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「コイシイワ」 南洋マーシャルに残る爪痕 大川史織さんが問い続けるもの

2020年8月15日 11:00 毎日新聞社


 小型船が南洋を弾むように走る。

 大川史織さん(32)はその時を逃すまいと船上で必死にカメラを構えた。

 海の色が青からエメラルドグリーンに変わる。島が近づき、70代も半ばの男性が船から身を震わせて叫んだ。

 「お父さーん、来ましたよー! 勉ですー!」

 大川さんは涙を止められなかった。やっと父親のいる場所にたどり着けたんだ――。


「コイシイワ アナタハ」 


 物語の始まりは2007年。大川さんが遠い南の島で出会った日本語の歌だった。

 「コイシイワ アナタハ イナイトワタシ サビシイワ」

 ゆったりとしたメロディーに乗せ、女性たちは時折視線を合わせて楽しそうに歌っていた。「え? 日本語・・・?」。高校生だった大川さんは驚き、戸惑った。

 この歌をどう受け止めたらいいのか、分からなかった。


 訪れていたのはマーシャル諸島。日本から南東に約4500㌔離れた太平洋にあり、約6万人が暮らす。美しいコバルトブルーの海に広がる島々と環礁は「真珠の首飾り」と呼ばれる。


日本の統治下に30年


 マーシャルは1945年に戦争が終わるまでの約30年間、日本の統治下にあった。高校生の大川さんはそのことを知らなかった。


 出会いは偶然だった。

 「世界を肌で感じたい」と考えていた大川さんは、関心がある「核、環境、開発」の言葉をネットに入力した。出てきたのは、マーシャルへの10日間のスタディーツアー。アメリカの核実験で被ばくしたビキニ環礁があるために検索で引っかかった。

 「マーシャルってどこ?」。よく知らないからこそ行ってみたい。バイト代をためて申し込んだ。



チャンポ、チャチミ、アミモノ・・・・・・


 現地で耳にした「コイシイワ」の歌は、島民に日本語を教えた同化政策の名残だ。

 散歩は「チャンポ」、刺し身は「チャチミ」、手工芸品は「アミモノ」。日本による統治は75年前に終わったものの、歌や言葉はまだ残っていた。

 「なんで私、何も知らなかったんだろう。もし逆の立場だったら、あんなふうに歌えたかな」

 自分に向けて歌ってくれた優しい歌が忘れられない。大学を出た後は研究者の道も考えた。だが「私が知りたいことに出会うには、もっと入り込まないと」と思い、島にわずかしかない日系企業に就職した。


 ドキュメンタリー映画が好きで、映像の力を感じていた。現地で生活を始めると、少しずつ機材を買いそろえ、独学で撮影を始めた。仕事のない日は日本の統治時代を知る人たちに話を聞かせてもらった。


天皇陛下はお元気ですか


 「(日本語は)もうわすれました」とたどたどしく話した高齢の女性は、しばらくすると流ちょうな日本語を話した。

 「天皇陛下はお元気ですか?」。そう尋ねられたこともある。「おじいちゃんは日本語がうまかったからスパイだと疑われて殺された」と話す女性もいた。

「タリナイ」Ⓒ2018春眠舎



どうしたら伝えられるのか


 3年にわたる滞在でいくつもの映像を撮りためた。「マーシャルに残る戦争を伝えたい」。帰国後、会社員として働きながらドキュメンタリー映画の編集にとりかかる。

 しかし、日本でマーシャルを知る人は少なく、関心も低い。「どうやって伝えたらいいんだろう」。映像を編集しても、伝わると思える手応えがない。もがいていた。


 帰国した大川さんが悩んでいたころ、マーシャルを思い続ける人が、もう一人いた。宮城県に住む佐藤勉さん(79)だ。

 父親の冨五郎さんはマーシャルで亡くなった。物心が付く前に出征してしまい、父の記憶はほとんどない。佐藤さんを駆り立てたのは、冨五郎さんが残した2冊の日記だった。



涙で読めなかった日記


 手のひらほどの大きさの手帳には、マーシャルで亡くなる直前まで2年にわたる日々がきちょうめんに記されていた。

 「父を知りたい」。そう思った佐藤さんは中学生の頃に日記を開いたことがある。しかし、家族を心配する言葉を目にして涙が止まらず、途中までしか読めなかった。


 日記の中で父は2歳で別れた自分を思ってくれていた。

 【勉君ドウシタカナー】

 中耳炎だった自分にせがまれ、耳を消毒した思い出もつづられていた。【其ノ後耳ハドウナツタカ】(その後耳はどうなったか)。遠い戦地から気にかけていたことを知った。


 「自分が召集されるということは、日本は戦争に負ける」。冨五郎さんは家族にそう言い残して出征したと聞いた。

 戦況が悪化し追い詰められた日本では、年若い学生や、37歳だった父までも召集されたのだった。



父が眠る地に行きたい


 戦友が伝えてくれた手紙によると、父はマーシャルで埋葬された。

 「骨すら帰ってこなかった」。そう悔しがっていた母が亡くなったことをきっかけに、「父が埋葬された場所で慰霊をしよう」と決めた。

 働き詰めだった食品会社を53歳で辞め、自由のきくタクシー運転手に転職する。

 遺族会に入り、現地への慰霊ツアーに参加した。だが、本当に行きたい場所に行けない。

 協力者を求めて、つながったのが大川さんだった。


 2016年春、2人は佐藤さんの願いに胸を打たれた仲間とともに、マーシャルに向かった。飛行機を何度も乗り継ぎ、10日間にわたる滞在で、埋葬された地を探した。

 マーシャルは蒸し暑く、容赦なく太陽光が降り注ぐ。その地で佐藤さんは気力で体力をカバーしながら、がむしゃらに父を求めた。


 その時は来た。エメラルドグリーンの海を船で渡り、冨五郎さんがいた島にたどり着いた時、佐藤さんは子どものように顔をくしゃくしゃにして叫んだ。

 「お父さーん、来ましたよー! 勉ですー! 来ましたよー」

 大川さんも涙を流しながら必死にカメラを回した。

「タリナイ」Ⓒ2018春眠舎


 帰国した大川さんは、鉛筆の文字がかすれた冨五郎さんの日記の解読に本格的に取り組んだ。

 冨五郎さんたちが闘ったのは飢えだった。


飢え死にしていった兵士たち


 補給路を断たれた兵士たちには餓死者が相次いだ。冨五郎さんがいた島の、約3500人の兵士のうち2700人が死亡した。1944年10月の日記には、小隊長の通達として、そう記されていた。

 「(日記は)壮絶で、痛々しい言葉であふれているんだろう」。そんな大川さんの予想は裏切られた。


 日記には日常の記録が淡々とつづられていた。冨五郎さんたちは腐ったヤシや草を食べてしのぐものの、弱った仲間が次々と死んでいく。

 勇ましい言葉はほとんどない。時折記される心情や周りの人への感謝に、人柄がにじんでいた。


残された絶筆 「これが遺書」


 表題を「遺書」としたページがある。家族に向けて【元気デ、ホガラカニ、オイシイモノデモタベテクラシテ下サイ】と伝え、【今マデ 頑張ツタガ残念ダ】とつづっていた。

 【全ク働ケズ苦シム 日記書ケナイ 之ガ遺書 昭和二十年四月二十五日 最後カナ】

 この絶筆を残した数時間後、39歳で亡くなった。

冨五郎さんの絶筆=みずき書林提供


 冨五郎さんが家族を思う気持ちに触れるたび、大川さんは心が寄り添っていくのを感じた。

 マーシャルではつかめなかった「日本兵」の実像が、妻子を残して見知らぬ地に送られた「冨五郎さん」に変わっていく。

 「家族に会いたかったよね」。日記を読みながら、いつしか心の中で語りかけるようになった。「マーシャルの人だけではなく、冨五郎さんも戦争に巻き込まれていったんだ」



伝えたかったことがある


 大川さんが撮りためた映像は、2018年にドキュメンタリー映画として完成した。タイトルは「タリナイ」。マーシャル語で「戦争」の意味だ。

 描いたのは、冨五郎さんの家族への思いと、佐藤さんの父への思い。そして、どうしても伝えたかったことがある。



壁に残された戦争の記憶


 75年を経ても、マーシャルの人たちは大砲や武器の残骸とともに生きている。

 日本軍が滑走路を造るために、現地の家を取り壊され、多くの人が暮らしの場を奪われた。案内してくれた人が身ぶり手ぶりを交えて教えてくれた。

 軍事施設の工事には、連れてこられた朝鮮の人たちや島の住民が労働力として多く動員されたという。


 「戦争は終わったの?」。そう問いかける女性もいた。

 「今でも飛行機の音が怖い」と打ち明ける。

 その傷の深さを日本ではどれだけの人が知っているのだろうか。

大川さんやコーディネーターの男性に戦争の記憶を語る現地の女性=「タリナイ」Ⓒ2018春眠舎


 大川さんが意識して伝えたのは、現地の人たちのありのままの姿だ。初めて「コイシイワ」の歌を聞いた時に抱いた、複雑な思いを感じてもらえるように。

 女性たちは日本軍の電線を地中から掘り起こし、編み上げて花飾りにしていた。日本語の歌声は陽気でどこまでも優しい。「私はどう受け止めればいいのだろう」。その戸惑いを感じて、ともに考えてほしい。



現地での映画上映も


 昨年、念願だったマーシャルでの映画上映もかなえた。現地の人たちは「佐藤さん良かったね」「日本人、大変だったんだね」と温かい言葉をかけてくれた。

 佐藤さんも、おいとその長女を連れてマーシャルを訪れた。次世代に父の戦争を伝えていくことが、新たな目標になっている。


 この夏には大川さんと佐藤さんが待ち望んでいた出来事が訪れた。


父の思いつないだ恩人


 冨五郎さんの日記を日本に持ち帰り家族に送った戦友、原田豊秋さんの家族が見つかった。2人が会いたいと願っていた恩人の息子だ。長男の豊英さん(84)は「遺品を送ってあげたというのは聞いたことがある」と取材に答えた。

 原田さんが日記と共に送った手紙では「可愛い妻子を残してあるんだものちょっと死ねないね」など、戦地でいつも家族のことを話していたとあった。2人は豊英さんを訪ねてお礼を伝えるつもりだ。


 高校生で出会ったマーシャルを伝えようと、映画を作ろうとした大川さんの険しい道のりをたくさんの仲間が支えてくれた。励まし続けた友人は「隙(すき)があるから、みんな何かをやってあげたくなる。巻き込まれるし、巻き込んでくる台風の目みたいな人」と大川さんを言い表す。


たくさんの仲間たちとともに


 初の映画上映会を果たした日、大川さんは日記の解読などにかかわった約20人で浅草のそば屋「かどや」に向かった。

 【セメテ カドヤノ 天丼デモタベタイ】

 日記にあった冨五郎さんの心残りをみんなでかなえた。佐藤さんも隣で笑っていた。



戦争を知らない世代として


 大川さんは戦争を知らない世代の一人として、戦争に向き合ってきた。マーシャルの人たちや冨五郎さんはどれだけ胸を引き裂かれる思いでいたのだろう。

 戦争が戦勝国と敗戦国といった単純な構図で描かれ、伝えられていくことには違和感がある。

 「複雑で、揺れ動いて、簡単に分類できない。それが多分、一人一人の戦争なんです」


 今の日本を見ていると不安がこみ上げてくる。

 戦争をやってもいい。そう考える人が増えているように感じてしまう。

 「本当に怖い。それは知らないからだと思う」

 人に残る痛みに触れて、知れば知るほど戦争を肯定することなんてできない。



私は知らなかった


 マーシャルは75年という歳月の中で私たちが忘れ去ってしまった記憶を、言葉や歌や花にして語り継いでいた。

 日本からマーシャルは見えない。でもマーシャルからは日本のことがよく見える。あの爪痕を忘れていいのだろうか。

 私は知らなかった。だから知りたかった。

 その思いはこれからも変わらない。


※この記事は毎日新聞によるLINE NEWS向け特別企画です。毎日新聞社会部の竹内麻子が取材・執筆しました。


新型コロナウイルス感染の被害が伝えられる在米マーシャル人への寄付金を募るため、映画「タリナイ」のオンライン配信を随時行っています。

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