今春の東京大学入学式の祝辞で脚光を浴びた、東大名誉教授の上野千鶴子さん。その祝辞内容に対して、ある保護者から「東大に子供を合格させた親へのねぎらいの言葉がない」という反応があった。そうした親の「言い分」の背景にあるものとは——。
※本稿は、雑誌『プレジデントFamily2019秋号』(プレジデント社)の記事の一部を再編集したものです。
「私の努力を認めてほしい」という親の言い分
私が今年度の東京大学の新入生に向けた祝辞には、大きな反響がありました。東京医科大学入試での女性差別、東大生による他大学女子への性的暴行事件、東大生であることを隠そうとする女子学生たち……。
かつては東大卒であっても、女性というだけで、男子に比べて有名企業、大手企業の総合職に採用されることは難しく、昇進もできませんでした。そして、今もなおそうした差別の構造は歴然と残っています。
だからこそ、今年の東大の入学式の祝辞には、「すでにある社会の枠組みを超えて、どこでも生きていける『知』を身につけてほしい」という思いを込めたのです。
東大の入学式で、近年、新入生以上に存在感を増しているのが、彼ら彼女らの親です。東大の入学式では、子1人に対して保護者2人分の入場枠を認めています。新入生に対して、保護者の数が2倍にもなりうる。これではどちらが主役かわかったものではありません。
東大の入試日には「親の控室」が用意される
偉そうなことを言いましたが、私が京都大学に入学した52年前も、入学式に親がついてきました(笑)。地方の「箱入り娘」でしたから。しかし、当時はまだ「18歳にもなって親が来るの?」という違和感が学生本人にも、世間にもありました。「恥ずかしいから来ないで」と子供が言えば、親はそれに従ったものです。しかし現在では、入学式どころか、大学入試のときから親専用の控室が設けられています。
入学式で私の祝辞を聞いた保護者の感想の中に、興味深いものがありました。「東大に合格させた親へのねぎらいの言葉がない」というんですね。思わず笑ってしまいました。
「周囲に自慢できるわが子」をつくった私をもっと褒めて
わが子の大学合格までの道のりに介入して、それを公然と口にして「褒めてほしい」とまで言う時代なのです。たしかにご両親も受験に際して、大変なご苦労をされたことと思います。多額の塾代や私立中高一貫校の学費といった金銭面の負担、塾への送迎といった手間暇の負担が大きいことは知っています。
長らく東大で教壇に立ってきた印象で言うと、今や東大は親との二人三脚なしには合格できない大学です。東大に限らず、難関校に合格した子供たちは、いわば親の作品、なかでも「成功作」です。学歴という見えやすい軸で、勝利をつかんだ「周囲に自慢できるわが子」をつくったわけですから、祝辞でも「作者である私を褒めてねぎらって」という気持ちになるのでしょう。
条件付きの親の愛「デキの悪い子はうちの子じゃない」
私は東大で「成功作」だったはずの子たちをたくさん見てきました。彼らは「偏差値一流校に入る」「試験で良い成績を取る」といった「競争で勝つこと」を褒められて育ってきています。そのため、「勝ち残れなかった人はダメなやつなんだ」という選民思想を持った子が数多くいます。
2016年に東大男子学生による、他大学の女子学生暴行事件が起きました。逮捕された男子学生の一人が「彼女は頭が悪いから」と取り調べの中で発言したのも、この延長線上にあると思います。
「頑張ったわが子」をその成果を理由に褒めることは、裏返せば子供を条件付きで愛するということ。出来の良い子にだけ承認という報酬を与える。反対に出来の悪い子はうちの子じゃない。そういったサンクション(毀誉褒貶(きよほうへん))を子に与えて叱咤激励する親が、あまりにも多いのです。
兄弟や姉妹で、偏差値に差がある場合はより悲惨です。東大生の中にも、例えば「自分は、私大にしか行けなかった兄より偉いんだ」という意識を持った学生は少なくありません。こうした過度な自尊感情が生まれると「自分の現在は自分の努力と能力によるもの、それができないのは努力と能力が足りないから」と考えるようになってしまいます。
「失敗作」の子供は追い詰められますし、「成功作」の子供だっていつでもうまくいくわけじゃない。そうなるとうまくいかないときには、自分を責めるしかない。自傷系のメンヘラー(メンタルヘルスに問題のある学生)が増えたという実感があります。長年、東京大学で教員として指導をしてきましたが、そうした学生を数多く見てきました。
40代の親が子供の教育に熱くなる必然的理由
こんな話をすると「そんなこといっても、受験は受験だし、仕方ないじゃないか」という声が聞こえてきそうですね。その反論にお答えする前に、みなさんが、なぜ教育に熱くなるのか、世代的な面から考えてみましょう。
おそらく読者の方々の多くが、40代。この世代の人たちには「親の世代の学歴を、子供が上回るのは当たり前」という刷り込みがあります。自分の親は団塊の世代前後でしょう。団塊の世代には学力があっても、満足な教育を受けられなかった人も多いです。そのため彼らの多くが「自分より上の学歴を子供につけさせてやりたい」と熱心に教育をしたのです。
今の親世代は「自分はそうしてもらった」という強い記憶に加えて、バブル崩壊以降の就職難の経験があります。多くの親が「わが子が、自分たち以上の生活水準を得ることができないのではないか」という危機感を抱いており、その恐れが「せめて学歴だけでも」と、子の学歴へのこだわりを一層強くしています。
1985年の男女雇用機会均等法以降の世代ゆえ
女子の場合はもう一つ親が教育に力を入れる理由が加わります。それは、母親世代が性別を理由に、満足に働けなかったということです。今の大学生の親より下の世代は、1985年の男女雇用機会均等法以降の世代です。
しかし、均等法にはほとんど実効性がなく、企業では多くの女性が従来通りの差別を受けました。総合職に就ける女性はひとにぎり、女性は一般職雇用で給与は低く、男性と同じようには昇進できません。結婚したら働き続けるという選択肢は現実的ではありませんでした。こうした社会でも娘が働いていけるような進路を親は必死に考えます。その結果が現在の女子受験生の学部選択にあらわれています。
90年代以降、女子学生の増加が著しいのは、法学部や医学部といった資格取得に直結する学部です。つまり個人プレーがききやすい「手に職」系の学部です。弁護士と医者は、高給版「手に職」志向、ほかにも薬剤師や看護師などの資格志向があります。反対に、組織に入らなければ成果を上げられない経済学部や工学部はあまり女子学生が増えていません。
「手に職があれば、組織に組み込まれなくてもすむ。転退職しても再就職が容易。私は果たせなかったけれど、社会で活躍してほしい。私が企業社会で受けた嫌な思いをしてほしくない」という「母心」が透けて見えるようではありませんか。
こうした世代の影響力は強いですよ。その人にとっては、自分が生きた時代というのは、唯一の経験だからです。だから、一昔前の「良い学校、良い就職」という幻想から抜けられないのです。
しかし、時代は変わりました。
教育を「投資=見返りを期待」だと主張する親が失うもの
「高偏差値大学」の学歴があれば安泰という時代ではなくなりました。「俺より上の偏差値の大学にさえ行ってくれればいい。俺の遺伝子を継いでいるわけだし、妻も教育熱心だから、そこそこの偏差値の大学には行ってくれるだろう」なんて気楽に考えている方も多いかもしれません。しかし、「高学歴な親の学歴と同程度の学歴を子供が達成できるのは、全体の半分程度」という研究結果もあります。実は親世代の学歴を上回るのは難しいことなのです。
教育を「投資」だと考える限りにおいては、こうした前提で考えていいのかもしれません。しかし、子供は果たして投資対象なのでしょうか。
家庭が「評価の場」なら子供にとって家庭は「緊張の場」になる
教育を投資だと見なすことは、将来のリターンを期待するということです。投資は、コストとベネフィットを勘案する「費用対効果」で測ります。学力という物差しだけで測られて、結果を出せないと愛されない。そんな家庭で親からの過大な期待と教育熱を注ぎ込まれて、つぶれなかった子は運がよいですが、そうでない場合、精神的に追い詰められます。
たとえつぶれなかったにしても「投資対象」である子供は、評価者である親といても楽しくありませんから、思春期とともに親を疎むようになっていきます。そのツケは将来、一緒にいても会話のない親子関係となってあらわれるでしょう。先に挙げた東大生たちの心の闇も、こうした家庭の中から生まれます。
もし、成績という軸だけで子供と接するのをやめたければ、明日から子供に教えるのではなく、子供の声に耳を傾けることです。叱る、褒めるのどちらでもなく、ただ「聞く」のがポイント。「あなたは今何をしているの、何をしたいの」と。マーサ・ファインマンというアメリカのジェンダー法学者は「子育てに父でなければできない役割というものはない」と断言しています。
子育ては母親がやっても父親がやっても同じ、すなわち子供に配慮し、子供と時間や経験を共にすることしかありません。その過程で初めて、親は、自分の子供がどういう生きもので何が好きで何が嫌いかがわかってきます。家庭が評価の場であれば、子供にとって家庭は緊張の場になりますが、評価のない場を共有することで、家庭が子供にとって安心できる場に変わっていきます。
実際に「投資」としての教育の実行役を担っているのは、父親の代行者としての母親ではないでしょうか。多くの家庭で「教育はお前に任せた」と夫が妻に子育てを丸投げにしています。その姿を子供はよく見ています。母親と子供が何かトラブルを抱えていても、何もしない、知ろうとすらしないという父親も多いでしょう。そんな父親が無理に教育に介入したら、監督者が2人に増えるだけ。子供にとってはさらなる受難です。
夫が家族ときちんと関係を築けているかを測るために、試しに「子供の友達の名前を何人言える?」「私の友達の名前を何人言える?」と聞いてみてください。妻の友達の名前となると、多くの夫はさっぱり言うことができないのではないかしら。
子供にとって両親は男女関係を学ぶうえでの大きなロールモデルです。夫が望むような成績を取らせなければと妻が焦ったり、不安がったりしている姿を見れば、子供の目にだって夫婦の力関係は明確になります。夫は妻の「上司」のようなもの、「男が上」なんだってね。軽んじられている母の姿を見れば、子供は母親を尊敬できなくなるでしょう。
子供が理不尽な目に遭わないために親ができること
世の中はまだまだ理不尽な差別に溢れています。先ほどの例のように家庭の中にも夫婦の権力関係がありますし、貧富の差もあるでしょうし、外国籍の子もいます。
子供たちにも親にも、将来を考えるうえで心がけてほしいことがあります。それは周りをよく見るということです。いろいろな人たちと付き合うことで、世の中にどういう人がいて、どういう人生があるか身をもって理解する。こうした異文化と接する機会として、公立小学校は非常に良い学びの場になるはずです。
また、自分たちが受けた理不尽な経験や思いを子に話してやってください。みなさんは自分が受けた差別や社会の理不尽さを子供に味わわせたくないからこそ、教育に力を注いでいるはずです。もし、理不尽な社会の中で自分だけが勝ち抜いて、他人を出し抜くことを教えたら、そもそもの理不尽な社会自体を変えようとは思わなくなるでしょう。
実際に女性の中にも「自分は差別を受けたことがない、実力があれば差別なんて関係ない」と豪語するエリートもいます。これでは、社会全体がいつまでたっても良くなりません。ですから私は祝辞でも「みなさんの頑張りを自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」と伝えたのです。あなたたち親世代が受けた差別を変えるために、次の世代の力を生かしてほしいのです。
私も今年で71歳になりました。これまでは上の世代に「こんな社会に誰がした?」と詰め寄ってきましたが、いよいよ下の世代から「あなたたちは一体何をしてきたの?」と詰め寄られたら言い訳できない年齢になりました。今の社会を振り返ってみると、お世辞にも胸を張れる社会を下の世代には引き継げなかったけれど、次の世代にどんな社会を手渡すかは、親世代であるあなた方にかかっています。
[社会学者 上野 千鶴子 構成=富谷瑠美 撮影=干川 修]