当時のヒュー・ヘフナー氏に、雑誌名として授ける文化的な影響を与えたこのマイクロカー。販売車として生産されたのは、わずか91台。そのうちの1台が競売にかけられました。
1940年代半ば、バッファローの3人組と呼ばれたニューヨーク・パッカードのディーラーのルイス・ホロウィッツ、ポンティアックのエンジニアのチャールズ・トーマス、そしてサービス・ステーションオーナーのノーマン・リチャードソンらが、新しいマイクロカーの会社を立ち上げるために5万ドルを調達することに成功しました。
そののちとなる1946年秋、彼らのプロトタイプは二ューヨーク州バッファローにあるスタットラーホテルでデビューしました。
このプロトタイプは、軍事供給航空機「ヘラクレス」のために生産された2.6リットルの4気筒エンジンを後部に取りつけた、キャンバストップを装備した3人乗りキャビンでした。このプロトタイプの黒く塗装された車両は、ニューヨークのサラトガ自動車博物館にて展示されています。
その後1947年夏に、コンチネンタル製のエンジンと手動で開閉可能なハードトップを装備した前輪駆動レイアウトに、デザイン変更が加えられました。このコンセプトカーがのちの1948年製プレイボーイ「A48」となったのです。
プレイボーイ・オートモーティブ・カンパニーの傘下で、彼らは年間100,000台の生産目標を持つ第2・第3のクルマメーカーとして、「完璧なクルマをつくりたい」という野心を燃やしていました。しかしながら、彼らが会社の立ち上げに集まった民間資金の5万ドルの大半が、初期プロトタイプにつぎ込まれていたのです。
そのため、年間100,000台という生産目標に必要な資本金は2000万ドルと見積もられ、困り果てた彼らは投資家を探し求めていました。しかしながら資金調達は思うように実現せず、ついに倒産が宣言されてしまったのです。それまでに彼らは、合計97台の自動車を生産していました。それだけでも彼らの、「クルマを生産する」という目標は達成されたとも言えます。
合計97台生産されたうち、91台がカイザー社(現:カイザー=フレーザー)に売却され、1950年にはすべての資産ともいえるクルマがオークションにかけられてしまいました。
では、プレイボーイ「A48」とはどんなクルマだったのでしょうか?
それは1.5リットル、40馬力の4気筒エンジン、3速ギアのオーバードライブを搭載し、独立したフロントサスペンション、GM(電力供給機)を装備したアメリカのマイクロカーでした。
プレイボーイ「A48」は悔しくも、アメリカの自動車産業に名を刻むことはできませんでした。が、文化的な影響を残すことができたのです。それがいまや、誰もが1度は耳にしたことがある、『プレイボーイ』です。
『プレイボーイ』誌の発行者である故・ヒュー・ヘフナーに、「雑誌名はいまは現存しない自動車会社の名前が良い」と誰かが耳打ちしたということ…。それに賛同したヘフは、資金集めをしたのちの1953年9月に、初の『PLAYBOY』誌を発刊したのでした。
そんな希少なこのクルマは、これまでほとんどの時間をフロリダで過ごし、つい最近には海の泡のようなグリーンベースのカラーで素焼きの再塗装が施され、蘇ったようです。
RM Sotheby’sによるペンシルバニア州ハーシーのオークションで、2018年10月18日(現地時間)に出品。$132,000で落札されました。
同社はこのクルマの価値を「$55,000~$75,000程度だろう」と想定していましたが、その倍ともいえる価格に高騰したのでした。もし故・ヒュー・ヘフナーがこのオークションに参加していれば、さらに値段は高騰していたに違いありませんね。
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