cat_3_issue_oa-numberweb oa-numberweb_0_49a828063b67_J2サンガ新スタジアムに突撃取材!臨場感抜群、明智光秀も学べる? 49a828063b67 49a828063b67 J2サンガ新スタジアムに突撃取材!臨場感抜群、明智光秀も学べる? oa-numberweb 0

J2サンガ新スタジアムに突撃取材!臨場感抜群、明智光秀も学べる?

2020年2月10日 19:00 Satoshi Shigeno

 サッカーを見るには最高な環境のパナソニックスタジアム吹田、段階を追って改装されてある等々力陸上競技場やキンチョウスタジアム、そしてアクセスは最強なんだけど色々と惜しい新国立競技場……。

 評判は千差万別と、やっぱりスポーツ好きなら新スタジアムができると心躍るし、実際にその地に訪れてみたいもの。2020年、新国立に話題を持っていかれがちだが、関西にも新たな球技場が完成した。
 京都の「サンガスタジアム by KYOCERA」である。
 もらった資料によると2万1600人収容で、スタンド最前列からピッチまでの距離は7.5~10.5m。サッカー、ラグビーの国際試合が開催可能とも記されており、否がうえにも期待値は高まる。
 今季のサンガはJ2を戦うということもあって、今シーズンは2月8日時点で判明している分で、年間21試合が同スタジアムで開催される。

首都圏J2サポーターのために!

 新スタジアムの1年目。サンガのファンやサポーターだけでなく、アウェイチームを応援するために足を運ぶ人も多いはず。
 ただ、今回のこけら落としの対戦相手はセレッソ大阪。来場者の大半は在阪のJリーグ好きだろう。ならば――ここは「首都圏J2サポーター」というモデルケースになってロケハンしてみたらどうだろう? とのアイデアを思いついたところ……企画が通った。
 よし、これを口実に1泊してはんなりと京都観光できるぞ、と内心ニヤニヤしていたら「あ、せっかく行くんだから翌日大阪で仕事してきてね」との通告が。現実は甘くない。
 ということで2月9日、東京駅朝9時発のぞみ号に乗車。目的地はもちろんサンガスタジアムのある亀岡駅へ。ネットで検索する限り12時過ぎには到着するようなので14時キックオフには余裕だろう……と思っていたら、米原駅を過ぎた付近で車窓を見て、ビックリした。
 うっすら雪が降ってる。今年、記録的な暖冬って言ってなかったっけ。



駅の目の前に、もうスタジアム。

 メンタル的な意味で震えが止まらない十数分後、京都駅着。きっちり晴れているのでひと安心。ここから山陰本線に乗り換える。サンガスタジアム完成を祝うのぼりを眺めつつ、山陰本線のホームへ。特急を除くと15分くらいに1本の間隔で出発するようだ。筆者が乗った各駅停車は4両編成で、ある程度混んでいる。次の電車を待てば8両編成だったらしいが、ぎゅうぎゅう詰めではなくまあ我慢できるレベルだった。
 京都駅から出発し、太秦、嵐山駅のトロッコ列車など「京都に来たなあ」という風景を横目にトンネルを抜けて約25分。亀岡駅に着く直前からスタジアムの様子が見え始める。数多くの人が並んでいる光景に車内から「なんやこれ! すごいなあ」との声も上がっていた。
 多くの人でにぎわう亀岡駅から徒歩3分でスタジアム着。というか目の前がスタジアムなので、抜群のアクセスである。サガン鳥栖の駅前不動産スタジアムと同じくらい……なのだ。
 そのスタジアムの北側にそびえる山は米原以上の雪化粧。やっぱり寒いっ!







名物・鯖寿司を食べていると……。

 キックオフまで1時間半ある。ボーっとしていては何の情報も得られないので、スタジアム周辺を歩いてみた。すると「お食事広場」という場所がある。うどん屋さん&カレー屋さんに加えて、イベント広場の「京都食べ尽くしフェス」など、地元の特産品売り場もあった。
 そこで550円で売ってたのが、焼き鯖寿司。スタジアムでこんな京名物を食べられるとは! と思いつつ、用意されたテーブルで食す。おいしい。両サポーターが入り乱れておのおの食事を楽しんでいた様子は、なんというか、高速道路のサービスエリア感があった。
 お食事広場を出てもう少し歩いてみよう。ボルダリングジムも併設されているって書いてあったな……と思っていたら。
「麒麟がくる 京都大河ドラマ館」
 え、ちょっと待って。頭がついていけない。なんでスタジアムに明智光秀。
 聞けばこの土地、明智光秀にゆかりある場所とのこと。そう言えば駅前でもかなり光秀アピールしていた。スタジアムをくまなく見ると決意したので、有料だけど入ってみた。
 中は入ってみてのお楽しみにしておくが、1つ興味深かったのは市街地の航空地図。サンガスタジアムから線路を挟んで向かい側の山に丹波亀山城があったという。
 ここは光秀の居城で、本能寺の変の時はここから出発したのだそう。義務教育を終えた者として、さすがに本能寺の変は知っていたが、この付近から出発していただなんて。大河ドラマを見る目がちょっと変わりそうである。



 なおこのイベントの開催期間は2021年1月11日まで。つまり今シーズン見ておかないと、光秀(と戦国時代)に思いをはせられない。サッカー見に行くついでに、各ホームタウンにあるお城も見学するような歴史好きなら来るべき場所かも。
 そんなことを考えながらフラフラ時間を潰していたら、キックオフ10分前。スタジアムでサッカーを見る&撮るという本分を忘れかけそうになっていた。急いでスタジアム内に戻ると、両チームがまさに入場したところだった。



パナスタに近い響き、両監督も絶賛。

 ほどなくキックオフ。両サポーターのチャント、決定機が来たときの歓声などの音は、パナスタに似た感覚を受ける。つまり、すごくいい感じで響いてくる。「観客が近くてみなさんの声が直接聞こえるんで、やっている僕らとしても力になりますね」と、サンガの選手として新スタジアム初ゴールを刻んだ10番、庄司悦大は試合後のミックスゾーンで語っていた。
 サッカー観戦についても抜群だ。せっかくなので記者席からだけでなく各コンコースから眺めてみたが、低層席はピッチからものすごく近く、高層席からはとても俯瞰しやすい。サッカー自体を見る環境としては満点をつけたい。3-2の打ち合いでセレッソに軍配が上がった試合後の両監督のコメントもこの通りだ。



「凄く美しいスタジアムだと思います。サッカーをプレーするためのスタジアムで、ピッチに凄く近い。2万人という収容人数もちょうどいいと思います」(C大阪・ロティーナ監督)
「内容は端折って、すごくいいゲームでした(笑)。このスタジアムのやるための準備、現場としては何も問題なかったです」(京都・實好礼忠監督)

開幕時は、防寒対策を忘れずに。

 ただ1つだけ……試合前の描写で察しはつくだろうが、じっとして観戦するのはとんでもなく寒い。というか痛みを感じるレベルで冷たい。
 公式記録の天候では「曇、弱風、気温6.7度 湿度50%」となっていたが、キックオフ直前から雪が舞い始め、開始10分には目で確認できるレベルに。手袋なしでメモを取るのがつらかった。陽が差してきた後半にはだいぶ凌げる感じになったが、それでもなかなかの冷え込みである。
 京都市内は盆地だから寒いとは聞いたことがあったけど、ひとつ山を越えるだけでこんなにも違うものなのか……。1カ月経てばもう少し陽気が増すと思うが、3月の長崎、琉球、東京V、群馬、そしてU-23日本代表(こちらはナイター)を観戦するサポーターには厚着だけでなく、着席する時の座布団やブランケットなど「防寒対策はしっかり」とご用心をお伝えしたい次第である。



亀岡駅に集中する帰宅ラッシュ。

 寒さとともに注意したいのは帰途か。
 三々五々訪れる行きと違って、帰りは来場したほとんどの観客(この日は1万7938人が来場)が短い時間で亀岡駅に集中する。そのため試合終了後1時間経っても、スタジアムから見える駅のホームは朝の通勤ラッシュのような状態になっていた。試合開催日は通常より長い8両編成の電車にしたそうだが、それでも京都駅まではだいぶ混むはずだ。
 試合終了は16時ごろ。筆者が取材して電車に乗ったのは17時30分。この時点だと座れなくても車内はある程度余裕があった。そこから京都で乗り換え、大阪のホテルに着いたのは19時前。京都に18時に到着していたと考えれば、そんなに遠くは感じない。もし日曜日が試合なら土曜に前泊して京都観光、土曜日なら後泊して京都観光、なんてスケジュールで週末を楽しめるはず。
 新装なったスタジアムでサッカーを楽しむ前後に京都の古刹めぐり、嵐山散策――なんて乙なサッカーファンじゃなかろうか。
 新たなるサッカーツーリズムとして、今年のJ2サポーターはサンガスタジアムを訪れてみてほしい。また関西を訪れたJ1サポーターも、翌日にサンガのホーム戦があれば、ちょっと足を延ばしてみるのもオススメである。
 ぜひサンガスタジアムに麒麟……もとい、サポーターがくるとなってほしい。


(「スポーツ百珍」 茂野聡士 = 文)

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前田健太が移籍するツインズとは。地区の優勝候補で先発3番手を争う。

2020年2月10日 11:30 AFLO

 あれは2014年の開幕直後。4月16日のことだった。

「ムネリン」こと川崎宗則内野手(当時ブルージェイズ)の取材のため、ミネアポリスでのツインズ戦に備え、数日前に降ったという雪が凍りついていたダウンタウンを通り抜けて球場入りしようとすると、怪訝な顔つきの警備員がこう言った。
「寒いから試合中止になったんだけど、知らなかった?」
 前日のシリーズ初戦の4月15日、試合開始時の気温は華氏35度、摂氏では1.667度という厳寒だった。翌16日は雪こそ降らなかったが、摂氏1.1度前後まで冷え込んでいた。「室内フットボール場で野球なんて」などと酷評されたエアコン完備の前ドーム球場が恋しかった。
 前田健太にとっての新しい本拠地ミネアポリスは、そういう場所だ。

冬は寒く、夏は意外と暑い。

 北隣がカナダなので当然、1年中温暖なロサンゼルスとは違う。米系航空のハブ空港で日本からの直行便もある大きな都市ではあり、隣町セントポールとのツイン・シティー(双子都市 チーム名の由来)なので、全州の人口の60%前後がこの辺りに集中している。
 とはいえ、日本人も日系人もロサンゼルスに比べれば、遥かに少ない。夜遅くまで開けてくれる日本料理店や韓国料理、中華料理の店もあるにはあるが、質量ともさすがにロサンゼルスには敵わない。
 では夏になれば涼しいのかと思えば、これが意外と暑い。街の真ん中に流れの遅いミシシッピー川が通っており、湖も点在しているので湿気もあったりする。
 NFL(アメリカンフットボール)やNBA(バスケットボール)の本拠地もあるぐらいだから、ダウンタウンには繁華街もあるのだが、少し郊外に行くだけで地の果てまで続くいるような農地が広がっており、ところどころにあるゴルフ場がやけに美しく見える。



ドーム球場への税金利用が反対されたことも。

 アメリカの「ハートランド」と呼ばれる一大農業地帯に住む人々は、かつてツインズが税金の一部を流用してドーム球場を建設しようとした際、「我々の血税を私有企業のために使うとは何事か!」と徹底抗戦したように政治意識が高く、投票率も高いと言われている。だからオープンエアの球場になったのだ。
 新球場建設がとん挫した際、ツインズは日本プロ野球の近鉄バファローズのように「本拠地消滅」の危機を迎えた。新球場建設に反対する団体を取材した時、「ミネアポリスの人々はPurist=ピュアリストなんですよ」と簡単に説明してくれたのをよく覚えている。
 他の多くの中西部の人々と同じで、一般的には友好的で率直なイメージを与える人々が、実は権力や権威に対する疑念を持っている「強さ」も持ちあわせていることに、少なからず驚いた記憶がある。
 ちなみにミネアポリスは大阪府茨木市と姉妹都市である。
 1981年まで使用されたメトロポリタン・スタジアム跡地に作られ、同球場跡が記念碑として残るアメリカ合衆国最大級の屋内型ショッピングセンター「モール・オブ・アメリカ」がある郊外のブルーミントンは、前田の生まれ故郷である大阪府泉北郡忠岡町のすぐ近くの大阪府和泉市と姉妹都市である。

2000年以降で7度の地区優勝。

 日本人、とりわけロサンゼルスのような場所にいた人にとっては、あまり過ごしやすいとは言えないミネアポリス/セントポールだが、チームそのものはどうだろう?
 ツインズの前身は1901年設立のワシントン・セネターズであり、伝統球団の1つということになが、ミネアポリスに移転したのは1961年と比較的新しい。
 セネターズ時代にワールドシリーズ初優勝を果たしており、ツインズとなってからは東京ドームのモデルとなった旧球場メトロドームで、1987年と1991年の2度にわたってワールドシリーズに優勝している。
 その後は王座から遠ざかっているが、ア・リーグ優勝は通算6度、2000年以降は(昨年もあわせて)通算7度もア・リーグ中地区で優勝を果たしている名門球団でもある。



昨年は地区を独走、今年の目標は?

 過去には西岡剛内野手がいたこともあるが、その頃とはMLBレベルのフロントの顔ぶれは変わっており、別のチームだと思ってもいい。
 昨年は38歳で史上最年少の最優秀監督となったロッコ・バルデリ監督の下、メジャー史上最多の307本塁打を記録した強力打線のお陰もあって、球団史上2位の101勝(61敗)を挙げてア・リーグ中地区で独走優勝を果たした。
 ツインズに阻止されるまで3年連続同地区制覇のインディアンスや、大補強をしたホワイトソックスに対抗すべく、今オフもレッズ時代に2度もノーヒッターを達成しているベテランのホーマー・ベイリー(前アスレチックス)や、左腕リッチ・ヒル(前ドジャース)らを補強した。地区連覇ではなく、地区シリーズ突破を果たしての2002年以来のリーグ優勝を目指している。

マエケンの立場は先発の3番手争いか。

 前田健太はそのチームで、25歳のエース、ホゼ・べリオス、スプリッターの使い手ジェイク・オドリジに続く先発3番手を狙う立場となる。
 ヒルが肘の怪我により前半途中の復帰になりそうな現状で、ボルデリ監督は左腕ルイス・ソープらを昨今流行りの「オープナー」に起用することもあるだろうが、新鋭左腕デビン・スメルツァーやランディー・ドブナクがベイリーと裏ローテを務める見込みになっている。
 昨年の開幕直後は「抑え役は状況に応じる」という状況だった救援投手陣は、昨年30セーブを挙げた左腕テイラー・ロジャースと、同17ホールドを挙げたトレバー・メイがセットアッパーを務める予定だ。前田のトレードに絡んだ救援ブルスダー・グラデロール(現レッドソックス)の放出は何の影響もないと思われる。
 打線は前述の通り長打力があり、昨年3年ぶり40本塁打以上の指名打者ネルソン・クルーズを筆頭に、マックス・ケプラー外野手、ミゲール・サノー三塁手(今季は一塁固定)、チーム最多の109打点を挙げたエディー・ロサリオ外野手、ミッチ・ガーバー捕手とシーズン30本塁打以上を放った5人が今年も健在。
 昨年22本塁打のホルヘ・ポランコ遊撃手や、昨年デビューしてチーム最高の打率.334を記録したルイス・アラエス二塁手に加えて、昨年、ブレーブスで37本塁打を記録したジョッシュ・ドナルドソン三塁手が加入して、昨季に匹敵する破壊力を秘めている。



ワールドシリーズも夢じゃない。

 ア・リーグ中地区は、タイガースとロイヤルズが昨シーズン100敗以上を喫するなど、「そんなに競争力が高くない地区」と見られている。
 前田が普通に中4日で先発ローテーションを守ることが出来れば、もしかしたらメジャー移籍以来、最高の成績を残せる可能性があるので、基本給300万ドル(1ドル110円換算で3億3千万円)に加えて、満額で650万ドル(同7億1500万円)になるパフォーマンス・ボーナスがに加わる可能性もドジャース時代より高くなったわけだ。
 あの厳寒のミネアポリスに取材に行くのかと思うと、ちょっと気が引けたりするのだけれど、予想通りにツインズが勝ち進み、10月に(ポストシーズンで)田中将大投手がいるヤンキースをぶっ倒す可能性だって大いにある。
 ヤンキースだけじゃない。このオフ球界を揺るがした「サイン盗み」の責任を取ったアストロズやレッドソックスがよろめくア・リーグを制して、1991年以来のリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズに出場するなんて夢も思い描けたりするのが、ミネソタ・ツインズというチームなのである。


(「メジャーリーグPRESS」 ナガオ勝司 = 文)

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高原直泰・独占インタビュー(前編)。「僕が沖縄でコーヒー豆をつくる理由」

2020年2月10日 07:00 Nanae Suzuki

 ゴム長靴が、似合っていた。

沖縄県名護市許田。沖縄自動車道の北端である許田ICを降りてすぐ、小高い丘を登った場所にその畑はあった。
「沖縄SVコーヒーファーム」
 高原直泰が代表取締役を務めるサッカークラブ・沖縄SV(エスファウ)が所有するコーヒー豆の畑だ。高原はクラブの代表であり、現役のプレーヤーでもあるため多忙な日々を送っているが、コーヒーの成長を見守るためにこの畑に頻繁に足を運んでいるという。
「長靴もいいやつ買っちゃいましたからね」



 なぜ高原が沖縄でコーヒー豆をつくっているのか――。日に焼けた精悍な顔だけみていると多くの人を魅了してきたストライカーなのだが、クラブの経営やコーヒー栽培について、熱く、それでいて冷静に語る口調を聞いていると、そこにはサッカーファンの知らない、新しい高原直泰がいた。
 静岡県出身の高原は沖縄に縁があったわけではない。2015年までJ3のSC相模原に所属。レンタルを含めて2シーズンプレーをした後、「声をかけられて」沖縄に移った。住民票も移して東京の家や車も処分し、沖縄でクラブを設立。南国で新たなサッカー人生を送っている。

勝って昇格するだけではちょっと違う。

「このクラブを立ち上げたときに、ただ自分がチームを作って、『Jリーグ入りを目指して頑張ります』だけでは、自分自身がやる意味がないなって思ったんですよ。もちろんJを目指してゼロから昇格していくことは大事なんですけど、それだけがメインの目標みたいになると、自分が思っていることとはちょっと違うかなって」
 沖縄に移ることを決断した高原の胸中にあったのは、「恩返し」の思いだ。
「自分も年を重ねていて、いつかはサッカーを辞めなきゃいけない。でも、引退してから新しいことを始めるんじゃなくて、プレーしながら自分がサッカーで得たものをまわりに返していきたいと思ったんです。
 だから、単に昇格を目指すのではなく、スポーツクラブとして地域に貢献していくものを生み出し、生み出す過程で参加する人が楽しんでくれたり、喜んでくれたりすればいいなと思ったんです」
 そしてもうひとつのキーワードが「責任」だ。
「沖縄に来て、本当にゼロからのスタートになることはわかっていました。でも、だからこそ面白いなと思えた。自分自身の責任で、選手、監督、経営、やりたいことが全部できる。やっぱり他人が作った土台に自分の思いを乗っけるだけだと、ギャップが生まれてしまって自分が本当にやりたいことができないですから。いまは試合の成績にも、メンバーの行動にも、経営にも全部責任があるんです」



カテゴリーが下がると、地域が見えた。




 高原がこうしたサッカーにおけるプレー以外の面について考えをめぐらせ始めたのは、30歳を過ぎたころだった。それまではストライカーとしてどう成長できるか、どうゴールという結果を残すのか――自分自身のことばかりを考えていたという。
「もちろんいいプレーをして、ゴールを決めて、チームを勝たせる。それでサポーターの人が喜んでくれるというのは選手としてシンプルにうれしいですし、J1の強豪クラブなんかはそれでいいのかもしれません。
 僕の場合、ドイツから日本に戻ってきて、その後は韓国のクラブにいったり、J2やJ3のクラブでもプレーしました。そうやってカテゴリーが下がってくると、より周りの応援とか支え、それに地域やスタッフとの結びつきが見えるようになってきたんですよ」
 ピッチの「周辺」に目が向き始めたとき、高原が思い出したのはドイツのハンブルガーSVでの経験だ。
「ハンブルクにいたときは、シーズンオフやシーズン中にもチームの選手数名で近郊の小さい町まで出かけていくことがあったんです。話をしたり、イベントに顔を出したり、地元の市民クラブと練習試合をすることもあった。
 最初は俺もドイツ語がわからなかったし、『なんで行くの?』『いやだな』と気乗りしなかったんですけど、慣れてくるとそういう場に集まってくれる人こそがクラブを応援してくれているというのがすごく伝わってくるようになったんです。これはすごい大事だな、と」

400坪を切り拓いて農地に。




 そんな高原が代表を務め、地域密着を掲げる沖縄SVは様々な取り組みをしているが、その中でも設立当初から高原が目をつけてきたのが農業だ。
「ぼくの頭になんとなく農業というキーワードがあったんですが、沖縄で農業をやられている方の中に、農福連携、つまり農業と福祉を結びつけたソルファコミュニティという組織を運営していて、障がい者の方と肥料を一切使わない自然栽培に取り組んでいる人がいたんです。興味があったので自分で問い合わせをして紹介してもらい、少しずつ農業体験をさせてもらいました」
 彼らと一緒に作業をしていくなかで、沖縄における農業を含めた1次産業の問題点が見えてきたという。
「高齢化とか後継者不足もあるんですけど、目についたのが耕作放棄地なんです。沖縄には長年耕作放棄されていて、ジャングルみたいになっている土地が結構ある。それを整備して、ソルファコミュニティとうちの選手で400坪くらいの土地を切り拓いたんです。これはクラブチームがかかわっていけば、何かできるな、と」



ジュビロにいた時の伝手を頼って。

 では、なぜ農業のなかでもコーヒー栽培を選択したのか。一般に沖縄にコーヒーのイメージはあまりなく、高原も当初は「沖縄でコーヒーをつくれるのか?」と疑問が浮かぶほど、まったく知識がなかったという。
「でも、偶然栽培している農家の方がいることを知って、漠然とハワイのコナコーヒーみたいにできたら面白いなと思ったんです。耕作放棄地を使って産業化できれば、沖縄の抱える問題の解決や地域創生にもつながるし、クラブの収入にもなるから、とても面白いんじゃないかなと。
 ただ、コーヒー豆をつくろうって思っても知識もないし、何から手をつけたらいいかわからなかったんです」



 そこで高原が声をかけたのが、世界的な食品飲料会社であるネスレだった。高原とネスレ、サッカーファンの中にはその関係性に気づく人もいるだろう。
「ぼくがジュビロにいたときの胸スポンサーだったじゃないですか。だから、コーヒーっていったらネスレでしょって(笑)。とりあえず話をきいてもらおうと思って、伝手を頼ったんです。
 自分たちだけじゃ絶対にコーヒーはできないし、金銭的なサポートだけじゃなく、技術的な指導もしてもらいたかったので。そこで『沖縄でこんなことがしたい』とお話をしたら、実はすでに世界的にコーヒー栽培の支援をしていることがわかったんです」
 それがネスレが2010年から取り組んでいる「ネスカフェ プラン」だ。気候変動による病気や収穫量の減少、栽培従事者不足など、特に小規模コーヒー農家を悩ませている問題に対してアクションをおこしていこうというもの。
 具体的には、環境に配慮したコーヒー豆の生産を手助けするために、農学者を派遣することによる技術支援や、品質の良い苗木を配布したりしている。これまでに世界17カ国、3万カ所以上の農園で、10万人以上の生産者をサポートしてきた。
 ただ、「ネスカフェ プラン」のプログラムはこれまで日本では実行されていなかった。ネスレの小原邦裕さんが語る。
「ネスレとしても、日本でどういったことができるのか探っていたんです。そこに高原さんに声をかけていただいた。耕作放棄地への問題意識を含めて、こちらとしても共感する部分が多かったんです」

「地域に根ざす」の本当の意味。




 高原も「偶然の一致だったんです」と振り返る。
「Jリーグの掲げる理念にも、地域に根ざした、という言葉があるじゃないですか。その言葉を掲げるのは簡単だと思うんです。何でも地域密着と言うことはできる。でも、単に言葉だけではなくて、長く続けていく活動にしていくためにはビジネスとしても成立させなければならないし、自分たちもやりがいを感じないといけない。
 そこまで考えたときに、コーヒーには沖縄の新しい特産物になる可能性があるって思ったんです。コーヒー自体、日本人もたくさん飲んでますし、中国でも猛烈に消費されていて、世界的にみたら需要に供給が追いついていないと聞きました。だったら、メイドイン沖縄の国産プレミアムコーヒーがあったら面白いなぁとネスレさんと話が一致したんです」
「沖縄SVコーヒーファーム」は、基本的に高原を含めた沖縄SVの選手・スタッフによって運営されている。植樹などのときは選手・スタッフ総出で作業するが、普段は1部の選手が担当スタッフとなって苗木の世話をしており、彼らの給与をネスレが支援しているというスキームだ。
 また、琉球大学の支援も受けている。農学部の施設を借り、教授のアドバイスも受けながら選手総出で種をまき、それを苗木に育てているのだ。



まずは沖縄の土地で育つ品種探し。

 その苗木を海に近い許田と、谷のような地形になっている大宜味の畑に移植。2019年の4月に最初の移植が行われたが、そのときの苗木は現在大きいもので1mくらいに成長していた。これが順調に育てば2m弱まで大きくなり、最初の収穫は2022年を予定していると高原はいう。
「植えているのはアラビカ種のコーヒーです。アラビカ種でもタイプの違う3種類を植えました。でも、どれがここの気候や風土にあうかわからなくて」
 ネスレの小原さんも続ける。
「台風の直撃もありえるし、許田は海も近いので塩害にやられてしまうかもしれません。でもまずは沖縄の気候・土壌に合うであろう品種の苗木を選定・植樹するなど試行錯誤しながら、沖縄の土地で育つ品種を見つけることがとても大切だと思っています」



 一般にコーヒーの栽培は「コーヒーベルト」といわれる北緯25度から南緯25度の熱帯で行われる。北緯26度に位置する沖縄本島はその圏外にあり、農家が独自に栽培をしているだけで、コーヒー栽培のノウハウがまったく蓄積されていなかった。
 そこで中国・雲南省を始め、世界各国で技術支援を行なっているベルギーの農学者をネスレが招いた。
「雲南省は現在、大規模なコーヒー栽培が行われている土地としての北限なんです。そこでの知見を生かして、沖縄での技術指導をしてもらいました。
 そのときに沖縄で個人単位でコーヒーを栽培している農家さんにもお声がけしたのですが、みんな必死に質問をしていて、なかなか研究者の方を解放してくれない(笑)。予定の滞在時間を大幅にオーバーしました。それだけ沖縄におけるコーヒー栽培は、みなさんが手探り状態でやってきたんだと実感しましたね」(小原さん)

高原「正直、最初からすごい美味しいものにはならない」

 許田のコーヒーファームからは、名護の美しい海がみえる。まだ豆の収穫さえできていないが、この場所でコーヒーを飲んだら美味しそうですね、と声をかけると、「そうなんですよ」と声を弾ませた。



「将来的には、産業の6次化をやりたいですよね。コーヒーをつくる、育てるだけではなくて、それを加工して販売する。この場所を、カフェを併設した観光農園までもっていきたんです。おもしろそうでしょう? 将来的には、この丘の下にある道の駅からダイレクトに登ってこられるようになるので、アクセスもよくなりますから」
 果たして沖縄産のコーヒーはどんな味になるのか。高原も想像がつかないという。
「いやー、土壌次第ですからね。ワインと同じで。かっこつけちゃうと、そのテロワール(土地柄)を表現したいというか(笑)。この許田の畑と大宜味の畑では風味が違うだろうと教えてもらいましたから。
 でも正直、最初からすごい美味しいものにはならないと思います。徐々に沖縄の風土にあったものになっていくんじゃないかなって。暖かい場所でこそ美味しく感じることってあるじゃないですか? オリオンビールも東京より沖縄で飲んだ方が美味しいし、バドライトはハワイで飲むものでしょう(笑)。ドイツの濃くて苦いビールは沖縄にはあわないですから」
「恩返し」と「責任」、このふたつの言葉を胸に行動しつづける高原たちがつくるコーヒー。その風味を味わえるのはまだ先だが、その1杯からは必ず「沖縄」が香ってくるはずだ。(後編に続く)





(「JリーグPRESS」 涌井健策(Number編集部) = 文)

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強さの要因は「厚底」だけではない。哲学者・キプチョゲのマル秘ノート。

2020年2月9日 20:00 KYODO

 厚底シューズが大きな話題となってきたマラソン界だが、厚底シューズと言えば、エリウド・キプチョゲの名前もまた、連想される。男子マラソンの、中心にいるランナーこそ、彼にほかならない。

 あらためて経歴をたどりたい。
 1984年11月5日、ケニアで生まれた。
 陸上を始めると台頭。2004年、19歳で出場したアテネ五輪5000mで銅メダルを獲得すると、2008年の北京五輪同種目で銀メダルを獲得した。
 2012年、マラソンに転向するとその翌年の初マラソンで好記録をマークし優勝。
 2016年のリオデジャネイロ五輪ではマラソンでついに金メダル。それは10代、20代、30代それぞれでメダルを手にすることになった瞬間でもあった。

ついに2時間の壁を破る。

 キプチョゲの名を知らしめたのは、こうした成績のみならず、2時間の壁にチャレンジしてきたことだ。
 2017年のナイキによる企画「ブレイキング2」で2時間0分25秒をマーク。また、昨年はイネオス社主催の「イネオス1:59チャレンジ」に出場。1時間59分40秒と、ついに2時間の壁を破ったのである。
 この2レースは公認されていないため、記録は非公式のもの。それでも2時間を破ったインパクトは大きかった。
 そして履いていたのは厚底シューズであった。厚底シューズの威力を知らしめるレースともなった。



公式レース12回出場で11回優勝。

 ただ、厚底シューズだから記録につながった、とはあながち言えない。
 何よりもキプチョゲの強さにこそ、理由がある。
 公式レースは計12回出場。2度目のマラソンとなった2013年のベルリンマラソンで2位になった以外はすべて優勝。2018年のベルリンマラソンで2時間1分39秒の世界記録も樹立している。
 まさに最強ランナーと言ってよいだろう。キプチョゲを中心に、男子マラソンは進んできたと言って過言ではない。

読書もランニングにいかす。

 これまで国内外のメディアの取材に応えてきた。
 そこから浮き彫りになるのは、キプチョゲのストイックな姿勢と速く走ることへの探求心だ。
 例えば、トレーニングでは持てる力の「80%」までにとどめるという。
 レースで重要なのはフィジカルとメンタル、それぞれ半分の割合だとキプチョゲは考えるが、レース当日、100%に持っていくために最適だと考えたのが、80%である。
 それは決して感覚的なもの、思いつきのような類ではない。
 キプチョゲは練習の記録を欠かさず、ノートにつけていることも明かしている。
 しかも、十数年におよび、やめることなく継続して行なってきた。そしてつけたノートを振り返り、分析し、トレーニングの方法、レースへの調整の仕方など、自身のスタイルを築いてきた。
 記しているのは練習ばかりではない。読書家として知られるキプチョゲは、数々の書籍に目を通し、印象深かったことなどを引き写してきた。それを自身のランニングにいかそうと努めてきた。



「哲学者」と形容されることも。

 それらのエピソードだけでも、真摯であり自己管理の徹底していることがうかがえる。簡単にぶれたりする人ではないことも伝わってくる。
 そこから繰り出される言葉から、「哲学者」と形容されることもあった。
 35歳の今日まで、長年にわたりトップランナーとして君臨してきたこと、レースで失敗がないこと、それらもまた、キプチョゲの取り組みあってこそにほかならない。
 非公認記録ながら2時間を切ることができたのは、厚底シューズの力はたしかにあるだろう。
 それでも、キプチョゲであったからこそ成し遂げることができたのもまた、事実だ。
 道具の進化が選手のパフォーマンスを向上させ、記録を伸ばす。
 それでも、主役は選手にほかならない。
 キプチョゲの足跡や姿勢からしても、そう思わずにはいられない。


(「オリンピックへの道」 松原孝臣 = 文)

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cat_3_issue_oa-numberweb oa-numberweb_0_802cf241ef2d_PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。理不尽の先の光と清原和博。 802cf241ef2d 802cf241ef2d PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。理不尽の先の光と清原和博。 oa-numberweb 0

PL学園野球部・研志寮の抑圧、忍耐。理不尽の先の光と清原和博。

2020年2月8日 11:30 Katsuro Okazawa

 1980年代中盤に高校野球で圧倒的な強さを誇ったPL学園。その原点となったのは自主練習が中心の合理的な練習と理不尽の塊ともいえる研志寮での抑圧だった。表裏一体の世界に挑んだ彼らが見た現実とは。
 Number983号(2019年7月25日発売)の特集から特別に全文掲載します!
 
 そこにはもう夢の跡すらなかった。
 平成最後の2月、片岡篤史は久しぶりに大阪・富田林にある母校PL学園を訪れた。グラウンドに人影はなく雑草が伸びていた。そして、バックスクリーンの向こうにそびえていた「研志寮」がちょうど重機によってコンクリート塊となり、さらに粉々に砕かれているところだった。
「僕たちが生死をかけた場所がね……。なんか涙が出てきた……」
 全寮制の中で、1年生が先輩の身のまわりを世話する独特の「付き人制度」が苛烈な上下関係を生んだ。大袈裟ではなく、本当に1日を生き残るのに必死だったという。
「1年生は笑ってはいけない。調味料を使ってはいけない。風呂では桶もシャンプーも使ってはいけない。何が理不尽なのかもわからず受け入れるだけだったし、疑問を抱いているような余裕もなかった」

泣きながら「俺たち世間に帰れる!」

 朝6時、先輩と同じ4人部屋で目覚まし時計が鳴らぬうちにそっと起きる。炊事をし、食堂では壁を背に直立不動で先輩のお代わり、お茶注ぎのタイミングに神経を尖らせる。最後に自分の飯を5分でかきこんで学校に走り、終業と同時に今度は寮に走る。練習を終えた夕刻、ヘトヘトの体で炊事、洗濯、夜食の用意やマッサージをし、禁止されていた菓子をこっそりと口に入れ、時計の針がとうに0時をまわってから泥のように眠る。体の上を這うゴキブリを払いのける体力さえ残っていなかった。
「実際に逃げた奴もいるけど、ほとんどは『絶対逃げたんねん』『明日、辞めたんねん』と言いながら、次の日にはまたグラウンドへ行く。年に一度の正月休みに向けた帰省カレンダーというのをみんながつけていて1日1日を塗り潰していった。帰る前の日には屋上で泣きながら抱き合った。『俺たち世間に帰れる!』って言うて。僕ら学園の外のことを『世間』と呼んでいたから」
 待望の帰省。片岡は京都・久御山へ帰る前、梅田駅で立浪和義ら1年生の仲間と喫茶店に寄った。糖分に飢えていたからコーヒーには飲み終わったあとも分厚く堆積するほどの砂糖を入れた。実家の食卓では白米にこれでもかというほどマヨネーズをかけた。両手いっぱい菓子やデザートを抱えたが、なぜか、あの寮内でこっそり食べる時ほどの甘さも幸せも感じなかった。
「今、考えたらおかしいのかもしれない。でも当時はあの理不尽を乗り越えるからこそPLは日本一なんだと、だから夢が叶うんだとしか考えていなかった」



片岡の礎は土埃にまみれた1日1200球。

 片岡が入学した1985年のPL学園はまさに絶頂期だった。3年生には甲子園のスターである桑田真澄、清原和博がいた。彼らは最後の夏、5期連続甲子園出場のドラマを完結させるかのように全国の頂点に立った。1年生の片岡たちはPLのユニホームが放つ輝きを誰より間近に見た。だからどんな地獄も、すべて栄光へのハードルだと思うことができたのかもしれない。
 そして、グラウンドに出れば、日本一と呼ぶべき質の高い野球と自由競争があった。
「先輩たちは本当にうまかったし、1年生も一緒に練習できた。それに僕らは寮で緊張して目配りの訓練をしているせいか、打者がバットのグリップを何ミリ持ち替えた、野手が何センチ守備位置を動いたという変化がだんだん見えるようになってきた」
 監督の中村順司はピィンと張りつめた全体練習をきっちり3時間半で終えると、あとは自主練習としていた。
「あの時間がPLの強さ。1年生は自主練の打撃投手をやるんだけど、僕は大会前にいろいろな先輩から投げてくれと言われて朝9時から夜の10時まで室内練習場で投げ続けたこともあった。陽の光を浴びていないのに顔は土埃で真っ黒。1箱150球を8箱投げていた。苦手なコースに投げたらしばかれるから、先輩の得意なコースに、見やすくて回転のいい球を投げる。そのうちにスローイングのコツがわかってきた」
 つまり、光はいつも理不尽の向こう側にあった。長く控えだった片岡は3年春に、あるポテンヒットから打撃の真に触れ、夏は4番として甲子園春夏連覇を果たした。
 大学を経てプロ入りし、内野手として獲得した3度のゴールデングラブ賞は土埃にまみれた1日1200球が礎だった。
 プロ生活の転機となった1994年オフ、野手として例のない右肘靭帯再建術に踏み切ったのも、打におけるわずか数cmの誤差を体が察知できたからだった。
「後から考えると理不尽と思っていたことから覚えたものって確かにあるんです」

KK時代に寮長を務めた人物の記憶。

 PL学園野球部60年。桑田や清原、片岡や立浪のように寮での忍耐を成功体験へと昇華できた者もいれば、その裏で、耐えきれずに潰れていった者もいた。
 その光と影を近くで見つめていた人物がいる。初めて全国制覇した1978年と、KKの時代に寮長を務めた谷鋪哲夫である。
「2代目の御木徳近教主がPL教団の名を全国に広めるため、特に野球に力を注ぐと決め、1960年代初めの頃に研志寮がつくられたと記憶しています」



最低限の規則と付き人、上下関係。

 寮のロビーには教主直筆の「球道即人道」という屏風が置かれていた。人間教育の場であったため、野球部OBであるなしに関わらず、布教の中心を担う「教会長」を務めた者しか寮長にはなれなかった。
 そして後々に影を落としたのは、寮長は1階に住み込んでこそいるが、朝夕の祈りのあとに選手に話をする程度で、それ以外の時間は全く介入しないことだった。
「指導者とは押し付けず、考えさせ、選手の心に火をつけるという教えがあったんです。それがPLの強さでもあった。寮の規則は最低限ありましたが、付き人制度や上下関係の規律は生徒たちの間で決められていったものだったと思います」
 谷鋪自身も1966年度卒の野球部OBであり、研志寮で3年を過ごした。
「今から考えれば、辛いものが残るだけだったような気もします……」
 広大な教団敷地内には病院もスーパーもあり、外とは隔絶されていた。教団の広告塔という使命を背負った選手たちは、大人の手が入らない閉ざされた空間で次第に上下関係をエスカレートさせていった。
 野々垣武志が過ごした1987年からの3年間というのは、あとから振り返れば、PL野球部が頂点からゆっくりと下っていく分岐点だったのかもしれない。

野々垣少年を魅了した清原の本塁打。

 14歳の夏、奈良・桜井の実家で夏の甲子園決勝戦を見た。6回裏にPL学園の4番清原がバックスクリーン左に放ったのは同点弾だったが、野々垣少年にはなぜかそれが逆転ホームランのように見えたという。
「あれで勝ったと思いました。打者は状況を自分でコントロールできないはずなのに、清原さんはなぜか勝負を左右する場面で必ず打席がきて、そこで本当に打つ。あの時、僕はPLに入ると決めたんです」
 ただ、夢の前には過酷な研志寮での現実が待っていた。装飾を排した平面に、さほど大きくない窓が並んだ無機質な灰色の建物が、異様な圧力で新入生を迎えた。
「毎日必死でした。最初は1回で返事をしなかったと怒られ、そのうちに返事はしたけど、顔や背中に不服な態度が出ていたということで怒られるんです。『カオ』とか『セナカ』とか呼ばれるミスです」
 誰かに何らかの落ち度があれば、連帯責任だ。寮内に抑揚のない放送が流れる。
『1年生の皆さんは至急、娯楽室に集合してください』



「娯楽室」で10分、20分、30分。

 この「集合」と呼ばれる罰則は、2階の一番端にある「娯楽室」でなされることが多かった。
 8畳ほどの部屋には窓があったが、磨りガラスのようになっていて外からは見えにくかった。入室すると1年生たちは両腕を前に伸ばし、空気椅子の体勢になり、そのまま上級生の指導を受ける。
 10分、20分、30分……。時計の針が一周するのが永遠のように感じられた。次第に限界に達した者が膝をガクガクさせ踊り始める。冬でも汗が床にポタポタ滴り落ち、その熱気で窓はびっしょりと結露し、中の様子は外からまったく見えなくなった。
「それが1時間とか続くんです。僕らにとって、あの部屋は地獄室でした……」
 大抵はメンバー入りできない上級生からの抑圧だった。野球に人生をかけたサバイバル。失望は嫉妬となり、怒りに変わり、やがて狂気になった。脱落者がさらなる脱落者を求める狂気である。

戻る方がよっぽどキツイのに。

 野々垣たち1年生の中に野球の才能ではプロ間違いなしと言われる逸材がいた。だが、彼は入学間もないある日、娯楽室での説教に耐えかねて、何事かを叫びながら上級生の群れにひとり突っ込んでいった。翌日から彼の姿は消えていた。
 そして何事もなかったように、また研志寮の1日が始まる。朦朧とする意識の中、野々垣は初夏の頃、最初の脱走をした。
「もう限界でした。訳もわからず逃げていました。どうやって帰ったのか覚えていなくて、気付いたら桜井の実家にいました」
 そうして何日かを家で過ごした後、寮に舞い戻った。また数日すると脱走し、また戻る。そんなことを何度繰り返しただろうか。いつしか野々垣は“PL学園史上2番目の脱走記録を持つ男”になっていた。
「自分でも不思議なのは、もうダメだ、今度こそ辞めようと思っても、いつも寮に戻っていることです。逃げるより、戻る方がよっぽどキツイんです。でも戻ってしまう。やっぱり、僕は、あのホームランが忘れられなかったんだと思います……」



楽しかったのはグラウンドだけ。

 14歳の夏に見た放物線が野々垣を野球に引き戻した。世代の4番を打ったが、甲子園には一度もいけなかった。最後の試合、なぜか涙が出なかったこと、上級生に向かっていった彼がスタンドからその試合をじっと見つめていたことを妙に覚えている。
「楽しかったのはグラウンドだけ。竹バットの芯でとらえた打球がフェンスの向こうに消えていく。その一瞬だけです……。ただ僕はプロに行けたので、まだ良い方です」
 卒業後はドラフト外で西武に入団し、残光を求めるように清原を追いかけた。
 広島、ダイエー、台湾と渡り歩いて引退した。野球以外の仕事に就いたこともあった。社会に触れるたび、なぜ自分はここまで偏った人間なのだろうと煩悶した。
「何時に寝ても朝早く目が覚めてしまいますし、飯も5分で食べる癖がついています。会議で年上の人が発言すれば、黙ってそれに従ってしまう。社会人としてどうかと思うことはあります。それに……僕、やっぱり野球のことしか考えられないんです」

「僕らの頃のような伝え方ではダメ」

 今、野々垣は清原の社会復帰を野球で支援する活動に奔走している。気づけば、またPL学園で見た夢に戻っている。そこでしか自分らしくは生きられないのだ。
 プロ野球界の指導者となっている片岡は最後に遠い目をして、こう言った。
「みんな歩んできた人生の中にそれぞれの規律やルールがあって、そこから何を得たかは共有した人にしかわからない。PLで過ごした者にしかわからないものがある。ただ、今は僕らの頃のような伝え方ではダメ。時代の流れです。これからは自分たちが得たものをどう伝えていくかなんです」
 まだ足りないものだらけだった時代、それゆえ過剰な熱があの場所に集まり、若者たちの夢となり、絶望となった。
 砂塵になった研志寮の光と影は、あの時を過ごした者たちの心で生き続ける。
(Number983号『[昭和の象徴を問う]PL学園研志寮 理不尽の先の光と清原和博。』より)
 


(「Sports Graphic Number More」 鈴木忠平 = 文)

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香川真司がマドリー戦で覆した「期待外れ」の声と、潜む悔しさ。

2020年2月7日 11:50 AFLO

 今季のコパデルレイは、準決勝以外のラウンドが一発勝負で行われている。

 しかもカテゴリーが下のクラブのホームが舞台となるため(同カテゴリーの場合は抽選で決める)、これまでのホーム&アウェー方式よりも番狂わせの可能性は確実に高まった。
 実際、セグンダBのクルトゥラル・レオネサやバダロナがプリメラ上位のアトレティコ・マドリーやヘタフェを破り、2部のミランデスがセルタとセビージャを下して8強入りを果たしている。
 しかし、それが逆にトップクラブの指揮官たちを慎重にさせ、大胆なターンオーバーを控えさせるケースもある。
 1月29日、サラゴサがコパデルレイ4回戦で対戦したレアル・マドリーもそうだった。

主力中心のマドリーにサラゴサは……。

 CL3連覇の偉業を成し遂げたジネディーヌ・ジダンは、意外にも選手時代を含めてコパでの優勝経験がない。マドリー自身、今世紀はまだ2度しかタイトルを獲得していないこともあり、ジダンは極めて慎重な采配を見せた。
 主力クラスで招集外としたのはカゼミーロのみ。控え組の起用は前線の4枚とGKのアレオラにとどめ、不動の4バックと中盤を支えるクロース、バルベルデは外さなかった。
 対照的に、昇格争いの渦中にあるサラゴサはビクトル・フェルナンデス監督がリーグ戦重視のターンオーバーを公言。4日前のヌマンシア戦から8人の先発を入れ替えてマドリーとの大一番に臨んでいる。
 香川真司もこうした背景の下、リーグ戦での“温存”を経て先発起用された1人だった。
 香川は第5節までに2ゴールを挙げた開幕当初こそ好印象を残したが、その後は体調不良や負傷離脱が重なる中でコンディションが低下。出場時間も徐々に減り、一時は1月中に移籍する可能性まで報じられた。
 そのような流れの中、フル出場したマジョルカとの3回戦では久々に好調時のパフォーマンスを発揮したのだが、この日のプレーはいよいよ完全復活を期待させるものとなった。



期待外れの評価を覆す孤軍奮闘。

 最初の見せ場は23分。ペナルティーエリア手前で寄せてくるマーカーを左にかわし、左足で惜しいシュートを放った。30分にはアンドレ・ペレイラとのパス交換で右サイドを突破し、自ら中央に持ち運んで強引にシュートを狙った。
 得点源のルイス・スアレスが投入された後半はさらに多くのチャンスに絡んだ。78分には絶妙なスルーパスを通し、スアレスがGKと1対1になる決定機を作り出している。
 複数の相手選手に囲まれ、厳しいチェックを受けながらも鋭いターンでマークをかいくぐり、確実にボールをキープしながらパスを捌く。そうやって攻撃を組み立てながら、アタッキングサードでは積極的にシュートやラストパスを狙っていく。
 いずれも相手GKの好守やDFのブロックに阻まれたものの、大物相手に孤軍奮闘したこの日のパフォーマンスには、「期待外れ」の烙印を押していたスペインのメディアやファンの評価を覆すほどのインパクトがあった。

マドリーは未知なる怪物ではない。

 しかし、それも香川の慰めにはならなかったのではないか。
 ドルトムントやマンチェスター・ユナイテッド時代にCLでの対戦を経験している香川にとって、マドリーは「未知なる怪物」ではない。
 相手の脅威も、自身が通用する部分も既に分かっている。だからこそ「惜しい」で終わらせるのではなく、目に見える結果を出したかったはずだ。
 試合後、香川は取材エリアに姿を見せず、翌日に以下の一文をツイートしている。
「率直にレアルは強かった。かなり悔しいがまた次に向けて戦い続けるだけ」
 健闘はしたが、結果は0-4。そもそもコパが舞台では、ベストメンバーで戦うことすら許されなかった。そういった現実もまた、悔しさの一因となったのかもしれない。



信頼を取り戻して、昇格のために。

 再びマドリーと全力でぶつかり合うためには、CLであれラ・リーガであれ、まずは対等に戦える舞台に立たなければならない。
 現時点ではサラゴサでプリメラ(1部)昇格を果たすことが一番の近道だろう。そのためには失いつつあった信頼を取り戻し、チームを勝たせる絶対的存在としての地位を築いていく必要がある。
 やれないはずがない、と思っている。マドリー相手にあれだけのプレーができる選手なのだから。


(「スペインサッカー、美学と不条理」 工藤拓 = 文)

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ミカエル・ミシェルが川崎に降臨。初重賞は苦戦、菜七子との再戦は?

2020年2月6日 20:00 Kyodo News

「美しすぎる騎手」として注目されているミカエル・ミシェル(24・フランス)は、地方競馬・南関東の短期免許を取得し、1月27日から日本で騎乗している。

 初日の27日は川崎競馬場で5戦して2着1回、3着2回。翌28日も川崎で6戦して3着2回。そして29日、川崎の第5レース(ダート1400m)で地方競馬初勝利をマークした。
 川崎競馬場の売上げにも「ミシェル効果」は現れている。参戦初日は前年比107.4%、2日目は122.1%。3日目は138.1%の26億5400万2640円というレコードで、入場人員は1万人を超えた。
 この日は交流JpnIの川崎記念(ミシェルは騎乗せず)があったので、彼女だけがファンの目当てではなかったのだが、その引きの強さは、連日のスポーツ紙の報道を見てもおわかりいただけるだろう。
 いつも笑顔で撮影に応じ、最終レース後に自ら共同会見することを申し出たり、雨が降っていてもファンにサインをしつづけたりと、自分に注目するメディアやファンを非常に大切にする。

初重賞は大井の金杯。

 1月31日にも川崎で勝利を挙げたミシェルは、地方の女性騎手が3つの競馬場で腕を競う「レディスヴィクトリーラウンド2020」に急きょ参戦。2月4日、高知競馬場で騎乗し、第1戦こそ最下位の11着だったが、第2戦で1着となり、地方競馬3勝目をマークした。高知ラウンドで2位となり、今後は2月22日の佐賀ラウンドと、3月12日の名古屋ラウンドに出場する。
 そのミシェルが、初めて重賞に参戦することになった。舞台は、2月5日、大井のダート2600mで行われる金盃。騎乗馬は8歳牡馬のセンチュリオン(父キングカメハメハ、浦和・小久保智厩舎)。JRA時代の2018年にマーチステークスを勝ち、地方移籍後の昨年のJBCクラシックで3着になった実績馬だ。
 ミシェルがパドックの騎手控室の前に出てくると、カメラを構えるファンが急に多くなる。馬の背に乗り、周回すると、彼女が前を通るときだけシャッター音が高まる。



騎乗馬の下調べは万全だったが……。

 午後4時10分、第64回金盃のゲートが開いた。
 4番人気に支持されたセンチュリオンは他馬とほぼ横並びのスタートを切った。1周目の3コーナーに差しかかるあたりで好位に取りつき、そのまま先行。2周目の3、4コーナーでミシェルが激しく追って前をかわしにかかる。しかし、外から持ったままのサウンドトゥルー(1着)に一気に来られ、直線で失速。11着に沈んだ。
「ちょっと驚きました。センチュリオンはいつもと正反対のレースをしました。普段はスタートが遅いタイプなのですが、今回は速かった。馬が最初からやる気になっていた。後ろの馬が来る流れになることは予期していませんでした」
 テレビカメラ3台、スチールカメラ10台ほどを含む40人ほどの報道陣に囲まれ、ミシェルはそう話した。「いつもと正反対のレース」という言葉に、あらかじめ騎乗馬についてのデータを仕入れておく、彼女の研究熱心さが現れていた。
「日本に来てまだ2週間なのに、こういう大きなレースに乗ることができて嬉しいですし、誇りに思います。こうしてたくさんのメディアに注目されることはありがたいです。ただ、今日は、結果を出すことができなかったので、ちょっと残念です」

「フランスではいつもこういう感じ」

 2月3日は大井、4日は高知、そしてこの日の午前中また大井に戻って騎乗というハードスケジュールだが、涼しい顔だ。
「フランスではいつもこういう感じなので、フランスの日常に戻ったようです。まったく疲れていません」
 ミシェルが南関東でデビューした日も、この日も、同じレースで手合わせした川島正太郎(千葉県騎手会所属)は、ミシェルの騎乗をこう評する。
「スタートセンスがいいですし、南関東の競馬をよく研究していますね。彼女が川崎でデビューした日などは馬場状態が悪く、ああいうコンディションを嫌がる外国人ジョッキーが多いのに、ガッツがあるなと思いました」



藤田菜七子との対戦は「嬉しい」。

 母国フランスではダート戦で騎乗したことがないのに、昨年札幌で行われたワールドオールスタージョッキーズではダートで日本初勝利を挙げた。普段は超スローの流れのなかで手綱の引っ張り合いとなるレースをしていながら、まったく異なる条件の舞台でも結果を出している。川島はつづける。
「プッシュ、プッシュの日本のダートにすぐ適応しているところはすごいと思います」
 ミシェルは金盃の次の最終レースも12着に敗れ、この日は6戦して未勝利だった。レースの合間、気持ちを切り換えるためによくフルーツを食べているという。
「今日はイチゴを食べました」
 そう微笑んだ彼女は、今月28日にサウジアラビアで開催される国際騎手招待競走で藤田菜七子と対戦する。
「大好きなナナコと一緒に乗ることができるのは最高に嬉しい。早く参加したいです」
 南関東の短期免許期間は3月31日まで。
 大井か川崎、船橋、浦和のどこかで藤田と手合わせする可能性もあるだろう。
 世界で活躍する日仏の美人ジョッキーがこうして脚光を浴びるなど、数年前までは考えられなかった。それが現実となったのは、彼女たちに力があるからだ。
 ミカエル・ミシェルが見せてくれる美技を、楽しみたい。


(「沸騰! 日本サラブ列島」 島田明宏 = 文)

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田村優がつないだ「10番」は誰に?頼もしい、若き司令塔たちの躍動。

2020年2月6日 11:50 Naoya Sanuki

 熱狂のワールドカップイヤーが終わったラグビー界。

 新しい年、新時代を担う若者たちが躍動した。
 2020年のラグビーを読み解くキーワードは、背番号10。次世代の司令塔の競演だ。
 W杯で背番号10、司令塔に座ったのは田村優。30歳(2020年1月9日で31歳になった)。次のW杯では34歳。プレーできない年齢ではないが、そこまで継続して代表でハードワークするかどうかは本人次第だ。
 田村とともにW杯に出場した松田力也は25歳。こちらは4年後に向けての意欲を明言している。フランス大会のときは29歳。脂の乗った年齢だ。




フランス代表ヌマタックは20歳。

 とはいえ、世界の若返りは早い。W杯日本大会で注目を集めたのはフランス代表の20歳の司令塔、ロマン・ヌタマックだ。自国開催となる次回大会は、24歳の若さながらW杯本大会のタフな経験を4試合も積んだ選手として登場する。
 遡れば、1999年大会で20歳でデビューしたジョニー・ウィルキンソンが、4年後のオーストラリア大会でイングランドを北半球勢初の優勝に導いた。その2003年大会に21歳でデビューしたダン・カーターは、世界最高の司令塔と呼ばれ、2015年イングランド大会でオールブラックスをW杯初の連覇に導いた。
 どちらにしても次の司令塔は育てねばならない。
 そして、出番が待ち遠しくなるほど、次世代の司令塔候補はこの冬、各カテゴリーの大会で輝いた。



大学日本一に導いた司令塔。

 断然の輝きを放ったのは、11年ぶりで大学日本一を奪回した早大の司令塔、岸岡智樹だ。
 体が大きいわけでも、足がめちゃめちゃ速いわけでもない。それでいて、関東大学対抗戦グループのトライ王を獲得。それだけでも十分、ゲーム理解度の高さが窺えるのだが、それ以上に輝いたのはゲームを組み立て、チームを勝利に導く能力だ。
 その能力が最大限に発揮されたのが、前年王者の明大に挑んだ大学選手権決勝だ。新国立競技場で初めてのラグビー開催。岸岡は事前の下見でインゴール(ゴールラインの後方、トライの成立するエリア)が6mと短いことを確認した。
「キックがインゴールを出てしまうと、蹴った地点に戻されて、相手ボールのスクラムでゲームは再開される。そうならないようにキックをコントロールしないと」
 決勝の前日、上井草グラウンドでの練習を終えた岸岡は言っていた。

2月はニュージーランドで武者修行。

 そして決勝本番。岸岡は自陣から、直線距離で60m近い大胆不敵に見えるロングドロップゴールを2度にわたって狙ってみせた。試合後、岸岡は自らのプレー選択の理由を明かした。
「ドロップゴールは外れても蹴った地点に戻されず、デッドボールラインを出てもドロップアウトで、敵陣でゲームがリスタートしますから」
 ルールをしっかり頭に入れて、展開を事前にシミュレートして、ゲームに臨んだからこそできたゲームコントロールだったことが分かる。



 173cm、84kg。大阪の枚方市立蹉だ中学校(「だ」は「つまずく」の漢字)~東海大仰星高を通じて学校の成績はオール5。早稲田大学教育学部で数学を専攻し、自身のラグビー理論、判断の根拠などをSNSで積極的に発信し、コアなファンから絶大な支持を集めている。4月からトップリーグのクボタでプレーするのを前に、2月からはニュージーランドで武者修行。ラグビー王国での学びは、クレバーな司令塔にどんな進化を促すだろうか。



ランも際立つファンタジスタ。

 その岸岡と決勝の大舞台で真っ向勝負を演じたのが明治大学の3年生、山沢京平だ。昨季までは最後尾のフルバックでプレー。ダイナミックなカウンターアタックで活躍していたが、今季は司令塔のSOにコンバートされた。
 しかし、背番号が15から10へ変わっても、武器であるランニングスキルの威力は変わらない。巧みなゲームメークの光る岸岡とはまた違う、自らボールを持って勝負する超攻撃型の司令塔だ。
 176cm、85kg。熊谷東中学時代まではサッカーをしていたこともあり、キック力も光る。岸岡はゲームを作る戦略的なキックを得意とするが、山沢はキック1本でトライを取りきる、あるいは局面を劇的に変えてしまう――そんなインパクトのあるプレーを飄々としたスタンスで演じてしまう。
 大学選手権決勝の早大戦では後半21分、早大のタックラー2人が並んだ隙間をスルリと擦り抜け、鮮やかなトライを決めた。武器はダイナミックで柔らかいステップと、独特の間合いだ。こんな選手だから、こう表現したら多くの人がイメージしやすいかもしれない、そう「大学ラグビー界最高のファンタジスタ」なのだ。間違いない。




兄弟そろって10番争いに?

 もっとも、結果は早大に敗れての準優勝。
「ハーフ団(SHとSO)のところでしっかりとゲームを作らないといけないのに、自分のところでコミュニケーションが上手く取れなくて、試合が早稲田のペースになってしまったのが反省点。SOとしての経験不足が出てしまった。自分のプレーも、対抗戦のときよりも研究されて、プレッシャーをかけられていた」
 本人は敗戦の責任を一身に背負っていた。それでも、開始早々に早大FB河瀬諒介にビッグタックルを見舞うなど、ディフェンスとフィジカル面のポテンシャルも見せつけて、大器であることを改めて証明した。
 実兄は、日本代表キャップ3を持ち、パナソニックで活躍する山沢拓也。こちらも疑いなきファンタジスタだ。ランニングスキル、フレア(閃き)あふれるプレー選択。先のワールドカップでは代表入りを逃したが、日本最高の10番を争う一人。2023年のワールドカップフランス大会に向けた10番争いに、兄弟揃って参戦する可能性も高そうだ。



18歳らしからぬ冷静さと大胆さ。

 もうひとり、4年後の日本代表の司令塔候補に赤丸急上昇してきたのが、全国高校大会で神奈川の桐蔭学園を悲願の単独初優勝に導いた伊藤大祐だ。
 18歳とは思えない冷静沈着な判断力と、大胆に勝負する強気のデシジョンメーク。
 奈良県代表・御所実との決勝ではその能力が惜しみなく発揮された。後半16分、相手キックを捕るや迷いなくカウンターアタック。相手ディフェンス2人の真ん中を突き破る一気のゲインで敵陣に入り、トップスピードのままFBへパス。味方の逆転トライをアシスト。続く27分にも自陣からショートパントを蹴って自らチェイス。ドリブルで敵陣深くに攻め込むと、鮮やかなDGを蹴り込んで勝負を決めた。ゲーム・コントローラーとして試合を掌握し、自ら走り、蹴り、勝負所で必ず働く。
「前半はキックを蹴りすぎて、自分たちのペースを作れなかったけど、後半は腹を括って、ボールをキープして攻めました。(3-14と)リードはされていたけれど、相手の穴ができやすいところは見えていたし、冷静に突くことができた」
 劣勢の試合展開でも、味方と相手の強みと弱み、疲労状況を的確に把握し、そこに自ら体を張れる。

柔道で養ったコンタクトプレーの強さ。




 福岡県生まれだが、全国優勝の常連である地元の東福岡高には進まず、あえてそのライバル、神奈川の桐蔭学園へ進学。1年でCTBのレギュラーポジションを掴み、2年ではFBで出場。そして3年の今季は司令塔のSOに。
 179cm、85kgの身体は、数字よりも大きく分厚く見える。それは幼少時の格闘技経験からきているかもしれない。5歳から小4まで柔道道場に通い、小3では九州の軽量級チャンピオンにも輝いた実力者だった。
 しかし小5からは、柔道と並行して小1で始めていたラグビーに集中。
「柔道はコーチが厳しくて、早く辞めたかった。ラグビースクールのコーチは優しかったんです(笑)。でも、柔道の経験は今に活きていると思う。低い姿勢を作ったり、地面に転んだときに回転して衝撃を逃がしたり、タックルしても脳しんとうにならないとか」
 そんな、コンタクトプレーへの自信の故だろう、伊藤はアタックでもタックルでも相手から逃げない。逃げないから味方の走るスペースが空く。走れて蹴れて、周りが見える。そして体は鋼の強さを持つ。
 2023年のW杯時は、伊藤は22歳になっている。若手には違いないが、世界を見たらそんなことは言っていられない。とはいえ、世界に羽ばたくにはもっと経験値を上げる必要がある。4月から早大に進学する伊藤が、大学の枠に収まらない経験を積めるか。2023年の司令塔争いに食い込めるかどうかは、そこにかかっている。いっそ、サンウルブズに練習生として呼んで欲しいくらいだが……。
 次のW杯までに、若き司令塔候補たちは、どんな経験を積み、どんな実力を身につけるだろうか。そして、フランスの地で、サクラの10番を背負うのは誰だろう?


(「ラグビーPRESS」 大友信彦 = 文)

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千丸剛を「本物」と感じた者として。野球を人生の全てにしてはいけない。

2020年2月6日 11:40 Hideki Sugiyama

 忌まわしい出来事に、以前、一度でもグラウンドで言葉を交わした者が関わっていたというのは、なんとも悲しい気分にさせられる。

 たいして驚きはしなかった。
 これまでに何度もそうした“衝撃”にさらされて、もちろん良いことではないのだろうが、慣れっこになっているのかもしれない。
 しかし、一方で、「訃報」に接するより、さらに深い悲しみを感じるのはなぜだろう。
 花咲徳栄でキャプテンをつとめていた千丸剛二塁手に会ったのは、彼が高校3年の春だ。その数カ月後、チームは夏の甲子園の覇者となる。  
 取材をこの連載で記事にした、その一部を、ここに挙げてみたい。(初出2017年8月28日公開 『「練習は嘘をつかない」は嘘だ。花咲徳栄の練習場で見た本物の実戦。』)
――
 高度な練習を続ける中で、キラリと光る存在感を漂わせていたのが、キャプテン・千丸剛二塁手だった。
 俊足・好守の2番セカンドとして、ある時はつなぎ役であったり、チャンスメーカーであったり、また走者を置いての勝負強さも抜群だからポイントゲッターとしても機能して、相手チームにとってはこんなに怖い存在もいない。
 この千丸剛の内角速球のさばきが天下一品なのだ。
 この甲子園、千丸剛は内角速球をライト方向へ切れないライナーで5本の長打、単打を弾き返してみせた。
 そんな“名人”が、その一本バッティングの合い間に、バットの振り始めの左ヒジの入れ方をチームメイトに教えている。
 千丸剛は左打者だから左ヒジになるのだが、内角の速いボールは両腕のたたみ込みという技術がないと、バットの芯で捉えられない。その“たたみ込み”の準備動作になるのが、後ろのヒジの入れ方になる。
 脇を締めながら、いかに後ろのヒジを瞬時に胸の前へ入れてこられるか。この動作は、インサイドアウトのスイングの初動にもなるので、内角だけでなくすべてのコースへ合理的にバットを出すことの基本になってくる。
 千丸剛がライト方向だけでなく、左中間方向へも球勢の衰えないライナー性の打球を弾き返せるのは、そのせいだ。
 そんなとっておきのワザを、3番・西川愛也に、4番・野村佑希に、彼が手取り足取り教えている。
 準々決勝の盛岡大付戦のことだ。
 野村佑希が盛岡大付の左腕・三浦瑞樹の内角低目を、レフトポール際にライナーで叩き込んだ一打。普通に打ったら、ファールにしかならない難しい足元のボールを、ライナーのホームランにしたとっさの技術。
 千丸に打たせてもらったな……。
 ついうっかり、そんなふうにつぶやいてしまったものだ。(引用ここまで)



この選手はホンモノだと思った。

 とにかく、野球の上手い選手だった。
 バッティングだけじゃない。フィールディングも間違いがないし、何より、自分の才能に寄りかかることなくスピーディーにしかも丁寧に、用心深く打球を処理していたのが、千丸剛だった。
 インプレー中だけじゃない。
 ライト前に抜けたヒットの返球を受けて、そのボールをベンチへ戻すような、ついつい適当にヒョイと投げてしまいそうな場面でも、ベンチ前で待つ選手にピュッと指にかかったボールを相手の顔の前にきちんと投げ返していたのが、今さらながらに強く印象に残っている。
「君は“野球上手”だねぇ」
 感心して声をかけたら、「どういう意味ですか?」と返されたので、この選手はホンモノだと思った。
 理解できても、できなくても、なんでもハイ! ハイ! で済ませてしまう球児がほとんどの中で、納得がいかないことはちゃんと聞き返して、理解につなげる。
 当時のチームには、いずれプロに進むことになる選手が、3年生に2人、2年生と1年生に1人。高校から即プロではなくても、いずれはオレだってプロで……自己主張の強烈な腕利きぞろいのチームを束ねていくには、キャプテン本人にも相応の“毒”が必要だ。
 野球上手の意味を伝えて、感心したことを具体的に伝えた時の、わが意を得たり! と言わんばかりの弾けた笑顔を、今でも覚えている。

監督が感じていた頼りがいと危うさ。

「このチームは、千丸がキャプテンだから成立している。そういう側面は間違いなくありますね」
 ちょっと気むずかしいところもあるんですけどね……。
 そう言いながら、岩井隆監督もすごく頼もしそうにしていたものだ。
 今度の事件の真相をすべてわかっているわけではないが、あれだけ野球に魅入られていたヤツがその野球を手離し、また、ほかの「野球の道」が開けることもなかったのだから、きっと、よほどのことがあったのだろう。
 あれだけ野球を大切にしていたヤツが、その“宝物”をなくしたわけだ。本人の喪失感や絶望感は、想像を絶するものだったに違いない。
 失意、捨てバチ、破れかぶれ、ヤケのやんぱち……自分で自分をどうにもコントロールできない状況に陥っていたことは想像がつく。



ひとつのことに打ち込みすぎると危ない。

 ひとつことに打ち込む。
 日本には、そんな美しい言葉がある。
 この国の「学生スポーツ」は、まさにそれを実践する最も象徴的な存在の1つになろう。
 これと定めた道を、脇目も振らずに邁進する。
 悪いことではないが、それが“過ぎる”と害が人をむしばむことにもなる。
 これは、野球部という組織の問題かもしれないし、個人の資質が関わっている場合もあって、ケースバイケースであろう。
「打ち込む」という意識が、それ以外のすべてを否定したり、排除したり、そうした偏りを招いてはいないだろうか。
 10代、20代の若い日には、ひとつことに打ち込むことも大切だが、同様に、それだけに偏り過ぎないための「興味の広がり」があってよい。
 ほかの事をする暇があったら、バットを振れ、バットを振ろう。
 そうした息苦しさは、必ず何かの拍子に思いもよらないパワーで噴出する。それが、若者の「怖さ」であることを、私も体感で知っている。

「自分だけの時間帯」が大切。

 むしろ、すべきことを終えた時に待っている「自分だけの時間帯」を持とう。大事にしよう。
 私の学生時代、たとえば、とんでもなく飛ばすヤツがギターの名手だったり、クリーンアップを打つヤツが意外な「詩人」だったり、バッティングピッチャーとして貢献していたヤツがプラモデル組み立ての名人だったり……今より「全体練習」のボリュームがあったせいか、自分の時間が“自立”しているチームメイトが多かった。
 私は、子供の頃にあるきっかけがあって、落語と芝居が好きだった。
 深夜のテレビ中継に、眠さをこらえながら見入ったものだし、今のように定期的にオフのある時代ではなかったが、急にやってくるたまの休みには、寄席や劇場に足を運んで楽しんだ。



10分の10にしても、失うことがある。

 ひとつことに打ち込むこと。
 それは、自分の中を「10分の10」にしておくことかもしれない。
 硬式野球は、ある意味、危険なスポーツだ。
 思わぬ大ケガで選手生命を絶たれることもあるし、若い時期は心の振幅も大きい。後悔を伴うかたちで、自ら野球生命を絶ってしまう場合もある。
 その時、自分の中が「10分の0」になってしまわないように。
 悪魔は、その隙間に忍び込んでくる。

学生ならば10分の7でちょうどいい。

 ひとつことに打ち込むのはすばらしいことだ。
 しかし、「10分の7」でちょうどよい。「10分の10」にしてはいけない。
 残り“3”の余裕を持とう。“遊び”を持とう。
 その“3の遊び”が、学生スポーツ生活をもっと健全で、晴れやかで、気分よく深い呼吸のできる毎日にしてくれる。
 プロでも、「10分の10」では窒息してしまうだろう。
 学生スポーツの“ひとつこと”なら、「10分の7」ぐらいでちょうどよい。
 残りの部分で、もう1つの自分の世界を……社会に出てからの自分につながっていける、もう1つの自分の世界をぜひ。
 私はそう願っている。


(「マスクの窓から野球を見れば」 安倍昌彦 = 文)

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松坂世代の戦いは40歳以降も続く。5人の現役+コーチ転身の全リスト。

2020年2月5日 11:50 Kyodo News

 何気なくスマホを見ていたら「今年40歳と聞いて驚く女性有名人」というのが目に入った。広末涼子、優香、壇蜜、竹内結子、小池栄子などなど。あの広末涼子が40歳か、ということは彼女にとって中学の同級生だった藤川球児も40歳か……そうか「松坂世代」も40歳か、と思い至った。

 1998年、春夏の甲子園を沸かせた松坂大輔をフラッグシップとする「松坂世代」も、いよいよ40歳となる。この春季キャンプに現役選手で参加しているのは、5人だけだ。所属と誕生日とともに紹介しよう。
松坂大輔(西武)
1980年9月13日
和田毅(ソフトバンク)
1981年2月21日
久保裕也(楽天)
1980年5月23日
渡辺直人(楽天)
1980年10月15日(コーチ兼任)
藤川球児(阪神)
1980年7月21日
 2019年は8人だったが、日本ハムの實松一成、広島の永川勝浩、ヤクルトの館山昌平が、昨シーズン限りで引退した。つまり、不惑の年まで現役を続けている選手は5人になったのだ。1998年ドラフトを皮切りに90人以上がプロ入りしたが、いよいよ松坂世代にもプレーヤーとして黄昏の時が来ている。
 このなかで特に注目したいのは、藤川。あと9セーブ(日米通算ではあと7セーブ)で250セーブを達成す。松坂世代として初となる「名球会」入りがかかるからだ。一方、松坂は古巣復帰が引退の花道になるのかどうか。シーズン序盤に注目だろう。

久保裕也はNPBで8番目の高齢に。

 ちなみに2020年のNPB現役選手の最年長は、1977年4月26日生まれ、開幕してすぐに43歳になる阪神・福留孝介である。続くのは中日・山井大介(1978年5月10日)、阪神・能見篤史とヤクルト五十嵐亮太(1979年5月28日)、広島・石原慶幸(同9月7日)、ロッテ細川亨(1980年1月4日)、ヤクルト石川雅規(同1月22日)の順となる。
 松坂世代の現役選手で最も誕生日が早い久保裕也は、NPB内では8番目の高齢選手である。



松坂世代でコーチとなった全22人。

 ところで、この5人よりも早く引退した松坂世代は今、何をしているのか。今季の12球団公式サイトの監督、コーチ名鑑から指導者として名前が載っている松坂世代の名前をピックアップしてみよう。
<西武>
赤田将吾(一軍打撃コーチ)
1980年9月1日
上本達之(二軍育成コーチ)
1980年11月8日
<ソフトバンク>
平石洋介(一軍打撃兼野手総合コーチ)
1980年4月23日
吉本亮(三軍打撃コーチ)
1980年5月8日
<楽天>
渡辺直人(一軍打撃コーチ/選手兼任)
1980年10月15日
後藤武敏(二軍打撃コーチ)
1980年6月5日
館山昌平(二軍投手コーチ)
1981年3月17日
<日本ハム>
矢野謙次(一軍外野守備コーチ兼打撃コーチ補佐)
1980年9月21日
紺田敏正(ファーム外野守備走塁コーチ)
1980年8月12日
<オリックス>
小谷野栄一(二軍打撃コーチ)
1980年10月10日
<巨人>
村田修一(二軍野手総合コーチ)
1980年12月28日
杉内俊哉(二軍投手コーチ)
1980年10月30日
木佐貫洋(二軍投手コーチ)
1980年5月17日
實松一成(二軍バッテリーコーチ)
1981年1月18日
加藤健(三軍バッテリーコーチ)
1981年3月23日
<DeNA>
小池正晃(ファーム外野守備走塁コーチ)
1980年5月15日
<広島>
東出輝裕(二軍打撃コーチ)
1980年8月21日
永川勝浩(二軍投手コーチ)
1980年12月14日
<中日>
工藤隆人(二軍外野守備走塁コーチ)
1981年3月30日
<ヤクルト>
松元ユウイチ(一軍打撃コーチ)
1980年12月18日
衣川篤史(一軍バッテリーコーチ)
1981年3月20日
小野寺力(二軍投手コーチ)
1980年11月26日
 計10球団で、選手兼任の渡辺直人も含め22人の松坂世代がコーチとして後進の指導に当たっている。前述した實松、永川、館山もそれぞれコーチに就任しているのだ。



引退すれば、キャリアは振出し。

 昨年は現ソフトバンク一軍打撃兼野手総合コーチの平石が楽天の監督を務めており、引退後の指導者として出世頭と言えた。
 なお平石の現役時代は通算37安打。元阪急、日本ハム監督の上田利治の56安打を下回り「現役時代の安打数が最も少ない一軍監督」となった。昨年は見事チームをポストシーズンに進出させたが、楽天を退団し、今季はソフトバンクのコーチになった。
 松坂世代のコーチが最も多いのが巨人。二、三軍に5人もいる。巨人のファームでは指導陣の“タメ語”のやり取りが聞こえることだろう。
 その一方で現役時代に本塁打王などに輝いた村田修一、沢村賞に輝いた杉内俊哉と、現役21年で516試合出場したものの、ほぼ控え捕手だった實松一成が今は同じ「二軍コーチ」の肩書なのも興味深い。
 引退すれば、キャリアは振出しに戻る。ここからは指導力による出世争いが始まるのだ。

長田、江草、大西はNPB以外で。

 NPBのコーチ以外にも野球界のいろんなところで松坂世代は活躍している。
 筆者はこの1月、西武ライオンズアカデミーの野球教室を取材したが、セットアッパーとして西武、DeNAで活躍した長田秀一郎(1980年5月6日生)が、アカデミーコーチとして中学生を相手にボールの投げ方やベースランニングの仕方を教えていた。
 また阪神、西武、広島でリリーフとして活躍した江草仁貴(1980年9月3日生)は一昨年から大阪電気通信大でコーチをしている。学生野球資格の回復をしてアマチュア指導者になる人も増えるだろう。
 さらにPL学園時代、夏の甲子園での横浜との延長17回の死闘で、松坂から一時は同点となるタイムリーを打った大西宏明(1980年4月28日生)は、近畿大を出て近鉄、オリックス、横浜、ソフトバンクで外野手として活躍したが、今は関西独立リーグ(2代目)の堺シュライクスで監督を務めている。
 このチームの創設時のトライアウトを取材した際のこと。大西監督は、選手たちに「落ちた人たちも、これから僕たちを見返すような活躍をしてほしい」と熱い言葉をかけていた。
「松坂世代、ついに5人」と聞くと寂しい気がするが、セカンドキャリアのレースはまだ始まったばかりだ。彼らの前途に期待したい。


(「酒の肴に野球の記録」 広尾晃 = 文)

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