cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_qso3jpcxt1pr_インド伝統の香料の里、カナウジを訪ねて qso3jpcxt1pr qso3jpcxt1pr インド伝統の香料の里、カナウジを訪ねて oa-natgeomagjp 0

インド伝統の香料の里、カナウジを訪ねて

 ガンジス川のほとりのバラ畑に、テーグ・シン氏が到着するのは日の出前。最適なタイミングでダマスクローズを収穫するためだ。肩にかけた麻袋に、薄いピンクの花びらをてきぱきと投げ入れ、日が昇る頃にはスクーターに乗ってカナウジの街へと向かう。「インドの香料の都」と呼ばれる小さな街だ。

 インド北東部にあるカナウジでは、世界最古の蒸留技術をもちいた植物性の香油「アター(attar)」が作られてきた。ムガル帝国時代には香りの文化が花開き、王族も一般市民も皆、手首から食べ物、噴水から家に至るまで、あらゆるものに香りを付けたという。

 アターは20世紀になると衰退したものの、カナウジでは今も変わらぬ方法でアターの製造が続いている。そして、近年ではインド内外で、アターの官能的な香りに惹きつけられる新しい世代が登場しつつある。

植物から引き出した芳香

 アターは古くからある香料だ。「perfume(香水)」という言葉は、ラテン語の「per fume(煙を通して)」から来ているが、元々香りは油や水に植物を漬けることで得られていた。現在の一般的な香水は、アルコールがベースとなっている。安価なうえ、揮発することで香りが広がりやすいためだ。

 一方、アターはビャクダンの木から抽出された精油がベースになっているため、皮膚に塗るとたちまち吸収されていく。手首や耳の後ろにほんの一滴付けるだけで、時には何日も美しい香りが続く。

 ヨーロッパの有名香水ブランドでもカナウジのアターは使われている。バラだけでなく、ベチバーやジャスミンのアターが、香りを奏でる層の一つとして現代の香水の調合に加えられているのだ。

香りを作る伝統の職人技

 カナウジのアター作りの歴史は400年以上前に始まった。フランスのグラースが香料の都として名を馳せるようになる2世紀も前のことだ。ヒンディー語で「デグ・バプカ」と呼ばれる銅製の蒸留器を、木や牛糞をくべた火で熱するという職人技の世界である。

 カナウジは、過去と現在のはざまにあるような、インドの典型的な小都市だ。

 バラ・バザールと呼ばれる市場の路地に足を踏み入れると、そこはまるで中世だ。迷路のような市場にある古参の店には、ガラス瓶に入ったアターや「ルー」(精油)が所狭しと並ぶ。地面に置いたクッションの上であぐらをかいた男性たちが、香りを小瓶から嗅ぎ、極端に長い綿棒で耳の後ろに塗りつける。古くから続くこの商いを、「アター・サズ」と呼ばれる香油製造の蒸留所が支えている。

「一流の調香師たちがこの小道を歩きました。泥と牛糞を踏み越えて、カナウジのアターを手に入れるために」。そう話すのは、プランジャール・カプール氏だ。この街に350ほどある蒸留所の一つ、M.L. Ramnarain Perfumersの5代目共同経営者である。

 テーグ・シン氏が到着し、蒸留スペースとなっている石造りの中庭に大量のバラの積み荷を降ろす。アター作りの名人、ラム・シン氏が花びらをすくい、丸い銅製の蒸留器に入れて、上から新鮮な水をかける。蓋をする前に、粘土と綿を混ぜたものを縁に塗りこめることで、蓋が密閉されるようにする。

 花を含んだ水が沸騰し始めると、竹の筒を伝って蒸気が流れ出てくる。その先にはビャクダンの精油が入った銅製のつぼがあり、バラの香気成分が吸い込まれてゆく。

 テーグ・シン氏が摘んだバラがローズ・アターになるまで、かかる時間は5~6時間ほど。この間、ラム・シン氏は蒸留器とつぼの間を忙しく動き回り、水の温度を手で確かめ、蒸気の音に耳をすませて火加減を判断する。「子どもの頃からやっているんだ」と50歳のラム・シン氏は言う。アター作りは師匠から10年をかけて学んだ。

 翌日も花びらが加えられ、理想の濃度になるまで同じ工程が繰り返される。完了すると、アターは吸湿性に富んだラクダ革の瓶に入れられ、何カ月間も熟成される。古風なやり方だが、ローズ・アターは大変高価なものだ。1キロが3000ドルになることもある。

「ゲージやメーター、電力なんかありません」。そう言いながら、この設備でフランス、グラースの一流香料メーカーに負けないものを作っていると、カプール氏は誇る。「レンズ豆を村の質素な調理場で調理するか、ガスキッチンや電子レンジで調理するかの違いです。同じ味になるはずがないんです」

蒸留の歴史

 歴史上最も古い植物性香料は、古代エジプトにまでさかのぼる。ベースとなる油に植物を直接つぶして入れ、浸出させるものだった。水蒸気蒸留を初めて行ったのは、10世紀のペルシャ人医師、イブン・シーナーだったとされている。が、インダス川流域での考古学的調査で原始的な蒸留器が発見され、水蒸気蒸留による香水作りはもっと早くから行われていたことが示唆されている。

 16世紀にはムガル帝国がインドに成立し、嗅覚に貪欲な文化が持ち込まれた。初代皇帝のバーブルが称えた、香りと精神的、官能的な喜びとのつながりは、以後200年にわたりムガルの王族たちに受け継がれた。

 王族で最初にカナウジを気に入り、ひいきにしたのは、皇帝ジャハンギールとその妻、ヌール・ジャハーンだったようだ。地元の伝承によると、風呂に入れられたバラの香りに魅了されたヌール・ジャハーンが、カナウジのローズ・アターを大流行させたという。

伝統とモダンの融合

 それにしても、なぜカナウジなのか。ここは、ガンジスが運んだ土に恵まれて、ジャスミンやベチバー、ダマスクローズの栽培に適している。そもそもダマスクローズは、ダマスカスのある中東ではなく中央アジア原産である。カナウジには遠い昔から優れた蒸留家たちがいた。ムガルの皇帝は需要に火を付けたに過ぎない。そして、カナウジは時流に乗ったのだ。

 英国がインドを支配したころから、アターの需要は縮小していく。ビャクダンは元々高価だったが、1990年代後半にインド政府がビャクダンの販売を制限し始めると、アターの価格はさらに高騰した。同時に、人々はより現代的なスタイルを求め、西洋の香水や制汗剤を使うようになった。

 今日、ほとんどのアターは中東や地元のムスリムコミュニティの中で消費されている。また、カナウジでは大量のローズウォーターも生産され、タバコやスパイスをビンロウの葉で包んだ「パーン(paan)」と呼ばれる嗜好品に使われている。だが、こうした需要はいずれも街の蒸留産業全体を支えるには足りない。多くの蒸留所が閉鎖されるか、西洋風の香水製造に舵を切るかした。

 こうした困難にあっても、カプール氏は楽観的だ。一流香水ブランドに、アターやそれを生むカナウジの風土について知ってもらうことに力を注いでいる。「西洋人の好みは東洋風になってきています」と言う。「たいてい、西洋の人は柑橘系の軽い香りを好みますが、最近ではディオールやエルメスなどの大手、そしてもちろん中東の香水メーカーが、ローズやウード(沈香)、シャママ(40種以上の花やハーブ、木の樹脂などから得られた精油を混ぜたもの)など、濃厚な香りを求めるようになっています」

 質の良いアターへの需要はインド国内でも高まっている。アニータ・ラル氏は、伝統的なインドのデザインと感性を現代的に取り入れた、Good Earth、Paroという2つのライフスタイルブランドを経営している。今後、若い世代にアターの魅力を伝えたいという。

「アターの悲劇は、二つあります」とラル氏は言う。「まず、ビャクダンが希少で、これがないと素晴らしいアターは作れないということ。もう一つは、アターは途方もなく古めかしいと思われているということ。そのうえで西洋のマーケティング戦略やフランス香水の魅力に対抗するというのは、なかなか大変ということがお分かりいただけるでしょう」

 現在、アターを世界に広めるという意味で最大の親善大使は、地元出身のラックナウィ・ジャーンヴィ・ラコータ・ナンダン氏だろう。ジュネーブとパリの名調香師のもとで7年間学び、ゴアとパリにThe Perfume Libraryを開いた。

 ナンダン氏が作る香りは、詩的でありながらエキセントリックで、科学的でもある。神話的なものと現代的なものが組み合わされ、毎年、一つか二つの新しい香りが生み出される。アターはそうした香りの中の、重要なパーツなのだ。

「アターは魂に語りかけます。小さなスペースに火と煙が溢れる光景は、まるでこの世の終わりのように見えるかもしれません。けれど、同時にそれは『本物』であり、美しいものなのです。これをヨーロッパのラボで再現することはできません」

文=Rachna Sachasinh/写真Tuul And Bruno Morandi/訳=桜木敬子

写真の説明:インドのカナウジで、バラの花から花びらを摘み取る女性。この街では400年以上も前からローズ・アターが製造されてきた。(PHOTOGRAPH BY TUUL AND BRUNO MORANDI)

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cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_0julko4sxs6e_聖地巡礼ブームが花開かせた尊い美、ロマネスク建築とは 0julko4sxs6e 0julko4sxs6e 聖地巡礼ブームが花開かせた尊い美、ロマネスク建築とは oa-natgeomagjp 0

聖地巡礼ブームが花開かせた尊い美、ロマネスク建築とは

 11世紀はヨーロッパでキリスト教が勢いを増した時代だった。ローマ教皇庁による教会の改革運動が各地に広がり、キリスト教徒たちはありがたい聖遺物を一目見ようと、ヨーロッパ全域を巡礼するようになる。

 結果、ヨーロッパ各地をさまざまな人や思想、金が行きかうようになった。1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけで始まった第1回十字軍が、その勢いに拍車をかけた。

 こうした変化とともに、ある新しい建築様式がヨーロッパに広まった。11世紀のクリュニー修道会の修道士であるラドゥルフス・グラベルの言葉を借りれば、キリスト教の土地が「教会の白いマント」をまとったかのように、よく似た特徴を持つ建物が巡礼路沿いに見られるようになる。

 曲線的なアーチ、頑丈な石の柱、聖書の物語を題材にした豪華な装飾。後の歴史家たちに「ロマネスク(古代ローマ風)」と呼ばれた建築様式だ。基礎となっているのは古代ローマの建築様式「バシリカ」で、建物の構造や装飾には古代ローマの影響が見られるが、大聖堂などの聖なる空間の演出はキリスト教的であり、まさしくヨーロッパにおけるキリスト教の広がりを反映していた。

エルサレム、ローマと並ぶ巡礼地に

 ロマネスク様式の広がりと画一性の鍵を握っていたのが、先に書いたように、巡礼人気の高まりだ。ほとんどの巡礼者にとって、聖地エルサレムへの旅はあまりに困難すぎたが、ヨーロッパの中であればはるかに現実的だった。

 11世紀に人気を博した巡礼地の一つが、スペインの北西部にある聖ヤコブ(イエス・キリストの十二使徒の一人)の修道院である。言い伝えによれば、9世紀の隠者が、開けた田園地帯で聖ヤコブの墓を指し示す一筋の光を見たという。その場所に建てられた修道院は「サンクトゥス・ヤコブス(ラテン語で「聖ヤコブ」)・デ・キャンプス・ステラエ(「星の野」)」と呼ばれた。一説によると、これが現在の地名であるサンティアゴ・デ・コンポステーラの由来だという。

 その後、ヨーロッパ全域からキリスト教徒がはるばる聖ヤコブの修道院を訪れるようになり、サンティアゴ・デ・コンポステーラはエルサレムやローマと肩を並べるほど人気の巡礼地となってゆく。

 11世紀半ばには、聖ヤコブの墓の上に、ロマネスク様式の大聖堂が建造される。その後、大聖堂は拡張され、ロマネスク様式の後期にあたる12世紀には、最後の審判を題材にした豪華な彫刻のある「栄光の門」が増築された。なお、この大聖堂は1985年に、また、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路は1993年に世界遺産に登録されている。

 巡礼ブームは道沿いの街々をうるおした。おかげで、サンティアゴへの巡礼路沿いの都市には、ロマネスク様式の教会や大聖堂が建設されたり、もともとある建物がロマネスク風に装飾されたりした。地元の聖人の遺物を所蔵する建物は評判を呼び、さらなる巡礼者を集めた。

 サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の建設とほぼ同時期、フランスのトゥールーズでも、サン・セルナン大聖堂が建てられた。南部コンクの修道院、パリの南西に位置するトゥールのサン・マルタン大聖堂もロマネスク様式だ。フランスには、サンティアゴへの巡礼路が複数ある。フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路も、1998年に世界遺産に登録された。

 一方、スペイン北部を横切る巡礼路のレオンにあるサン・イシドロ教会には、後期ロマネスク様式の見事なフレスコ画が残されている。

ドイツやイングランド、シチリアにまで

 ロマネスク様式はドイツにも広まった。マインツやシュパイアーにその好例がある。ロマネスク様式がほかのスタイルと融合した例もある。

 イングランドでは1066年のノルマン征服の後、ロマネスク様式の一種であるノルマン様式が生まれた。ノルマン人がシチリアを征服したときには、南北の融合が見られた。シチリア島のモンレアーレにあるノルマン・ロマネスク様式の大聖堂には、ビザンティン建築やイスラム建築の要素が取り入れられている。

 11世紀に教会の建造が急増したのは、建材としての石の生産が復活したおかげもあった。それ以前の中世初期には、古い建物のブロックが再利用され、石切りは休止状態に陥っていた。中世ヨーロッパで生まれたほかの建築様式に比べ、ロマネスク様式の建物が数多く現存するのは、石工たちが教区教会や修道院、教会堂、大聖堂などの建造に尽力したためだと言えるだろう。

文=INÉS MONTEIRA/訳=米井香織

写真の説明:フランス、トゥールーズの街にそびえ立つサン・セルナン大聖堂の八角形の鐘楼。13〜14世紀にかけて、上階と尖塔が追加された。大聖堂は石造りのロマネスク様式だが、周囲の建物には街の名物である暖色のレンガが使われている。(JACQUES SIERPINSKI/CORDON PRESS)

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cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_3ssa2zq5ip5u_スマホの光を使って印象的な写真撮影、ナショジオ写真家が伝授 3ssa2zq5ip5u 3ssa2zq5ip5u スマホの光を使って印象的な写真撮影、ナショジオ写真家が伝授 oa-natgeomagjp 0

スマホの光を使って印象的な写真撮影、ナショジオ写真家が伝授

 身近なスマホやタブレットの光を使えば、よくある撮影の悩みが解決できることがある。ナショジオの写真家レベッカ・ヘイルが伝授する。

 この8カ月間、私は家族3人の写真ばかり撮り続けてきた。3月にパンデミックで旅行ができなくなってから、私たちは家にこもり、旅行の計画も浮かんでは消えるばかり。世界がすっかり小さくなってしまったようだ。

 これまで私は写真家として、自分の生活圏を離れた土地や人々など、外の世界に目を向けようとしてきた。その意味で自宅は、インスピレーションをかきたてる場所ではなかった。だが、最近では多くの人々と同様に、日常生活に刺激を見いだそうと考えるようになった。自分の心を健全に保ち、世界各地に出かけられるようになる日に備えるためだ。

 そんな私が着目したのは、思いがけない光源を自由な発想で利用する試みだ。頼もしい撮影ツールがいつもポケットに入っていることに気づいた私は、このスマートフォンやタブレットをデジタル一眼レフカメラの光源に利用し、一日かけて家族の写真を撮影してみた。

 撮影をしながら、旅行中によくある撮影の問題を解決するのに、自分のアプローチが応用できないかと思いを巡らせた。

名案が浮かぶ

 ナショナル ジオグラフィックの仕事では、通常、私はスタジオで撮影している。そこでは、いくつものフラッシュ、ソフトボックス(光を拡散させる機材)、モディファイヤー(光を調整する機材)などを使用できる。こうした使い慣れた機材や刺激的な撮影地から離れた私は、独創性を発揮することにした。

 私が試してみたところ、タブレットやスマホの光を利用すると、撮影時のやっかいな問題の多くを解決できることがわかった。いつも成功するわけではないが、いくつかのポイントを覚えておけば、とても重宝するだろう。

 タブレットやスマホの画面は、昼光(昼間の自然光)ほど明るくないので、いつ、どこで撮影するかをよく考える必要がある。私の撮影テストでは、周辺の光を調整したり、画面の光の効果を最大限に発揮できる時間に撮影したりしている。また、露出を手動調整できるカメラを使用した。

 この記事で紹介する画像は、私の自宅や近所で撮影したものだ。撮影後に、フォトショップなどによる大幅な編集や加工は行っていない。光源として使うスマホやタブレットは、常に画面の明るさを最高にし、色かぶり(光源の色の影響で写真の色が偏ること)を避けるために画面の色は白に設定した(「MyLight—フラッシュライト」などのアプリが役立つかもしれない)。

 ここで、タブレットやスマホの光が助けになる撮影時の4つの問題を紹介する。家で練習して、次の旅行に備えよう。

問題:背景が雑然として主役が目立たない

 装飾が多いレストランやホテルなどでの撮影では、タブレットの光が問題を解決してくれる。iPadを被写体の顔に近づけ、露出をその光に合わせると、背景は暗くなり、柔らかくドラマチックな雰囲気の一枚になる。

 タブレットの光は昼光より明るくできないので、むしろ薄暗い空間で最大の効果を発揮する。自宅の雑然とした部屋で、息子を撮影してみた。息子の顔を照らす光に露出を合わせると、周囲が暗くなり、このシンプルな道具だけでスタジオ写真のようなポートレートが完成した。

 被写体となる人にタブレットを近づけ、動かしながら光と影がどのように変化するか確認してみよう。このような家族写真の撮影は、光の作用を理解する上でも効果的だ。

問題:明るい光の影響で露出がうまくいかない

 ネオンライトや夜店、大聖堂のろうそくの光の列を背景に、人物写真を撮ろうとしたことがあるだろう。カメラは場面に合わせた自動露出を行い、何もかも白飛び(明るすぎて白くなる)してしまう。また、明かりがきれいに撮れても、人物がシルエットのように暗くなってしまうこともある。

 もちろん、フラッシュがあれば解決できる問題だが、タブレットやスマホでも効果がある。私は試しに、自宅のクリスマスツリーの前に娘に座ってもらった。息子が明るさを最高にしたタブレットを持って、画面に入らない場所に立ち、やや前寄りの上方向から娘の顔を照らした。

 タブレットを少しだけ前に移動させることで、かすかなキャッチライト(小さな反射光)が娘の目に入り、柔らかな雰囲気をとらえることができた。

問題:静物写真の撮影時に周辺光が不十分

 伝統工芸の職人の作業場を訪れて、作品を撮影させてもらうことがあるかもしれない。だが、昼光が暗すぎたり、頭上の無粋な電灯が明るすぎたりする場合、どうしたらよいだろう。

 カメラを固定する三脚を持参していれば、露出時間を長めに設定し、効果的な光源としてタブレットを使うことができる。タブレットを横倒しにすれば、適度な照明効果が得られるだろう。三脚がなくても、この方法で切り抜けることができるが、重要なのは、タブレットが主光源になるように、周辺光を最小限に抑えることだ。自宅で、お気に入りの旅の思い出の品を並べて練習してみてはどうだろうか。

 プロのヒント:天井の照明を消したりブラインドを下ろしたりして、色かぶりしないようにしよう。

問題:夕日を背景にすると人物が暗くなる

 明るい照明の場合と同じく、この問題もカメラの裏をかく必要がある。カメラの設定が自動露出になっていれば、夕日が白飛びしたり、人物が黒い影になったりするだろう。

 この問題を解決するには、タブレットの画面を明るくして被写体に近づけ、その光に露出を合わせることだ。背景は暗めに輝き、柔らかい光が人物の顔を照らすだろう。

 言うまでもなく、ここではタイミングが鍵となる。夕暮れに撮影したいのなら、前もって十分に準備をしておこう。私は、まだ明るいうちから撮影を始め、光の変化を追って撮り続けることが多い。完璧な光が差したときにまだ準備中だと、残念な思いをすることになる。常に早めの準備が大切だ。

文と写真=REBECCA HALE/訳=稲永浩子

写真の説明:写真撮影の問題の一部は、私たちが持っているシンプルな道具で解決することができる。(PHOTOGRAPH BY REBECCA HALE, NATIONAL GEOGRAPHIC)

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cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_rcugsstootwb_数十万種に広がった成功戦略、双方が利益を得る「相利共生」とは rcugsstootwb rcugsstootwb 数十万種に広がった成功戦略、双方が利益を得る「相利共生」とは oa-natgeomagjp 0

数十万種に広がった成功戦略、双方が利益を得る「相利共生」とは

 イチゴの実からヒマワリの種に至るまで、私たちがおいしいものを食べられるのは、花粉を媒介する動物、「送粉者」たちのおかげだ。しかし、その背景にある仕組みについてはあまり知られていない。「相利共生」である。

 相利共生とは、異種の個体同士が、双方にとって利益となるように、緊密で持続的な関係をもちながら生活すること。実は、「共生」とだけ言った場合は、必ずしも双方が助け合うとは限らない。片方のみが利益を得て、相手が害を受ける「寄生」や、片方が利益を得るだけの「片利共生」、片方が害を受けるだけの「片害共生」も、広い意味での共生なのだ。

 ハチやチョウ、ハチドリといった送粉者は、花から蜜を吸うときに花粉を体に付ける。その後、花粉を他の植物の元へ運び、繁殖を助けることになる。送粉者はお腹を満たし、植物は生殖できる。この関係が相利共生だ。

 この戦略は大いに成功を収めており、なんと17万種の植物と20万種の動物が関わっている。また、世界の穀物生産量の35%に寄与している。

 中には、互いのニーズにぴったり合うように進化してきた植物と送粉者もいる。例えば、ハチドリの多くは、特定の花の形に合うようなクチバシをもっている。南米に生息するヤリハシハチドリは、体よりも長いクチバシを使って、トケイソウの一種の長い花冠の奥にある蜜を吸う。

 ハチを呼び寄せる花もある。例えば、英語でビーオーキッド(ハチのラン)と呼ばれるオフリス・アピフェラ(Ophrys apifera)の花は、メスのハチの姿に擬態している。

 オスのハチがこの「メス」と交尾しようとやって来ると、ランは大量の花粉をハチの体に付ける。「花粉塊と呼ばれるものをハチにべったりとくっつけるのです」と、米ミシガン大学アナーバー校の博士課程に在籍し、生態学と進化生物学を専攻するケイラ・ヘイル氏は話す。

 重そうな棒状の花粉をまとったハチが、次の花に向けて飛び立っていく様子は、「とても滑稽でかわいいんです」とヘイル氏は言う。

“いるとうれしい”共生と“絶対必要”な共生

 ビーオーキッドは自家受粉することもできるため、ハチがいなくても存続できる。そのため、この関係は「条件的(または任意)相利共生」と呼ばれるものにあたる。

 インド洋のサンゴ礁にすむホンソメワケベラは、「掃除魚」として知られる。近寄ってくる大きな魚たちの口やエラの中にいる寄生虫を食べるのである。掃除魚は、こうした寄生虫のほかに甲殻類なども食べるため、この関係もやはり条件的相利共生だ。

 しかし、イチジクとイチジクコバチの場合、互いに相手がいなければ存続できない。「絶対的相利共生」と呼ばれる関係だ。イチジクにはおよそ750種あるが、それぞれが特定のイチジクコバチを送粉者としている。

 メスのイチジクコバチは、イチジクの中に卵を産み付ける。ちなみにイチジクの「実」は厳密には果実ではなく、固い皮の内側に咲く小さな花の集まりだ。孵化した幼虫はイチジクを食べて育ち、羽をもたないオスがメスを受精させる。そうしてメスたちは体に花粉を付けて別のイチジクまで飛んで行き、そこで卵を産んで一生を終える。

拡散型とスペシャリスト型

 動物が果実を食べると、動物自身は栄養を得る。そして、種子を吐き出したり排泄したりすると、植物は繁殖の機会を得ることになる。

 種子を広める動物で最も一般的なのは鳥類と哺乳類だが、米アリゾナ大学の生態学・進化生物学者ジュディス・ブロンスタイン氏によれば、トカゲやコオロギ、バナナナメクジなどもそうだという。

 そうした動物は、多様な植物を食べて種子を散布するので、拡散型の相利共生者と言える。

 それに対して、片方または両方が特定の種とのみ共生関係をもつスペシャリスト型の相利共生もある。

 米国南西部とメキシコに生息する鳥、レンジャクモドキは、寄生植物であるヤドリギの一種、デザートミスルトー(砂漠のヤドリギ、Phoradendron californicum)の種子を散布する唯一の動物だ。

 このヤドリギの実は「とてもべたついているため、レンジャクモドキは排泄した後にお尻を拭いて種子を落とさなければなりません」と、アリゾナ州で両者の相利共生を調査してきたブロンスタイン氏は説明する。

 レンジャクモドキは大抵、ヤドリギの宿主となる植物の枝の上でお尻をきれいにするため、種はまさに落ちるべき場所に落ち、ヤドリギが繁殖することになる。

「なかなかすごい技ですし、レンジャクモドキにしかできない、あるいは引き受けたがらない方法のようです」

相利共生はどうやって進化した?

 ハチが空を舞うよりはるか昔、植物たちは、花粉の媒介を風に頼る「風媒」という方法で繁殖していた。だが、花粉がちょうどよい場所に偶然落ちることを期待するしかないため、あまり効果的ではなく、やがてもっと良い戦略が進化した。それが、他の生物に花粉を媒介してもらうやり方だ。

 甲虫などの初期の送粉者は、花粉を運ぶ量よりも食べてしまう量の方が多く、植物の繁殖が妨げられていたと考えられている。そこで植物は、糖分たっぷりの高カロリー食である蜜を進化させた。

「蜜は動物にとって魅力的であり、やって来た動物は花粉まみれになって次に行ってくれます」とブロンスタイン氏は説明する。また、蜜を進化させることは「自分の赤ちゃんになるものが食べられてしまわないようにすることでもあります」

 相利共生関係にある生物同士は、共進化することがある。2つの種が互いに影響し合って新しい形質を進化させるのだ。例えば、中米のアカシアの木が、中が空洞になったとげを進化させたのは、アカシアアリにすみかを提供するためだった可能性がある。

 アカシアアリは、そのお返しに、アカシアが草食動物に食べられるのを防ぐべく、群がったり刺したりといった防衛行動を進化させたと考えられている。アリのすみかとなっていない他のアカシアは、空洞のあるとげをもたない代わりに、草食動物から身を守るための化学物質を自ら産生する。

 相利共生は友情物語としてつい擬人化したくなるが、実際には2つの種がそれぞれ自分のニーズを満たそうとしているに過ぎない。そして、そのバランスは危ういものでもある。

 ブロンスタイン氏が言うには、例えば植物は、一度に一定量のみ蜜を作り出すのが望ましく、その限られた量を消費した送粉者が、別の花に行って花粉を付けてきてくれれば理想的だ。しかし、蜜をすべて吸った送粉者が、一つの花にとどまることがある。

「送粉者と植物の間には利害の対立があります」とブロンスタイン氏は言う。「それが出発点となって、非常に興味深い共進化が生じることもあるのです」

文=LIZ LANGLEY/訳=桜木敬子

写真の説明:南米北部に生息するシロアゴサファイアハチドリ(Hylocharis cyanus)が花の蜜を吸う。(PHOTOGRAPH BY ALEX SABERI, NAT GEO IMAGE COLLECTION)

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cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_rwi5634jzt81_ホスピタリティあふれる秘境の地、ジョージア、スバネティ地方 rwi5634jzt81 rwi5634jzt81 ホスピタリティあふれる秘境の地、ジョージア、スバネティ地方 oa-natgeomagjp 0

ホスピタリティあふれる秘境の地、ジョージア、スバネティ地方

新型コロナウイルスによるパンデミックで、旅に出かけることがむずかしくなった。それでも、私たちの好奇心は輝きを失っていない。2021年、再び旅立つ日を信じて、色あせることのない魅力を秘めた世界の旅先のタイムリーな話題を紹介しよう。今回は世界各国のナショナル ジオグラフィック トラベラー編集者が5つの分野(冒険、文化と歴史、自然、家族、持続可能性)を念頭に、旅先を選んだ

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 カフカス山脈の5000メートル級の頂に囲まれた、ジョージア北西部のスバネティ地方。一見、旅人が足を踏み入れることを拒んでいるようだ。荒涼とした土地には、住まいと防衛用の見張り塔を兼ねた中世の石の塔がそびえる。砦のようなこれらの建造物は、ウシュグリ村をはじめとする小さな集落に住むこの地の人々が、財産を守るべく激しく戦った時代の名残である。ウシュグリは海抜2200メートルと、ヨーロッパで最も標高の高い場所にある集落の1つ。一帯は上スバネティ世界遺産として保護されている。

 辺鄙な土地柄ゆえ、スバネティの文化は孤立したまま発展してきた。文字を持たない独特の言語、儀式としてのあご髭切り、そして血の復讐。かつて無法地帯として知られたこの地方は、今日、ホスピタリティの精神で知られるようになっている。「ジョージアはおもてなしで有名ですが、スバネティはジョージアの10倍ほどのおもてなしで迎えてくれます。パーティー、乾杯、アルコール、それが今のスバネティです」。ジョージアを頻繁に訪れているポーランド出身の旅行ライター兼写真家、ミハウ・グロンビオウスキー氏はそう話す。

 スバネティは現在も多くの観光客が訪れる場所ではないが、上スバネティにトランスコーカシアン・トレイルが通ったことで冒険好きの旅人にはアクセスしやすくなっている。このトレイルはジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンをトレイルのネットワークでつなごうという野心的なプロジェクトの一部だ。肺活量に自信があるようなら、この地方の中心であるメスティアの町からウシュグリ村へと、4日間の高地トレッキングを敢行しよう。日中はギザギザとした美しい山並みを、夜はゲストハウスで温かなもてなしを楽しむことができる。

文=NATIONAL GEOGRAPHIC STAFF/訳=桜木敬子

写真の説明:雪を被ったカフカス山脈の頂に囲まれるスバネティ地方。ジョージアの中でも外部と遮断された村落が多く存在する地域だ。写真に写っている見張り塔の多くは、軍隊による略奪から防衛するために中世に造られたもの。(PHOTOGRAPH BY PUNNAWIT SUWUTTANANUN, GETTY IMAGES)

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cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_zgcdaij6ki1o_新型コロナで精神医療がますます逼迫している、米国 zgcdaij6ki1o zgcdaij6ki1o 新型コロナで精神医療がますます逼迫している、米国 oa-natgeomagjp 0

新型コロナで精神医療がますます逼迫している、米国

 プレストン・カドレック氏は疲れ果てていたが、自宅には帰れなかった。2020年11月中旬のことだ。34歳のセラピストであるカドレック氏はノースイースタン・カウンセリング・センターの日勤を終えたものの、救急チームの仕事に移るところだった。

 センターがあるユタ州のルーズベルトは人口約7000人の小さな町だが、カドレック氏を含め、セラピスト8人だけでメンタルヘルス(こころの健康)の救急対応を担っている。誰かを家から町の病院まで運ぶため、車で65キロ以上移動することも珍しくない。11月中旬のあの夜、カドレック氏がいなければ、1人の救急患者が専門家の助けなしに厳しい試練と向き合うことになっていただろう。

 大都市以外で働く精神医療の従事者にとっては、カドレック氏の例はよくある話だ。精神科救急は担い手が少なく、ただでさえ負担がかかっているにもかかわらず、ニーズが高まっている。都市を除く米国の大部分では長年、需要が供給を大きく上回っており、「メンタルヘルスケア砂漠」と呼ばれる現象が起きている。何時間も車を走らせなければ、専門家の治療を受けられない地域もある。ガソリン1リットルが貴重な貧困者にとってはまさしく死活問題だ。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは遠隔医療を促進し、メンタルヘルスの不安を理由に助けを求めることが普通のことになるよう努力が続けられている。それでも、精神医療従事者の不足という根本的な危機には対処できず、治療を必要とするすべての人には対応できていない。ボランティアは頼みの綱になっても、訓練を受けた専門家の代わりにはならない。人材不足は国が一夜にして解決できる問題ではない。

 全米精神疾患患者家族会の最高医療情報責任者ケン・ダックワース氏は「精神保健福祉士になるには8年かかります」と話す。

 非営利団体メンタル・ヘルス・アメリカの2021年の報告書によれば、ユタ州は成人のメンタルヘルスケアの受けやすさで全米最下位にランクされており、農村部が多いワイオミング、アイダホ、アラスカ、ミシシッピなどの州も下位3分の1に入っている。主な要因は治療者の数が少ないことで、医療機関までの移動距離、貧困、保険に加入していないことなどが問題を複雑化している。

 このような背景があって、カドレック氏は夫婦、家族関係のカウンセラーとしてクリニックで長い一日を過ごした後、時には車で町を走り回り、長い夜を過ごすこともある。こうした追加業務はセラピストたちのメンタルヘルスにも負担となっている。

 ノースイースタン・カウンセリング・センターのセラピスト兼管理者のトリシア・ベネット氏は「彼らにとっては、救急対応の仕事がいちばん大変です」と語る。「患者と一緒に救急救命室(ER)に行くこともあれば、人命に関わる大きな決断を下すこともあります。さらに、私たちは人々の話を聞きます。人々がトラウマを克服する助けをしなければならず、それが私たちのトラウマになることもあります」

パンデミックで広がる格差

 メンタル・ヘルス・アメリカの公衆衛生プログラム責任者で、先の報告書の執筆にも参加したマディー・レイナート氏は「新型コロナウイルス感染症の以前から、成人の精神疾患の有病率と自殺念慮の増加が見られました」と話す。複数の連邦当局のデータによれば、2011年以降、医療が行き届いていない成人の精神疾患患者は増加の一途をたどっている。

 問題の一部は費用だ。精神医療が受けられる地域でも、医療費あるいは保険に加入していないことが受診の妨げになる。ノースイースタン・カウンセリング・センターを含む多くの医療機関が無保険者向けに収入に応じた支払いオプションを用意しており、1回5ドル、場合によっては無料で受診できるようになっている。ただし、こうした解決策は広く採用されていないのが現状だ。

 フロリダ、ジョージアなどの南部をはじめ、メディケイド(低所得者層を中心とした公的医療保険制度)が広まっていない州に暮らす人々は、手ごろな費用で医療を受けられるチャンスが少ないとレイナート氏は説明する。経済政策研究所によれば、この格差はパンデミック(世界的大流行)をきっかけに拡大している。米国では2020年2月から8月の間に、1200万もの人々が雇用主が提供する医療保険を失った。

 そして、2020年晩秋。ユタ州ではCOVID-19の感染者が急増し、医療機関が治療の制限を余儀なくされた。その結果、精神医療従事者は緊急警戒態勢に入らざるを得なくなった。ノースイースタン・カウンセリング・センターのような地方のクリニックから精神疾患患者家族会のような全米規模のNPOまで、あらゆる専門家の仕事量が増えた。

 これらの困難に加え、現在、パンデミックと関連した臨床的に重大なメンタルヘルスの問題が増加している。米疾病対策センター(CDC)の2020年8月の報告書によれば、同年3月以降、米国民の40%以上が不安、抑うつ、自殺念慮、薬物またはアルコール依存の悪化といった精神面、行動面の問題を経験している。精神疾患の有病率としては、例年の2倍近い数字だ。

 最も影響を受けているのは若者、マイノリティー、社会経済的な弱者、無給の介護者、現場の労働者、精神疾患の診断を受けたことがある人々だ。しかも、これらのグループはほかのグループより頻繁に薬物やアルコールの使用によって対処しており、さらに問題を悪化させている。

「人々にとって、孤立はつらいものです」とダックワース氏は話す。「不確実性もつらいですし、冬がつらい人もいます。人々は苦しんでおり、医学的に重大な局面に立たされています」

受診のハードルは下がったが

 米国で現在続いているメンタルヘルスを取り巻く議論のおかげで、かつてその診断に付きものだった悪いイメージは薄れてきている。その結果、一部の人が必要な助けを求めることを妨げてきた文化的な障壁は下がっている。

「メンタルヘルスのために助けを求めることは今や、かなり普通のことになっています」とダックワース氏は話す。「将来的には、メンタルヘルスの不安を抱える人々が特別な人と見なされることもなくなるかもしれません」

 パンデミックが到来したとき、精神疾患患者家族会への電話相談は3倍まで増えた。ほかの電話相談サービスも同様の増加を経験している。

 遠隔医療や電話による診療は医療を提供する側と地方に暮らす患者の距離を縮めたが、この新しいつながりは万能薬とは程遠いとダックワース氏は話す。連邦通信委員会のデータによれば、米国には十分なインターネット接続を持たない人が4200万人もいる。そうした人々にとって、遠隔医療はほとんど役に立たない。

 一方、人口増加に伴う需給のミスマッチは悪化の一途をたどっており、かつてないほど多くの人が対処に苦慮している。供給側の増強もそれほど進んでいない。

 米国立精神衛生研究所で精神医療の格差の研究を率いるデニス・ジュリアーノ・バルト氏は、サービスが行き届いていない地域でセラピストの採用を強化するしかないと考えている。「最も必要とされる場所で働くことに魅力を感じる人が少ないように見えるため、何らかの報酬が必要だと思います」。米公衆衛生局士官部隊(USPHSCC)を拡大すれば、残された不足分を埋められるかもしれないとジュリアーノ・バルト氏は提言する。

 USPHSCCは1798年、海員病院基金として設置された。その目的は時代とともに変化していったが、現在、十分な医療を受けられない人々に対する医療の提供など、米国の生物医学的な取り組みを支援するために存在している。

 公衆衛生局は今後数年間で救急医療の提供者を2500人増やしたいと考えているが、特にメンタルヘルスケア砂漠では、この数字は全体的な需要と懸け離れている。米国がこの危機を好転させたいのであれば、精神医学とカウンセリングを専門とする救急医療提供者を追加して採用する必要があるだろう。

 現在のところ、そのような計画はないが、希望はある。米大統領が2020年12月27日に署名し成立した9000億ドル(約93兆円)規模の景気刺激策には、米国で進行中のメンタルヘルスの危機に対処するための42億5000万ドル(約4400億円)が含まれている。

 とはいえ、いくら予算があっても、何万人ものセラピストが突然現れるわけではない。メンタルヘルスホットラインのボランティアから地方のセラピスト、家族を介護する人々まで、米国民は互いに助け合い、終わりの見えないパンデミックという荒野に対処しようと最善を尽くしている。

文=REBECCA RENNER/訳=米井香織

写真の説明:新型コロナウイルス感染症の仮設検査場で働く州兵。2020年11月12日、米ユタ州ソルトレークシティーで撮影。メンタル・ヘルス・アメリカの2021年の報告書によれば、ユタ州は成人のメンタルヘルスケアの受けやすさで全米最下位にランクされた。(PHOTOGRAPH BY RICK BOWMER, AP)

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cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_sbd04eh7inj9_バスク地方の文化の十字路 スペイン、ビトリア=ガステイス sbd04eh7inj9 sbd04eh7inj9 バスク地方の文化の十字路 スペイン、ビトリア=ガステイス oa-natgeomagjp 0

バスク地方の文化の十字路 スペイン、ビトリア=ガステイス

新型コロナウイルスによるパンデミックで、旅に出かけることがむずかしくなった。それでも、私たちの好奇心は輝きを失っていない。2021年、再び旅立つ日を信じて、色あせることのない魅力を秘めた世界の旅先のタイムリーな話題を紹介しよう。今回は世界各国のナショナル ジオグラフィック トラベラー編集者が5つの分野(冒険、文化と歴史、自然、家族、持続可能性)を念頭に、旅先を選んだ。

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 スペインの伝統豊かなバスク地方の内陸部に、文化都市を自負する街がある。地名は、カスティーリャ語の名前ビトリアと、バスク名のガステイスを併記したものだ。ここは中世のカスティーリャ王国とヨーロッパ北部を結ぶ最短ルート上に位置していたため、貿易や文化の十字路とも言うべき重要な場所だった。

 伝統的に外部の文化を取り入れる気質があるのか、ビトリアでは毎年7月に国際ジャズ・フェスティバルが催される。新進ミュージシャンに加え、アルバム『ビトリア・スイート』でこの街に敬意を表したトランペット奏者、ウィントン・マルサリスなどの大物もやって来る。

 そのマルサリスの銅像が立っているのがフロリダ公園の庭だ。ビトリアの街を緑豊かに彩るこの公園や他の公園のおかげで、ビトリア市民一人当たりの緑地面積はスペイン最大となっている。また、この街では自然保護だけでなく、持続可能な移動手段の利用も進んでいる。市民の多くが自転車や市電を利用することから、ビトリアは2012年に「欧州グリーン首都」にも選ばれた。

 ビトリア市民は、旧市街をはじめ、伝統を守ることにも熱心だ。丘の上から旧市街を見下ろすのは、ゴシック様式の荘厳なサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。通りはそれぞれ中世のギルドの名を冠している。立ち並ぶバーやレストランには地元の人々が集い、バスク版のタパスであるピンチョス(小さく切ったパンに食べ物をのせた軽食)を食べられる。

 旧市街の南端にある広場では、毎年8月、一風変わった祭りが開催される。この広場の名にもなった守護聖人、ビルヘン・ブランカ(「白いマドンナ」)を称える祭りだ。集まった人々が見上げるのは、傘を広げて空から舞い降りるバスクの村人「セレドン」の彫像。宴の始まりを告げる存在だ。セレドンはワイヤーを伝ってバルコニーに降り立つと、魔法のように本物の人間に「変身」し、人々に大いに楽しむようにと促すのだ。

文=セルジ・ラミス、ビアヘ・ナショナル ジオグラフィック(スペイン)/訳=桜木敬子

写真の説明:バスク地方の中心都市、ビトリア=ガステイス。優美なプラザ・ヌエバ(スペイン広場)に人々が集う。 PHOTOGRAPH BY FRANCESCO BONINO, SHUTTERSTOCK

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cat_17_issue_oa-natgeomagjp oa-natgeomagjp_0_of3xjsbuo8z0_中東に残る古代ローマの栄華、驚きの遺跡群、ジェラシュ of3xjsbuo8z0 of3xjsbuo8z0 中東に残る古代ローマの栄華、驚きの遺跡群、ジェラシュ oa-natgeomagjp 0

中東に残る古代ローマの栄華、驚きの遺跡群、ジェラシュ

 旧約聖書には、エジプトを出て約束の地を目指したイスラエルの民は、エドム王国を通過する必要があったと記されている。現在のイスラエル南部とヨルダンにまたがる地だ。そこで、イスラエル人はエドム人に「あなたの国境を越えるまで『王の道』を通ります」(民数記21章22節)と言って、領内を通過させてくれるように懇願する。

 この「王の道」は青銅器時代からあり、エジプトと紅海のアカバ湾、そして今のシリアのダマスカスを結ぶ一帯の主要な交易路だった。大きな帝国の首都は築かれなかったものの、エジプトから穀物、イエメンから香、紅海から真珠、インドから香辛料がもたらされ、道沿いの都市は商業で富を成した。

 最も繁栄した都市の一つが、ギリシャ文化が広まった時期に築かれたジェラシュだ。ジェラシュも貿易で豊かになり、度重なる征服者によって都市が形成され、やがて東方へと拡大したローマ帝国に吸収された。ローマ帝国でジェラシュは東の国境沿いにあるギリシャの都市をまとめた「デカポリス」の一つとされた。その頃の繁栄ぶりを物語る遺跡が驚くほどよい状態で現在も維持されている。

金の川沿いのギリシャの都市

 碑文によれば、この都市の名前は最初の居住者にちなんで与えられた。紀元前4世紀前半、アレクサンドロス大王の東方遠征でペルシャ軍と戦った老兵たちだ。ヨルダン渓谷と砂漠の間にある肥沃なこの土地は、その報酬だった。高齢者はギリシャ語でゲラスメノスと言い、彼らの土地はゲラサと呼ばれ、のちにジェラシュになった。

 ジェラシュがアレクサンドロス大王の駐屯地だった可能性は十分ある。だが、誕生の物語はおそらく事実と異なる。ジェラシュは現地の言葉であるセム語であり、ギリシャ語の最初の名前は「金の川沿いのアンティオキア」を意味する「アンティオキア・アド・クリソロアム」だった。最初の植民地を築いたのは、紀元前2世紀の古代ギリシャ、セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスだろう。

 セレウコス朝の王たちは、アレクサンドロス大王の下で司令官を務めたセレウコス1世の子孫だ。セレウコス1世は紀元前312年、アレクサンドロス大王の広大な帝国の東側を掌握。その後、紀元前3世紀から前2世紀にかけて、ギリシャの入植者がおそらく新石器時代から続く現地の人々と暮らしつつ、自分たちの慣習や文化を中東に広めていった。

 セレウコス朝は王の道沿いの有利な場所を慎重に選び出し、新しい都市の建設に取り掛かった。ギリシャのさまざまな神をまつる神殿が次々と建造された。ジェラシュはほかのギリシャ植民地と名声や貿易を競い合うだけでなく、フィラデルフィア(現在のヨルダンの首都アンマン)やヘリオポリス(現在のレバノン東部にある古代遺跡バールベック)と緊密な関係を維持した。

 ジェラシュは商業の中心地として認められ、多様な人々が行き交った。ギリシャの入植者と地元のアラム人がペルシャ、パルティア、さらにはインドの商人たちと交流した。ジェラシュの南には、豊かなナバテア王国の首都ペトラがあり、セレウコス朝がジェラシュを建設した当時、すでに独自の硬貨を鋳造していた。

 シリアのダマスカスやパルミラに向かうナバテアのキャラバンは、ジェラシュを通過するときに文化の痕跡を残した。ジェラシュの遺跡から発掘された碑文には、ギリシャ語とセム語の名前がいくつも残されており、優勢だったギリシャの宗教儀式の陰で、古代のセム系の神々も定着していた。

ローマ帝国の半独立都市国家へ

 セレウコス朝の統治者たちはジェラシュにそれほど長くとどまらなかった。パルティアが独立して東に領土を拡大し、アレクサンドロス大王の後継者たちは支配力を失っていった。紀元前129年、セレウコス朝の王アンティオコス7世シデテスがパルティアの奇襲によって命を奪われる。その後、シリア全体が混乱に陥り、ジェラシュはしばらく軍閥の支配下に置かれた。

 セレウコス朝が衰退すると、別の強大な文明がジェラシュと王の道の貿易を掌握しようと試みた。紀元前102年、ジェラシュはユダヤのハスモン朝の王アレクサンドロス・ヤンナイオスに占領された。現在のイスラエル、パレスチナ、ヨルダン西部を統治していたハスモン朝は、紀元前63年までジェラシュを支配した。

 紀元前63年、ローマの軍人グナエウス・ポンペイウス・マグヌスが、黒海の南東沿いに位置するポントスの王ミトリダテス6世エウパトルに勝利し、地中海東岸に強固な足場を築いたローマは周辺への拡大を開始する。

 同年、ポンペイウスはジェラシュの北に位置するシリア地方を併合。ジェラシュと近隣のヘレニズム都市は、セム系の慣習を持つ地域における古典文化のオアシスとして、ローマから特別待遇を受けることになった。

 選ばれたのはジェラシュを含むギリシャの10の植民地。1世紀のローマの文人である大プリニウスによれば、スキトポリス、ダマスカス、フィラデルフィアなどが名を連ねる。これがローマのデカポリスで、ギリシャ語で「10の都市」という意味だ。デカポリスは半独立都市国家としての役割を認められた。

「古代に東と西の世界が出会った場所」

 紀元1世紀、皇帝ネロがナバテア王国を征服し、首都ペトラとローマ帝国のつながりがさらに緊密になった。その結果、一帯は好景気に沸き、王の道を通るナバテアのキャラバンがジェラシュに富をもたらした。

 2世紀初頭、ローマ皇帝トラヤヌスがジェラシュ、さらにはナバテアの領土を正式に併合し、アラビア・ペトラエアという属州が誕生する。王の道を含む道路は舗装され、新トラヤヌス街道と呼ばれるようになり、東方の富がアカバを経由してジェラシュに流れ込んだ。

 さらなる富を手にしたジェラシュは2世紀半ば、巨大なアルテミス神殿を建造。楕円形の広場、南劇場、皇帝ハドリアヌスを記念した凱旋門とともに、その壮大さは今でも訪れる人々を驚嘆させる。3世紀、ローマ帝国が経済危機に陥り、貿易の流れは途絶えたが、ジェラシュは持ち前の適応力を発揮し、4世紀、東ローマ帝国の庇護のもと、2度目の繁栄を享受した。

 749年に地震に見舞われ、ジェラシュの大部分は破壊されてしまったが、1806年、ドイツの探検家ウルリッヒ・ヤスパー・ゼーツェンによって遺跡が発見された。ジェラシュは現在、中東に存在するローマ都市遺跡の中でも特に保存状態が良いと評価されている。ジェラシュの遺跡は「古代に東と西の世界が出会った場所」としてユネスコの世界遺産暫定リストに登録されている。
【この記事の画像をもっと見る】ギャラリー:まるで古代ローマにタイムスリップ、驚きのジェラシュ 画像12点
文=EVA TOBALINA/訳=米井香織

写真の説明:ローマ帝国の支配下にあり、繁栄の真っただ中だった2世紀のジェラシュの復元図。(ILLUSTRATION BY JOSEP RAM)

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黒人のための旅行ガイド「グリーンブック」はなぜ必要だったのか

 黒人は旅行をする。子どもの頃から、私(著者のGlynn Pogue氏)にとってそれは当たり前のことだった。両親がニューヨーク州で経営していた小さなホテルの食堂には、米国だけでなく世界中から来た黒人の旅行者が、入れ代わり立ち代わり訪れた。伝統的な南部風の朝食を取りながら、宿泊客はその日どの美術展に行こうかと計画を立てたり、前日にブロードウェーで観たショーの感想を語り合ったりしていた。

 けれど、ホテルで過ごした時間はどんな名所にも勝る旅の思い出だったと、誰もが口をそろえて言っていたのを覚えている。黒人が経営する宿で、自分と似たような人々とともに滞在することで、身の安全を感じ、認められ、温かいもてなしを受けることができたと。

 ニューヨーク州ハーレム出身の郵便配達員ビクター・ヒューゴ・グリーンは、1936年、黒人が平等で自由な旅行ができるようにと願って「The Negro Motorist Green Book(黒人の自動車旅行者のためのグリーンブック)」を出版した。

 黒人の旅行者のバイブルとも言うべきこのグリーンブックは、黒人が安全に利用できる宿泊施設、レストラン、美容院、ナイトクラブ、ガソリンスタンドなどをリストにして紹介するガイドブックで、1967年まで毎年のように発行されていた。その内容は時代とともに進化し、旅行を楽しむ余裕が出てきた新しい世代の黒人たちが、差別を受けることなく安心して旅行するために欠かせない情報源となった。

 グリーンは、黒人の旅行には数々の障害が伴うことを知っていた。白人以外お断りの施設でサービスを拒否されるという屈辱だけではない。かつて「日没の町」と呼ばれた町では、白人以外は日没までに町を出なければならないという条例があり、もし黒人の旅行者がそうと知らずに迷い込めば、留置所に入れられたり、襲われたり、最悪の場合には殺されることさえあった。

 米国のテレビドラマ「ラヴクラフトカントリー 恐怖の旅路」第1話で、黒人の主人公が夕日と競うようにして町を逃れる、緊迫した場面がある。これは、日が沈むまでにそこを離れなければ、命に関わるためだ。

 今では、ツアー会社やブログなど様々な情報源があり、グリーンブックが提供していたよりも多くの情報を得られるようになった。そうした情報源は、黒人向けの旅行事業者を応援するだけでなく、コミュニティの形成にも貢献している。新型コロナウイルス感染症が拡大する前のある調査によると、アフリカ系米国人は年間630億ドル(約6兆5700億円)を旅行に費やしていた。

 2020年は、米国の黒人にとって激動の一年となった。警官による黒人殺害事件、「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切だ)」運動の高まり、大統領選挙など、社会は大きく変化した。グリーンが夢見た理想が、今ほど遠くに感じられたことはないだろう。そこで、グリーンブックから受け継がれたもの、そして今黒人の旅行者に何が必要かについて、黒人の旅行に詳しい業界の人々に話を聞いた。

新世代のグリーンブック

「『ノマドネス・トラベル・トライブ』は、新世代の国際的なデジタル版グリーンブックだと、よく言われます」と、創立者のエビータ・ロビンソン氏は語る。「私たちは安全な場所を提供しています。それこそが、グリーンブックが与えてくれたものです」

 ノマドネスは2011年に、若い黒人の旅行者のなかでも主に女性が対象のフェイスブックグループとして始まった。黒人歓迎のレストランを掲載するだけではなく、同じような人々が集まる場を提供し、ネットワークを築くことを目指している。今では年に1度、黒人の旅行者のためのオンライン会議を主催し、500人以上が参加している。

 ロビンソン氏は、ただ単に旅行仲間を見つけるだけでなく、互いを支えあうことが必要だと感じ、ノマドネスとして支援できそうな黒人の事業者を探して取り上げる。例えば、グリーン・ブックの初版に掲載されたカリフォルニア州ロサンゼルスのクリフトンズ・カフェテリアや、アラバマ州バーミンガムのグリーン・エーカーズ・カフェなど、歴史ある施設を紹介してきた。

「ABCトラベル・グリーンブック」の著者マーティニーク・ルイス氏は、どこへ行っても黒人の歴史が発見できることを、もっと多くの旅行者に知ってもらいたいと話す。時には、予想もしていなかった場所でそれを見つけることもある。

「2018年6月にオランダのアムステルダムへ行った時のことです。まさか、アムステルダムにあんなに豊かな黒人の歴史があるとは思いもしませんでした」と、ルイス氏は当時を振り返る。

「ジェニファー・トッシュさんが創業した『ブラック・ヘリテージ・アムステルダム・ツアーズ』のコースに参加したのですが、そこで見たものに驚くとともに、苛立ちさえ感じました。たとえば、アムステルダムを訪れた旅行者が必ず行くという飾り窓地区でちょっと顔を上げれば、1600年代の彫刻に黒人の顔が彫られているのを見つけることができます。『なぜこの部分がツアーでもっと取り上げられないんだろう』と思いました」

 あまり知られていないツアーや店、イベントを取り上げるルイス氏のガイドブックは、世界中に離散したアフリカ人の軌跡を追い、エクアドルから韓国まで、各地で形成されたアフリカ人社会に光を当てている。

「旅先で、予想もしていなかったところで黒人を見つけると、うれしくなります。そして彼らを捕まえて、もっと詳しくその物語を知りたいと思うんです」

 小さな旅行メディア会社「トラベル・ノワール」の創立者ジム・フローレス氏は、顧客一人ひとりに合わせた旅作りの手伝いをする。2013年にインスタグラムでアカウントを開設し、世界各地で撮られた黒人の写真を投稿すると、多くのフォロワーがついた。現在、その数は60万人に達する。

「黒人が旅行をする理由は様々です。黒人の歴史をたどる旅もあれば、自分とは全く関係のない未知の場所へ行ってみたいという人もいます」

 フローレス氏は、恐れることなく旅をしてほしいと話す。「人々の考え方を揺さぶるのが私の仕事ですが、だからといって『心配しないで、とにかく行ってらっしゃい!』と言えるほど世間知らずではありません。どんな時、どんな国へ行っても、人はいくつもの経験をします。私は、まずは自分で行くことにしています。だからこそ、トラベル・ノワールはうまくいっているんだと思います。私自身も、大胆で怖いもの知らずの旅行者で、どこへでも行く気満々でした。そして、私が行けたんだから、他の黒人の旅行者にも、自分だって行けるんだと思ってもらえるんです」

 パーカー・マクマレン・ブッシュマン氏とクリスタル・エグリ氏は、口コミサイト「インクルーシブ・ジャーニーズ」の創立者だ。インクルーシブとは「全てを含んだ」という意味で、異なる人種、性別、宗教、性的指向などすべての人を、障壁を感じさせることなく受け入れる概念を指している。

「グリーンブックのように、黒人が安全と感じられる場所を集め、ちょっとひねりを加えたクラウドソースのデータベースがあったらどうだろうと考えました」と、ブッシュマン氏は話す。「社会の片隅に置かれたあらゆるタイプの人々のニーズに対応する店や施設を紹介したいと思っています。例えば、トランスジェンダーの方が利用できるトイレがあるか、または車椅子で入店できるかなど」

 インクルーシブ・ジャーニーズのもうひとつの目標は、インクルーシブなビジネスモデルには経済的な効果があることを示すことだ。「インクルーシブは正しいことだとわかっていても、それだけでは企業は変わろうとはしません。それが会社の利益になるという情報が欲しいのです」と、ブッシュマン氏は指摘する。「経済的なデータがそろっていれば、上層部の方針と慣行を変えることができます」

 インクルーシブ・ジャーニーズのウェブサイトには、データだけが示されているわけではない。「インクルーシブかどうかの評価には、主観的な意見も必要だと思います。実際に利用してみて、安全だと感じたか、歓迎されていると感じたか、仕方なしに対応されたのではなく、心からもてなされていると感じたか、といった質問をします。旅先でサービスを受けるとき、サービスの提供者が意識・無意識を問わず黒人女性である私に対して抱く偏見が、サービスにどう現れるのかを知ることはできません。けれど、他の人々がその施設のサービスに太鼓判を押してくれれば、自分で心配する必要がなくなります」

新たなグリーンブックは必要か

 1948年版のグリーンブックで、グリーンは「いつか近い将来に、このガイドブックを出版する必要がなくなる日が来るでしょう。それは、私たち黒人が、この国で平等な機会と権利を手にした時です」と書いている。

 その望み通り、グリーンブックはやがて時代にそぐわなくなっていく。原因のひとつは、法律が変わったことだ。黒人は、どこへでも合法に行けるようになった。キャンデシー・テイラー氏が、著書「Overground Railroad: The Green Book and the Roots of Black Travel in America(地上の鉄道:グリーンブックと米国における黒人旅行のルーツ)」のために取材を始めたころ、人々はグリーンブックなるものが存在したこと自体に衝撃を受けたという。「皆さん口をそろえて『そんなものが必要なくなって、本当に良かった』と言います」

「ところが、2016年の大統領選でトランプ氏が選ばれてから、政治が大きく変わりました。『新しいグリーンブックが必要だ!』と叫ばれました。でも、黒人たちが本当に必要としているのは、どんな場所にでも旅行できる自由と権利です」。その自由は、依然として脅威にさらされ続けている。

「グリーンブックは、黒人がサービスを受けられる場所をリストにして提供していましたが、当時はその場所まで生きてたどり着けるとは限りませんでした。その途中には『日没の町』があり、人種差別的な警官がいました。それこそが大きな問題だったのです」

 南北戦争が終わった後も、そして人種分離政策を推進したジム・クロウ法が廃止された後も、米国の分断が癒えることはなかった。それどころか、今回の歴史的な大統領選挙でその分断がまだ存在することが明らかになった。そうとは知らずに歓迎されない場所へ行って居心地の悪い思いをする黒人の旅行者がいなくなるまでには、まだ多くの仕事が残されていると、テイラー氏は言う。

「新しいグリーンブックでは解決できません。新しいグリーンブックが必要だという人々が本当に求めている自由とは、この国に染み付いた組織的な人種差別の根本に迫らなければ、手に入れることができないものです」

 世の中は大きく変わったと楽観的に言う人々に対して、テイラー氏の言葉は注意を呼び掛ける。それでも、ロビンソン氏、ルイス氏、フローレス氏、ブッシュマン氏、そしてエグリ氏といった黒人の旅行者は、活動を続ける。グリーンブックをしっかりと胸に抱いて、安全と新たな地平線を求めた先人たちと同じように、私たちもまた旅に出る。背を向けるわけにはいかない。私たちの誰にとっても、旅とは自由を意味するものなのだから。

文=GLYNN POGUE/訳=ルーバー荒井ハンナ

写真の説明:黒人の旅行者市場は、グリーンブックの時代から大きく成長した。ある調査によると、パンデミックの前、アフリカ系米国人は年間630億ドル(約6兆5700億円)を旅行に費やしていた。(ILLUSTRATION BY DIANA EJAITA)

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