cat_11_issue_oa-president oa-president_0_059cb5ef6055_橋下徹「なぜ今、日本では新型コロナの検査を拡大してはいけないか」 059cb5ef6055 059cb5ef6055 橋下徹「なぜ今、日本では新型コロナの検査を拡大してはいけないか」 oa-president 0

橋下徹「なぜ今、日本では新型コロナの検査を拡大してはいけないか」

2020年3月23日 08:00 PRESIDENT Online

アジアや欧米で新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、他国に比べ感染検査の対象を絞り込んでいるのが日本だ。一部の専門家や野党から検査拡大を求める声が高まっているが、政府はその要求に従っていいのか。

検査結果が陽性なら無症状・軽症でも医療現場への負担が大きい

新型コロナウイルスに感染したかどうかはPCR検査というもので判断する。日本はこの検査が少ない! と、特にメディアや一部の専門家から徹底的な批判の声が上がった。朝、昼、夕方のすべての情報番組では、一貫して、希望者全員に検査をしろ! という論調だった。

この声に押されて、野党国会議員は、検査拡大を安倍政権に強く要求し、安倍政権も世論に押されて、検査拡大を政府の方針としてしまった。

もちろん必要なところで検査をするのは当然である。しかし、組織の対応能力「全体」との兼ね合いで総合判断しなければならない。左に検査拡大の重り、右に日本全体での対応能力の重りを乗せるシーソーのようなものだ。このバランスを取ることがまさに政治家・トップに求められるマネジメント能力である。

単純に検査拡大、つまり左の重りを主張する者は、検査数が増えることによって、日本の医療機関対応がどうなるのかの「全体像」、つまり右の重りが見えていないのだと思う。

検査して陽性反応が出てしまうと、たとえその人が無症状者や軽症者であっても、専門医療機関に入院させ、自治体の感染症対応機関によって濃厚接触者の調査が行われる。現在の仕組みでは大変な作業が発生することに変わりがない。ゆえに検査が増えれば増えるほど、医療機関や感染症対応機関における負担が著しく増え、現場は疲弊する。そのことによって、本来救わなければならない重症者に対して、医療がサポートできなくなる危険性が高まってくる。

イタリアなどではこの医療崩壊が生じていると報じられている。手軽な検査を拡大したがゆえに、軽症者もどんどん病院にやってきて、肝心の重症者に手が回らなくなってしまっているらしい。医療スタッフも医療機器も対応能力の限界を超えてしまったとのことだ。

医療現場の切実な認識「人は軽症でも治療を求める」

今、政治家・トップがやらなければならない判断は、「今の自国の医療機関の対応能力」を考えた上で、検査はどこまでやるべきなのかというものである。メディアや国民から「もっと検査をやってくれ!」という声が上がろうが、今の医療機関の対応能力を超えるほどの検査を行ってはならない。これが政治家・トップの全体を見渡した総合判断というものである。

この点、次のような意見がある。

「とにかくPCR検査をどんどんやって、陽性か陰性かを確定すべきだ。そして陽性でも無症状だったり、軽症だったりした人は自宅で療養してもらえばいい。国民は、自分が陽性か陰性かわからないから不安になる。陽性だとわかれば、他人に感染しないように注意をすることができるのだから、検査をやった方がいい」というものだ。

しかし、このような意見には重大な認識の欠如がある。それは「人間は陽性反応が出ると、たとえ軽症であっても医療機関に対応を求めてくるものだ」という医療現場の切実な認識についてだ。

これは今回の新型コロナウイルス問題でわかったことではなく、過去ありとあらゆる領域で似たような問題は生じている。人間は、多少でもマイナスの評価を下された場合、じっとしていられないものだ。これは技術や文明が発達した社会に住む人間であればなおさらのことだ。

残念だが、検査拡大を主張するテレビのコメンテーターたちは、このような現実を知らない。

ここで問題なのは、現状では、無症状者にはもちろん軽症者に対しても、特段の治療方法や治療薬があるわけではなく、医療機関としては通常の風邪と同じ対応をするくらいしかやりようがないということだ。そうであれば、無症状や軽症の場合には、通常の風邪対応と同じように自宅で療養してもらっていた方がいい。医療機関の負担を軽減でき、重症者に対応するための余裕が確保できるからだ。

また、このような無症状や軽症の陽性反応者が病院に殺到してくると、院内感染のリスクが高まる。病院には高齢者や基礎疾患を持っている患者が多い。新型コロナウイルスがこのような人たちを重症化するということは専門家の統一された見解であり、陽性反応者が病院に殺到すると死亡者数を増加させるリスクが著しく高まるのだ。

希望者全員に検査をやらないというやり方に対しては、無症状者や軽症者が、自分が陽性だとわからずに他人にうつしてしまうのではないか、という反論があるだろう。

ゆえに最後は総合判断だ。他人にうつしてしまうリスクと、医療崩壊を招いてしまうリスク。どちらをより回避すべきで、そのためにはどちらのリスクを引き受けるべきか。

こうした総合判断をするための「前提」では、専門家の意見が重要になる。無症状者や軽症者の感染力はどの程度のものか。軽症者は何日くらいで回復しているのか。

そうした意見を得た上で、「とにかく重症者を救うために、命を救うために医療現場の余裕を確保する。医療崩壊を絶対に招かないようにすることを絶対的な目標としてそれを死守する。そのためには今は、無症状者、軽症者に多少の我慢を求める」というのが、政治家・トップの総合判断、総合マネジメントである。

医療機関に余裕を持たせるため軽症者は我慢を!

重要なポイントは、「ちょっと気になるから」という程度の人は検査しないほうがいいのだが、必要な場合、特に重症化を防ぐためには検査はどんどんやる必要がある、ということだ。大阪府の吉村洋文知事は、不安解消のために検査をどんどんやるということには反対だが、国が示した基準も厳しすぎるとして、重症化を防ぐのに必要な範囲で、検査対象を国よりも拡大した。非常に賢明である。

さらにクラスターつぶしを徹底する場合には、濃厚接触者を追跡するための検査基準も今よりももう少し拡大した方がいいだろう。

しかし、テレビの情報番組における「希望者全員に検査をしろ!」という声に押されて、やみくもに検査拡大の方針をとってしまうことは、現段階では厳禁である。

今は、来るべき流行に備えて、医療機関の対応能力にできる限り余裕を持たせておかなければならない時期だ。そのためには国民にある程度我慢をしてもらわなければならないこともある。

それが、希望者全員に検査することは控えて、軽症者は自宅療養でなるべく回復してもらうことだ。

後に、無症状者や軽症者は一般病院や自宅療養で対応する仕組みを整え、濃厚接触者調査もほどほどの範囲に抑え、何よりも治療薬や治療方法が確立したときには、ガンガン検査をすればいい。

陽性者にはどんどん薬を渡せばいいし、たとえ院内感染が発生しても薬や治療で対応できる。

今はその体制が整っていないがゆえに、検査をやみくもに拡大してはならないのだ。検査はその国の対応能力に見合ったものにすべきであり、それは各国によって異なるのである。

[元大阪市長・元大阪府知事 橋下 徹]

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cat_11_issue_oa-president oa-president_0_f8f75934378d_「消費税0%」コロナショックで安倍官邸が検討する禁断の一手 f8f75934378d f8f75934378d 「消費税0%」コロナショックで安倍官邸が検討する禁断の一手 oa-president 0

「消費税0%」コロナショックで安倍官邸が検討する禁断の一手

2020年3月23日 08:00 PRESIDENT Online

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府は追加景気対策の検討に入った。2020年度予算の成立前だけに異例の対応だ。リーマンショック以上ともいわれる現状にどんな手を打つのか。目玉として俎上にあがりはじめたのは「消費税率の引き下げ」だ――。

経済立て直しは「ポイント還元」では足りない

「現在はあくまで感染拡大の防止が最優先ですが、その後は日本経済を再び確かな成長軌道へ戻し、皆さんの活気あふれる笑顔を取り戻すため、一気呵成(かせい)にこれまでにない発想で思い切った措置を講じてまいります。その具体的な方策を政府・与党の総力を挙げて練り上げて参ります」

3月14日夕、安倍晋三首相は首相官邸で開いた記者会見で声を張り上げた。今の経済状況は極めて深刻だ。会見から3日後の17日には日経平均株価(225種)の終値は1万7000円レベルだった。既に「危険水域」を突破しており、大胆な経済対策は待ったなしの状態になっている。

本来であれば新年度予算案の国会審議が続いている時に追加経済対策や補正予算の議論をするのはタブーだ。野党側から「ならば本予算案を組み替えればいい」と横やりを入れられて予算案審議がストップする恐れがあるからだ。しかし、今は、そんなことは言っていられない。野党も審議を拒否すれば、自分たちに批判が集まることを知っている。

現段階で経済対策の柱として語られているのは、キャッシュレス決済時のポイント還元の延長・拡充や、子育て世帯などへの現金給付などがある。だが、これらはいずれも「想定の範囲内」の対策だ。特に「ポイント還元」については、昨年10月に消費税率が10%に上がった際の景気冷え込み策と目されていたが、その期待を見事に裏切ったことは実証済みである。今は「異次元」の対応が求められる。

「消費税率の引き下げ」の議論はあり得なかったが…

そこで浮上しているのが消費税減税論だ。消費税は1989年に導入されて以来、約30年の間に3%、5%、8%、10%と税率が上がってきた。1度も下がっていない。

それは、財務省が消費税減税に絶対反対の立場を貫き、多くの自民党議員も財務省に同調しているからだ。少子高齢化が進み社会保障費の増大が避けられない状態の中、安定的な税源である消費税は、税率を上げる議論をすることはあっても、下げる議論はあり得なかった。

消費税は税率を上げる際、大変な政治的エネルギーを要してきた。1度下げると、再び上げるのは途方もない苦労がいる。それは回避したかった。

しかし、それはコロナショック前の話。リーマンショック以上といわれるピンチの今、消費税減税もタブーとせずに議論すべきだという意見が高まりつつある。

実質的には「消費税を0%にする」という意味になる

自民党の安藤裕衆院議員ら若手有志は11日、西村康稔経済再生担当相と面会し「消費税は当分の間軽減税率を0%とし、全品目に適用する」よう提案した。形式的には軽減税率の拡大だが、実質的には「消費税を0%にする」という意味になる。

「消費税0%」は、昨年の参院選、れいわ新選組の山本太郎代表が主張したことで知られる。当時は他の野党でも荒唐無稽と受け止められたものだ。しかし新型コロナ問題が起きてから一笑に付される対象ではなくなってきたようだ。

安藤氏ら以外にも、自民党若手・中堅を中心に消費税率の一時引き下げ論が高まってきている。

安倍氏は14日の会見で消費税減税について問われ「自民党の若手有志の皆さまからも、この際、消費税について思い切った対策を採るべきだという提言もいただいている。今回(昨年10月)の消費税引き上げは全世代型社会保障制度へと展開するための必要な措置ではあったが、今、経済への影響が相当ある。こうした提言も踏まえながら、十分な政策を間髪を入れずに講じていきたい」と発言。わざわざ若手の提言を口にして思わせぶりなことを言っている。

安倍氏はもともと財務省の「増税史観」に懐疑的で、消費税率アップを先送る決断も経験済みだ。自民党内では消費税増税には最も慎重な考えの1人ともいえる。もし、昨年の今ごろ「新型コロナ」がまん延していたら、昨年10月の「消費税10%」は先送りしていただろう。ならば、時限的に8%に戻す選択をしてもおかしくない。

決断すれば一気に「史上初の消費税減税」に走りだす

安倍氏は13日、甘利明党税調会長を首相官邸に呼び、会談している。甘利氏は安倍氏とはウマが合う。しかも政治的嗅覚が鋭い。決断すれば一気に「史上初の消費税減税」に走りだす陣立てができあがるだろう。

消費税率引き下げについて、自民党内では今も反対論が多数派であることは事実だ。二階俊博幹事長も「(いったん税率を下げて)いつ元に戻すのか。誰が責任を取るのか」と語っている。しかし「新型コロナ」の感染と、それに伴う経済危機の拡大が続けば「危機を乗り切るには消費税減税しかない」という声が、オセロゲームのように急増するだろう。

自民党若手が提案しているように税率「ゼロ」にするのはさすがに現実的ではないが「5%」あたりが落としどころという声があがる。東京五輪・パラリンピックが延期になるのを見越して「五輪後まで2年間」減税するという案が浮かぶ。

「減税」先食いで野党共闘分断という狙いも

実は政局面でも、消費税減税を行う「メリット」がある。ズバリ、野党勢力の分断だ。

先に触れたように、れいわ新選組の山本氏は「消費税ゼロ」を掲げている。野党内では次の衆院選に向けて「消費税」を旗頭に結集を目指そうという動きがある。

立憲民主党と国民民主党の合流が不調に終わるなど野党結集は遅々として進まない。しかしコロナショックは、野党を消費税減税で接近させる触媒になる可能性がある。野党連合が完成すれば、安倍政権にとっては脅威だ。

「その前に機先を制するという政治判断は、当然ある」

ある自民党中堅議員が語る。安倍氏はこれまでも、消費税増税を凍結する決断を争点に掲げて衆院を解散するなど、巧妙に野党との争点ぼかしをしてきた。今回も同じ手法が頭の中にあることだろう。

安倍氏は17日昼、首相官邸に岸田文雄党政調会長を呼び経済政策をまとめるよう指示した。会談後、岸田氏は「大筋の方向性は一致しました」と記者団に語った。「大筋の方向性」の中に消費税の減税も含まれているのか。今月中には結果が分かるだろう。

[永田町コンフィデンシャル]

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cat_11_issue_oa-president oa-president_0_230a53511d8e_フランス人がいくら電車が止まっても駅員を怒らないワケ 230a53511d8e 230a53511d8e フランス人がいくら電車が止まっても駅員を怒らないワケ oa-president 0

フランス人がいくら電車が止まっても駅員を怒らないワケ

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

昨年末、フランスでは47日間も交通ダイヤが乱れ続けた。原因はフランス国鉄のストライキ。市民はたいへんな不便を強いられたが、ストを支持する声は多く、駅員を怒るような様子はみられなかったという。フランス在住のライター髙崎順子さんは「背景にはフランスの徹底した道徳教育がありそうだ」という――。

過去最長ストでパリ市民の通勤通学は大混乱

フランスの12月は通常、心浮き立つ祝祭の季節だ。週末にはイルミネーションで輝く街へ繰り出し、家族で過ごすクリスマスのため、貯金をはたいて贈り物やごちそうの品を買いそろえる。ところが昨年は違った。12月5日、全国一斉に始まったゼネストで公共交通網がストップし、市民の生活に大影響を及ぼしたのだ。

原因は、エマニュエル・マクロン大統領が任期中の重要政策と掲げる年金制度改革法案。独特の年金体系を持つ鉄道・バス、学校、病院、文化施設などの42の関連職種を一般年金制度に統合する方針で、受給年齢の引き上げを始め、受益者にはマイナスな変化も多い。改革に反対する職種の労組が連携し、大規模なストとなった。

特に首都パリでは地下鉄や郊外列車に「運行ゼロ」の路線がいくつも発生し、数少ない運行車輌に乗客が殺到。通勤通学を大混乱させたストは47日間継続し、労組最強とも言われるフランス国鉄をして、過去40年間の最長記録を更新した。

パリ市民「おかげでダイエットできた」

多くのパリ市民は改革と関わりのない職に就いており、この47日の間、通勤通学や買い物にかなりの不便を被った。しかし興味深いことに、暴動や大きな混乱は起こらなかった。

もちろん彼らも不満がなかった訳ではない。期間中は「C’est la galère!(ああもう大変!)」の慣用句があいさつ代わりになるほど文句ブゥブゥだったが、最後にはみな「スト権は大切だから」と、状況を受け入れていた。移動手段を自転車や徒歩に切り替えて「おかげでちょっとダイエットできた」「いい運動になってるよね」と効能を認めたり、大混雑のバスや駅構内で譲り合い・助け合い精神を発揮したり……と、その適応力は「お見事!」と言いたくなるほどだ。

筆者自身も、1時間1本に減らされたバスを逃して途方に暮れていた時、見ず知らずの女性の車に拾ってもらったことがある。安全に配慮しながら可能な時は人を乗せている、困った時はお互いさま、と、女性は軽快に笑った。

「これは必要な戦いだしね。私は民間企業勤めで、激しいストや抵抗はできない。その分『彼ら』が、権利を守る共和国市民の姿を貫き通してくれている。その意味でリスペクトしているんです」

ストライキの権利を「道徳の授業」で習う

ストの意義に賛同する言葉は、他にも至るところで耳にした。職も立場も生活環境も違う、見知らぬ他者への連帯感のようなもの。それを銀行員もタクシー運転手もメーカー勤務も大学教授もエッフェル塔の受付係も、幅広く共有している。それはフランス在住20年目の筆者にも、改めて印象的な光景だった。

国民の多くがそろってスト権を理解し、とばっちりのような不便な状況を、粛々と受け止めている。個人主義をよしとし、利己的とも揶揄されるフランスでだ。一方、筆者の母国の日本ではそもそもスト自体が稀で、小規模のデモ行進にすら、怪訝そうな視線が投げられてしまう。そこで育った目と感覚には、ストを巡る現象は不思議に映った。なぜフランスの人々は、そのようにできるのだろうか。

「だって、学校で習うから」

ふと疑問をこぼした時、フランス生まれ・フランス育ちの家人から返ってきた答えは、拍子抜けするほど単純だった。スト権もその重要性も、他者の主張をリスペクトすることも、全部学校で習う。そのための授業がある。小学校から高校まで、国の学習指導要領が指定しているEnseignement Moral et Civique(道徳・公民)という教科だ、と。

筆者にも日本での小学校時代、道徳の授業はあった。しかしそれは「お友達と仲良くしましょう」「お年寄りを大切にしましょう」「動物をかわいがりましょう」という、どこかふわっとした「善行」を学ぶ時間だった。そこで、スト権を学ぶ……フランスのそれは、大きく様子が違うらしい。

小学生男子がスラスラと「自由・平等・友愛」を唱える

わが家にはちょうど、現地の小学校に通わせている息子が二人いる。なら彼らも現在進行形でこの授業を受けているはずなので、内容を尋ねてみた。

7歳の次男が出してきたのは、「共和国の理念」「共和国のシンボル」と書かれたプリント。暗記するのが宿題なのだと言いざま、誇らしげに「理念は自由・平等・友愛、シンボルはマリアンヌ!」と唱えた。

横にいた10歳の長男も「僕も今日、道徳の授業があったよ」とノートを持ってくる。フランスで初等教育が無償化されたのは第三共和制、1881年ジュール・フェリー教育大臣の時。無償教育はフランス市民の権利……と、テキストを読み上げた。また別の日には「今日は道徳の時間、先生に褒められた」と話した。

「『校内ハラスメント(いじめ)』の例を言える人は? って聞かれて、手を挙げて発言したんだけど、その時に「ある同級生」と「別の同級生」って言ったんだ。そうしたら先生が、『こういう時、個人の名前を出さないのはとても大切。その人を責めるのが目的ではなく、どうすればいいのかを考えるための時間だからね』って」

ちなみに息子たちは二人とも、優等生タイプではない。お絵かきとサッカーが大好きで、宿題はいつも後回し、石と棒切れを拾わずにはいられないお気楽な小学生だ。

そんな彼らの口から自然と、第三共和制の教育無償化や、個人名保護の重要性が出てくる。フランスの「道徳・公民」教育とは、どんなものなのだろう?

子どもたちを「市民」に育て上げる教育

学校での「道徳・公民」教育の歴史は、1794年、フランス革命直後までさかのぼる。小学校教育に関する法で、読み・書き・算数・地理歴史に並んで、「人権宣言と共和国憲法」「共和国の道徳」を教えることが定められた。

目的は、子どもたちに「フランス共和国」とは何かを教え、その一員である「市民(シトワイヤン)」に育てること。自由・平等・友愛の理念に沿って、自分以外の「市民」との共生を学ばせる。以降、時代に合わせて細部を変えつつも、目的は変わらず、一教科として存続してきた。

大きな変化があったのは2010年代、国内で頻発したイスラム過激派による、テロの脅威が広がった時だ。実行犯や予備軍の多くにフランス育ちの若者たちがいたことを、公教育関係者は重く受け止めた。道徳・公民教育が担うべき「フランス共和国の市民を育てる」ミッションが十分に機能しておらず、共和国の価値を伝えきれていなかった。「市民」になれなかった若者を生み出し、国民の分断を招いてしまったのだ、と。

その反省を込め、2015年の教育法改革で、「道徳・公民」の教育目的がより明確・詳細に定められた。新プログラムの通達文には、「この教科の目的は、児童が社会的・個人的生活において、自分の責任を自覚できるようになること」の主旨が添えられている。

教科の社会的な意義はその後も重視され、2018年には内容の簡素化・明確化を目指した改正とともに、成績表での評価記録が定められた。

指定教科書はなく、教材はそれぞれの先生が選ぶ

現行の「道徳・公民」の教育指針は、国家教育省のサイトにて紹介されている。内容はとてもシンプルで、この教育を一切受けていない外国人の筆者にも分かりやすいものだ。

教科の目標は3つ。「他者を尊重すること」「共和国の価値を獲得し共有すること」「市民としての素養を築くこと」。指定の教科書はなく、教材の選択は各教師に任されている。が、授業の進め方は以下のように定められている。

1.実例を挙げ、分析する

2.それを生徒間で討論・議論させる

3.教師は必要な情報を適宜与えるが、生徒間の意見交換を軸に進める

面白いのは、これらの教育目標に至るために得るべき学びが「connaissance(知識)」と「compétence(能力)」として、「四分野の教養」の枠でリスト化されていることだ。以下、小・中学校のそれを例出しよう。

感受性の教養

・感情や気持ちを識別し、コントロールしつつ、表現する
・自己を肯定しつつ、他者に耳を傾け共感できる
・自分の意見を表明し、他者の意見を尊重できる
・違いを受け入れる
・共同作業ができる
・自己を集団の一員と感じられる

規則と義務の教養

・共有する規則を尊重できる
・民主主義社会において、規則や法に従う理由を理解する
・民主主義社会およびフランス共和国の原則と価値を理解する
・規則とその価値の関係を理解する

判断の教養

・見識に基づく判断力と批判的な熟慮力を養う
・規則と論拠に基づく討論や議論の場で、自分と他者の判断を照合できる
・自己の利益と全体の利益を差別化できる
・「全体の利益」の観点を持つ

約束の教養

・自分が約束したことに責任感を持つ
・他者に対して責任感を持つ
・学校や所属組織内での自己の責任を自覚し受け入れる
・集団生活や環境保全に必要な任務を担い、公の意識を養う
・共同作業の方法を学び、その効能を自分の思考や義務に生かす
(「小学校・中学校における道徳公民教育プログラム」国家教育省・2018年7月26日30番官報より筆者訳)

これらの目標の下にはさらに、学年ごとの発達に従って考慮された小目標が設定されている。国語や算数と同じく、筆記課題もある。そして学年末には成績表で、それぞれの知識・能力を「獲得した・獲得途中・未獲得」の3段階で評価する、という仕組みだ。

道徳の「能力」はどうやって評価するのか

道徳の授業の学習目標を「知識」と「能力」の切り口でリストアップし、その獲得を評価する。意図は明快だが、実際、それは可能なのだろうか?

「獲得したかどうかをイエス・ノーの二択で判断するのではなく、段階として評価するのであれば、可能です」

そう答えたのは、フランス国家教育省の学校教育責任者、エドゥアール・ジェフレイ氏。国家教育省大臣に次ぐナンバーツーのポジションに、42歳の若さで就任した俊英官僚だ。教科の詳細や重要性を、資料を見ることもなく、スラスラと応答する。

「知識の評価は単純です。共和国理念や国の仕組みなど『知っているかどうか』を、テストで確認できます。能力の評価はより注意が必要で、学校には『寄り添い、励ます』という姿勢が求められます」

目的は「能力を獲得させること」で、出来・不出来を断ずることではないからだ。それを成績表に評価として記すのは、各児童の成長の目安を家庭と共有するため。フランスは小学校から留年する制度があるが、道徳・公民の評価は、進級の判断材料としては用いないという。

読み・書き・計算と同じくらい大切な教育

この授業で獲得すべき能力を説明する際、ジェフレイ氏は「社会性の能力」と言い換えた。指導方針にリスト化された項目はすべて、「感情をコントロールし、共同体で生きる」ために必須のものだから、と。

なぜそれを、学校で教えるのか。筆者が向けた問いには、「それが、フランスの国家と国民の契約だから」と即答した。

「フランスは、対等な主権者である市民一人一人が集う共和国です。自由・平等・友愛の理念を実践するためにはまず、自分と異なる他者を、対等に尊重できなければなりません。私たちの社会はその尊重なしには成立しない。それができるよう子どもたちを教育するのは、国の役目なんです」

フランス共和国という国をともに作っていく市民を育てる。それが公教育の最終目標なのだ。

「教科として、道徳の学習時間は多くありません。小学校授業の週24時間のうち、フランス語は週8時間、算数は週5時間、道徳は1時間です。しかし学校教育における重要度としては、読み・書き・計算・他者の尊重の四つが、同等で並んでいると言えます」

クラスの雰囲気作りも「道徳の授業」といえる

「道徳の授業はとても重要。実際、週1時間では、足りないと感じますね」

そう語るのは、パリ郊外の小学校で5年生を担任するマルレーヌ・アントニオ先生。道徳授業の目的を尋ねると、国家教育省トップのジェフレイ氏と同じ内容を、別の表現で答えた。

「子どもたちがいつか、市民として独り立ちできるように。一人一人異なる全員が、『私はここにいる』と言いながら、みんなと共にいられることです。学校も、毎日の授業も、そのためにあるんですから」

それに、とアントニオ先生は続ける。

「道徳の授業の成果は、クラスの雰囲気に出るんです。だから私は逆に、クラスの雰囲気作りも、道徳の授業の一環として考えています」

たとえば新学期のはじめ、アントニオ先生は『クラスのルール』を紙に書き、教室に張り出す。そのルールは道徳の学習目標に呼応するものだ。発言の際は手を挙げる。他者の発言を遮らず、最後まで聞く。怒りを暴力にしてぶつけない……そしてクラスでいさかいや問題があったときには、その紙を示して生徒たちに読ませる。

「私個人の意見ではない。この場みんなのルールなのだ、と確認します。書いて貼るのが大事なんです」

クラスに「問題箱」と「いいこと箱」を設置

また今年は新たな試みとして、道徳の時間にダンボールで二つの箱を作り、設置した。一つは「問題箱」、もう一つは「いいこと箱」。生徒間だけで解決できない、みんなで話し合う必要があると考える問題と、みんなで分かち合いたいいいニュースを、匿名で入れられる箱だ。

「設置してすぐ、問題箱の方に10枚くらい紙が入っていたんです。うわ、こんなにあるのか……と驚いたんですが、3日経ったら、その紙が3通に減っていた。それをクラスで話したら、放課後に数人が私のところに来て言ったんです。『紙に書いて入れてみたら、本当にクラスみんなに言いたいことかな、って思って。それでもう一回本人同士で話したら、解決できちゃったの。だから紙を抜き取りました』って」

これがまさに、道徳の学びなんですよ! と、先生は誇らしげだ。

「いいこと箱の方にも数枚入っていましたね。クラスには問題だけじゃない。いいニュースをシェアする楽しさも必要と思っています」

先生は答えを与えず、子ども同士で議論させる

授業の教材にはビデオも使う。先生が活用するのは、<君がもし、私の立場だったら>という短編ドラマのシリーズだ。

シリーズの一つに、車椅子の生徒を主人公にしたものがある。昼休みの校庭、車椅子の生徒に別の生徒が近寄って言う。「車椅子だと走れないから、僕が押して走ってあげる。速く走ると、気持ちいいから!」車椅子の生徒が同意し、二人で楽しく校庭を走り回っていると、別の生徒がやってくる。「そんなことしたら危ないよ!」と叫んで遊びを止め、車椅子の生徒のカバンを「持ってあげるね」と奪い取り、動画は終わる。

ビデオ上映の後は挙手式で、自由討論をさせる。やはり危ないからダメだ。当人同士がいいならいいだろう。速すぎなければいいのではないか……と飛び交う。そこで重要なのは、視点の異なる意見が出ることだ、と先生は言う。

「前回の上映では、『私は最後、カバンを奪ったのが気になった』と言った生徒がいます。車椅子の子もカバンは自分で持てるでしょう? なぜあんなことをするの? と。あれはよかったですね」

そこから、議論は障がい者の自立について広がっていったそうだ。

「私は進行役ですので、答えを与えません。障がい者の権利に関する知識を補完したりはしますが、生徒同士の意見交換が大切なんです。生徒たちが『市民』になっていくには、自分自身で考えねばなりませんからね」

「けんかを促す子」に先生がかけた言葉

基本は生徒の意見交換を尊重するが、やはり介入が必要なときもあると、アントニオ先生は別の例を出した。クラスで実際に起こった出来事だ。

男子二人がけんかを始めた時、周囲の生徒がやめさせようとする中、逆に周囲をいさめ、けんかを続けさせようとした生徒がいた。一対一の勝負に他人は入ってはいけない、本人同士で解決させろ、と。

「普段とても真面目でまっすぐな子なので、驚きました。とりあえずけんかを止め、放課後、その子と個人面談をしました。すると『僕の周りの大人はみんなそうしてる』と言うんです。少し荒っぽい界隈に住む子で、日常的に目にしている光景がそれだったんですね。彼は自分の生きている社会をそのまま、クラスに持ってきた。まさに、学校は社会の縮図なんです」

先生はこの話を、暴力の観点から解きほぐしたそうだ。暴力は犯罪であり、人は殴り合わなくても話ができる。そのためには周囲の助けが必要なこともある。相手がナイフなどの武器を持っていたらどうする? どちらかに重大事が起きてからでは遅いのだ……。

「彼は黙って聞き、うなずいていました。納得したかどうかは分かりません。時間をかけて見ていくしかない。評価なら『獲得中』の段階ですね」

生徒たちとの個人面談で必要を感じた際、先生は必ず記録を残す。そして生徒本人にも、記載内容を確認させる。のちに事態が悪化して、家族面談を行うこともあるためだ。

「どの親御さんでも『うちの子に限って』と思う、それが当然の反応です。その時に記録を出して、生徒本人と確認した旨を伝えます。そして断固として、かつオープンに、親御さんと今後について話し合う。学校と家庭が協働できれば、どんな問題も解決できます。そうでない時は……本当に、難しいです」

道徳の授業が、進級や留年の判断材料になることはない。しかしこの授業で養うべき能力が身につかず、学校で問題を起こし、家庭の協力も得られない最悪のケースでは、転校に至ることもある。

「その意味では、道徳の学びは成績表の評価以上に、重要なんです」

「子どもたちを取りこぼさない」国の意思

フランスの学校における道徳教育の詳細を見ていくと、長期化したストへの人々の反応も納得がいく。自分と異なる他者を尊重すること、それがフランスという国であること。彼らは学校という社会の縮図で、幼少期から教え込まれているのだ。

「それでも残念ながら、取りこぼされてしまう人はいます」

インタビューの最後に、前述の国家教育省の高官ジェフレイ氏は、固い表情で言った。

「どんな出自の人々でも、この土地に住んでいる長さとは関係なく、フランス国籍を持つ人がフランス人です。法の前では、誰もが平等……ではありますが、成功できない人々もいる。私自身パリの郊外育ちで、この目で見てきました」

社会から阻害される若者は存在し続け、経済面や機会面での格差は依然、大きな問題だ。だからこそ、とジェフレイ氏は、語気を強める。

「だからこそ常に、目標を設定し直す必要がある。取りこぼされた子どもたちを放置しないために、2018年の教育法改正では義務教育開始年齢を3歳に引き下げました。また義務教育終了後の16歳から18歳の若者に、就労していなければ研修・教育の機会を与えることを、自治体の義務としています。この年齢で職も所属もなくドロップアウトしてしまう青年が、7万5000人もいるからです」

前後に計5年間延長された教育の機会でも、最終目標は公教育と同じ「フランス市民を育てること」だ。

「自由・平等・友愛の理想に向かって、私たちはこうして、最前線を更新し続けます。私たちの国はもっと遠くまで、前進できる。そう信じて公務員になり、毎日、仕事をしているんです」

日本の道徳授業は、子どもたちに何を獲得させたいのか

フランスでストの日々を粛々と乗り切る人々を作ってきたのは、学校での道徳教育。それに携わる行政と教育関係者の強い意志と熱意は、フランスの社会・文化を題材に発信を続けてきた筆者にも、改めて発見だった。

そしてこの記事を送る日本でも、2018年、学校教育における道徳授業に大きな変化があった。「特別な教科 道徳」として、小学校と中学校で教科化されたことは、読者の記憶にも新しいだろう。

その目的や内容は、文科省が公開している教育指導要領と解説書に詳細に説明され、文科省のサイトで誰でも閲覧できる。指導要領の「道徳」のパートは全8ページ分、解説は170ページある。

筆者も、これを機会に参照してみた。当然ではあるが、フランスのそれとは大きな違いがあり、その相違点は興味深いものだった。ぜひ読者の皆さまにもご自身で参照していただきたいが、筆者の印象に残った点を3点、挙げよう。

(1)日本の国について学ぶ項目で、「伝統」「文化」「郷土」「生活」「国を愛する態度」などに力が入れられているが、日本国の「理念」「制度」「権利」「義務」など、国の仕組みに関する記載が少ない。
(2)フランスの道徳授業にはなかった、家族愛を学ばせる項目がある。
(3)数値などによる評価を行わない。指導要領の解説は、その理由をこう説明している。

「道徳科において養うべき道徳性は、児童の人格全体に関わるものであり、数値などによって不用意に評価してはならない」

筆者は教育学の専門家ではなく、ここで両国の道徳教育を比較する意図はない。義務教育は国民教育であり、中でも道徳は「その国にとって、望ましい国民のあり方」を規定するものだから、国によって異なるのは当然のことだ。

フランスのそれは、あらゆる出自の人々が「共和国の市民」となり、共存するための知識と能力の獲得を、明確な狙いとしていた。では日本はどうだろう。子どもたちに何を獲得させることを狙いに、道徳の授業が考えられているのだろうか。

小学生・中学生のお子さんがいるご家庭が、今回の記事をきっかけに、学校の道徳授業についてご興味をお持ちいただけたら、うれしく思う。

[ライター 髙崎 順子]

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ジャック・アタリ「東京オリンピック開会式で日本は終わる」

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

予言は大当たり! お金の未来予測

2020年、テクノロジーの進歩はますます加速していくのは間違いありません。なかでも特筆すべきは、私たちの生活の根幹である通貨のデジタル化です。

ここ数年、ビットコインなど仮想通貨(暗号資産)を含むデジタル通貨の市場が急成長し、注目を集めていますが、実は、こうした新たな通貨の出現を、私は30年くらい前から予測していました。

そもそも、歴史を振り返れば、非国家の通貨は珍しくありません。古くは紀元前の中国で成立して間もない漢王朝が民間の銅貨の発行を許可していますし、建国間もないアメリカでも民間貨幣が流通していました。

30年前の1990年頃から、市場のグローバル化が急速に進み、取引量が大幅に増加していました。しかも、そのころインターネットが登場。私はインターネットというヴァーチャルな空間の誕生を、人類の新大陸の発見に匹敵する出来事だと公言していました。この手つかずの“第7の大陸”に、これまでにない新たなビジネスが無限に生まれ、それに伴い、新たな通貨が次々と誕生しても、驚くべきことではありません。

第7の大陸は、今なお爆発的に拡張していますから、デジタル通貨は20年以降も数えきれないほど誕生し、流通していくでしょう。

アマゾンコイン、アリババコインが出現

数多くある仮想通貨のなかで、覇権を制するのは誰でしょうか。

間違いなく、巨大IT企業でしょう。私の考えでは、世界に影響を及ぼす仮想通貨を立ち上げる最初の企業は、アマゾン、もしくはアマゾンとしのぎを削っているアリババです。

いずれも企業統治の枠内に膨大な数の商品を扱う、巨大な市場を持っているからです。アマゾンは有料会員だけでも1億人を超え、もはや一国家の規模に及んでいます。

さらに、そのアマゾンを遥かに超え、全世界に数十億のユーザーを持つフェイスブックが19年、仮想通貨「リブラ」の構想を発表しました。ドルやユーロなどの法定通貨を裏付け資産とすることで安定した価値を保つ仕組みです。各国政府や金融当局は、政府の特権である通貨発行権が脅かされることを懸念し、神経をとがらせています。

はたしてフェイスブックは、国家の枠組みを超える通貨革命を起こせるのでしょうか。私の予測では、NOです。フェイスブックは、アマゾンやアリババと違って、ユーザーに対して売る「モノ」がありません。通貨はモノの売買に必要なのであって、商品を持たない企業が通貨を発行することには、限界が出てくるでしょう。さらに、政府はこの点を槍玉に挙げ、リブラや同類の通貨の発行を徹底的に阻止するでしょう。

ユーロ史から考えるデジタル通貨の可能性

そもそも仮想通貨が、現行の通貨に取って代わることはあるでしょうか。

私はユーロの誕生に深く関わっており、その経験から、新しい通貨が普及するためには3つの条件が必要だと考えています。第1に「関税の撤廃」、第2に「商慣習の統一」、第3に「貨幣価値の安定」です。

ユーロ導入においては、ユーロ圏内での為替相場リスクがなくなり、さらに、第1条件の「関税の撤廃」によって、域内のモノの移動の自由が担保されました。第2条件、「商慣習の統一」については、関税以外の貿易障壁の排除に腐心しました。この2つの条件は、インターネットを通じて取引される仮想通貨の場合はクリアされます。

一方で、仮想通貨を導入する場合、第3条件の、「貨幣価値の安定」は実現が見込めないでしょう。なぜかというと、仮想通貨が増えるにつれ、仮想通貨間での価値が発行企業の企業価値と連動し上下してしまいます。結果的に、仮想通貨内での物価が安定せず、安定した成長もできなくなるからです。つまり、安定させるためには、価値を担保する絶対的な貨幣が必要になります。現在の「為替の自由化」と同じ理屈です。

そもそも通貨の目的は、ビジネスを円滑にし、活性化することにより、安定した経済成長を目論むことです。価値が上下する通貨に、人は信用を置くでしょうか。通貨は「信用」がすべてです。中央銀行がうまく機能しなくなった場合、あるいは既存の通貨に対して信用をなくしたとき、人々はほかの何かに移ります。それが金(ゴールド)になるか、デジタル通貨になるのかわかりません。デジタル通貨は、そういった類いのものだと思います。

先ほど、民間発行の通貨として、古代中国や黎明期のアメリカを例に挙げましたが、そもそも今の国家主権は、中央銀行の機能を民間に取られるほど弱まっていません。

したがって、最近よく囁かれる、巨大IT企業が独自のデジタル通貨を立ち上げ、国家を凌駕して世界市場を牛耳るというシナリオですが、今の主要国政府の反応を見るかぎり、そういったことはまだ起きないでしょう。もしも人々が国家の通貨を信用しなくなり、「ドルもユーロも信用できないけれども、アマゾンとアリババで売買できるものは信用できる」と言い始めるような状況になれば、話は別です。そのような無政府状態が引き起こされることは、当分の間ないでしょう。

ヨーロッパはあの企業と協力する

仮想通貨は今後も数多く誕生していくでしょう。ですが、既存の法定通貨をしのぐ安定性と流通性は持ちえないと思います。

その一方で、国家による既存の通貨のデジタル化が始まっています。

今のところ、世界各国は揃って「中央銀行デジタル通貨(CBDC)」への慎重姿勢を崩していません。しかし、欧州と中国は導入に意欲的です。ユーロを管理する欧州中央銀行(ECB)は今、入念な準備を進めています。さらに、「中央銀行デジタル通貨」に批判的だった国際決済銀行(BIS)も、法定デジタル通貨の導入に舵を切りました。

繰り返しますが、通貨は、実際に売買が行われているところでしか流通しません。欧州は、自社内に巨大なマーケットを持つアマゾンとアリババと手を組み、デジタル通貨の立ち上げを進めていくと私は睨んでいます。

デジタル通貨は監視に利用される

一方で、デジタル通貨には、既存の通貨にはない大きな特徴があります。デジタル上で、一人一人の資金決済がすべて追跡できるという、中国のような監視国家にはもってこいのメリットです。

実際、私の視点では、中国の公的デジタル通貨「デジタル人民元」の開発は、金融経済的な観点よりも政治的な思惑が勝っています。

お金のやり取りから知りうる企業や個人の情報は今、中国が急拡大させている顔認証システムがもたらす情報よりも重要度が高いのです。中国政府にとってのデジタル通貨は、体制を維持するために、国民の行動データを中央に集め、また、通貨の移動を管理するためのツールでしょう。

ですから私は、中国がデジタル人民元で、ドル中心の国際秩序に挑もうとしているという最近の論調に同意できません。人民元をデジタル化しても、為替を自由化しないかぎり世界の基軸通貨になれませんし、為替の自由化は民主主義体制にならないかぎり実現しないからです。

中国はいずれ分裂する

デジタル通貨から話は逸れますが、今、進行中の香港の民主化運動から、中国の将来を予測してみましょう。

まず、中国は大国ではありますが、多くの内戦を繰り返して今に至っていることを忘れてはなりません。中国は、内に脆さを抱えた巨人であり、“統一された中国”は神話にすぎません。いつ何時、些細なことがきっかけとなり、国が崩壊しても不思議ではないのです。

中国政府はその危険性を十分に理解し、統一国家を維持するため、非常に巧妙な運営をしてきました。具体的には、資本の移動を国内で自由化させることで、独自の金融政策と為替相場を確保し、独裁体制を維持してきました。中国政府は、一方では自由を与えていると国民に信じ込ませ、もう一方では、自由世界から疎外されている国民を互いに監視させることで民主化を阻止してきたのです。

ところが、自由市場は有産階級、つまりブルジョワジーを生み出します。世界の歴史を見れば、ブルジョワジーが膨れ上がると、民主主義が求められ、独裁政治が排除されます。この流れの中にあるのが、今の香港です。私の計算では、あと10~15年くらいすれば、中国は全体主義から民主主義に転じるでしょう。このとき、国が解体され、2つ、3つの民主主義国家が生まれる可能性も否めません。

世界最大の脅威北朝鮮に騙されるな

さて、次に国際政治の未来に関する話をしましょう。

20年、世界最大の脅威は北朝鮮です。これは間違いありません。アメリカの対北朝鮮政策はお粗末なもので、とりわけ18年6月にシンガポールで行われた米朝首脳会談は大失敗でした。トランプは、交渉段階にもかかわらず、非核化を実現するという金正恩の大嘘を信じ、核開発を継続させるチャンスを与えました。金正恩の手のひら返しは、昨今の報道のとおりです。

米朝首脳会談の過ちが意味することは何でしょうか。

大前提として、北朝鮮は日本だけでなく、中国やアメリカの領域を射程圏内に収める長射程ミサイルを保有しています。その北朝鮮に対してアメリカは、「あなたは核兵器を保有していませんから、私たちは手を出しませんよ」と言ってしまいました。イランに対して核開発を徹底的に阻止し続けている張本人が口にする言葉ではありません。北朝鮮が核放棄に応じなかったとき、アメリカは、日本や韓国に対して「核をつくるな」と言える立場でいられるでしょうか。

日本も韓国も核兵器を持つように

アメリカは北朝鮮有事に対して、ほぼ間違いなく、日本を守ってくれません。アメリカの内向的な態度は、この先、誰が大統領になっても変わらないはずです。したがって、いずれ日本や韓国は自国の防衛のために核開発に乗り出す必要性を感じるでしょう。欧州もアメリカ同様、もしイランが核武装したとき、近隣諸国を守ることはないと思います。

結果的に、安全保障の名目で世界中いたるところで核兵器の拡散が加速します。このまま北朝鮮を甘やかし続ければ、恐ろしいツケが回ってきます。断じて言いますが、この状況は、極めて危険で、世界平和の脅威です。

私が、米朝首脳会談で思い起こすのは、1938年のヒトラーとイギリスのチェンバレンのミュンヘン会談です。私に言わせれば、どちらも、ただの記念撮影の場でしかありません。ミュンヘン会談では、チェンバレンがヒトラーの好き勝手を容認し、まだ戦争の準備ができていなかったヒトラーに時間を稼がせてしまいました。もしも、ミュンヘン会談のかわりに、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告していれば、あの時点の軍事力では、一夜にしてヒトラーを追い払い、人類史上最大の戦争となった第2次世界大戦を回避することができました。

トランプは北朝鮮に対して、チェンバレンと同じ過ちを犯しました。歴史に「もしも」はありません。だからこそ、私たちは過去の過ちから学び、差し迫った脅威が何であるかを考え、平和な未来のために手を打たなければならないのです。

日韓対立は幼稚、対北朝鮮の世界同盟を

30年前、国際社会はブラジルと南アフリカに核保有を放棄させることに成功しました。同じように、北朝鮮にも核保有を断念させなければなりません。そのために、まずはアメリカ、日本、中国、韓国が、ただちに同盟を結ぶことです。同盟には、オーストラリアや欧州も加わったほうがいいでしょう。国際的な同盟となって、北朝鮮に対して経済制裁や、より強度の高い制裁を加えるべきです。制裁への報復など北朝鮮側の抵抗を見据えて、武器の使用も覚悟する必要があります。

昨今の日韓対立は、非常に幼稚です。本当に幼稚だと感じています。日本と韓国は、極めて危険な共通の敵がいることを理解し、敵の思うツボにはまらないように手を組むべきなのです。

同時に、国際社会は北朝鮮だけでなく、核保有国であるインド、パキスタン、イスラエルの核放棄も実現させなければなりません。核不拡散に向けて、世界は早急に手を打たなければならないのです。20年の国際政治において最優先すべきことは、国際社会が手を携え、北朝鮮の核開発を停止させることです。

ブレグジットの原因はロンドン五輪

20年にオリンピックを控える日本に、ロンドン・オリンピックと同じ轍を踏まないよう警告したいと思います。

ロンドン大会の開会式を覚えていますか。産業革命や国民保健サービスなどイギリスの世界的な功績を前面に出し、ビートルズやミスター・ビーンなど世界を熱狂させたエンターテインメント要素を取り込み、あげくに『007』のジェームズ・ボンドを演じるスタントマンがヘリコプターからエリザベス女王と降り立つという、いっとき世界を席巻した大英帝国の伝統と威光、ユーモアと親しみやすさを世界に見せつけました。イギリス一色の見事な演出でした。

あの開会式は、イギリスが第2次世界大戦以来、失っていた威信を取り戻した場と言っていいでしょう。この見事な開会式が「大英帝国は偉大。誰の力も必要としない」という過信に繋がり、イギリスのEU離脱の引き金になったと私は見ています。

オリンピックという巨大な祭典の場で、東京が世界に向けて発信するものが、もし「日本は最高だ!」の一色であれば、日本の未来は破滅的です。逆に「国境を超えて団結できれば素晴らしい世界が待っている」というメッセージであれば、問題はありません。ロンドン大会の開会式は、たとえ開会式そのものが驚くべき素晴らしいショーであったとしても、行きすぎた自信とナショナリズムを生まないための反面教師として記憶しておくべきです。

自分ファーストがまん延している

ブレグジットに見られるように、今日の世界は国家も市場経済も近視眼的で、重要な決定が短期的な視野のもとでなされています。ナショナリズムの台頭など思想の危機も分断を進めています。要するに、今日のイデオロギーは勝手気ままで、社会においても、個人の私生活においても「自分ファースト」(自分第一)なのです。しかし、他者を顧みない利己の追求が破滅を呼ぶことは明らかです。

20年からは「合理的な利他主義」という新しいイデオロギーが根付くことを私は願っています。繰り返しますが、他者のことを顧みない利己の追求が長続きしないのは明らかです。他者の幸せを考慮してこそ自分自身も豊かになれるのです。他者を助けることが、自分を助けること、利他主義が利己の最善の方法であることを、ぜひ理解していただきたいと思います。

ここで言う「他者」とは身のまわりの人だけでなく、これから生まれてくる次世代も含まれます。次世代の利益を考えて行動することが、個人にとっても最大の利益になることを悟ることによって、私たちは幸せに暮らせます。人文知の宝庫である偉大な日本文化を広く活用し、この先も発展させることは、世界のために有益となり、日本の次世代の利益にもなります。

将来性ランキングOECD最下位の日本

私の研究機関では毎年、次世代の教育、国債、インフラ構築、女性の地位など複数の観点からOECD(経済協力開発機構)加盟国の将来性を格付けしています。最新の統計でも、例年通り、上位を北欧諸国が占め、日本は韓国やトルコなどよりも低い最下位グループの1つです。日本が、とりわけ次世代への備えが遅れていることを認識し、早急に手を打つことを呼びかけたいと思っています。なかでも減り続ける労働人口は、今後の日本の国力にかかわる喫緊の課題です。

人口減対策として日本政府は外国人労働者の受け入れ拡大を目指しています。不安視する声があるようですが、世界経済におけるプレゼンスが弱まっている日本が活気づくには、外国の顧客のニーズを把握し、外国人を魅了し、外国人労働者を受け入れること。要は、未知なものに対して積極的に門戸を開くことだと、私は常々思っています。新しいヒト、モノを積極的に受け入れることで、この先どう進むべきか、答えが見えてくるでしょう。

日本の未来を明るくする処方箋

留意すべきことは、外国人労働者の受け入れによって、目先の人手不足は解消されても、少子高齢化問題の根本解決につながらない、ということです。現に、少子高齢化先進国といわれるフランスの合計特殊出生率に移民が寄与している、という説は間違いで、実際は、第2次世界大戦後からの積極的な子育て支援政策が功を奏したからにほかなりません。

日本が本腰を入れるべきことは、外国人受け入れ拡大以上に、子どもを産み、次世代への備えを進めるための意識改革です。

「これで幸せだから、子どもはいらない」「子どもを産むと家計が苦しいから産みたくない」という利己的な考え方から、「子どもは日本社会の未来であって社会の宝」「子どもを産むことが自分の利益」という価値観に変えていくよう、社会全体の意識改革が必要です。

女性が安心して子どもを多くつくるための最善策は、女性により多くの権利、よりよい仕事を与えることです。私は日本を訪れるたびに、様々なビジネスシーンにおいて、女性の割合がいまだに少ないことを危惧しています。社会は女性に力を与えれば与えるほど前進します。日本は、女性に対するあらゆる形態の差別と暴力と戦い、女性の社会進出と地位向上を目指すべきです。

1つの具体案は、出産後に女性と配偶者に長期休暇を与えることです。夫婦合わせて、生後、合計6カ月の休暇が必要でしょう。日本の未来のため、自分たちの利益のため、政府と企業は連携して、より一貫した家族政策を推進する必要があります。

「合理的な利他主義」と「未知なものに心を開く」。この2つは、日本の未来を明るくする私からの処方箋です。20年、きっと素晴らしい年になるはずです。

[経済学者 ジャック・アタリ 取材・構成=桂 ゆりこ 撮影=宇佐美雅浩 写真=AFLO、時事通信フォト]

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"スタバでMacは残念"の記事に激怒した人へ、「私は事実を述べただけ」

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

人間は脆弱なアキレス腱を突かれたとき、激烈な反発を見せる

『プレジデント』2020年1月31日号で寄稿した私の「スタバでマックを広げている人たちの残念すぎる仕事効率」が大きな反響を得た。半分が共感、もう半分が激烈な反発である。どだい、何かのオピニオンを問うとき賛否は同数ととらえるのが物書きとしての常識であるが、今次反発を感じた半分の読者は、スタバでマックブックを広げて仕事をする人そのものだったのか、あるいはそれに準じる存在であったとして差し支えないであろう。

人間は最も脆弱(ぜいじゃく)なアキレス腱を突かれたとき、最も激烈な反発を見せる。私はスタバでマックを広げて仕事をしているいわゆる「ノマドワーカー」を外見ばかり気にし、自意識が肥大してその実中身は全くない「意識高い系」と喝破したが、その指摘にグサリと己の後ろめたさを痛感した御仁がそれだけ多いということである。

繰り返し言うように、私はスターバックスやマッキントッシュが嫌いだ、と言っているのではない。ただスタバの店舗構造が作業一般に適していないし、そもそもそのように設計されていないし、そこでマックを広げる蓋然(がいぜん)性がない、と言っているにすぎない。仕事は通勤先のオフィスでやるものだとか、足を使った営業がすべてに勝る、というインパール的精神論を言っているのでもない。

私はただ、事実を述べただけなのである

ただ、世界中に展開するスタバの中で、日本のそれだけが、都市部の知的労働者や「ノマド」を最初に提唱した安藤美冬氏の外面上のイメージに憧れを抱き、それを薄くトレースしているだけで、その実、合理的な仕事効率とは何ら関係がないという特殊な事実を述べただけである。

日本ではここ数年、生産効率とか仕事効率という言葉が大きくクローズアップされるようになった。人口が減り、総体としての経済規模があまり変わらない中、一人頭の生産性向上が日本経済喫緊の課題とされ、官民挙げて生産性向上が謳(うた)われている。生産性、効率……。この掛け声がエスカレートして歪曲されたのが、自民党某議員による「LGBTには生産性はない」というトンデモ寄稿であり、結果として大手出版社の出す雑誌がひとつ潰れる騒動になったが、これは論外としても、社会の中にある生産性の低さは、実は高度成長時代から日本経済の負の面として大きく横たわる構造的欠陥であった。

いわゆる日本の「二重構造」問題である。東京や大阪などの大都市部における、国際競争力が高く合理的な先進企業が経済を牽引する一方、成長に取り残された都市下層や農村・地方においては、いまだ封建的な慣習のもとに非効率な中小零細企業が圧倒的多数を占めている……。

所得格差や疲弊が顕著になり、仕事効率に注目

この「二重構造」を是正することが戦後の民主日本経済の大前提とされた。高度成長が一巡した1970年代後半以降、この日本経済の「二重構造」は、経済規模そのものの量的拡張をもっておおむね解消したとされたが、実際はまやかしであった。

農村や地方を支持基盤とする自民党一党支配は90年代、および2000年代後半の間、欠期を除き現在でも続き、その間、自民党は非効率的で生産性の低い、都市下層部や農村・地方の中小零細企業を各種の補助金や税制優遇等で温存し続けた。しかしこういった矛盾は、紆余(うよ)曲折はあれど日本経済が拡張を続けたおおむね97年ごろまでは、総体として経済が拡大しているのでないこととされた。

現在、生産効率とか、仕事効率というのが再び話題になっているのは、こうした日本経済の規模拡大が20年前に終焉(しゅうえん)を迎え、元来非効率で生産性の低い日本の中小零細企業とその雇用者に、大企業と比べて目に見える所得格差や疲弊が顕著になってきたからである。つまり日本経済は、戦後の課題であった「二重構造」を一向に克服せぬまま、経済規模の拡大によってその構造的欠陥を糊塗(こと)してきたということになる。

都市部の知的労働者の多くは、生産性や仕事効率が何か理解していない

「スタバでマックを広げる人」はこうした、経済拡大のなくなった時代に提唱されたまやかしの労働価値観への従者たちである。経済成長が鈍り、労働者の実質賃金が下落し、一部の「合理的」な企業の利益だけが肥え太る結果となった21世紀以降、官民挙げた生産性向上の掛け声に、ほとんどの日本人労働者はどうしたらよいのかわからなくなった。

なぜなら、そもそも日本経済は、生産性や効率が高い優良企業と、そのほか大勢の非効率的中小企業が一方で温存されてきた。その両者の格差が人口増加と経済規模拡大によって隠されてきた、という根本的構造を解消することができなないまま21世紀を迎えたのだ。

だから特に都市部の知的労働者の多くは、生産性や仕事効率というのが実際に何を意味するかを理解できず、マックというツールや、スタバという空間に接続することでその解決を図ろうとした。「スタバ(カフェ等)でマックを広げて仕事をする人」を「ノマドワーカー」と定義した前述安藤氏自体、その薄い著書を隅から隅まで読んでも、スタバでマックを広げて仕事することの何が合理的で生産性向上につながるのかの根拠は一切述べていない。

ただそれが「新しいライフスタイルである」と提唱しただけで、その例証も渋谷近辺という、東京都内のごくつましく、限られた地域に限局されて、ノマド(遊牧民)の本義を実践しているとは言いがたい。良くて「渋谷のカフェで仕事をする人」である。「だから何?」その五文字で終わる事実を、「ノマド」という新造語で取り繕って新しくもないのに新しい価値観だと喧伝(けんでん)し、少なくない知的労働者に憧れを与えたのは時代の病といえる。

「キラキラした価値観」。実態は何もない

日本経済の成長がほぼ停滞した21世紀以降、つまりゼロ年代において、この手の「何かキラキラしたような新しい価値観を想起させる横文字」を標榜して、その実態は何もないという泡沫(ほうまつ)のような事象が現れては消えた。それはオンラインサロンであったり、インスタグラマーであったり、インフルエンサーであったり、また今日的にはユーチューバーである。

経済の拡大がなくなった世界においては、中産雇用者の賃金は一様に低下し、また消費動態も一様に縮小するので、その差異を「仕事の仕方」とか「仕事をする場所」とか「仕事をする道具」というものに求めていく。

「この腕時計をすれば上司からデキる男と思われる」とか、「秋はちょいモテコーデで取引先からの好感度アップ」などという、生産性や仕事効率というものの実態とは何の関係もない、「自尊心」や「自意識」をくすぐる文句に、労働者は煽(あお)られていく。

「スタバでマック」などこの典型で、たった数百円のコーヒー代を払えばいっぱしのエリート・ビジネスマンになった気分が手に入るのだから、日本でこの手の「偽りの労働形態」が隠さざる自意識を伴って繁茂するのは当然といえる。

問題の答えは「移民政策」にあり

では、生産性や仕事効率の向上という、もはや国家のお題目となったスローガンを達成するには何が必要なのかというと、一にも二にも戦後日本経済の宿痾(しゅくあ)である「二重構造」の解消である。つまり非効率的で生産性の低い、都市部や地方に存在する中小零細企業を統合して、大企業の中に包摂し、無駄なマンパワーや資源をすべて集産的計画に従って配置換えをする。

実際にこうして成長してきたのがアメリカであり、だからこそアメリカの産業構造は大企業寡占で、逆にその集産的発想に乗り遅れた日本ほど、先進主要国の中で中小零細企業が多くの雇用を抱えている国はないのである。ここまで言うと新自由主義的と批判される向きがあろう。だが私は修正資本主義に肯定的で決して新自由主義の信奉者ではない。

非効率的な中小企業の統廃合は一時的にだが大量の失業者やさらなる労働者間の格差を生む。それが嫌だというのなら、歪な経済構造を温存したまま経済規模の拡張を進めるしかない。その解答は単純に言えば生産人口の増加であり、日本においては移民政策である。

古くて効率の悪い産業構造を温存して国内の労働者を保護したまま成長したいのなら、人口増加が最も手っ取り早い方法であるが、いまだ日本には左右ともに強烈な移民アレルギーがある。右には排外主義的な世界観による移民拒否。左には正規労働者の雇用保護の観点がその理由である。

たしかにスタバでマックぐらいがちょうどよいのかも

が、先進国のほぼすべてが抱えた母国人の人口減少という問題と、その代替としての移民政策は、避けて通れない道であり、それを安倍政権も重々わかっているからこそ「実習生」という名目で人権蹂躙(じゅうりん)状況のまま、なし崩し的に移民政策が敢行されるという、きわめて玉虫色の展開で事は動いている。日本がやることは「スタバでMacを広げる」のではなく、はっきりと「日本人労働者と同等の権利を有した移民を認め、法的に保護し、彼らに門戸を開く」という宣言である。

ところがこういった国家の姿形が根底から改良される大きな構造変化に対し、ゼロ成長が20年以上続いた守勢の日本人はあまり乗り気ではない。経済規模が日本の15分の1以下のフィリピンですら(と言えば失礼だが)成しえた米軍撤退や地位協定改廃には全く無関心で、社会の本質とは無関係な俳優や女優の不倫に汲々(きゅうきゅう)とし、生産性とは無縁な「道徳心」を声高に叫ぶ世論の矮小(わいしょう)化と堕落にあって、やはり移民への門戸開放だのという大きなお題目は響かない。

数百円を払ってスタバでマックを広げてノマドに変身できるお手軽で境界の薄い自意識の高揚のほうが、手っ取り早くインスタントなのだ。昭和元禄は遠く、電子立国ですらなくなった黄昏(たそがれ)の経済大国には、スタバでマックぐらいがちょうどよいのかもしれない。嗚呼、貧すれば鈍する。

[文筆家 古谷 経衡]

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大型トラックが追い越し車線をノロノロ走る本当の理由

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

トラックが「ノロノロ運転」をするのには、理由があった。元トラックドライバーでライターの橋本愛喜氏は「急ブレーキをかけると荷物が吹っ飛ぶ恐れがある。ノロノロ走りたいのではなく、『ノロノロでしか走れない』という事情がある」という――。

※本稿は、橋本愛喜『トラックドライバーにも言わせて』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

ドライバーはトラックを不要に止めたくない

トラックの謎行為としてよく聞かれるのが、彼らの「ノロノロ運転」だ。一般道や高速道路が渋滞中、前を大きく空けてノロノロ走っているトラックを見たことがあるだろう。その理由にはいくつかあるのだが、遠くまで見渡せる車高の高い大型トラックは、途中で加速したり止まったりしなくてもいい「一定の低速度」で走る方が楽だということが前提にある。

というのも、トラックの多くはMT車。AT車のように、ただアクセルを踏めば前進してくれるものではなく、速度を変える度にクラッチを踏み、シフトチェンジ(ギアチェンジ)をしなければならない。

また、一度完全停止させたトラックを発進させ、元のスピードに戻すには、手間も時間も燃料もかかる。特に、荷物を満載したトラックが急な上り坂で止まると、シフトチェンジやクラッチ操作はより煩雑になり、場合によっては前にも後ろにも身動きできなくなってしまうことがあるため、ドライバーはトラックを不要に止めたくないのだ。

シフトチェンジは、慣れれば決して難しい作業ではないが、信号の多い一般道や渋滞中の高速道路では、その回数は必然的に増える。こうした小さな作業の繰り返しが、少しずつ疲労として蓄積されていくため、トラックドライバーは数台先までのクルマの流れを見ながら、なるべく定速で走ろうとするのだ。

渋滞の原因は大型トラックなのか

そんな中、時折「こうした大型トラックのノロノロ運転が渋滞を作っている」という声を聞くことがあるのだが、渋滞を発生させるのはトラックの「ノロノロ運転」ではなく、むしろ一般車が無駄に光らせる「ブレーキランプ」で、それに反応した後方のドライバーが次々にブレーキを踏むことのほうが要因としては圧倒的に大きい。

そしてもう一つ、トラックドライバーが混雑する道路をノロノロ運転する最大の理由が「バタ踏みの回避」だ。大型トラックのブレーキは「エアブレーキ」といって、不要に踏み込んだり頻繁に踏み続けたりすると、エアタンクに貯まっていた空気がなくなり、ブレーキが利かなくなってしまうことがある。

ドライバーの間では、こうした踏み方を「バタ踏み」と呼んでいるのだが、過去にはこのバタ踏みが原因の死亡事故も多く発生している。

特に山道や渋滞中の道では、前のクルマのブレーキランプにいちいち反応してブレーキを踏んでいると、こうした危険が生じやすくなるため、なるべくゆっくり走ることで、ブレーキを踏まなくてもいいように走ろうと日々努めているのである。

一般ドライバーがトラックのノロノロ運転に「イライラする」と感じるのは、一般道や渋滞中だけではないはず。高速道路の「追越車線上」でも同じくらい邪魔だと感じるところだろう。が、これにもトラックの構造上の理由がある。

ノロノロ走りたいのではなく「ノロノロでしか走れない」

大型トラックには、高速道路での事故防止のため、2003年からスピードリミッターの装着が義務付けられた。これにより、大型車はどんなにアクセルを踏み込んでも、時速90キロまでしか出せなくなったのだ(大型車の高速道路上の制限速度は時速80キロ)。

そんな中、運送会社の多くが「社速」としている時速80キロで走るトラックを、この90キロのトラックが追い越そうとすると、単純に計算しても約1分間「トラックの並走」が起きてしまう(車間80メートル、車長10メートルの場合)。

こう言うと、「時速10キロの差くらい我慢して、全トラック時速80キロで最左車線を走ればいい」とする声が返ってくるのだが、時間と戦う長距離ドライバーにとって、1時間10キロの差は大変大きい。単純に計算して、10時間走れば100キロ。東京からだと、沼津あたりまでの差が開く。

図体の大きいトラックの並走に遭遇し、イライラすることもあるだろうが、それを運転しているトラックドライバー自身も、差し迫る到着時間の中、なかなか追い抜けずにストレスを抱えている。ノロノロ走りたいのではなく「ノロノロでしか走れない」ことを理解してもらえると、互いの運転意識も多少は改善されるのではないだろうか。

トラックの「車間を空けすぎる問題」

こうしてノロノロ走るトラックの中には、前の車両と大きく車間を空けて走るケースもあり、一般車から更なるひんしゅくを買うことがあるのだが、実はこの「車間」にもちゃんと理由がある。「荷崩れの回避」だ。

「荷崩れ」とは、トラックの荷台に積んだ荷物が、振動や衝撃によって崩れてしまうこと。

ほとんどのトラックドライバーは、それまで培ってきた経験をもとに、積んでいる荷物の重さや積み方、道路状況、ブレーキの利き具合などから制動距離(ブレーキが利き始めてからクルマが完全に停止するまでの距離)を感覚で把握し、この「荷崩れ」を引き起こさずに止まることができるスピードと車間で走っている。

つまり、その大きく空いた車間は、チンタラ走ったがゆえの空間でも、他のクルマに前を譲るためのものでもなく、荷崩れせず安全に止まるためにトラックが必要としている大事な「パーソナルスペース」なのだ。

そんなスペースに、突然クルマが割り込んでくれば、当然トラックは安全な車間が保てなくなり、やむを得ず急ブレーキを踏むことになる。急ブレーキを踏んだトラックは、結果的に「前方の割り込み車との衝突」だけでなく、「後方の積み荷の荷崩れ」の危険性にも対峙することになるのである。

荷崩れが引き起こす最悪な2つの事態

こうして急ブレーキを踏まざるを得なくなった際、トラックドライバーの脳裏には一瞬のうちに“荷崩れが引き起こす最悪な2つの事態”がよぎる。

一つは、「破損した積み荷の賠償責任」だ。

突然の割り込みに急ブレーキを踏み、そのクルマとの衝突を回避できたとしても、運んでいる大事な積み荷が荷崩れを起こして破損すれば、その後、トラックドライバーは「損害の賠償」という重い負担を背負うことになる。

ドライバーはハンドルを握って走っているだけが仕事ではない。彼らの本当の役割は「トラックの運転」はもちろん、「荷物を安全・無傷・定時に届けること」。こうした立場から、荷物が破損した際の賠償は、トラックに荷物を積み込んだ時点で、「運ぶ側」が負わされることがほとんどなのだ。

運搬する荷物の中には、筆者が積んでいた金型や、慎重な扱いが求められる精密機械など、その額が「億」を軽く超えるものもあり、破損した際の損害額も巨額になる。そのため、危険運転を繰り返す悪質な一般ドライバーによって引き起こされる荷物事故を少しでも食い止めようと、最近ではトラック車内にドライブレコーダーを搭載し、その車両を特定しようとする運送業者も増えてきている。

もう一つの“最悪の事態”は、「身の危険」だ。

急ブレーキを踏んだトラックは、前方のクルマとの衝突を回避できたとしても、後ろに積んだ荷物が「慣性の法則」によって前になだれ込んでくることで、運転席が潰れたり、バランスを崩して横転したりする危険に晒される。

右足の「ひと踏み」で簡単に吹っ飛んでしまう

筆者もかつて、縦3メートル、横1.5メートルにもなる板状の金型を積んで高速道路を走行している際、急ブレーキを踏んで大規模な荷崩れを起こしたことがあった。走っていた道が緩やかな上り坂だったので、荷物が前に滑り込むことはなかったが、もしそこが平らな道路だったらと思うと、今でも腰のあたりが異様に疼き始める。

トラックドライバーももちろん、こうした荷崩れ対策のために手間を掛け、工夫を凝らして日々荷積み作業を行ってはいるが、残念ながらこうした努力は、右足の「ひと踏み」で簡単に吹っ飛んでしまうことが多い。

トラックドライバーにとって急ブレーキを踏む瞬間は、何を載せていたか、しっかり固定していたか、損害額はいかほどかなどを考えたり、時には「前への衝突」と「後ろからの衝撃」を天秤にかける瞬間ともなる。トラックは、走らせるよりも「止める・停める」ことのほうが、技術的にも精神的にも難しい乗り物なのだ。

トラックと一般のドライバーの間にある「感覚のズレ」

そんな危険をもたらすトラック前への割り込みだが、実はこの「割り込み」において、トラックドライバーと一般ドライバーとの間に、「感覚のズレ」が生じることがある。その原因になっているのが「車高の違い」だ。

既に述べたように、トラックは車高が高いうえに、左後方が死角になることが多い。そのため、車高の低い乗用車が、そのトラックの前に入るべく右ウインカーをトラックと並んだ状態から光らせても、トラックにはそれが見えないことがある。

一般ドライバーにとっては、長めにウインカーを出していたつもりでも、そのウインカーがトラックドライバーに伝わっていなければ、彼らには「急な割り込み」にしか感じられず、結果、不要な急ブレーキを踏むことに繋がるのだ。

こうした危険は、ルームミラーにトラックの車体がしっかり映り込むくらい前に出てから、ウインカーを4、5回ほど点滅させて車線変更することで回避できる。そのくらいの車間と時間があれば、トラックにも、安全な車間を取り直す余裕が生まれるため、不要な急ブレーキを踏む回数は大幅に減る。

無理な割り込みで生じる結果に、いいものは決してない。どんな時でも、心と車間に余裕を持った運転を常に心がけてほしい。

[フリーライター 橋本 愛喜]

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マスクの高額転売をわざと見過ごしたフリマアプリのモラル

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

常識と良識で考えると明らかにおかしい

国内で新型コロナウイルスによる肺炎の感染が増える中、一部のネットオークションサイトなどではマスク60枚セットが約10万円、1800枚セットで約30万円など、常識では考えられない高い価格で転売されはじめた。転売によってかなりの収益を得たケースも報じられている。

常識と良識にもとづいて考えると、この状況下でマスクを高額で転売するのは容認されないだろう。多くの人がマスクの入手に困っている。その解決には、わが国全体での協力が欠かせない。社会全体で考えた時、マスク入手に困る人々の足元を見るようにして高額での転売を行い、利得を手に入れる行動が容認あるいは黙認されるのはおかしい。

別の観点からマスクの高額転売を考えると、ITプラットフォーマーは自社がどのような社会的な要請、期待を負っているか、冷静に考える必要がある。オンラインでオークションやフリーマーケットを運営する企業は“社会の公器”としての自覚を一層強く持ち、人々の信頼を獲得するために行動しなければならない。

企業は社会の公器である

企業は社会の公器だ。企業は商品やサービスの提供をとおして消費者とより良い関係を築く。顧客層が拡大するにつれ、社会全体に対する企業の影響力は増す。それが、企業が社会的責任を持つということだ。つまり、事業をはじめたその時点から、企業は社会全体からの信頼感を獲得し、強化しなければならない。特定の(一部の)利害関係者の欲求を満たすことによって、企業の長期存続が支えられるわけではない。

新型肺炎の感染が広まる中、多くの人がマスクを必要としている。フリーマーケットなどのITプラットフォームが、社会全体が必要とするモノの高額転売に利用されているのは、社会の公器としての本来の在り方にそぐわない。

経営学の専門家の中には、マスクの高額での転売は納得できないという考えを持つ人が多い。それは一部のITプラットフォーマーが企業は社会の公器であるという最も重要、かつ根本的なポイントを十分に認識できていなかったからだろうと指摘する者がいる。ITプラットフォーマーは、自社のサイト上で自由に価格が形成され取引が行えるというメリットと、社会全体の厚生のバランス感覚を磨かなければならないとの指摘もある。

ITプラットフォーマーの社会的な役割とは

この問題を考えるには、フリーマーケットなどの基本的な意義を確認する必要がある。それは、個人と個人(C2C)が直接にモノの取引を行うことで、より良い消費の選択肢を手に入れることにある。C2Cなどの取引を仲介することで、より良い需要と供給のマッチングを実現することが、ITプラットフォーマーの社会的な役割のひとつといえる。

ある人が洋服を買ったとしよう。着るタイミングを逃してしまい、シーズンも変わってしまった。捨てるのはもったいない。それを日曜日に近所の公園で開催されるフリーマーケットに出品したところ、他の人の関心をひきつけ、買ってもらえた。それによって、出品者と購入者はウィンウィン(両者にとってメリットがある)の取引ができる。これが本来のフリーマーケットの意義だろう。

社会の公器としての役割に加え、ITプラットフォーマーは常識と良識にもとづいてサイトやアプリの管理・運営を行わなければならない。新型肺炎への不安が高まる中で一部の人が他人の足元を見て利得を手に入れる状況は容認できない。それは、多くの人が抱く常識的な見方だろう。多くの人が常識で考えて納得できることが重要だ。

利得追及が常に認められるわけではない

マスクの高額転売は、一部の人間による資源などの独占・集中が起きているとも言い換えられる。それは、社会により豊富な消費の選択肢や機会を提供するというITプラットフォーマーの社会的責任や役割から逸脱しているといわざるを得ない。

自由な取引という経済原則を盾に取った利得追及が常に認められるわけではない。行き過ぎた利得追及によって社会的な弊害が生じる展開は、事業の運営主、あるいは公的な機関が止めなければならない。政府が取得した価格以上の値段でマスクの転売を禁止したのは当然だ。マスクの抱き合わせ販売に関しても、公正取引委員会が独占禁止法に違反する恐れがあると指摘している。

やや気になるのは、ITプラットフォーマーがこうした常識と良識にもとづいた事業運営をどこまで徹底しようとしてきたかだ。マスクの高額転売が問題視される前にも、ネット上のフリーマーケットなどで取引されてきたモノやコトの中には常識的に考えておかしい、問題があると指摘されるものがあった。

夏休みの宿題を代行するサービスの出品も

たとえば、一部のプラットフォーマーでは、小学校の夏休みの宿題を代行するサービスなどが出品されたことがある。夏休みの宿題は、児童一人ひとりが自分の力で成し遂げることに意義がある。スキルのシェア、購入した商品の配送や品質などを巡ってトラブルに発展したケースもあると聞く。それらは常識と良識に照らしておかしい。

また、換金を目的にしたと思しき現金や偽ブランドの出品なども行われていた。これは法令違反だ。ITプラットフォーマーはそうした取引をなくすために人海戦術で対応してきたが、未だ取り組むべき課題は多いようだ。

ITプラットフォーマーはビジネスモデルを支える基本的な価値観に立ち返る必要があるだろう。新型肺炎の発生によって日常生活に不安を募らせる人は増えている。群集心理に付け入るようにして特定の個人が利得追及に走る状況は公共の福祉に反している。こうした問題はテクノロジーの活用以前の経営理念に関する論点だ。

各社は、人々が公平に、安心して利用できるオンライン上のフリーマーケット、あるいはオークション空間を確立しなければならない。システムでの対応が難しいのであれば、取引をモニターする人員を増員するなどの対策が求められる。そうした取り組みを重ねることが、企業が社会からの信頼感を得ることにつながる。

社会全体から信頼されるシステム構築を急げ

逆に言えば、マスクの高額転売問題はフリーマーケットやオークションサイトの社会的な影響力が増していることを確認する重要な機会になった。新型肺炎の発生によって、わが国だけでなく世界各国でマスクなどの日用品の買い占めが多発している。その状況が続けば、日常生活を安心して過ごすことができるか、不安を抱く人は増えるだろう。その状況の中で高額転売を放置すれば、企業のイメージは低下する恐れがある。

2月下旬、世界の金融市場では新型コロナウイルスが米国を中心に世界経済を冷え込ませるとの懸念が高まった。さらに3月に入ると原油価格の下落から米国の景気後退懸念も浮上した。多くの市場参加者が先行きを警戒しリスク削減に動いている。近年、世界的に企業の社会的責任への関心が高まってきただけに、高額転売を黙認し社会からの批判を浴びる企業に対する投資家の視線は一段と厳しくなっているとみられる。同時に、IT先端分野での国際競争も激化している。

ITプラットフォーマーは常識と良識にもとづき、自社にどのような役割が求められているかを冷静に見直すべきだろう。それをもとに、社会全体から信頼されるシステム構築に向けて新しい取り組みを進める必要がある。それは、各社が多様な利害関係者と良好な関係を築き、長期の存続を目指すために重要な取り組みの一つと考えられる。

[法政大学大学院 教授 真壁 昭夫]

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「週末は長めに寝てしまう人」の脳や体は危険な状態にある

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

日本人は5人に1人が睡眠不足とみられている。スタンフォード大学医学部精神科の西野精治教授は「『睡眠負債』を解消するには休日の”寝溜め”では足りない。例えば、40分間の睡眠不足を取り戻すには3週間かかる」と指摘する——。

※本稿は、西野精治『睡眠障害 現代の国民病を科学の力で克服する』(角川新書)の一部を再編集したものです。

3000万人が睡眠障害である可能性

アメリカにおける潜在的な睡眠障害の人口比率を参考にすると、日本人の総人口は約1億2400万人ですから、潜在的な睡眠障害の患者は約3000万人くらいいても不思議ではありません。

アメリカの場合、7600万人のうちの約半分はなんらかの治療を受けておりそのほとんどが、睡眠薬、サプリメントです。その内訳は、21%くらいが処方薬、26%が薬局で購入できる市販薬、残り数%がサプリメント等での治療をしているとされます。

日本国内における詳細な数字は把握できていませんが、サプリメントに頼っている人が多いかもしれません。現在、日本で処方箋なしで買える睡眠薬は抗ヒスタミン薬だけ。それでもある製薬会社では、この抗ヒスタミン薬の売り上げが70億~80億円規模という状況ですから、使用している人が相当数いることが推測できます。

アメリカで睡眠障害の患者が増えてきたのは、単純な話ですが、睡眠障害が一般的に知られるようになってきたのが第一の要因です。睡眠医学の研究が進み、睡眠障害への認識が高まると、さらに増えるのではないでしょうか。

日本も同じように考えていいと思います。もしかすると、その予測を超えるかもしれません。なぜなら、日本人の睡眠時間は、海外と比べると明らかに短いからです。

9時間以上眠る南アフリカより2時間も短い

OECD(経済協力開発機構)が2018年に発表したデータによると、調査対象国のなかで日本は最下位で、1日の睡眠時間は平均442分(7時間22分)でした。1位の南アフリカの553分(9時間13分)と比べると、約2時間も睡眠時間が短いことになります。しかも、前回調査(2014年)の463分から、さらに短くなっています。

睡眠時間が短くても、睡眠に満足しているならいいのですが、そうでもないようです。

厚生労働省が調査した平成29年の「国民健康・栄養調査」によると、「ここ1カ月間、睡眠で休養が十分に取れていないと感じている人」の割合は20.2%でした。これはつまり、約5人にひとりが睡眠時間に満足していないということ。その数字は、ビジネスシーンの中心にいる30~50代になると、30代27.6%、40代30.9%、50代28.4%と軒並み平均を上回ることになります。

このままの状況が続くと、睡眠障害と診断される人たちが、ますます増えていくことになることは間違いありません。

実際の時間より「よく眠れたか」の感覚で判断する

わたしは、自分自身の睡眠が足りているのかどうかで目安にしていることがあります。

それは、睡眠中に目が覚めたら時計を見ること。時計を見ると気になるから見ないほうがいいとも言われますが、わたしはあえて見るのです。

午前3時かなと思って時計を見ると、午前5時のときがあります。そういうときは、自分の感覚よりも多く寝てしまっているということなので、睡眠が足りていないと判断します。

逆に、午前4時かなと思っても、午前2時のときがある。そういうときは、自分の感覚よりもよく眠れていて、疲れも取れやすくなっているのではないかと判断します。もちろんこれは、あくまでもわたし自身の体感によるものです。

自分の睡眠不足が慢性的なものなのか、急性的なものなのか、足りているのか、足りていないのか、なかなかわかりにくいものです。

睡眠障害がある人は慢性的な睡眠不足の傾向がほとんどなのですが、急性と慢性で特異的なものはあまりありません。そこで基準となるのは、休日のときにいつもよりどれだけ長く寝るのかです。いつもより90分とか2時間くらい多く寝てしまう人は、慢性的な睡眠不足の兆候だと思ってください。

休日、長めに寝ても「すっきりしない」は要注意

慢性的な不眠状態が続き、睡眠不足が蓄積されていくことを、「睡眠負債」と言います。

「睡眠負債」という表現で、睡眠不足が続くことに警鐘を鳴らしたのは、スタンフォード大学のデメント教授。「眠りの借金が溜まると、脳や体にさまざまな機能劣化が見られる」と広く訴えたのでした。それが、1990年代のことです。

「睡眠負債」という言葉が日本で使われ出したのはつい最近のことですが、睡眠研究に携わっている人たちは、少し前から使っていた言葉でした。

睡眠不足は、言い換えれば“眠りの借金”です。つまり、借金ですからいつかは返さなければなりません。

2~3日睡眠不足が続いたくらいなら、借金は少ないですからいつもより少し長く眠れる日があればすぐに返せます。しかし、3~4週間も睡眠不足が続いて借金がふくらんでしまうと、1~2日いつもより長く寝ても返せなくなります。さらに睡眠不足が続いて借金が雪だるま式に増えていくと、ついには返済計画も立てられなくなってしまう。それが、睡眠負債というものです。

休日にいつもより長く寝ても、目覚めが悪いとか、すっきりしないとか、日中に眠気が出てくるという人は、眠りの借金が溜まってきている可能性が十分にあります。

「40分の寝不足」を取り戻すには3週間かかる

睡眠負債の概念の提唱のもとになった、健康な8人を連日14時間、無理矢理ベッドに入れた際の睡眠時間の推移に関して、1990年代に行われた実験があります。実験前の8人の平均的な睡眠時間は7.5時間。彼らに1日中、14時間ベッドの上で好きなだけ寝てもらうようにしました。その結果、1日目はみな13時間、2日目もみな13時間近く眠っていました。

ところがその後は長く眠ることは無理で、徐々に睡眠時間が短くなり、1週間もすると、5時間も6時間もずっとベッドの上で起きているという状態になります。結局、3週間後に睡眠時間は平均8.2時間に固定しました。この8.2時間がこの8人の生理的に必要な睡眠時間だと考えられます。長い期間、体が必要とする睡眠時間より毎日40分短い睡眠時間であった彼らは「毎日40分の蓄積した睡眠負債」を抱えており、この長年の睡眠負債を返すためには、毎日好きなだけ寝ても3週間かかったということが如実に示されました。

睡眠不足が借金になるなら、寝溜めして“眠りの貯金”をつくっておけばいいではないかという考えもあるかもしれません。実際のお金の話であれば、貯金があるのなら借金をしなくても済むことはあります。

「週末に寝溜めしておこう」はほぼ無意味

しかし残念ながら、睡眠は貯蓄ができません。「週末に寝溜めしておこう」とか、「来月は忙しくなるから、今月はたっぷり寝ておこう」などという行為をしても、ほぼ無意味なこと。仮に、週末にたっぷり寝たとしても、それは、それまで溜まっていた眠りの借金をほんの少しだけ返済できたに過ぎません。

そもそも、自分の睡眠不足が慢性なのか、急性なのかもわからないままですから、なかなか改善はされず、気づかないうちに眠りの借金はどんどん溜まります。

ペンシルベニア大学などの研究チームが行った研究で、知らないうちに蓄積されていく睡眠負債の怖さがよくわかる実験があります。

その実験によると、「6時間睡眠を2週間続けると、集中力や注意力は2日間徹夜した状態とほぼ同じレベルまで衰える」ということが明らかになりました。2日も徹夜すれば、間違いなく疲れや眠気で頭がぼーっとして働きが鈍くなることを自覚します。しかし、6時間睡眠を2週間続けた人は、自分の脳が正常に働いていないことに気づきません。そこに、睡眠負債の怖さがあるのです。

ミスや事故、取り返しのつかない失敗などは、危ういという自覚症状がないときに起きるものです。自覚があれば慎重に対応するでしょうし、自信がなければほかの人に任せるという選択肢もあります。そう考えると、わたしたちは、もっと睡眠負債について知るべきではないでしょうか。

時間がなければ、せめて眠りの質を高めよう

そんな怖い睡眠負債が溜まっている人は、どうすればその“借金”を返すことができるのでしょうか。

結論から言うと、睡眠負債を解消する根本的な方法は、まだわかっていません。睡眠が足りているのか足りていないのかを、脳がどうやって認知しているのかが解明されていないからです。

いま言えるのは、きちんとした睡眠習慣を身に付け、個人に必要な睡眠時間を十分に確保することです。

眠りの借金は、やはり、きちんとした眠りで返済するしかないのです。

どうしても寝る時間を十分につくれないのであれば、せめて眠りの質を高めることが必要でしょう。

もちろん、時間的に十分に眠れても、眠気が残っていたり、疲れが取れていなかったりするのは、よい眠りとは言えません。眠りの満足度が出るのは、目覚めたときの感覚です。「すっきりした」とか、「よく眠れた」という満足感があれば、睡眠の質は満たしていると捉えていいと思います。

[スタンフォード大学医学部精神科教授 西野 精治]

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運動不足が「死に至る病」であることを証明する科学的根拠

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

日本人のうち運動不足が原因で死に至る人は全体の16%という研究結果がある。たしかに日本人の1日あたりの平均歩数は90年代から1000歩も減っている。何が起きているのか。近畿大学の谷本道哉准教授が解説する——。

※本稿は、谷本道哉『学術的に「正しい」若い体のつくり方』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

90年代より「1日1000歩」歩かなくなっている

「ちょっとは運動しないとなぁ」
「何か体を動かすことをしなきゃ」

多くの人がそう思っていることでしょう。運動が健康によいこと、またスタイルを改善して見た目も若々しくすることは誰もが認識している、いわば常識といえます。

運動不足は、心筋梗塞や脳梗塞、糖尿病などの生活習慣病を誘発します。また、高齢期の虚弱、体力低下による要介護の一要因にもなっています。私たち人間は「動物」。文字どおり、動いていないと病気になってしまうのです。しっかりと動いていてこそ、元気で健康な状態を保つことができるのです。

また、運動が見た目を若くしてくれることも経験的に明らかですよね。

中年以降になっても余分な脂肪のついた太鼓腹にならず、筋肉がしっかりついたカッコいいスタイルを維持している人は不思議なほど年をとりません。理由として、運動によるホルモン応答や抗酸化能力の向上などが関係していると考えられます。

健康にも若々しさのためにも運動がよい。分かっているはずなのに、残念ながら運動をしっかり行っている人というのは極めて少数派です。厚生労働省の調査によると、1回30分以上の運動を週2回以上、1年以上継続して行っている人は20〜50代では20%程度しかいません。

そして、日常の活動量の目安となる「歩数」は90年代と比べて1000歩ほども減っています(図表1)。運動をしていないというだけでなく、日常生活でもほとんど体を動かさなくなっているのです。

運動不足による死亡者数は、喫煙による死亡者数とほぼ一緒

いまや運動不足は極めて深刻な問題となっています。見た目はもちろんのこと、健康面でのリスクは計り知れません。

たとえば、糖尿病の場合では、予備軍(可能性を否定できない人)も含めた患者数が90年代と比べてなんと1.5倍近くにまで増えています(図表2)。また、腰痛や肩コリは昔からある不調ですが、これらの症状を訴える人も近年、増加しています。ここにも現代人の運動不足が大きく影響しているといわれています。

8割の人に運動習慣がなく、しかも日常の活動量も減っている。そしてそれがいろいろな病気の発症と関係している。これはもう、「運動不足病」という一種の国民病であるといえるでしょう。

なお、運動不足が深刻な問題となっているのは日本だけでのことではないようです。

世界の全死亡のうちの9.4%が身体活動不足(Inactive)、つまり運動不足が原因であるという報告が近年なされました(図表3)。

そして、この9%という数字は喫煙が原因の死亡者数に匹敵するというから驚きです。こうした危機的な状況をこの研究報告では「運動不足病は世界的に大流行している“パンデミック”状態である」と表現しています。

ちなみにこの9.4%という数字、日本人においては16%とさらに跳ね上がります。

運動不足の弊害は、体形がだらしなくカッコ悪くなる、ということだけではないのです。運動不足は自分で解決できます。これはどうにかしなければいけませんね。

日本人男性の平均体重がどんどん増えている

1980年にヒットした西田敏行さん主演のテレビドラマ「池中玄太80キロ」を覚えていますか? このドラマのタイトルにある「80キロ」は、当時「とても太っていて大きい人」を意味していました。

放映から三十数年が経った今、80kgという数字を見てどのような印象を持たれるでしょうか? 太った大きい人の代名詞という感じはあまりしません。最近は太っている人といえば100kgはないと物足りない(?)感じがしますよね。芸能界でも、80kgではおデブタレントとしての仕事は来ないでしょう。

日本人男性の平均体重の推移を見てみると、戦後から増加傾向が続いています(図表4)。

「池中玄太80キロ」が放送された1980年の玄太世代の30代男性の平均体重は62kg。そこから2006年の70kgくらいまで直線的に増え続け、以降は70kg程度に落ち着いています。つまり、池中玄太の時代から、平均体重は実に10kg近くも増えているのです。

また、成人男性の肥満者(BMI25以上:BMI=体重〔kg〕÷身長〔m〕×身長〔m〕)の割合も1980年には17%程度だったのが、2006年以降は約2倍の30%程度に増加しています。最近では太った人があまり珍しい存在ではなくなっているのです(図表5)。

平均体重増加の原因は「摂取カロリー」ではなかった

では、なぜここまで平均体重が増えたのか。

飽食の時代のためと思うかもしれませんが、実は1日当たりの摂取カロリーの平均(20歳以上)は、1980年の約2100キロカロリーと比べて、2012年では1888キロカロリー。摂取カロリーはむしろ減少しているのです(国民健康・栄養調査)。

それでも平均体重が増えているのは、「動物性脂肪の摂取割合が増えた」ことと(動物性脂肪の不飽和脂肪酸は体脂肪の蓄積を進める)、消費カロリーの減少、つまり「動かなくなっている」ことに原因があるようなのです。

要するに、「運動不足病」の深刻さが肥満者の増加という形で表れているのです。

肥満はさまざまな疾患のリスクを上げます。「内臓脂肪の増加」が糖尿病や心筋梗塞、脳梗塞などの原因となることは皆さんもご存じのことでしょう。肥満は見栄えが悪くなるだけの問題ではないのです。

「メタボ」と言われても運動をしない人たち

「メタボ」が流行語大賞のトップ10入りをしたのは2006年。

メタボというキーワードで運動の必要性が広く認知されてから相当の年月が過ぎたにもかかわらず、運動習慣者の割合や、1日の歩数は増えていません。肥満者の割合も減っていません。

必要性が分かっていて、やらなきゃとは思っているはずなのに実行できない。その主な理由は、メタボはあくまで心筋梗塞などの「病気になりやすい状態」にすぎず、メタボ自体が「病気ではない」からではないでしょうか。

太っていて内臓脂肪が多くても、血圧が高くても、血糖値が正常値でなくても、確かに苦しいことも、痛いことも何もありません。

多くの人は、元気で何も症状がないうちはそれほど体に気を遣わないもの。肺がんだとお医者さんにいわれるまで、禁煙を思い立ちさえしない人もたくさんいます。

ロコモに関しても同じです。

高齢になったとき、体力が低下して自立した生活ができなくなる恐れがあると分かっていても、元気で動けているうちはそれほど気にかけないものです。

いっそ、モテるために運動を始めてみる

「健康は何ものにも替えられない大切な財産」

病気になる前から、元気に動けているうちから、このことだけは忘れないでほしいのですが、何の症状も出ていない状態で、体のこと、健康のことを真剣に考えるのはむずかしいことかもしれません。

それなら健康のためというのではなく、やせてカッコいいスタイルになるために(そして何ならちょっとモテちゃうために)という目的で運動を始めてみてはいかがでしょう。キレイに、そしてカッコよくなることも、とても大切なことです。定めた目的が変わろうとも、結果として病気のリスクが下がって健康になるのなら、健康のためでも、モテるためでも、体に起こることは同じです。

そういった視点から考えると、ちょっと古いですが「ちょい不良(ワル)・ちょいモテオヤジ」ブームをつくった雑誌『LEON』、そしてその表紙を飾ったパンツェッタ・ジローラモさんの功績は偉大でしょう。何歳になっても、「カッコよさにこだわることのカッコよさ」を、日本中に呼び掛けたわけですから。

もちろん女性においても同じことがいえます。いくつになっても女性はキレイで男性はカッコよく。とても素敵なことだと思います。

皆さんにもカッコいいスタイルを手に入れて、健康で充実した、いきいきとした人生を送っていただきたい。そのためにこの本『新装版 学術的に「正しい」若い体のつくり方』を贈ります。

ただし本を読んでモテるようになったとしても、家庭が崩壊するような「ちょい」を越したワルいことはなさらないようにしてくださいね。

[近畿大学生物理工学部人間環境デザイン工学科准教授 谷本 道哉]

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吉高由里子さん、週刊文春がやっていることは本当に正しいことですか

2020年3月21日 12:00 PRESIDENT Online

女優・吉高由里子主演のドラマ「知らなくていいコト」は最高視聴率10.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)の最終回で、有終の美を飾った。吉高由里子はスクープ追い続ける熱い週刊誌記者を演じきった。一方でドラマでは週刊誌報道についても登場人物がその正当性を主張しているように感じた。現実でも週刊誌は、東出昌大の不倫から大物の政治家の汚職事件まで、大衆の興味を誘うネタであれば、なりふり構わず記事にする。しかし彼らは一体どのように、蜜が滴る上質なネタを見つけてくるのだろうか。なぜベッキーと川谷絵音のラインのやりとりがそもそも流出したのか。現役週刊誌記者がその驚くべき実態を赤裸々に語る──。

週刊誌記者のネタの見つけ方

私は現在、とある女性週刊誌の編集部で記者として働いています。週刊誌といえば、吉本興業所属の芸人による闇営業問題などもわりと記憶に新しいでしょう。世の中の注目は薄れてはきているものの、引退しているのにもかかわらず入江慎也氏の自宅前にはいまだに張り込みをしている記者とカメラマンがいます。自宅を出てきた入江氏に対して、「最近どうですか?」といった質問をするのでしょう。

週刊誌の張り込みには、プライバシーの侵害などしばしば批判が起こることがありますが、実際にどのように張り込みが行われているかについては知らない人が多いはずです。はじめに、編集部の数だけその方法はあるということは断っておきます。今回は私が属している編集部で行われている張り込みについて、具体的な例を挙げながらお話ししたいと思います。

まず週刊誌の記者が普段、どんな生活をしているのかお話しします。私たちは基本的にひとつの編集部と契約を結び、業務委託という形で働いています。しかし、会社専属ではあるものの、毎日出社するわけではありません。各自、ネタ元さんとお会いしたり、ツテを頼って新しいネタ元さんを探したり。また進行中の取材を個人的に進めるなど、情報を集めています。良いネタがあれば随時編集部に持っていき、デスクと相談してページにするための会議を重ねます。

ピンポイントで写真を撮りに行きます

張り込みが必要になるかはネタによりけりです。例えば読者からの写真提供などですでに手元に写真がある場合は、事実確認の取材を終えたあとにターゲットに直撃するだけです。テレビ番組の収録終わりを狙ったり、関係者に現在ターゲットがいる場所を教えてもらったりしてピンポイントで写真を撮りに行きます。

よくドラマの撮影現場であったり、飲み会であったり、犬の散歩であったり、「芸能人のオフショット」が載っていることがありますが、大抵の場合は関係者が「誰が何時にどこに行く」という情報を教えてくれます。とあるテレビ番組の打ち上げを隠し撮りした際は番組ADが随時店内の状況をリアルタイムで伝えてくれました。某大手写真週刊誌の張り込み班は2~3台の車で毎晩都内をグルグルと回り続け、常に芸能人を探しているそうです。

しかし、手元に写真がない状態で熱愛・不倫写真を撮るときはいつ終わるかもわからない張り込みが数日間、時には数週間続くことになります。

有名人が不倫もしくは熱愛しているという情報が入ったら、まずはターゲットのヤサ(自宅)割りをします。ある男性スポーツ選手の不倫を追ったときは、まず彼のチームの練習場へ見学に向かいました。まずは練習場の前でファンのふりをしながら入り待ちをして車のナンバーを判別します。そして練習が終わり、選手がロッカールームに戻ったタイミングで練習場の外で待機しているカメラマンの車に連絡します。車での尾行は1台だと怪しまれてしまうので、記者はタクシーを使い、ポジションを入れ替えながら2台態勢で追うことが多いです。

そんな仕事、タクシーの運転手が嫌がらないのか? 実はタクシーの運転手の多くは「待っていました!」と張り切って追ってくれるので助かります。某大手写真週刊誌の編集部は、尾行の際にバレないようにパン屋風に改装したトラックを所有していると聞いたことがあります。

ある女優の熱愛情報が入ったときには、彼女が登壇するイベントや記者会見に取材申請をして参加し、同じく外で待機しているカメラマンと一緒にヤサを割りました。ヤサ割り自体は難度がそこまで高くなく、1回で割れることがほとんどなので、特にネタがないときなどは旬の芸能人のヤサ割りをしながら1週間を過ごすこともあります。「そういえばこの前ヤサ割ったあの人、今日が誕生日だよな」という感じで家を張ってみると、ラッキーなことに恋人と手を繋いで帰ってきちゃうこともあるのです。

特にヤサを割りやすいのはアナウンサーです。タレントの場合、運転手が付いていたりテレビ局の地下の駐車場からタクシーで出てきたりするため、ヤサを割ろうにも割れないケースがあります。しかし、アナウンサーはテレビに出ている立場ではあるとはいえあくまで会社員なので、電車で通勤している人も多いのです。ニュース番組などは生放送なので退社時間がある程度読めることもその理由のひとつです。

ヤサを割ったらあとは交際相手なり不倫相手なりとお泊まりデートをするのをひたすら待つのみです。といってもターゲットに家族がいる場合は自宅を張っていても仕方がないので仕事終わりを尾行したり、相手が一般人だとしてもヤサを割ってそちら側を張ったりもします。ターゲットがひとりで帰宅した場合は、マンション全体が見える場所からベランダを監視し、部屋の明かりがついた部屋を確認します。そうすれば次回からはターゲットが在宅中か不在かが一目でわかるのです。

尾行の際の必須アイテムはハンズフリーのイヤホンです。ターゲットが車を降りれば当然こちらも車を降りて徒歩で尾行をします。電車に乗ればこちらも電車に乗ります。別の記者やカメラマンを車で先回りさせるなど連携を取らなくてはいけないので、常にグループチャットで会話を繋げながら尾行をしています。

ファンのふりして接近「今夜会わない?」

まずはヤサ割り。それと同時に関係者からの情報を集め、スクープ写真の撮れる確率の高い場所と時間を絞っていく。ある程度順序というものはありますが、正直撮れてしまえばなんでもいい。こちらからおびき寄せるような作戦を仕掛けることもあります。

不倫や熱愛で王道のパターンは、相手側と週刊誌が繋がることです。デートの日時と場所さえ教えてもらえばそれで完了。「これからホテル出ます」とまで教えてくれる人もいますし、「ギャラを弾むので寄り添いながら出てきてください」と言えばそのとおりにしてくれる人もいます。

ある男性タレントの不倫を取材していたときのことです。証拠はすべて揃い、あとは本人の言葉をもらうだけという段階だったのですが入稿までに時間がなく、地方営業先で直撃をすることになりました。しかし、営業先の構造上尾行もできず、出演者によって宿泊するホテルも変わるようで滞在先がわかりません。その男性タレントはファンに手を出すことで有名で、今回の不倫相手もファンの女性でした。

撮れればなんでもありなのです

そこで試しに女性ファンのふりをして彼の公式ラインに「今日のイベントとても楽しかったです」とメッセージを送ってみると、向こう側から「よかったら今夜会わない?」と連絡が来ました。聞き出したホテルの前で張り込み、出てきたところを直撃して完了です。結局のところ撮れればなんでもありなのです。

さてベッキーのゲス不倫はなぜラインのやりとりが文春にリークされたのでしょうか。関係者によれば、あれも単純。スマホにアクセスできる人が出版社にスクリーンショットを送った。ただそれだけです。

今思い返すと、「なんて倫理観のないことをしているのだろう」と自分でも思いますが、追っている最中は記者もカメラマンも感覚が麻痺しているのでしょうね。プライバシーの侵害になるとはいえ、ヤサを割ってでも、尾行をしてでも、相手を騙してでも、目の前にネタがあり現場にいる限りは写真を撮らない理由が見つからないのです。

それに、読者も嫌なら買わなきゃいいし、読まなきゃいいのに、一生懸命ネットで拡散してくれるでしょ。世の中難しい問題が山積みで、もっと国民が議論するべきニュースがほかにたくさんあるのに、東出昌大が不倫したらそっちのけで夢中になりますよね。

今の時代、いわゆるタレントさんは不倫したら暴かれることをわかって芸能界に入っていますよね。週刊誌報道も含め、エンターテインメントになっている。週刊誌報道を売名に利用する人もいくらでもいる。それなのに、テレビで週刊誌の不倫報道を批判する人はちょっと笑っちゃいますね。多分、その人もやっているのでしょうね。

[雑誌「プレジデント」 写真=時事通信フォト]

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