安倍晋三首相による政治決断で、全国の小中高校の大部分が3月2日から一斉休校に入った。2009年に大阪府知事として府下中高の一斉休校を断行した橋下徹氏は、この段階での大胆な決断を評価しつつも「リスクコミュニケーションが不十分」と指摘する。
一斉休校の目的を「子供を守るため」としたから起きた大混乱
2月26日に、安倍晋三首相は「大規模イベントを自粛してほしい」と発信し、27日には「小中高校は3月2日から春休みまで休校にしてほしい」と発信した。
このことで日本中において激しく賛否が沸き起こった。
僕は安倍さんのこの方針には賛成だ。しかし、国民に対する説明の仕方、つまりリスクコミュニケーションは不十分だったと思う。
爆発的感染拡大(ピーク)を抑えるためには、人の活動を抑制するしかない。
しかし成人の活動を抑制するとなると、企業活動全体を抑制することになり、経済へのダメージが著しい。だから日本の総人口の1割ちょっとにあたる約1400万人の小中高生の活動を抑制する選択をしたのが一斉休校だ。
特に、学校という場所は感染拡大のエンジンとなることがわかっている。子供たちの活動は激しいので、接触感染や飛沫感染が広がるのだろう。100年前に大流行したスペイン風邪においても、軍と学校が感染エンジンになったと言われている。
ゆえに学校を一斉休校にするということは、爆発的感染拡大を抑える効果がある。
また、集団ワクチン接種の研究で明らかになったことだが、学校での集団ワクチン接種をしっかり行うと、学校内での感染が抑えられるだけでなく、高齢者や基礎疾患者の死亡数も抑えられ、逆に、集団ワクチン接種が行われないと、学校内の感染が広がるだけでなく、高齢者や基礎疾患者の死亡数も増えるという事実が明らかになった。
このように、一斉休校は「子供たちを守る」というよりも、国全体の爆発的感染拡大(ピーク)を抑えたり、高齢者や基礎疾患者を守ったりする「社会防衛的な措置」である。成人の活動を抑制するのは経済的にダメージが大きくなりすぎるので、そのダメージの少ない子供たちの活動を抑制するのである。
このことを、国民にしっかり伝えないと、大きな誤解を生む。
ところが萩生田光一文科相や安倍さんなどの政府は、一斉休校について「子供たちを守る」という点を強調してしまった。そうなると、感染がない学校まで休校にする必要はない! という批判が出てくる。今はこの批判が多いようだ。
学者が唱える「地方分権論」はどこが間違っているか
自治体の中には、うちの地域では感染者が少ないから、学校は休校にしないと判断したところがある。
今、一斉休校に反対している自治体の首長は、自分の地域のことだけを見ているのであろう。国全体の社会防衛策であれば、国全体の視点で判断しなければならず、これは国防と同様に、地方分権の話ではなく、国が責任をもって判断すべきことだ。
僕は強烈な地方分権論者だ。知事、市長時代の8年間は、地方分権を少しでも進めるために、国と激しく交渉してきた。
しかし、なんでもかんでも地方の権限でやらせろ! という地方分権論ではない。
地方行政の学者たちがよく唱える地方分権の定番フレーズである「補完性の原則」というものは、地方で「できる」ことは地方がやる、地方でできないことを国がやる、というものだが、実際に首長をやった経験からするとそれはまったく違うと感じる。本来の地方分権は、国が「やるべき」ことは国がやる、地方が「やるべき」ことは地方がやる、という「役割分担」の話だ。
すなわち地方が「できる」ことでも、国が「やるべき」ことは国でやるべき、というのが僕の地方分権論だ。
学校運営は地方自治体が「できる」ことだ。だから休校判断は地方自治体がやるというのが「補完性の原則」に基づく地方分権論。
一斉休校に反対する人たちの中には、この地方分権論を持ち出して反対する人が多い。安倍さんも、間違った地方分権の話が頭に浮かんだのか、「休校するか否かについて地方自治体の判断を妨げない」と言ってしまった。
これもリスクコミュニケーションの失敗だったと思う。
国全体での感染症対策は、やはり国が責任をもって、国全体の視点でやるべきだ。一斉休校は、「子供たちを守る」というよりも「社会防衛策」であり、国全体で一斉にやらなければならないことをしっかり説明すべきであった。それができていなかったので、安倍さんの休校方針に従わない自治体が出てきてしまったのである。
データがない中での大胆決断、データがそろえば修正も
また、一斉休校の判断について明確な根拠がないと安倍さんは批判を受けている。この点も、政府のリスクコミュニケーションがうまくいっていない。
前号では大規模イベントの自粛について論じたが、それと同じく、明確なデータがそろってからの一斉休校では遅いのである。
政府がやろうとしていることは、国全体での爆発的感染拡大を抑えることである。感染を完全に阻止することではない。2月25日の政府の対策基本方針では「流行のスピードを抑える」という点が明示されており、まさに爆発的感染拡大を抑えることが目標となっていた。ところが、いつのまにやら感染の完全阻止を目指しているような雰囲気になっている。
感染の完全阻止なら、データや根拠をもとに、感染者を追跡しながら対策を講じていくことになるであろう。しかし爆発的感染拡大のピークを抑えるというのであれば、それは流行期に入る手前の段階で、ピークを抑える策を大胆に講じなければならない。
つまり「感染状況がデータ的に明らかになった時点でやってもすでに遅い」というところが、このピークを抑える策の一番難しい点である。感染状況がデータ的に明らかになった頃にはもう爆発的感染拡大を抑えることができないのである。
よって、権限・責任者が流行期に向かう「気配」を感じ取って、大胆にピークを抑える策を打ち込まなければならない。
安倍さんは、一斉休校の判断は、明確な根拠やデータに基づくものではなく、流行期への「気配」で行ったことを堂々と説明し、「明確な根拠やデータに基づいてやれ!」「明確な根拠を示せ!」と言ってくる批判者に対しては、「データを待っていたら遅いわ!ボケ!」と言い返してやったらいい。
安倍さんは、新型コロナウイルスの感染拡大という危機時において、爆発的感染拡大を抑えるための一斉休校の策を講じる際には、明確な根拠を求めている時間的猶予がなかったことを積極的に発信していくべきだ。説明すれば多くの国民は理解してくれるはずだ。そして、爆発的感染拡大を抑え、時間稼ぎをしているうちに、新型ウイルスの実体が徐々に明らかになってくるだろうが、そのときには、一斉休校の策は修正していくことも併せて発信すべきだ。
記録・文書の扱いが杜撰な政府は、結局、国民を不幸に陥れる
ただし本来は、首相がこのような大胆な策を打ち込めるような法体系を整備すべきだ。今はそのような法体系がないところが日本の最大の欠陥である。
もちろん、首相にそのような大きな裁量を与えるのであれば、事後に国会や裁判所がチェックできる仕組みも備えなければならない。そして事後チェックのためには、政府の意思決定過程などについて記録や文書が完璧に揃っていなければならない。
ところが今の安倍政権は記録や文書の扱いが非常に杜撰だ。このような政府が、俺たちに大きな権限を与えてくれ!と訴えても、国民は理解してくれないだろう。
記録や文書の保管は、政府が大きな権限を持つためには絶対に必要な条件だ。記録や文書の保管が杜撰な政府は、大きな裁量的権限を持つことができず、いざという危機事態のときに結局大胆な策を講じられず、国民を不幸に陥れてしまう。
[元大阪市長・元大阪府知事 橋下 徹]