者は、フェミニストではない。女性の客体化を批判しない者は、フェミニストではない。男性の性的なまなざしに迎合する者は、フェミニストではない。性暴力被害者の声に共感しない者は、フェミニストではない……などなど。
そして、「誰が本当のフェミニストか」という問い=「何でも斬れる刀」の正当な使用権や相続権をめぐって、フェミニスト同士で壮絶な斬り合いを演じるようになる。
成功したフェミニストに対するコンプレックス
ツイフェミ化した中高年女性のアカウントの中には、フェミニズムや社会運動の世界で主流派になれなかった人が少なくない。修士課程や博士課程で中退・挫折した人、アカデミックポストを得られなかった人、社会活動や労働組合、当事者団体の運営に失敗したと公言している人が散見される(※1)。
※1…大阪大学大学院出身の栗田隆子(@kuriryuofficial)は、刊行直前まで生活保護を受給しながら書き上げた『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社)の中で、非常勤職や派遣社員などをしながら関わっていた労働運動での挫折体験を綴っている。
学問的・社会的に成功したフェミニストに対するコンプレックス、そして「自分こそが本当のフェミニストである」という矜持、それにもかかわらず、フェミニストの業界内部で冷遇されていることへの不満が垣間見える。
そうした不満を原動力にして、お互いの主張の是非、そして誰が本当の「フェミニスト」「被害者」「加害者」「弱者」なのかをめぐって、あるいはマイノリティ同士でそうした議論をすること自体がマジョリティによって仕組まれた分断の罠であると主張して、業界・団体内部での批判合戦や小競り合いを繰り返している。
フェミニストのイメージを押し付けられるのは嫌
ツイフェミの主張が第三者から見て分かりにくいのは、ツイフェミがフェミニストの内部抗争の過程で生み出された罵倒語(「弱者萌え」「有徴化」「貧困ポルノ」など)を多用しているからだ。
フェミニストであると自称している一方で、第三者から「怒りっぽく、性的な表現が大嫌いで、男を憎み、常に被害者意識で頭がいっぱいの女」という通俗的なフェミニストのイメージを押し付けられると、烈火のごとく怒り狂う。
そうした通俗的なフェミニストとは異なる「バッド・フェミニスト(※2)」であることを宣言しつつも、客観的に見れば、「怒りっぽく、性的な表現が大嫌いで、男を憎み、常に被害者意識で頭がいっぱいの女」にしか見えないツイートを熱心に繰り返している……という屈折がある。
※2…一般的に想定されているフェミニズムの主流から外れてしまうような関心・個人的資質・意見を持っており、これまでのフェミニズムに対して批判的な意識を持っているけれど、それでもフェミニズムの可能性を信じ、意識的にフェミニストと名乗る人を指す言葉。[ロクサーヌ・ゲイ2017]
特定のイデオロギーに基づいた用語や理論を通してしか、目の前で起こっている事象を解釈できない彼女たちは、長年の味方や仲間に対しても、わずかでも意見の異なる場面が生じると、「セクシスト」「名誉男性」というレッテルを貼って、手のひらを返したように攻撃を開始する。
謎の使命感に駆られて仲間同士で中傷し合う
「異端は異教より憎し」という格言がある。思想や宗教の領域では、自分と主義主張が似ているが、考えが徹底されていない(ように見える)人のことを嫌う「同族嫌悪」が生じる傾向がある。
「批判しづらい相手こそ、きちんと批判しなければ」「ここで闘わなければ、フェミニズムは壊れる」という謎の使命感に駆られて、仲間同士での凄惨な叩き合いや中傷合戦を繰り返す。
意見の異なる「敵」に対する暴力の正当化は、「運動内部の敵」=仲間に対する暴力行使へと容易に結びつく。そして、暴力の正当化によって獲得された秩序は、その維持に再び暴力を要求する。
内部抗争を繰り返す過程で、被害者は去り、加害者は残り続ける。被害者視点が失われ、加害者視点だけが濃縮還元されるため、内部で起こった問題は半永久的に表面化しない。
ツイフェミ思想の源泉は130年以上前にまで遡る
こうした「フェミニズムが許せない」というツイフェミの怒りには、思想的・歴史的な背景がある。
ツイフェミと呼ばれる女性たちの動きが活発化したのは、文字通りツイッターが普及した2010年代以降のことであるが、歴史的に見ると、ツイフェミを駆り立てる思想の源泉は、130年以上前にまで遡る。
2019年3月、性暴力に対する無罪判決が相次いだことを契機に、全国各地で性暴力に抗議し、被害者の痛みを分かち合おうと花を手に集まるフラワーデモ(@_flowerdemo)が行われるようになった。
フラワーデモの呼びかけ人である作家の北原みのり(@minorikitahara)は、2017年に『日本のフェミニズム since1886 性の戦い編』(河出書房新社)を刊行している。
同書には、男性による女性や少女の性的搾取に対する批判を繰り返すことで多くのツイフェミから支持を集めている社会活動家の仁藤夢乃や弁護士の太田啓子(@katepanda2)らが寄稿している。副題にある「1886」とは、キリスト教系の日本の女性団体「日本キリスト教婦人矯風会」(以下、矯風会)が設立された1886年(明治19年)を指している。
矯風会は、禁酒と男女同権=一夫一婦制と婦人参政権の獲得、そして公娼制度の廃止を掲げて活動を行っていた。宗教的道徳観に基づき、「醜業婦」(=公娼制度の中で働く女性たち)を救済し、正しい道に復帰させることを目指していた。
売春の原因は法規制の欠如と社会の貧困にあるとし、売春を法律で禁止した上で、社会が経済的に豊かになれば必然的に売春はなくなると考えて、売春防止法の制定に尽力した。
当事者の女性たちからも支持を得られなかった
しかし、1957年に売春防止法が施行され、高度経済成長の達成を通して日本が社会的に豊かになっても、売春は決してなくならなかった。売春する女性を保護・更生の対象とした婦人保護事業もうまく機能しなかった。宗教的道徳観に基づいて、買う側の男性を加害者として断罪し、売る側の女性を被害者として救済しようとする矯風会の思想と運動は、男性だけでなく、矯風会が救おうとしている当事者の女性たちからも支持を得られず、女性運動やフェミニズムの中でもマジョリティになることはなかった。
運動やアカデミズムの中で周縁化されていた矯風会の思想は、児童買春・ポルノ禁止運動、青少年の健全育成や従軍慰安婦をめぐる政治的な論争の中で、消えずに生き残った。
1990年代以降は、宗教的な道徳観からではなく、「女性蔑視や性暴力を助長する」「性差別の一形態」といった人権擁護の視点から、ポルノグラフィなどの性表現を「女性の性の商品化」として批判する動きへと移行していく。
そしてSNSが普及した2010年代以降、「男性=加害者/女性=被害者」という二元論に基づいた感情的な議論が広がっていく中で、矯風会の思想が「再発見」されることになる。
「これまでのフェミニズムが許せない」という怒り
北原は、これまでのフェミニズムを批判的に検討した上で、矯風会の設立を日本のフェミニズム史の原点として捉え、女性の性が売り買いされ、搾取されることを問題化する矯風会の思想と運動を起点にすることで、新しいフェミニズム史が切り開かれる、と宣言している。
こうした北原の主張には、「買う男が許せない」「性暴力や性的搾取に寛容な社会が許せない」という怒りと同等、あるいはそれ以上の強さで煮えたぎっている「これまでのフェミニズムが許せない」という怒りを読み取ることができる。
すなわち歴史的に見れば、現在のツイフェミは、二元論と感情論が優勢になるSNSの時代に復活した「矯風会2.0」の影響を色濃く受けていると言える。
性別二元論を批判していたはずのフェミニズムが「被害者/加害者」の二元論に陥り、任意の相手を加害者認定して攻撃する決断主義、公の場でストレートに自らの怒りや被害体験を表出する行動主義がもてはやされるようになる。二元論を批判するために生み出された思想が、二元論を肯定・強化するための思想として転用されていくのは、皮肉としか言いようがない。
仲間たちで徒党を組み、意見の異なる他者を全てブロック
閉鎖的な言説空間内でのコミュニケーションを繰り返すことによって、特定の信念が増幅・強化されていく状況は、「エコーチェンバー現象」と呼ばれている。
ツイッターフェミニズムは、まさにこうしたエコーチェンバー現象の産物である。同じ信念と怒りに囚われた仲間たちで徒党を組み、意見の異なる他者を全てブロック・ミュートする。炎上に便乗して標的を攻撃することで「戦果」をあげ、内輪でうなずき合うことを繰り返す。
ツイフェミは「フェミニストと似て非なるもの」であり、その大多数は「自分が女性として・被害者として優遇されたいだけ」の存在である。非論理的かつ感情的な主張を繰り返す彼女たちは、フェミニズムの何たるかを全く理解してない……。
こうした批判は、フェミニストを名乗る人たちから、(あるいはツイフェミ同士での議論の中でも)頻繁に述べられている。
しかし、ツイフェミの言動を「フェミニストに似て非なるもの」「本来のフェミニスト思想の何たるかを理解してない人たちの妄想」として切り捨てることはできない。
名だたるフェミニストの論客も、時と場合によっては、ツイフェミと同じような言動や批判の戦術を(意識的にせよ無意識的にせよ)取っていることがある。
ジェンダーだけで全てを説明しようとしたことの副作用
ツイフェミは、フェミニズムから生まれた存在であることは間違いない。フェミニストのリストから、ツイフェミだけを都合よく切り捨てることは不可能だ。
原因をジェンダーに還元するだけでは解けない問題が溢れている現実に対して、ジェンダーだけで全てを説明しようとしてしまう=ジェンダー研究自体が自己目的化してしまったことの一つの副作用が、ツイッターフェミニズムと呼ばれる動きなのではないだろうか。
論争の武器としてフェミニズムを用いる者は、いつでもツイフェミ化するリスクと隣り合わせであることは、間違いない。
[ホワイトハンズ代表理事 坂爪 真吾]