スケボーを抱えてアメリカに渡った青年は、わずか21歳でロサンゼルスに家を買った。
4LDKの居室に加え、裏庭にスケボーの練習場を備えたこの物件は、日本円で1億は下らないとされている。それは東京オリンピックのスケートボード男子代表、堀米雄斗(22)=XFLAG=が、「アメリカンドリーム」を実現した証しに他ならない。
日本ではマイナーなイメージのあるスケボーだが、発祥の地であるアメリカでの人気は高い。トッププロは大会の賞金やスポンサー収入によって年間数十億円を稼ぎ出す。堀米は本場のスケボーシーンで認められた数少ない日本人の一人だ。
「野球で例えれば、本場のファンをも魅了する大谷翔平のような存在」。古株のスケーターは言う。堀米は、なぜ、アメリカで成功したのか。なぜオリンピックでのメダルが確実視されるのか。その生い立ちを追った。
インスタでアポ 15歳で留学
「アメリカでスケボーをしたい。しばらくの間、泊めてもらえませんか」
2014年の秋。ロサンゼルスに住んでいた鷲見知彦は、当時15歳の堀米から、そんなメッセージを受け取った。2人の間に面識はなかったが、堀米はインスタグラムを通じてコンタクトしてきたという。
スケーターの映像を専門に撮る「フィルマー」をしていた鷲見は「雄斗は大会の賞金を工面しながら自活していた。一緒にパークに行くと、同じ技を繰り返し何時間も練習していたのが印象に残っている」と振り返る。堀米自身は「大会でアメリカに行ったので2、3カ月泊めてもらった」と事も無げに言う。
スケボーにはスケーター同士がつながり合う文化がある。時には国をまたいで交流し、現地でスケートをしながらルームシェアすることも珍しくはない。鷲見の家にも当時、何人かのスケーターが住んでいた。ただ、驚きなのは、堀米がまだ東京の学校に通う高校生に過ぎなかったという事実だ。
15歳での単身スケボー留学。その情熱と行動力は、どこから来たのか――。
「最高の人生」の原点
堀米の原点は、自身も熱心なスケーターだった父亮太(46)にある。
「結婚をするとき、妻にはスケボーはやめる、と約束したんだけど、どうしても我慢できなくて。長男の雄斗が生まれてからは、子守名目で連れ出しては自分で滑ってた」。亮太は笑いながら振り返る。
東京都江東区内の自宅から歩いて10分ほどの大島小松川公園の一角に地元のスケーターが集うスポットがあった。通称は「SSP」。そこに通うのが親子の日課だった。
父のスケボー仲間で地方公務員の龍野亨(52)は「ゴメさん(亮太の愛称)が滑っている間は、俺らが雄斗をデッキに乗っけて遊ばせていた」と目を細める。
6歳で本格的に滑り始めると、堀米は周囲の大人たちが目を見張る早さで上達した。仲間の一人が撮った写真には、幼い堀米が手作りのジャンプ台から飛び出し、寝そべる父を跳び越える姿が残っている。
親子にはもう一つの日課があった。自宅でのビデオ鑑賞だ。「これがエリック・コストン。あれがジーノ・イアヌッチ」。父は自分が好きだった古いスケーターのビデオを繰り返し見せた。幼い堀米はプロへの憧れを芽生えさせながら、過去のスケーターの妙技を目に焼き付けていった。
「世間の常識やルールに縛られるのを嫌うスケーターにとっては、スケボーだけで食べていけるのが最高の人生。ゴメさんは自分の夢を雄斗に託したんじゃないかな」。龍野は言う。
平野歩夢と競った時代
小学校に上がると、足立区内にあったスケボーパークでU字形の斜面を滑る「バーチカル」に取り組んだ。当時、主流とは言えない種目だったが、父には「脚力が弱い子ども時代にトリック(技)の練習をするよりも、スピードや高さに慣れることの方が上達につながる」との考えがあった。
関係者の間では知られた話だが、冬季五輪スノーボードの銀メダリスト、平野歩夢(22)と大会で競い合ったのもこの頃だ。スノボとの「二刀流」の平野も東京オリンピックのスケボーで代表権を獲得しているが、堀米とは異なる種目「パーク」での出場になる。残念ながら2人の共演は見られない。
街中にあるような手すりや階段でトリックを競い合う「ストリート」に転向したのは、中学に上がってからだ。堀米の影響でスケボーを始めた同級生のスケーター、松本崇(22)は、学校もそこそこにパークに直行していた日々を振り返る。
「雄斗のデッキは1週間でダメになって、破れた靴はガムテープで留めていた。その頃の雄斗にはもうスポンサーがいたけど、物品の支給が追いついていなかった」
ストリートシーンにコーチや指導者は存在しない。何者にも縛られない自由さが魅力の半面、上達には自分と向き合う孤独な時間がつきまとう。松本と堀米は互いに支え合う仲間だった。
パークからの帰りの電車。よく2人でiPod(アイポッド)タッチに保存した海外プロの動画に見入ったという。「いつか、こいつらと一緒に滑りたい」が、堀米の口癖だった。
スケボーを教えた父の亮太は、この時期に身を引いている。教えられることがなくなったこともあるし、本人が思春期を迎えたこともある。「同年代の仲間たちと楽しそうに滑っているのを見て、もう、大丈夫だな、と思った」と言う。
亮太のスケボー仲間で堀米を支えてきたスケボーショップ「インスタント」のオーナー、本間章郎(54)は、父のあかぎれした「手」を覚えている。
「運転手の仕事をしていたゴメさんは、3人の息子の学費と雄斗の遠征費を稼ぐために同僚の車を洗うアルバイトを請け負っていた。冬場はあかぎれがひどくて、よく『いてえ、いてえ』ってこぼしてた。だけど雄斗の話になると途端に顔をほころばせてね。『あいつは9歳でマックツイストを決めたんだよ。史上最年少なんじゃないか』なんて」
親子の昔話になるたび、ローカルの仲間たちは涙ぐむ。
国内にいる暇はない
雑誌の撮影で同行することが多かったカメラマンの種田智典(43)には、忘れられない光景がある。それは当時14歳の堀米が14段の階段から飛び出し、オーリー360というトリックを決めた時のことだ。「自分の想定を超える完璧な動きだった」
カメラを構えていた種田は、自分がシャッターを切ったことを忘れるほどに目を奪われた。多くのスケーターを撮ってきたが、そんなことは初めてだった。
大会で上位に食い込むようになった堀米の名前は、国内のスケボーシーンでとどろき始めていた。ただ、アメリカへの道筋は見えなかった。日本人が本場でプロになる前例がほとんどなかったからだ。
本人は「がむしゃらにスケボーをしているだけで、何も考えていなかった」と振り返る。
漠然とした夢に形を与えたのが、デッキブランドを運営し、堀米をスポンサードしていた早川大輔(47)=現日本代表コーチ=だった。
「ゴメさんが13歳の雄斗をボクのところに連れてきた。『アメリカに行ってプロになる』と本気で考えていて、実力もずぬけていた。国内でうだうだしている暇はない、と思った」
早川自身、若い頃にアメリカに渡ってスケボーをしていた。現地の事情に通じ、知り合いも多かった。
早川は中学生の堀米をアメリカの大会にエントリーさせた。そして両親に代わって現地まで引率する役を買って出た。早川は「アメリカでプロになるには、大きな大会で勝つか、ビデオパートを作って認められるしかない。大会に出て名前を売るのが近道だと思った」と振り返る。
当時を知る龍野は「大ちゃん(早川)にも家族がいて、仕事もあったのに、頻繁に雄斗をアメリカに連れて行っていた。持ち出しも相当あったはず。それだけ雄斗の才能にほれ込んでいたのだろう」と話す。
後日の話だが、アメリカの有名デッキブランドが堀米のスポンサードを申し出ると、競合するはずの早川もまた、すんなりと身を引いている。「自分がやっていたデッキブランドは国内でしか通用しない。雄斗の足かせにはなりたくなかった」。早川もまた、堀米に夢を託した一人だった。
壁超えた先にトップの称号
早川との二人三脚によるチャレンジは16年に実を結んだ。アメリカで開かれたアマチュア最高峰の大会で4位に入ったことで、プロツアーへの参戦権を得たのだ。
17年。高校を卒業しロサンゼルスに拠点を移した堀米は、現地スケーターとのルームシェアを始めた。先述した15歳でのスケボー留学が足がかりになった。
当初は英語がしゃべれず、言葉の壁に苦しんだという。ただ本人は「一緒にスケボーをしているうちにだんだんと打ち解けた」と振り返る。スケボーが日常生活に根付いたアメリカでは、各地にスケボーパークが整備されている。
公道の規制も日本に比べれば緩やかで、スケボーカルチャーに欠かせない「ビデオパート」の撮影もしやすい。本場の空気を吸収したことが、堀米の才能にさらなる磨きをかけた。
そして18年、堀米は世界のトップシーンへと躍り出る。最高峰のプロツアーである「ストリートリーグ」で初優勝し、19年にはトッププロの証しである自身の名前を冠したデッキも発売した。ロサンゼルスに家を購入したのは20年の秋だ。
日本ではマイナーなイメージのあるスケボーだが、世界での市場規模は約2000億円(18年時点)に上る。アメリカンフットボールや野球、バスケットボールの「3大スポーツ」には及ばないものの、アメリカでは人気スポーツの一角を占めている。
一方で、生粋のスケーターの間ではスケボーを「スポーツ」とくくられることへの拒否感が根強い。順位を競うことよりも、オリジナリティーを追求する「ストリートカルチャー」として発展してきた歴史があるからだ。
それゆえに世界のトップシーンでは、技術的な「うまさ」や大会の成績だけでは評価されず、「スタイル」(個性)が何よりも重視される。
堀米は21年5月、米国で最も権威のあるスケボー専門誌「スラッシャーマガジン」の表紙を飾った。それは堀米が単に大会に強いだけではなく、スケボーカルチャーのど真ん中で、「スタイル」が認められたことを意味している。
誰もやっていないことに挑戦
堀米はなぜ支持されたのか。日本スケートボード協会の競技委員も務める本間は、その理由を堀米の「創造性」に求める。「雄斗の誰もやったことのない技に挑戦する姿がリスペクトを集めている」と語る。
堀米の代名詞にもなっている「ノーリー270スイッチバックサイドテールスライド」という技が、その象徴だ。
デッキの前方をはじいて宙に舞い、そのまま270度回転して障害物に乗るこの技は、もともとは1990年代に生まれた。ただ成功率の低さから、大会では使われない「忘れられた存在」になっていた。
堀米はこの技を現代によみがえらせた上に、オリジナルの縁石よりも高い位置にあるハンドレールでやってのけた。大会で高得点をたたき出すこの技は、堀米の「武器」の一つになっている。
「ノーリー270スイッチバックサイドテールスライド」を解剖
本間によれば、それは過去の技を知り尽くし、バーチカルの技術を身につけた堀米にしかできない発想だった。「あの世代で雄斗ほど昔のビデオを見ているスケーターは見当たらない。ストリート種目でバーチカルを経験している選手もまれだ。雄斗の創造性のベースには、その生い立ちがある」
堀米をアメリカへと導いた早川は「雄斗はスケボーのカルチャーとしての側面とスポーツとしての側面を併せ持ったハイブリッドなスケーターだ」と表現する。
父の亮太や早川がスケボーを始めた80~90年代は、世間の無理解と道路交通法のはざまに咲いた「カルチャー全盛の時代」だった。当時のスケーターたちはトリックを覚えるために、連続写真が掲載された海外雑誌を穴が開くほどに眺め、テープがすり切れるほどにビデオを見返した。
人けのないスポットを探しては練習に励み、時には警備員や通行人の隙(すき)を縫って街中の手すりでトリックを決めた。スケボーはスポーツというよりも、身体を賭した「自己表現」だった。
公園の片隅からスケボーを始めた堀米は、父や早川たちからそんな時代の息吹を受け継いだ。そして、自身はスケボーがスポーツ化する流れの中で育った。各地でパークの整備が進んだ00年代。世間の理解も深まり、親が子どもにスケボーをプレゼントする光景も当たり前になった。ネットとSNSの登場は、手元で一流スケーターの映像を見ながら練習に打ち込める環境を整えた。
堀米の成功が本人の才能と情熱の結果であることに疑いの余地はない。ただ、それは時代のたまものでもある。早川に言わせれば、堀米雄斗には日本のスケボーシーンの歴史が詰まっている。
堀米はスケボーの魅力について「終わりがないところだ」と話す。7月25日のオリンピック本番では、「まだ誰もやったことのない新技」を繰り出すという。世界の注目を集める22歳は、スケボー史に新たな一ページを刻もうとしている。(敬称略)
※この記事は、毎日新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。
【執筆:川崎桂吾】