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21歳でLAに豪邸 “スケボー界の大谷翔平”次の夢は初代五輪王者

2021年7月19日 11:00 ムラサキスポーツ提供

 スケボーを抱えてアメリカに渡った青年は、わずか21歳でロサンゼルスに家を買った。

 4LDKの居室に加え、裏庭にスケボーの練習場を備えたこの物件は、日本円で1億は下らないとされている。それは東京オリンピックのスケートボード男子代表、堀米雄斗(22)=XFLAG=が、「アメリカンドリーム」を実現した証しに他ならない。

 日本ではマイナーなイメージのあるスケボーだが、発祥の地であるアメリカでの人気は高い。トッププロは大会の賞金やスポンサー収入によって年間数十億円を稼ぎ出す。堀米は本場のスケボーシーンで認められた数少ない日本人の一人だ。

 「野球で例えれば、本場のファンをも魅了する大谷翔平のような存在」。古株のスケーターは言う。堀米は、なぜ、アメリカで成功したのか。なぜオリンピックでのメダルが確実視されるのか。その生い立ちを追った。

インスタでアポ 15歳で留学


 「アメリカでスケボーをしたい。しばらくの間、泊めてもらえませんか」

 2014年の秋。ロサンゼルスに住んでいた鷲見知彦は、当時15歳の堀米から、そんなメッセージを受け取った。2人の間に面識はなかったが、堀米はインスタグラムを通じてコンタクトしてきたという。

 スケーターの映像を専門に撮る「フィルマー」をしていた鷲見は「雄斗は大会の賞金を工面しながら自活していた。一緒にパークに行くと、同じ技を繰り返し何時間も練習していたのが印象に残っている」と振り返る。堀米自身は「大会でアメリカに行ったので2、3カ月泊めてもらった」と事も無げに言う。

 スケボーにはスケーター同士がつながり合う文化がある。時には国をまたいで交流し、現地でスケートをしながらルームシェアすることも珍しくはない。鷲見の家にも当時、何人かのスケーターが住んでいた。ただ、驚きなのは、堀米がまだ東京の学校に通う高校生に過ぎなかったという事実だ。

 15歳での単身スケボー留学。その情熱と行動力は、どこから来たのか――。

「最高の人生」の原点


 堀米の原点は、自身も熱心なスケーターだった父亮太(46)にある。

 「結婚をするとき、妻にはスケボーはやめる、と約束したんだけど、どうしても我慢できなくて。長男の雄斗が生まれてからは、子守名目で連れ出しては自分で滑ってた」。亮太は笑いながら振り返る。


 東京都江東区内の自宅から歩いて10分ほどの大島小松川公園の一角に地元のスケーターが集うスポットがあった。通称は「SSP」。そこに通うのが親子の日課だった。

 父のスケボー仲間で地方公務員の龍野亨(52)は「ゴメさん(亮太の愛称)が滑っている間は、俺らが雄斗をデッキに乗っけて遊ばせていた」と目を細める。

 6歳で本格的に滑り始めると、堀米は周囲の大人たちが目を見張る早さで上達した。仲間の一人が撮った写真には、幼い堀米が手作りのジャンプ台から飛び出し、寝そべる父を跳び越える姿が残っている。

 親子にはもう一つの日課があった。自宅でのビデオ鑑賞だ。「これがエリック・コストン。あれがジーノ・イアヌッチ」。父は自分が好きだった古いスケーターのビデオを繰り返し見せた。幼い堀米はプロへの憧れを芽生えさせながら、過去のスケーターの妙技を目に焼き付けていった。

 「世間の常識やルールに縛られるのを嫌うスケーターにとっては、スケボーだけで食べていけるのが最高の人生。ゴメさんは自分の夢を雄斗に託したんじゃないかな」。龍野は言う。

平野歩夢と競った時代


 小学校に上がると、足立区内にあったスケボーパークでU字形の斜面を滑る「バーチカル」に取り組んだ。当時、主流とは言えない種目だったが、父には「脚力が弱い子ども時代にトリック(技)の練習をするよりも、スピードや高さに慣れることの方が上達につながる」との考えがあった。

 関係者の間では知られた話だが、冬季五輪スノーボードの銀メダリスト、平野歩夢(22)と大会で競い合ったのもこの頃だ。スノボとの「二刀流」の平野も東京オリンピックのスケボーで代表権を獲得しているが、堀米とは異なる種目「パーク」での出場になる。残念ながら2人の共演は見られない。

 街中にあるような手すりや階段でトリックを競い合う「ストリート」に転向したのは、中学に上がってからだ。堀米の影響でスケボーを始めた同級生のスケーター、松本崇(22)は、学校もそこそこにパークに直行していた日々を振り返る。

 「雄斗のデッキは1週間でダメになって、破れた靴はガムテープで留めていた。その頃の雄斗にはもうスポンサーがいたけど、物品の支給が追いついていなかった」

 ストリートシーンにコーチや指導者は存在しない。何者にも縛られない自由さが魅力の半面、上達には自分と向き合う孤独な時間がつきまとう。松本と堀米は互いに支え合う仲間だった。

 パークからの帰りの電車。よく2人でiPod(アイポッド)タッチに保存した海外プロの動画に見入ったという。「いつか、こいつらと一緒に滑りたい」が、堀米の口癖だった。

 スケボーを教えた父の亮太は、この時期に身を引いている。教えられることがなくなったこともあるし、本人が思春期を迎えたこともある。「同年代の仲間たちと楽しそうに滑っているのを見て、もう、大丈夫だな、と思った」と言う。

 亮太のスケボー仲間で堀米を支えてきたスケボーショップ「インスタント」のオーナー、本間章郎(54)は、父のあかぎれした「手」を覚えている。

 「運転手の仕事をしていたゴメさんは、3人の息子の学費と雄斗の遠征費を稼ぐために同僚の車を洗うアルバイトを請け負っていた。冬場はあかぎれがひどくて、よく『いてえ、いてえ』ってこぼしてた。だけど雄斗の話になると途端に顔をほころばせてね。『あいつは9歳でマックツイストを決めたんだよ。史上最年少なんじゃないか』なんて」

 親子の昔話になるたび、ローカルの仲間たちは涙ぐむ。

国内にいる暇はない


 雑誌の撮影で同行することが多かったカメラマンの種田智典(43)には、忘れられない光景がある。それは当時14歳の堀米が14段の階段から飛び出し、オーリー360というトリックを決めた時のことだ。「自分の想定を超える完璧な動きだった」

 カメラを構えていた種田は、自分がシャッターを切ったことを忘れるほどに目を奪われた。多くのスケーターを撮ってきたが、そんなことは初めてだった。

 大会で上位に食い込むようになった堀米の名前は、国内のスケボーシーンでとどろき始めていた。ただ、アメリカへの道筋は見えなかった。日本人が本場でプロになる前例がほとんどなかったからだ。

 本人は「がむしゃらにスケボーをしているだけで、何も考えていなかった」と振り返る。

 漠然とした夢に形を与えたのが、デッキブランドを運営し、堀米をスポンサードしていた早川大輔(47)=現日本代表コーチ=だった。

 「ゴメさんが13歳の雄斗をボクのところに連れてきた。『アメリカに行ってプロになる』と本気で考えていて、実力もずぬけていた。国内でうだうだしている暇はない、と思った」

 早川自身、若い頃にアメリカに渡ってスケボーをしていた。現地の事情に通じ、知り合いも多かった。

 早川は中学生の堀米をアメリカの大会にエントリーさせた。そして両親に代わって現地まで引率する役を買って出た。早川は「アメリカでプロになるには、大きな大会で勝つか、ビデオパートを作って認められるしかない。大会に出て名前を売るのが近道だと思った」と振り返る。

 当時を知る龍野は「大ちゃん(早川)にも家族がいて、仕事もあったのに、頻繁に雄斗をアメリカに連れて行っていた。持ち出しも相当あったはず。それだけ雄斗の才能にほれ込んでいたのだろう」と話す。

 後日の話だが、アメリカの有名デッキブランドが堀米のスポンサードを申し出ると、競合するはずの早川もまた、すんなりと身を引いている。「自分がやっていたデッキブランドは国内でしか通用しない。雄斗の足かせにはなりたくなかった」。早川もまた、堀米に夢を託した一人だった。

壁超えた先にトップの称号


 早川との二人三脚によるチャレンジは16年に実を結んだ。アメリカで開かれたアマチュア最高峰の大会で4位に入ったことで、プロツアーへの参戦権を得たのだ。

 17年。高校を卒業しロサンゼルスに拠点を移した堀米は、現地スケーターとのルームシェアを始めた。先述した15歳でのスケボー留学が足がかりになった。

 当初は英語がしゃべれず、言葉の壁に苦しんだという。ただ本人は「一緒にスケボーをしているうちにだんだんと打ち解けた」と振り返る。スケボーが日常生活に根付いたアメリカでは、各地にスケボーパークが整備されている。

 公道の規制も日本に比べれば緩やかで、スケボーカルチャーに欠かせない「ビデオパート」の撮影もしやすい。本場の空気を吸収したことが、堀米の才能にさらなる磨きをかけた。

 そして18年、堀米は世界のトップシーンへと躍り出る。最高峰のプロツアーである「ストリートリーグ」で初優勝し、19年にはトッププロの証しである自身の名前を冠したデッキも発売した。ロサンゼルスに家を購入したのは20年の秋だ。

 日本ではマイナーなイメージのあるスケボーだが、世界での市場規模は約2000億円(18年時点)に上る。アメリカンフットボールや野球、バスケットボールの「3大スポーツ」には及ばないものの、アメリカでは人気スポーツの一角を占めている。

 一方で、生粋のスケーターの間ではスケボーを「スポーツ」とくくられることへの拒否感が根強い。順位を競うことよりも、オリジナリティーを追求する「ストリートカルチャー」として発展してきた歴史があるからだ。

 それゆえに世界のトップシーンでは、技術的な「うまさ」や大会の成績だけでは評価されず、「スタイル」(個性)が何よりも重視される。

 堀米は21年5月、米国で最も権威のあるスケボー専門誌「スラッシャーマガジン」の表紙を飾った。それは堀米が単に大会に強いだけではなく、スケボーカルチャーのど真ん中で、「スタイル」が認められたことを意味している。

誰もやっていないことに挑戦


 堀米はなぜ支持されたのか。日本スケートボード協会の競技委員も務める本間は、その理由を堀米の「創造性」に求める。「雄斗の誰もやったことのない技に挑戦する姿がリスペクトを集めている」と語る。

 堀米の代名詞にもなっている「ノーリー270スイッチバックサイドテールスライド」という技が、その象徴だ。

 デッキの前方をはじいて宙に舞い、そのまま270度回転して障害物に乗るこの技は、もともとは1990年代に生まれた。ただ成功率の低さから、大会では使われない「忘れられた存在」になっていた。

 堀米はこの技を現代によみがえらせた上に、オリジナルの縁石よりも高い位置にあるハンドレールでやってのけた。大会で高得点をたたき出すこの技は、堀米の「武器」の一つになっている。

「ノーリー270スイッチバックサイドテールスライド」を解剖

 本間によれば、それは過去の技を知り尽くし、バーチカルの技術を身につけた堀米にしかできない発想だった。「あの世代で雄斗ほど昔のビデオを見ているスケーターは見当たらない。ストリート種目でバーチカルを経験している選手もまれだ。雄斗の創造性のベースには、その生い立ちがある」

 堀米をアメリカへと導いた早川は「雄斗はスケボーのカルチャーとしての側面とスポーツとしての側面を併せ持ったハイブリッドなスケーターだ」と表現する。

 父の亮太や早川がスケボーを始めた80~90年代は、世間の無理解と道路交通法のはざまに咲いた「カルチャー全盛の時代」だった。当時のスケーターたちはトリックを覚えるために、連続写真が掲載された海外雑誌を穴が開くほどに眺め、テープがすり切れるほどにビデオを見返した。

 人けのないスポットを探しては練習に励み、時には警備員や通行人の隙(すき)を縫って街中の手すりでトリックを決めた。スケボーはスポーツというよりも、身体を賭した「自己表現」だった。

 公園の片隅からスケボーを始めた堀米は、父や早川たちからそんな時代の息吹を受け継いだ。そして、自身はスケボーがスポーツ化する流れの中で育った。各地でパークの整備が進んだ00年代。世間の理解も深まり、親が子どもにスケボーをプレゼントする光景も当たり前になった。ネットとSNSの登場は、手元で一流スケーターの映像を見ながら練習に打ち込める環境を整えた。

 堀米の成功が本人の才能と情熱の結果であることに疑いの余地はない。ただ、それは時代のたまものでもある。早川に言わせれば、堀米雄斗には日本のスケボーシーンの歴史が詰まっている。

 堀米はスケボーの魅力について「終わりがないところだ」と話す。7月25日のオリンピック本番では、「まだ誰もやったことのない新技」を繰り出すという。世界の注目を集める22歳は、スケボー史に新たな一ページを刻もうとしている。(敬称略)

※この記事は、毎日新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。
【執筆:川崎桂吾】

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家族の夢背負い挑むプロの道 「異端」の社会人スラッガーが見据えるドラフト

2020年10月23日 11:00 毎日新聞社

 いざという時、なぜだか思い通りにいかない。

 思い返せば、野球を始めてからこんなことの繰り返しだった。ドラフト会議を約3週間後に控えた10月6日、川崎市多摩区の読売ジャイアンツ球場。

 一人の若者が猛烈なプレッシャーと対峙(たいじ)していた。

 今川優馬、23歳。

 昨年、社会人野球の最高峰である都市対抗野球大会を制したJFE東日本(千葉市)を支える強打の外野手だ。

 試合の相手は、球界の盟主・巨人の2軍。オープン戦では普段、対戦するのは他の企業チームばかりだが、この日の目の前の敵は違った。子どもの頃から目標としてきたプロ野球選手である。

 「アピールするには、ここで結果を出すしかない」

 意気揚々と球場に乗り込んだものの、現実は厳しかった。力みからスイングが中途半端になり、守りでもミスを犯す。

 「こんなはずじゃないのに」

 時間の経過とともに、図らずもゲームは終盤へと向かっていく。だが、そこで「絶対に諦めない」のが今川であり、実際に道を切り開いてきたのが彼の人生だ。

 「もう後がない。でも、やるしかない」

 一度打席を外すと、握りしめたバットを見つめた。

新型コロナが落とす影


 日本のみならず、世界中を混乱に陥れた新型コロナウイルス。感染拡大の脅威は、社会人野球にも暗い影を落とした。

 今年はほとんどの公式戦が中止になり、7月に予定していた社会人野球3大大会の一つ、日本選手権大会も中止が決まった。

 例年ならスカウト陣が一堂に集まる前で実力を披露する舞台となるはずの都市対抗野球大会も、夏に開催予定だった東京オリンピック・パラリンピックの影響で、今年はドラフト会議後の11月22日に開幕する。

思わぬ代償


 昨年の都市対抗での自らの活躍が、逆に自身のアピールの場を奪ってしまうのだから、人生とは実に皮肉なものである。

 身長176センチと上背のない今川だが、独特のアッパースイングが生み出す長打力が持ち味。昨年大会では準決勝で2ランを放つなど活躍し、新人賞にあたる「若獅子賞」に選ばれた。

昨年の都市対抗決勝で勝ち越し打を放つ今川(映像提供:東京ケーブルネットワーク)

 チームも頂点に立ち、優勝の特典として今年の予選が免除になった。9月に開催された予選は、ドラフトに向けた最後の公式戦となったのだが、今川はその舞台を戦うことができなかったのだ。

 本来なら喜ばしいことだが、今川の心境は複雑だった。「真剣勝負の中で自分をアピールする機会がない」

 スカウトの前で予選を戦うライバルたちを横目に、焦燥感にかられながら日々、練習に明け暮れるしかなかった。

苦悩の夏


 コロナ禍でチームの実戦機会がオープン戦に限られたため、特殊事情を認識するスカウトも視察には訪れた。しかし、過酷な予選を戦い抜こうと構えるライバルたちの方が、体の動きも切れも、気迫でも勝っていた。

 一方の今川は、スカウトの目を意識し過ぎたのか、思うように快音を響かせられずにいた。「他のドラフト候補たちは予選の真剣勝負をスカウトに見てもらっているのに、僕にはそれがない。不安で仕方がない」。悩みながら過ごした、社会人2年目の夏だった。

6人きょうだいの長男


 「どうしてもプロになりたい」。今川にはそう思う理由がある。

 これまで自分が野球を続けるために大きな負担をかけてきた家族の苦労に、どうしても報いたいからだ。

 札幌市出身の今川は6人きょうだいの長男。決して裕福な家庭に育ったわけではない。父は建築関係の仕事をしながら、息子の夢の実現を応援してくれた。

 中学3年の時だ。市内のある新興の私立高校に野球部の特待生として入学できることになったが、どうしても甲子園に出たいと願っていた今川は、強豪の東海大四高校(現・東海大札幌高校)への進学を希望していた。

 ただ、そうなると一般入学になり、学費や部費など大きな負担をかけることになる。家庭の事情を考えるなら特待生は魅力だった。悩んでいると、父から言われた。「なぜ東海大四に行きたいのか、お父さんとお母さんにプレゼンをしてみろ」

 数日後、リビングのテーブルで両親と向かい合った。

 「僕はどうしても甲子園に行きたい。そのためには東海大四に進むのが近道だと思う。お金がかかってしまうのは申し訳ないけど、行かせてほしい。必ずレギュラーになって甲子園に連れて行くから」

 懸命に自分なりの思いを伝えた。黙って聞いていた父が言った。「高校の進路は人生を大きく変えるものだよ。今の思いをしっかりもって、甲子園に向けて頑張りなさい」

切ないうそ


 他の選手との技術差が大きく、毎日が絶望の日々だった高校時代。無理を聞いてくれた両親に申し訳なく、「今日、試合に出たよ」とうそをついたこともあった。父母の期待に応えたい気持ちだけで、たどりついた甲子園だった。

 大学も一般進学の東海大北海道(現・東海大札幌)を選択した。両親の経済的負担を少しでも減らそうと、数百万円の奨学金を借りた上、野球部と並行して焼き肉店でアルバイトをしながら用具代などを賄った。

 社会人になった今でも、毎日のように家族とテレビ電話で連絡を取っている。不調の時や不安に押しつぶされそうな時、どんなつらい時でも「家族の声を聞いて、顔を見るだけでいやされる」という。

「もってない」


 言葉が適切かどうかは分からないが、ある意味、今川の野球人生には「不運」が付きまとう。

 東海大四高3年だった2014年春。念願だったレギュラーの証しである1桁背番号を手に入れたが、練習試合で左手を骨折した。

 夏の甲子園には何とか間に合い、出場して安打も放ったが、最後まで背番号が1桁に戻ることはなかった。

 東海大北海道4年だった18年には、札幌学生野球連盟春季リーグで新記録となる5本塁打を放つ活躍を見せた。

 しかし、未成年部員の飲酒が発覚し、「プロへの就活の場」と位置づけていた全日本大学選手権は出場辞退に追い込まれた。

 もちろん、その年のドラフト会議で今川を指名する球団はなかった。

 かつてのチームメイトは、こう評する。「今川って、もってない奴だな」

 野球をやめる選択肢が頭に浮かんだのは、もう何度目だろうか。

「拾う神あり」


 ただ、そんな逆境に直面する度に、今川は人に恵まれ、「縁」を感じてきた。

 レギュラーになれずに終わった東海大四高時代、卒業後も野球を続けるかどうかで悩んでいた時、手を差し伸べたのが大脇英徳監督だった。

 入部当時のレベルはお世辞にも高いとは言えなかったが、練習の虫だった。目を見張るほどの成長曲線を描く今川を、大脇は「伸びしろを感じたし、何より取り組む姿勢が素晴らしかった」と振り返る。

 進路面談の際、「お前はプロを目指してもいい選手なんだぞ」と今川の背中を押した。

「革命」との出会い


 大学でも出会いがあった。

 入学直後はレギュラーにはほど遠い存在だったが、岩原旬コーチの導きで生まれ変わった。それまでは地味なつなぎ役だった今川だが、岩原の指導で打撃が開眼した。

 その教えとは、「バットを下から出して遠くへ飛ばせ」。当時、米大リーグで流行しつつあった「フライボール革命」と同じ理論だ。

 それまでの打撃指導は、投球に対してレベル(水平)にバットを出す「レベルスイング」が一般的で、バットを下から出す「アッパースイング」は歓迎されなかった。だが、今川は柔軟だった。

 素直にコーチの声に耳を傾け、チャレンジしてみると「実際に飛距離が伸びて、打つことが楽しくなった」。岩原も自費で米アトランタまで指導者研修に出向くなどして、今川の成長に応えたこともあり、3年からレギュラーの座をつかんだ。

異端児


 大学4年時も、意外な人物に救われた。

 「飲酒問題」を受けて全日本大学選手権辞退、さらにドラフト指名もなく、将来の行き場をなくしていた時だった。飲酒問題で当時の監督が辞任し、新たに後任として赴任したのが、高校時代の野球部長だった日下部憲和だった。

 今川に強いプロ志望があるのを間近で見ていた日下部は、あらゆる人脈を使って声をかけ、JFE東日本のセレクションを受ける約束をとりつけた。今川が千葉県内のグラウンドを訪れて打撃を披露すると、JFE東日本の落合成紀監督は即、採用を決断した。

 ここでも人の縁が生きる。今川の打法は、いわば異端児。指導者によってはフォーム改造を強いるケースも免れない。今川は意を決して「僕はこの打ち方を変えるつもりはないです。それでもいいですか」と打ち明けた。

 すると、落合は答えた。「それは君の個性だよ。信じて、突き詰めればいい」

感謝の表現


 今川にとって、自らにチャンスを与えてくれた社会人野球に対する感謝の念は人一倍強い。

 コロナ禍で多くのチームが活動自粛を強いられた今春、「行動を起こさないと何も変わらない。社会人野球を盛り上げたい」と、チームの垣根を越えて企業、クラブチームに協力を呼びかけた。

 社会人野球でプレーする80選手以上が参加し、「3密を避けよう」などと呼びかける動画「今、僕たちにできること」を製作。

今川が呼び掛けて制作したリレー動画(映像提供:日本野球連盟)

 一つの白球を、打撃、守備、スローイングなど、さまざまなプレーでつなぎながら、感染拡大を防ぐための思いを伝えていく内容だ。社会人野球を統括する日本野球連盟(JABA)公式サポーターのユーチューブなどで配信し、大きな反響を呼んだ。

夢への懸け橋


 10月、巨人2軍とのオープン戦。

 七回1死一塁で迎えた第4打席だった。ここまで無安打に終わっていた今川は、押しつぶされそうな重圧の一方、集中力は極限まで高まっていた。

 相手マウンドは1軍経験も豊富な右サイドハンドの田原誠次投手。「ゴロを打たせたいはずだから、変化球を投げてくる」

 そう読むと、内角に来たカットボールを完璧にとらえた。

 「最高の感触だった」

 高々と舞い上がった打球が左翼席で弾むのが見えた。超特大の左越え2ラン。うれしさをかみしめ、ゆっくりとダイヤモンドを回った。

 試合後、視察に来ていたある球団のスカウトから声をかけられた。「ナイスバッティング」。同時に手渡された調査書は、ドラフト会議での指名を確約するものではないことは承知している。それでも、天にも昇る心地だった。

思いよ届け


 「雨だれ石をうがつ」

 今川の座右の銘だ。小さな努力でも、根気よく続けていけば最後には成功するという意味で、中学時代に読んだ野球漫画で知り、自分の勉強机にペンで書いた。

 当時は何となく気に入っていただけだったが、その後の山あり谷ありの野球人生を振り返ると「自分にぴったりだったと思う」。

 実家の机上には、まだその書き込みが残っている。大好きな言葉が現実になることを信じて、今川は運命の10月26日を待っている。(敬称略)

 取材・執筆=岸本悠(毎日新聞社運動部)

※この記事は毎日新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。

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