cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_2ow27hwts1ap_「私たちが福島を取材する意味って何だろう」 悩みながら伝えた高校生記者たちの10年 #あれから私は 2ow27hwts1ap 2ow27hwts1ap 「私たちが福島を取材する意味って何だろう」 悩みながら伝えた高校生記者たちの10年 #あれから私は oa-kyoto 0

「私たちが福島を取材する意味って何だろう」 悩みながら伝えた高校生記者たちの10年 #あれから私は

2021年3月4日 11:00 京都新聞

2011年の春、高校生だった私は、その新聞を読んで強い衝撃を覚えた。

「相馬高新聞」。
東日本大震災で津波に襲われた福島県相馬市の高校生たちが、被災後1カ月余りで出した学校新聞だ。

紙面は、関西の高校の新聞部員だった私たちの心をも揺さぶり、仲間を現地取材に駆り立てた。それを機にできた学校新聞の連載「福島をつなぐ」は、今も代々の部員によって大切に引き継がれている。

高校生記者たちは被災地で何を考え、胸に刻んだのか。
10年の歩みをたどった。

(京都新聞社・天草愛理)

自分たちも何かしないと


「あの日から38日 きょうから学校再開」「ふるさとが壊されていく」

大きな見出しに続き、がれきになった家や高台に打ち上がった漁船の写真、学校行事の見通しに触れた記事が目に飛び込んできた。

京都新聞社の記者である私は当時、滋賀県彦根市にある彦根東高校の新聞部員だった。顧問に手渡された「相馬高新聞」を一読して息を飲んだ。

編集したのは相馬高校出版局の生徒たち。紙面が私たちの高校に届けられたのは、両校の顧問の間に交流があったからだった。

「自分と同じ高校生が被災しながらも自分の町のことを伝えていて衝撃を受けた」

私の同期生で部長だった小島眞司君(27)は、当時をそう振り返り、こう続けた。

「『自分たちも何かしなあかん』という気持ちに駆り立てられた」

小島君はさっそく、相馬高校出版局の生徒たちにメールで話を聞くと、2011年5月発行の「彦根東高校新聞」のコラム欄にこうつづった。

「『福島を伝えたい』―福島には伝えようとしている高校生がいる。その想いを伝える、東高新聞にできることがあった」

「彦根東高校新聞」の連載「福島をつなぐ」はこうして始まった。

すぐ「イメージ」って言うよね


その年の夏、福島県を会場に全国高校総合文化祭が開かれた。参加した彦根東高校の新聞部員たちは、スケジュールの合間を縫って地元の高校生や観光関係者、福島県に派遣された滋賀県職員らにインタビューし、その肉声を紙面で届けた。

その後も滋賀県内であった慰霊祭や避難者交流会のほか、福島県いわき市などの被災地にも積極的に足を運び、記事を次々と送り出してきた。

部活にあまり熱心でなかった私は、そんな仲間を遠目に見ているだけだった。新聞記者になった今、被災地取材に関わらなかったことは私の中で心の「とげ」になっている。

過去が取り戻せるわけではない。でも、仲間たちがどんな思いで被災地を取材してきたのか、たどることはできる。そう思い立った私は、まず小島君に連絡を取った。

久しぶりに会った小島君が私に語ったのは、意外なことに苦い体験だった。

連載の発案者だけに被災地取材にとりわけ熱心だった小島君は、卒業間近の2013年2月に1人で福島県を訪れ、東京電力福島第1原発事故で全村避難となった飯舘村から福島市に移住した女性に話を聞いた。

女性は、日常的に線量計を持ち歩いていることなどを涙目になりながら小島君に語った。聞き終えた後、小島君が「線量計を持っているイメージで写真を撮らせてください」と頼んだときだったという。

「メディアってすぐそうやって『イメージ』って言うよね」

そばで聞いていた地元の女性が憤りをあらわにした。

小島君は、相手の立場に寄り添えていない自分にショックを受けた。被災して生活が一変した人と被災していない自分。その間に引かれた「線」の存在に気付き、取材活動が自己満足で意味のないもののように思えた。

原発が地域経済に密接に関わっていること。被災者同士であっても受けた被害の違いによって感情的なしこりがあること。被災地で見た社会の矛盾や地域の分断は、小島君が想像していた以上に生々しかった。

大学へ進学すると、小島君と被災地の関わりは途絶えた。だが、胸の中から被災地に対する複雑な思いが消えることはなかったという。

「ずっともどかしかった。いったん、足を踏み入れた自分が距離を取ることに対する罪悪感というか」

あれほど意欲的だった小島君ですら被災地に対してわだかまりを抱いていることに、私は切ない気持ちになり、申し訳なさが募った。

小島君は今、共同通信社で校閲記者として働く。東日本大震災関連の記事が目に入ると、つい読みふける。葛藤や苦悩の記憶とともに「福島」が心に残り続けている。

悲しみなき回顧に感じた「深い傷」


後輩で青山学院大4年の吉田伊織君(24)にも会って話を聞いた。「福島をつなぐ」の取材班でチーフを務めた人だ。

吉田君が初めて東北を訪れたのは高校入学前の2012年3月。北海道へ家族旅行に出掛けた際、仙台空港を経由したという。

「この惨状を見ておきなさい」。祖母に促され、タクシーで1時間ほど周辺を巡った。

津波被害を受けた仙台空港周辺は家の基礎部分しか残っておらず、吉田君は津波の威力を目の当たりにした。

その日の天気は曇り。目に映るもの全てが灰色だったことを吉田君ははっきりと記憶している。

彦根東高校に進学し、新聞部に入ると、吉田君は「福島をつなぐ」に携わった。福島県の子どもたちを滋賀県に招いた保養キャンプの取材では、参加者へのインタビューで思わず涙したと吉田君は思い返す。

「友達や親戚が亡くなった」「避難して友達と遊べなくなった」。悲しむ様子でもなく、あっけらかんと答える子どもたちの姿にかえって東日本大震災の傷跡の深さを実感した。

取材を通じて知ったことをみんなに届けたくて、記事をどんどん書いた。連載をきっかけに被災地へボランティアに行った卒業生もいて、紙面で伝えることに意義ややりがいを感じていた。

一方で、吉田君も悩みを抱えていた。

風化の流れに乗っている自分


東日本大震災で大切な存在を亡くした人、放射能汚染によってふるさとに帰ることができない人、東京電力福島第1原発事故の風評被害で野菜が売れず苦しむ人。福島県には計り知れない困難と向き合う人たちがたくさんいた。

「取材前にニュースで現状を調べていたけど、本当の困難は想像できない。どこまで踏み込んでいいのかと思ったし、被災した人にどう寄り添えばいいのかと迷った」

吉田君もまた、高校卒業後は被災地と距離を置いた。

「高校生のとき、何度も『風化させてはいけない』と書いた。でも、僕も風化の流れに乗っている。『矛盾しているな』『無責任だな』と感じます」

大学生活も終盤にさしかかり、就職活動を始めたころ。漠然と広告代理店を第一志望にしていた吉田君は、その理由を突き詰めて考えてみたという。たどり着いたルーツは「福島をつなぐ」だった。

「やはり何かを伝える仕事に就きたかった」

この春に入社予定の広告代理店は、東日本大震災が起きた直後、クライアントとともに、洗濯できずに困っている被災者の衣類を預かり、洗って返却するプロジェクトを立ち上げた。厳しい状況に置かれた人に寄り添う企業であることが志望の決め手になった。

「新聞はありのままを伝えるのが役割なので、風評被害で困っている人がいても『困っている』としか発信できません。でも、僕は風評被害で売れない野菜がどうしたら売れるかを提案できる人になりたい」

昨年11月下旬、私は福島県の沿岸部を訪れた。彦根東高校新聞部の現役部員たちを取材するためだ。

部員たちは、富岡町で震災後数年間、使用できなくなった漁港や学校を見学し、広野町で地域コミュニティーの再生に取り組む地元の高校生に話を聞いた。

また福島に関わりたくなったら…


彼らは「福島をつなぐ」の原点になった関係者も訪ねた。東日本大震災発生当時、相馬高校出版局の顧問だった武内義明さん(63)だ。

「これからは震災を体験していない世代にも伝えていくのが大事だと思うんですけど、そのために重要なことって何やと思いますか」

取材中盤、編集長の村木春桜さん(16)が尋ねた。武内さんは部員1人1人を真っすぐ見つめ、穏やかな声で答えた。

「一番分かりやすいのは彦根東高校が10年間、取材してきたこと。『一つ上、二つ上の人から聞きました』っていう本当にまめなつなぎ方だと思うし、私たちの参考になります。世代を乗り越えていくってそういうことなんだなって」

武内さんの言葉を聞いた村木さんの表情は晴れやかだった。

「これまで福島に行ったことがなくて福島をつないでいる実感がなかったんです。でも、武内先生の話を聞いて『ちゃんと福島をつないでたんや』って安心しました」

私も武内さんに聞きたいことがあった。被災地の現実に打ちのめされ、今もうっ屈を抱えているOBたちのことだった。

「『福島とずっとつながり続けられなかった』ということに後ろめたさを感じている元生徒もいたんですが、どう思いますか」

武内さんは相づちを打ちながら耳を傾け、私が話し終えると即座にこう言った。

「関わりたいときに関わってほしい。新型コロナの差別の問題のように『これって福島と同じじゃん』ってときが絶対に来る。そのたびに福島とつながりを持とうとしてくれたり考えたりしてくれたらありがたいですよ」

その言葉を聞いたとき、私の心に澱のようにたまっている被災地への申し訳ない思いが、少し軽くなった気がした。

小島君に再会したとき、武内さんの言葉を伝えると、彼はこうつぶやいた。

「ありがたい言葉やね」

静かでしみじみとした口調だった。

昨年12月中旬。彦根東高校新聞部の部室を訪れると、部員たちが12月号の校正作業に励んでいた。午後7時を過ぎ、窓の外が暗くなっても、記事の内容から見出し、紙面のデザインに至るまで真剣に議論していた。

10年じゃ拾いきれないな


部内では数年前から「そろそろ『福島をつなぐ』をやめてもいいんじゃないか」という声が上がっている。東日本大震災が起きたとき、今の高校生の多くは5~8歳。部長で「福島をつなぐ」取材班チーフの前川萌愛さん(17)自身も震災の記憶はほとんどなく、チーフに決まったときは連載を続けるべきかどうか悩みに悩んだという。

「とりあえず行ってみないと分からない」

福島県を訪れれば「復興とは何か」などこれまで考えても分からなかったことの答えが見つかるものだと前川さんは思っていた。

しかし、取材を通じて得たものは「答え」でなく考え続けるための「ヒント」だった。

「拾うべき声って10年じゃ、それも限られた紙面スペースじゃ拾いきれないなと。伝えられていないところもまだある。これからも寄り添い続けたいです」

取材者としてだけではない。東日本大震災のような大規模災害が起きたときは、学生ボランティアとして被災地の支援に携わろう。前川さんはそう心に決めている。

「福島をつなぐ」の志を引き継いでいるのは彦根東高校だけではない。滋賀県内には、連載を読んで共感した教諭の発案で被災地を訪問した高校もある。

被災地から遠く離れた場所で高校生たちが紡いできた「福島をつなぐ」は、10年という歳月をかけ、部員や読者の心と「福島」をつないだ。そして、そのつながりは今、連載を知らない人の心にも広がろうとしている。


東日本大震災の発災10年に合わせ、LINE NEWS提携媒体各社による特別企画を掲載しています。今回は京都新聞社による書下ろし記事です。

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_r5omsbtew8gc_コロナ禍の2020 私は強くなった 東京五輪女子マラソン代表・一山麻緒 r5omsbtew8gc r5omsbtew8gc コロナ禍の2020 私は強くなった 東京五輪女子マラソン代表・一山麻緒 oa-kyoto 0

コロナ禍の2020 私は強くなった 東京五輪女子マラソン代表・一山麻緒

2020年12月30日 11:00 京都新聞

東京五輪は1年延期。新型コロナウイルスは、スポーツ界に大きな影を落とした。女子マラソン代表の一山麻緒は、2020年のコロナ禍をどのように感じ、毎日を過ごしてきたのだろう。

身近に感じた「コロナの脅威」

12月上旬、一山は鹿児島県の徳之島でマラソン合宿に取り組んでいた。

鹿児島市の南南西約468キロにある徳之島は、マラソンランナーが集まる「聖地」だ。12月でも平均気温が17度と温暖で、シドニー五輪金メダルの高橋尚子、アテネ五輪金メダルの野口みずきらも合宿を行った。高橋が走ったコースは「高橋尚子ロード」として整備されている。

同じ時期、人口約2万3000人の徳之島でクラスター(感染者集団)が発生した。地元のテレビや新聞では連日、感染者数を大きく報じた。島内の緊張感が高まり、合宿を中止にするチームもあった。

一山が所属するワコールの合宿拠点は市街地から離れた場所にあり、選手とスタッフが関係者以外と接触する機会はほとんどない。感染リスクは低いが、一山は「やっぱり気になりますよね。やれることをするしかない」と表情を曇らせた。


観客がいなかったゴール

東京五輪代表を手にしたレースは、ウイルスの脅威が知れ渡り始めた3月8日の名古屋ウィメンズマラソン。完走者にはティファニーのペンダントが贈呈されるなど、女性に人気が高いレースだ。毎年、約2万人の女性が出場し、華やかな雰囲気に包まれる。

だが、2020年の大会は感染予防のため、一般ランナーは参加できなかった。

フィニッシュ地点のナゴヤドームにも、日本歴代4位の好記録で優勝した一山の快挙をたたえる観客はいなかった。「ナゴヤドームに入ると、しーんとしていたので、すごく衝撃的でした。だめな記録なんだと思ってしまった」と苦笑いする。

その後も感染者は増え続け、東京五輪の開催の行方が注目された。一山もニュースを追うようになり、日に日に延期を覚悟する気持ちが高まっていく。

3月24日、延期が決まった。ショックは小さかった。「ああ、延期になっちゃったんだなと思ったくらい。心構えができていたのもあるかな」

まだ、23歳。1年でさらに成長できる伸びしろが大きく、すぐに気持ちを切り替えた。


爪がはがれても「酸素吸えるから」

日本一の鶴の渡来地として知られる鹿児島県出水市で生まれ育った。

最初に始めたのは陸上ではなく水泳。3歳から水泳教室に通い、小学1年で選手コースへ。毎日2時間トレーニングを積み、ゴーグルの中に涙がたまるほどつらい時期もあった。だが、弱音は吐かなかった。

駆けっこで友人に勝てず、小学5年からはスポーツ少年団で陸上も始めた。隣町の男の子と合同チームで挑んだ駅伝大会で優勝の喜びを味わう。走ることの楽しさが一気に膨らんだ。

「足の裏にたくさん水ぶくれができても、爪がはがれても、走ってましたね」

母の優子は娘の「本気度」を感じていた。

ピアノ、水泳、陸上、学習塾…。高学年になると、母が送迎する車内で夕食を済ませる多忙な毎日が続いた。

「酸素が吸えるから走る方がいい」
中学で陸上に絞った。ただ、思うように結果は出ない。競技を続けるか悩んだ。キャビンアテンダントを夢見た中学2年。運命の出会いを果たす。

全身に鳥肌。「天性の才能」

「一緒に朝練しない?」

声を掛けたのは出水中央高の女子駅伝部監督・黒田安名。当時、決して速い選手ではなかったが「走ることが大好き、という様子が伝わってきた。光るものを感じた」

同高に進学した一山は予想通り、大器の片鱗をのぞかせた。

高校2年。600メートルある出水市陸上競技場の外周での練習だった。一山が走るのをやめず、「先生、『あと5周』、『もうあと5周』って」。最終的に1周2分のペースで20周を走り切った。

「あれをこなすのは至難の業。この子は強くなると確信した。何より心がタフだった」と黒田は懐かしむ。

それでも、高校時代に脚光を浴びることはなかった。

当時、一学年上の野添佑莉(三井住友海上)や、インターハイ1500、3000メートルを制した同級生の倉岡奈々(鹿児島銀行)ら強力なランナーが身近にいた。

「麻緒ちゃん、今じゃない。まだ大丈夫」

そう伝え、優勝には手が届かない心と体を支え続けたのはトレーナーの石原法明だ。

中学時代の一山を治療した際、筋肉の質や関節の可動域など天性の素質に触れ、全身に鳥肌が立った。「あなた、これからだから。絶対、焦ったらあかんよ」と思わず言葉が漏れた。

それ以降、「ノリさん」と慕われ、ほぼ毎晩、一山から練習メニューや体の状態などがLINEで届いた。誰にも見せない弱さもさらけ出せる存在となった。

「伝説」が始まった瞬間

無名だった一山が家族や恩師らに鮮烈な印象を与えたレースが二つある。

一つは2016年の第34回全国都道府県対抗女子駅伝。鹿児島チームの4区で区間4位ながら都大路で広島チームのエースらと競り合った。もう一つは、2週間後の鹿児島県地区対抗女子駅伝。1区区間新で恩師の功労表彰に花を添えた。この記録は現在も破られていない。



静寂の街。走って見つけたこと

所属するのは、京都市を拠点に活動するワコール女子陸上部。1987年に創部され、4大会連続で五輪に出場した福士加代子らを輩出している名門チームだ。

選手たちは国内外で合宿をすることが多いが、4月に緊急事態宣言が発令された後は、あらゆるスポーツ大会が中止、延期となった。一山も京都市内で練習する日々が続いた。

早朝、午前、午後の1日3回、寮近くの河川敷を走り込む。例年であれば、早春の京都は、観光客が押し寄せる頃だ。朝の早い時間に市街地を走ると、これまでと違う静かな雰囲気に驚かされた。

「大切にしている息抜きの時間が、全然ないことがきつかった」。おしゃれをして、ショッピングを楽しむ。美容院やネイルサロンに行く。いつも大切にしていることが、今はできない。そんな状況でも走り続けた。

一山を指導するワコール女子陸上部監督の永山忠幸は、コロナ禍での取り組みが成長につながっていると見る。

「長距離選手にとってコロナ禍は、レースの我慢比べと一緒のようなものだと思う。我慢が生活の中で自然と身につき、レースの中で生かされている」

家族も長いトンネルを抜け出せる日を待ちわびている。

「ずっと重圧と戦うわけじゃないですか。それに負けない娘だけど実際は、早く(五輪は)終わってほしかった。プラス思考でいくしかない」

故郷から静かに愛娘を見守る父の剛は親心をのぞかせた。

「女性らしさを一番大事にしたい」

一山にとって競技人生を懸けて挑んだ2020年が終わり、新しい2021年が始まる。

「東京五輪代表に決まって、人生が変わったと思う。代表にならなかったら、私はここにいなかったかもしれないし」と五輪への決意をにじませた。

延期された東京五輪だけでなく、新型コロナウイルスはスポーツ界に大きな影を落とした。春夏の甲子園大会やインターハイなど数多くの大会が中止となり、プロ野球やJリーグは観客の人数制限をして実施された。

スポーツから歓声が消えたような、そんな1年だった。

だが、一山に気負いはない。インタビューも自然体で、自分の言葉を探しながら語っていく。

自然体でいられる理由は、陸上競技に対するスタンスとも関係があるのだろう。

「がっつり陸上に染まりたくないというのはありますね。まずは女性らしさを一番大事にして、一人の女性としていたい。そして走る時はそこそこ走れる、みたいな感じがいい」

アスリートとしての能力の高さに疑いはない。マラソンの自己ベストは日本女子で歴代4位となる2時間20分29秒。42・195キロを速く走るための練習は過酷を極める。だが、彼女が陸上競技に取り組む姿勢は常に前向き、そこに悲壮感は感じられない。

「走っているとスタイルもキープできるので、おしゃれもいっぱいできる。それが陸上競技をする一番いいことだと思う」とほほ笑む。

一山は新たなシーズンへ向けて走り出している。2021年は、1月31日の大阪国際女子マラソンに出場し、東京五輪へのステップにするつもりだ。

「東京五輪はただ走るだけじゃなくて、わくわくするような元気になる走りを見せられたらいいなと思う。スタートラインに堂々と立てるように、しっかり準備したい」

一山麻緒の2021年の挑戦が始まろうとしている。(敬称略)

(取材・文=京都新聞社運動部 河北健太郎、山本旭洋 撮影=京都新聞社写真部)

※12月24日からLINE NEWS提携媒体各社による特別企画「#コロナの1年を振り返る」を順次掲載しています。今回は京都新聞社による書き下ろし記事です。

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_wmezir907bh4_コロナ禍だからこそ「遊び心が試される」 絵本ユニット・ツペラツペラが読者と結ぶ新たなつながり wmezir907bh4 wmezir907bh4 コロナ禍だからこそ「遊び心が試される」 絵本ユニット・ツペラツペラが読者と結ぶ新たなつながり oa-kyoto 0

コロナ禍だからこそ「遊び心が試される」 絵本ユニット・ツペラツペラが読者と結ぶ新たなつながり

2020年7月20日 11:00 京都新聞

京都市のまちなかを南北に流れる鴨川沿いの一軒家。入り口の壁に、にこっと微笑む太陽を見つけた。その下には、「tuperatupera(ツペラツペラ)」の文字。声に出して読んでみると、まるで呪文を唱えているかのような気分になる。

建物の中では、大きな窓の向こうに流れる鴨川を眺め、季節の移ろいを感じながら、男女二人が創作に取り組んでいた。サクッ、サクッ。紙を切る音が、アトリエに心地よく響く。

二人は色とりどりの紙から自在に形を切り出し、画用紙に貼っていく。
クジラ、タコ、釣り人…。顔に目を入れ、タコの足を1本1本貼り付けると、作品に豊かな表情と動きが生まれていった。二人が時折なにげない会話を交わすうちに、海をテーマにした作品ができあがった。

そう、ツペラツペラとは、彼らのこと。「しろくまのパンツ」「パンダ銭湯」「いろいろバス」。ユニークな題名の絵本を次々と世に送り出し、子どもだけでなく、大人の間でも人気を集める亀山達矢(43)と中川敦子(42)夫妻のユニット名だ。

はさみとのり。どこの家にでもある道具から生み出されるから、場所を選ばず創作活動ができている。

「本にパンツ」から名作

その作風を一言でたとえると、まさにドキドキとわくわくの連続。読み手は表情豊かなキャラクターたちに魅了され、思いもよらないストーリー展開に驚がくし、大笑いする。

例えば、パンダ専用の銭湯を舞台にした「パンダ銭湯」。知られざるパンダの秘密が次々に暴露され、「えー!そうだったの?」とページをめくる手が止まらなくなる。

テレビに映ったパンダをたまたま見た亀山が思いついたことから生まれた奇想天外な物語は、何度読み返しても飽きさせない。
背景は鉛筆とペンで描き、パンダは貼り絵で作り上げた。パンダの黒い部分は、それぞれ質感の異なる紙を使っている。
絵本を見ただけでは分からないかもしれないが、ツペラツペラ作品の根っこには、そうした丁寧な手作業ときめ細やかなこだわりがある。

「しろくまのパンツ」は、主人公のしろくまがなくしたパンツをねずみと一緒に探すストーリー。最後のおちを読むと、思わず微笑んでしまう。
「本にパンツをはかせたい」。そんな奇抜なアイデアから出発し、後からストーリーを考えたというこの作品は、日本絵本賞読者賞を受賞し、さまざまな言語に翻訳された。

二人の間で特に役割分担はないものの、作品世界にはそれぞれの個性が確かに息づいている。中川は「どちらかというと、亀山がアイデアやキャラクターを考えるのが得意。私は色の配色やレイアウト、空間演出を考えるのが好き」と語る。

「アナログにこだわってきた」

二人の仕事は絵本にとどまらない。NHK・Eテレの工作番組「ノージーのひらめき工房」でアートディレクションを担当しているほか、雑貨制作に舞台演出と活動の舞台はとにかく幅広い。

活躍の場が広がっても、手仕事というスタイルは変わらない。「アナログにこだわってやってきた結果、舞台やテレビへと仕事の幅が広がった」。亀山はそう実感している。

三重出身の亀山と京都出身の中川。二人が出会ったのは東京の美大予備校だった。それぞれ別の美大に進んだ後も付き合いを続け、卒業した2002年から東京でユニットによる活動を始めた。

京都に拠点を移したのは4年前。もともと「いつかは東京以外で暮らすのもいいな」とぼんやり考えてはいた。それが早まったきっかけは11年の東日本大震災だった。震災後に知人の何人かが東京を離れた。

「私たちの仕事は東京以外でもできるんだ。改めてそう気づかされた。短い人生、別の土地に住むのも楽しいかもと」。中川はそう振り返る。なじみのある関西方面で移住先を探した結果、鴨川沿いの景色を気に入り、新しい住まいに決めた。

共同制作をする以上、どちらも家事をするようになったのは自然の流れだった。「学生時代から一人暮らしだったので、料理を作るのは好きだった」。亀山は屈託のない表情でそう語る。日中は仕事に集中し、夕方には終わるスタイルを貫く。

待ちに待った展覧会

新型コロナウイルスの感染が拡大した3月から5月にかけては、中学1年の長女と小学2年の長男の学校が休校になり、家で一緒にいる時間が増えた。亀山と長女はウクレレの演奏がすっかり上達した。長男は将棋のルールを覚え、親子対局を楽しめるようになった。

6月10日。2人は東京・立川に新しくできた美術館「PLAY!MUSEUM」にいた。2人の作品を紹介する展覧会「tuperatuperaのかおてん.」の待ちに待った初日だった。
「本当にありがたい」。亀山はストレートな言葉で気持ちを表現した。新型コロナの影響で予定より2カ月遅れの開幕だった。

展覧会のテーマは「顔をあそびつくす」。会場には、さまざまな顔をデザインした2メートル大のパネルがずらりと並ぶ。素材は野菜やお菓子、楽器といった身近な物ばかりだ。
作品の一つ「洗井服子(あらい・ふくこ)」は、福井県出身の38歳で2人の子どものお母さんという設定。白目はブラジャー、口は赤いパンティーと洗濯物ばかりでできている。

素材に使った下着は、中川が京都の商店街にある衣料品店で仕入れたもの。店のおじさんがしきりに声をかけてきて買いにくい雰囲気の中、「『全然気にしない』という風に開き直って購入した」。

「道端遊造(みちばた・ゆうぞう)」は、マンホールの顔に黄色い野球バットの鼻、スニーカーの耳でできた「おもろいおっちゃん」。口癖は「マン for ホール ホール for マン」(人は穴のために、穴は人のために)だ。
どの顔にも、名前や年齢、プロフィール、出身地などが細かく設定されている。人間味あふれる愉快なキャラクターの説明を読んでいると、思わず吹き出してしまう。

展示の方法にも趣向を凝らした。来場者が作品の裏側に回り、作品の顔と自分の体を一体化できるようにした。いわば「顔出しパネル」の逆バージョン。作品と来場者が組み合わさることで「人」が完成する仕掛けだ。
「会場で顔遊びに参加し、家に帰ってからも遊びのきっかけにしてもらえるような内容にしたかった」。二人は狙いをそう語る。
感染予防のため、入場制限をしたり、一部の展示物に触れられないようにしたりなど、いろいろと制約を設けざるを得なかったことに複雑な思いもある。

けれども、「パワーは伝わったと思う」。中川は会場を見渡し、力強く言い切った。

コロナ禍で変わる読者との交流

二人が何よりも大切にしてきたのが、読者との交流だった。「人とつながっていくのは楽しい」。取材で出会うたび、何度も耳にした言葉だ。
京都のアトリエには、ツペラツペラの絵本のキャラクターをもとに読者が手作りした人形などが並ぶ。

読者からの手紙は大切に保管し、返事を丁寧に書き送る。地方の特産品が届けば、お礼に新作を贈るというやりとりも重ねてきた。

亀山は月のうち3、4日は他府県に出かけ、絵本を読み聞かせるイベントやワークショップを開いてきた。
しかし、コロナ禍はそうした読者と直接対話する機会をも奪い、一時、イベントはすべて中止となった。
「僕は声を張り上げて、驚かせて、笑わせて、という形で絵本を読んでいた。そのやり方はいまは難しい。違う方法を考えないといけない」。亀山は難しい表情を見せた。
だが、その声は決して沈んではいない。
コロナ禍ではファンや友人から「アマビエを作らないんですか?」という声がSNSを通じて届いた。亀山はさっそく、手近にあった額縁の廃材でアマビエを制作し、インスタグラムで発表してリクエストに応えて見せた。

「みんな、僕が絵を描くんだろうと思うじゃないですか。たいした話題にはならなかったけど」。亀山はそう笑いつつ、新たな可能性を感じてもいる。
「読者と会えないからこそ分かったこともある。外出自粛は、何もできないのではなく、遊び心が試されている。その状況でできることを考えたらいい」

【取材・文=寺内繭(京都新聞社読者交流センター)、写真=三木千絵(京都新聞社写真部)、動画=梶田茂樹(京都新聞社特報ラボ)】
※この記事は、京都新聞社によるLINE NEWS向け特別企画です。

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_b38995b816f3_「Greatになるため」東京パラへ スイマー 一ノ瀬メイの挑戦 b38995b816f3 b38995b816f3 「Greatになるため」東京パラへ スイマー 一ノ瀬メイの挑戦 oa-kyoto 0

「Greatになるため」東京パラへ スイマー 一ノ瀬メイの挑戦

2019年5月10日 11:00 京都新聞

You don’t have to be great to start.You just have to start to be great.

3月23日、東大阪市にある近畿大学の卒業式。一ノ瀬メイは緊張で少しだけ声を震わせながら、約6000人の卒業生を前に呼び掛けた。

「始めるときにgreat(偉大)である必要はない、greatになるために始める必要がある-という私の大好きな言葉です」

2020年東京パラリンピックを目指すスイマーの一ノ瀬は生まれつき右腕が短い障害がある。水泳だけでなく、テレビCMやファッション雑誌でも、その姿を見るパラ・アスリートだ。

知人の家族から借りた振り袖姿。まっすぐ前を見ながら、大学時代の思い出を語り続けていく。

最初はなじめなかった水上競技部の体育会の雰囲気のこと。

想像以上に厳しかったリオデジャネイロ・パラリンピック代表への道のり。

その険しい道を仲間の声援で乗り越え、初めてパラ代表切符をつかんだ喜び。

You don’t have to be great to start. You just have to start to be great.

4年前の入学式。新入生代表としてあいさつしたときも、この言葉を口にした。だが大学の4年間で、言葉の意味が変わったという。

「入学式であの言葉を言ったときの私は、greatになるためには、一人で努力するものだと思っていました」

「でも大学4年間、近畿大学水上競技部の仲間と過ごしてわかったことは、チームで取り組めば、一人では絶対にできなかったことが可能になる。そして、一人で頑張っているつもりでも、たくさんの人のサポートがあって、自分が頑張れているということです」

一呼吸置いて、力強い言葉を口にした。

「今、新たに私の目標を宣言します。私の目標は東京パラリンピックで表彰台に上がることです」


水泳が仕事になった


22歳で迎えた今年4月。近畿大学の職員に採用され、水泳に打ち込める環境がさらに整った。

「学生のときは同い年のみんなと同じ学生生活を送りながら、プラスで水泳をしているという感覚があった。でも今は水泳が仕事になって、責任感が違うなと感じています」

4月中旬、午前6時半から学生とともに2時間ほど練習した後のプールサイドで、社会人になった心境を語った。学生時代とはまた違う、引き締まった表情を見せた。

4月下旬から再びオーストラリアを拠点に練習に取り組んでいる。

オーストラリア東部のゴールドコーストから、車で2時間ほどのサンシャインコーストに、パラや五輪を目指す男女の選手20人が所属するクラブチーム「USCスパルタンズ」がある。一ノ瀬は昨年の冬から訪れ、練習に参加してきた。


最大のメリットは、東京パラを目指すトップ選手と競い合いながら練習できることだ。

日本の競泳は五輪で多くのメダルに輝いている花形競技の一つだが、その指導方法がパラ選手には、必ずしも当てはまるとは限らない。

全盲、片腕欠損、まひ、知的障害…。パラのトップスイマーたちは、自分たちの体に合わせた泳ぎ方を模索しながら、タイムを伸ばしている。

日本ではパラ選手の数が少なく、多くの選手で競り合いながら練習する機会はほとんどない。

生まれつき右腕の肘から先が欠損している一ノ瀬は、9歳から本格的に水泳を始めた。

「周りに片腕欠損の選手が日常的にいることがなかったので、コーチからアドバイスをもらってうまくいかなかったとき、自分の技術力が足りないのか、コーチの思っている方法と違う方がうまくいくのか、一人で判断することが多かった」

オーストラリアの「USCスパルタンズ」には、一ノ瀬とほぼ同じで腕が短い、リオパラ金メダリストのカナダ人女性選手も参加しており、貴重な存在になっている。

泳ぎで悩めばアドバイスをもらい、逆に相談に乗ったりもする。「一人で悩まなくてすむ。お互いに勉強になっている」という。

「みんな前例がないから、試行錯誤しながらやっている。その試行錯誤を共有できれば、試す時間を減らせて、成長のスピードを上げていける」と笑顔で話す。

オーストラリアは競技環境だけでなく、日常生活の環境も魅力的だという。

「気に入っています。とてもゆったりしているから」

食事は自炊で、和食を多く作るという。

「やっぱり米がいいですね。鍋で炊いていたんですよ。自炊だと体もいい感じで締まる」

「でも薄い肉が売ってないのが困る。肉じゃがとかカレー、牛丼とかで使うのはスライス肉やないですか」

休日に車で1時間かけてブリズベンの日本食品店を訪れてお目当ての食材を買い込むといい「ポイントカードも持っていますよ」と笑った。

生まれ育った京都は「癒やし」


京都市生まれ、京都市育ちの京女だ。

だからこそ、京都は「癒やし」と表現する。友達と会って、ご飯を食べる。母親と過ごす。ショッピングを楽しむ。

「最近気づいた。趣味は銭湯巡り。同じ値段やのに場所によってサウナ、水風呂とか内容が違うから、お気に入りの場所を見つけるのが好き」と少し興奮気味に魅力を語った。

英国人の父と日本人の母との間に生まれた。プールに通い出したのは1歳半の頃だ。

「お風呂嫌いだったので、水に親しむためにプールで遊ばせてみよう」という母のトシ美さんの考えだった。

子どものころから多才だった。

クラシックバレエや、タップダンス、シンクロナイズドスイミングなど、何でも積極的に挑戦した。勝負度胸のある性格で、本番に強かった。

小学4年の時。留学した母とともに1年間、英国に住み、英語に親しんだ。京都市立紫野高校3年の時には、全国高校英語スピーチコンテストで、障害をテーマにしたスピーチを行い、見事優勝している。

9歳から本格的に始めた競泳は、その中の一つだった。

中学校では陸上部に所属しながら競泳を続け、2年生の時のアジアパラ競技大会50メートル自由形で銀メダルを獲得した。

だが、進学した紫野高校の水泳部は強豪ではなく、のんびりと練習する毎日だった。それでも高校2年のアジアユースパラ大会では、3種目で金メダルに輝いた。

3年のヨーロッパ遠征でパラリンピックへの情熱が一気に高まり、進学先は強豪の近畿大学を選んだ。

大きな注目と大きな重圧


近畿大学は関西の大学で唯一、屋内の50メートルプールを備え、水上競技部はアテネ五輪バタフライ銀メダリストでOBの山本貴司監督が指導している。

OB、OGの顔ぶれも豪華だ。プールサイドの一角には、山本監督のほか、ロンドン五輪の銀の入江陵介、銅の寺川綾らメダリストの写真パネルが掲げられている。

だが、一ノ瀬が大きく変わった環境になじむまでには時間がかかった。

朝5時に起きて練習し、授業を受け、夕方からまた練習。親元を離れ初めての1人暮らしで、晩ご飯を作るのも一苦労だった。

これまで経験する機会がなかった上下関係を重視する体育会の雰囲気にも戸惑った。

東京パラ開催が決まり、リオパラへの期待が一気に高まると、一ノ瀬は大きな注目を浴び、大きな重圧がのしかかった。

体と心が悲鳴を上げ、1年の冬ごろには過呼吸になった。

「24時間、普通に息ができないんですよ。よう、やったなと思います。若さですかね。常にその状況で何ができるかを考えていた」と振り返る。

「いい距離感」で見守る母


苦しい日々の大きな支えとなったのが、母のトシ美さんの存在だ。

休日に京都の実家に帰ると、手料理でもてなしてくれた。練習を終えて自分の部屋に戻ると、おかずを詰めたタッパーが置いてあることもあった。

「水泳だけが人生じゃないよ」

「記録に残る選手よりも記憶に残る選手の方がいいって友達のお母さんが言ってたよ。私もそう思う」との言葉にも支えられた。

「自分が水泳しか見えていなくて、しんどいときに、言ってもらえるとすごい楽ですね。とてもいい距離感で見守ってくれて、救われるときがたくさんある」と感謝する。

娘の成長を見守ってきたトシ美さん。大学での成長をどう感じているかを聞いた。

「やりたいことをするために自分で交渉して、自分で切り開くようになったと思いますね。そして、応援してくれる人の期待に応えたい気持ちが出てきた。それが卒業式の言葉につながったのだと思います」と語った。

そして水泳が仕事になった娘に向け、「パラのメダルではなく、何かの役割を果たせる人になってほしいかな」と温かいエールを送る。

迫る東京「気持ちは必ず上がる」


大学最後のレースで、一ノ瀬は号泣した。

3月上旬、静岡県富士市で行われた世界選手権(9月・英国)の代表選考会。代表に入るためには、自己ベストを超える派遣標準記録を出さなければならないハードルの高さだった。

得意種目の400メートル個人メドレーと100メートルバタフライで、ともに記録を突破できなかった。昨秋から力を入れていたバタフライは0秒48届かなかった。

レース後に涙を流した理由を、こう振り返る。

「今までにないくらい毎日、選考会のことを考えていて、そのために練習してきてたから、あかんかったときの反動が大きかった」

「今まで以上に本気になっていたことに自分でも驚きました。こんなに気持ちがこもってたんや、本気やったんやなあって」

だからこそ、まだ気持ちは切り替えられていない。

「気持ちが正直、切れてしまった。でも根はアスリートなんで、絶対やる気は出てくる」

穏やかな笑みを浮かべて素直な気持ちを語った。

「今のテーマは心を追い込まずに体を追い込むこと。淡々と無心で自分の課題を一個一個クリアして行ければ、気持ちはそのうちに上がってくるので、いいかなって」

東京パラ開幕まであと500日を切った4月下旬、一ノ瀬メイは再びオーストラリアに飛んだ。

You don’t have to be great to start.You just have to start to be great.

もっとGreatになるための、スタートになると信じて。

【取材・文=河北健太郎(京都新聞社運動部)、撮影=三木千絵(京都新聞社写真部)】

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_c5ac01302ff0_自分らしさを追い求めたら着物にたどりついた 長崎の少女が図案家・川原マリアになるまで c5ac01302ff0 c5ac01302ff0 自分らしさを追い求めたら着物にたどりついた 長崎の少女が図案家・川原マリアになるまで oa-kyoto 0

自分らしさを追い求めたら着物にたどりついた 長崎の少女が図案家・川原マリアになるまで

2019年1月29日 11:00 京都新聞

格子柄の赤いアンティーク着物を装い、純白のベールをかぶった姿は、聖女のようだ。

大島紬にサングラスとブーツを合わせた着こなしは、クラシックな洋画のポスターを思わせる。

衰退著しい着物業界に、独特のファッションセンスで輝きを放つ女性がいる。
京都の図案家、川原マリア(32)だ。

「いいですね!」

昨年11月20日、京都市内の写真スタジオ。カメラを構えた男性が声を上げた。

レンズの向こうには、朱色の生地にボタンやバラをあしらった振り袖を身にまとい、艶っぽく体を横たえた川原がいる。

シャッターが切られるたび、表情やポーズをくるくると変えていく。

着物は女の子を「3割増し」に


9日後にも大阪市のスタジオで撮影があった。この日の装いは明るいピンクの着物。頭にはふさふさしたうさぎの耳がぴんと立っていた。

「私は身長が157センチと高くないし、丸顔でこけしみたいでしょ。でも、着物は女の子を3割増しにかわいくするんです」

着物の魅力を語り始めると、川原の口調は次第に熱っぽさを帯びる。

着物姿で撮影した写真はSNSで発信しており、インスタグラムのフォロワーは国内外で合わせて1万7千人に上る。

「写真なら説明しなくても魅力が伝えられる。着物のイメージを変えられるかもしれない」

着物にサスペンダーをあしらったり、帯を細い革ベルトで留めたり、帽子やヒールを合わせたり。

遊び心あふれるコーディネートは、奇抜ととられかねない、ぎりぎり手前で調和している。たぐいまれなセンスが若い女性を引きつける。

「どこまで表現として昇華できるかを探りたい。『そんな面白いことする?』という見せ方をしたい」

”常識外”の図案を着物に


本職の図案家は、着物の模様や配色を考える、いわばデザイナーにあたる。

勤め先は、多くの和装業者が集まる京都の呉服問屋「京商」。パソコンとにらめっこしながら、どんな図柄が女性の心をつかむかイメージを膨らませる。

伝統的な市松模様を赤や黒、黄色で大胆に彩ったこともある。ストライプやアーガイルといった西洋柄も巧みに取り入れてきた。

2年前には子会社の社長になり、念願のオリジナルブランド「MICO PARADE」を立ち上げた。

「若い私にできるのは間口を広げること。着物を着たことがない女の子が『買いたい』『こういうことがしたかった』って言ってくれると、すごくうれしい」

少女のような愛らしさを残す顔に笑みを浮かべた。


信仰と受難の歴史を背負って


12月2日、川原は長崎市にいた。

市が主催する着物イベントで、和装で撮影する際に美しくきまるポーズを参加者に教えるためだった。

「女性らしく見せるには腰から足のラインを出し、S字を意識して」

「着物の柄が見えるよう、腰は横を向きすぎないで」

独学で身に付けた着物姿が映えるこつを、熱のこもった言葉で惜しみなく参加者に伝えた。

講座は好評のうちに終了。川原は、たくさんの女性たちに囲まれ、笑顔で写真に収まった。

長崎県は川原が生まれ育った土地だ。

6人きょうだいの末っ子で、両親は信仰心のあついカトリック教徒。難産で生まれたことから「マリア様からの贈り物」という意味を込めて名付けられた。

母方の祖父は被爆者。最近分かったことだが、その先祖は長崎市浦上地域に住んだ潜伏キリシタンで、明治初期に棄教を拒んで流罪にされたという。

川原の少女時代は、そうした土地や家に深く刻まれた信仰と受難の歴史を背負い、自分らしさを探し求める日々だった。

小学生のころから「自立したい。どこかへ飛び出したい」と願っていた。卒業文集には「ビッグな大人になる」と書いた。

小学校を出ると、自分の意思でカトリックのシスターを目指す長崎市の「志願院」という寄宿舎に入り、母も通った系列の中高一貫校で学び始めた。

立て続けに襲う不幸


志願院の生活は厳しかった。

生活するのは4人部屋。テレビはほぼ禁止で、外出は月1回3時間まで。お祈りの時間も1日に何度もある。

それでもひたむきに勉学に励んだ。

そんな生活に慣れてきたころ、川原家を立て続けに不幸が襲った。

中学3年の時、2番目の兄が病気で25歳の若さで亡くなった。

高校2年の冬には、工業デザイナーだった父にがんが見つかった。すでに末期だった。

川原は伏し目がちに当時の思い出を語る。

「年末年始に家族が集まった時、パパにせがまれて着物を着たんです。そしたら『かわいい』って言ってくれて」

年が明けてすぐ、父は世を去った。

気力を失い、生きるとはどういうことなのかと自問を繰り返した。

高校卒業後の進路を決める時期が間近に迫っていた。

志願院にいながら大学に進むには、看護師か介護士、教師を目指さなければならない。

でも、どれにもなりたくなかった。

「自分らしく生きたい」

大学には進まないと決め、志願院を出た。

着物に出会うまでの「紆余曲折」


着物イベントがあった翌日。長崎は雨が降ったり、やんだりの一日だった。川原は14年ぶりに母校を訪問した。

志願院でお世話になったシスターや恩師らに会い、近況を報告した。

シスターたちは「何も変わっとらんね」と川原を抱きしめ、デザインした着物の写真を見て「すごかー」を連発した。

担任だった槌本六秀(51)は優しい目で教え子を見つめた。

「昔から自分の軸のある子だった。心配しとらんかったよ。でも、ここにたどり着くまでどれだけ苦労したんだろう」

槌本が想像した通り、高校を卒業した川原が着物の仕事に就くまでには紆余曲折があった。

長崎を出ると、名古屋市にいた一番上の兄の家に転がり込んだ。

ケーキ店のアルバイトやスポーツショップのスタッフ、大手電機メーカーの事務職。転職を繰り返し、生計を立てた。

そして5年が過ぎた。

ある日、自分が志願院を出る時に抱いた気持ちを忘れ、生活の糧を得るためだけに働いていることに気づいた。

天国の父が示した”天職”への道


本当にやりたい仕事は何か、自分を見つめ直した。

思い浮かんだのは父の職業だった。

「デザイナーになりたい」

とはいえ、デザインの仕事は幅広い。考えをめぐらせるうち、直感が働いた。着物業界がいい。

「海外でも通用する日本のアイデンティティーは着物だから」

生前の父に着物姿を見せて喜ばれた記憶も、頭の片隅にはあった。

思いつきに近い選択だったが、行動は素早かった。

着物の本場は京都。インターネットを検索し、図案を専門にする会社が弟子を募集しているのを見つけ、すぐに連絡した。

その半年後には、京都で働き始めていた。23歳だった。

「お金がないから」輝きだすセンス


弟子の間は給料が出ないのがこの業界のしきたりだ。貯金を切り崩しながら生活した。必死で技術を身に付け、1年後には社員に登用された。

修業にいそしむうち、着物が持つ奥深い魅力にあらためて気づかされた。

「ひらひら揺れる袖、腰より高い位置の帯。着物は日本人を美しく見せる。長い年月をかけてたどり着いた形なんだ」

もともとおしゃれ好き。自分で着物を買いたかったが、社員になっても懐具合は厳しいままだった。

アンティークの着物や帯は安く手に入るものの、襦袢や帯締め、草履などの小物まではとてもそろえられない。

そこで、襦袢はタートルネック、帯締めはベルト、草履はブーツでそれぞれ代用した。見栄えが良くなるよう、色やデザインの組み合わせには気を配った。

「お金がないから、アレンジした」

それが結果として、川原ならではの着物ファッションを生んだ。

さらに、着物姿の自撮り写真をフェイスブックに投稿し始めたことで運が開けた。

写真を見た広告関係者から声がかかり、2014年にJR東海の「そうだ京都、行こう。」キャンペーンの広告モデルに採用された。

16年には、クラウドファンディングで資金を募り、着物の新しい魅力をアピールするオリジナル写真集を出した。

その前年には着物づくりを直接手がける今の勤め先に移り、以前より消費者に近い立場で仕事ができるようになった。

「試練も神の思し召し」祖父の教え胸に


その後もすべてが順調だったわけではない。着物業界は男社会だ。提案が「前例がない」とはねつけられたこともある。

それでも今、実力派の若手図案家として、周囲に認められつつある。

母校を訪ねた折り、川原は敷地内にある礼拝堂にも立ち寄った。

思春期の悩みをマリア像に相談した場所は当時のままだった。祈り始めると、涙をこらえきれなくなった。

「志願院を飛び出した私を、見守ってくださってありがとう。帰ってこさせてもらってありがとう」

心の中でそう感謝の言葉をつぶやいた。

被爆した祖父が通った浦上教会も立ち寄った。「信者ですが、いいですか」と中に入ると、再び祈りをささげた。

「おじいちゃんの代から、ここまで来られたことにお礼をいいました」

教会を出ると、雨の中を平和公園まで歩いた。

沖縄から来たという中学生たちが、平和祈念像の前に立ち並んでいた。代表の生徒が、慰霊の言葉を読み上げていた。

「おじいちゃんは試練を与えられても、それが神の思し召しならと受け入れてきた。私も、そういう精神を忘れずに未来を考えられる大きな人になりたい」

伝統産業を、若者の「選択肢」に


川原の夢は若い図案家を自分の手で育てることだ。

図案家の多くは70~80代。若手が入っても、修業の厳しさや給料の低さが原因ですぐに辞めていく。

それはいくつもの分業で成り立つ和装産業全体に言えることだ。

伝統的な技のいくつかが、後継者がおらず、途絶えかねないといわれている。

「私の写真や着物を入口に、和の奥深さを知ってほしい。子どもたちや若い人たちに、伝統産業も将来の仕事の選択肢にしてもらいたい」

もがき、迷いながら着物と出会い、その素晴らしさを知り、自分らしさを表現できる仕事にできた。

そんな川原だから、伝えたい思いだ。

【取材・文=今口規子(京都新聞社報道部)、撮影=松村和彦(京都新聞社写真部)、今口規子】

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_69d47df9187c_交雑種サル、不妊手術か安楽死か 問われる人間の功罪 69d47df9187c 69d47df9187c 交雑種サル、不妊手術か安楽死か 問われる人間の功罪 oa-kyoto 0

交雑種サル、不妊手術か安楽死か 問われる人間の功罪

2019年1月4日 13:53 京都新聞

 和歌山市周辺に最近まで、変わったサルが生息していた。タイワンザルとニホンザルの交雑種。いずれも見た目は似ているが、しっぽの長さが異なる。「日本在来の霊長類は、人間とニホンザルだけ。世界的にも貴重な環境は維持しないといけない」。霊長類学者たちは強調する。今は、交雑種もタイワンザルも姿を消した。和歌山県が捕獲して安楽死処分したからだ。

 「環境保全も研究者の重要な役目。積極的に県に協力して、わなを仕掛けて駆除しました。サルにはかわいそうでしたけど、仕方ない」。県に協力した京都大理学研究科の中川尚史教授は説明する。

 ■原因つくった側が生死判断

 タイワンザルが広がったのは、人間が原因だ。タイワンザルを飼育していた和歌山市付近の動物園が1950年代に閉園した頃、タイワンザルが逃げ出したと推測されている。2000年頃には数百頭のタイワンザルと交雑種が確認された。

 日本霊長類学会は、交雑種の拡大を危惧し、01年に県へ全頭捕獲と安楽死を求める要望書を提出した。

 和歌山県のサル問題は、通常の外来種の広がりとは趣を異にしていた。外来種が在来種を駆逐する訳ではないが、交雑が進むことでニホンザルの「純系」が失われることが懸念されるという点だ。ただ自然界では、近縁種の交雑は知られている。進化の過程では、種が分かれるだけでなく融合する現象も重要とされる。すべての交雑が忌避されるという訳ではない。

 ではなぜ、和歌山の交雑種の駆除が必要だったのか。大きな理由は一つ。人間が原因で交雑種が生じたからだ。人間は船や飛行機といった交通手段を手にして、自然な状態よりも圧倒的に早く動物を移動させられる。「現代の人間はかなりほかの動物とは違う存在。その人間の手が加わってできた新たなサルが日本に根付くのは自然を乱す」。中川教授は、説明する。

 駆除への反対意見が多く寄せられたこともあって、県は01年度、交雑種やタイワンザルに不妊手術をして飼育する案と、全頭を安楽死する案について県民にアンケートを実施。全頭処分が6割を占める結果となった。この結果を踏まえ、県は02年度から駆除を始め、17年度には同市周辺で根絶宣言を出した。

 ■守護者で仲間 二面性抱え

 和歌山県は市民の理解を得ることに苦労したが、05年には、日本の生態系に被害を及ぼす外来種の駆除などを盛り込んだ外来生物法が施行。外来生物に対するスタンスが、法律で定まった。環境省は「人為的な原因で入ってきた特定外来生物は、許可を出した場合をのぞき原則として殺処分対象」とする。現在、タイワンザルなど148種類が特定外来生物に指定されている。

 人間の場合、海を越えて自由に行き交うことは「多様性」の実現とされる。しかし人の手を介して海を越えてきたサルや、その結果生まれた交雑種は、殺処分の対象となってしまう。そこに釈然としない思いが残りはしないか。

 ニホンザルに名前を付けたり、チンパンジーの「心」を研究したり、日本の霊長類学には、人間もほかのサルたちと同じ「仲間」だという価値観が脈打ってきた。しかしサルの暮らす自然を守ろうとすると、事情は変わる。自然の一部であるはずの人間が、自然の守護者でもあるという側面が浮かんでくるのだ。もちろん

いずれの立場も重要だが、そんな人間の抱える二面性を、サルたちにじっと見られている気がする。



 1948年12月、今西錦司ら京都大の研究者が宮崎県の幸島でニホンザルの調査を始めたことから日本の霊長類学は始まったとされる。70年の歴史を刻む間、ニホンザルの芋洗い行動の発見からチンパンジーの「心」の解明まで世界をリードする成果を上げてきた。研究で明らかになった霊長類の多様な生態は、人間に何を教えるのか。「家族」や「平等」「暴力」といった現代人が抱える課題を、サルの視点から考える。

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_7199db62c83b_「チンパンジーも薬草食べる」 自己治療、種を超える“習慣”か 7199db62c83b 7199db62c83b 「チンパンジーも薬草食べる」 自己治療、種を超える“習慣”か oa-kyoto 0

「チンパンジーも薬草食べる」 自己治療、種を超える“習慣”か

2019年1月2日 11:35 京都新聞

 30年前のアフリカ・マハレ。京都大霊長類研究所のマイケル・ハフマン准教授は、1頭の雌のチンパンジーを観察した。食欲がなくうまく排便できない。眠るばかりで、明らかに病気だった。ある時、ベラノニアというキク科の植物を食べ始めた。とても苦く、普段は口にしないのに解せない。しかし翌日に疑問は氷解した。走り回れるまでに体調が回復したのだ。「チンパンジーも薬草を食べる」。そう直感した。

■チンパンジーも薬草摂取

 ハフマン准教授は後に、この事例をチンパンジーの「自己治療行動」として世界で初めて報告した。以降、ほかのチンパンジーも、体調を崩した時にだけベラノニアを食べることが観察された。さらにベラノニア以外でも、表面がざらついた葉を丸めて飲み込んで腸内の寄生虫をかき出していることが分かっている。

 「良薬口に苦しという諺があるように、おいしくない物を、体調を回復させるために食べることは医療に通じます」。ハフマン准教授は説明する。

 人間の社会では医療が高度に発達し、風邪などの感染症や生活習慣病、がんに至るまで多様な治療法がそろっている。西洋医学の祖は紀元前5世紀頃のギリシャを生きたヒポクラテスとされるが、薬草や外科手術の使用はさらに遡り有史以来、医療は人とともにあったと言える。そんな私たちの暮らしに不可欠な「医療」は動物にも見られるようだ。

 しかしハフマン准教授は人間とそのほかの動物で決定的な違いがあると指摘する。体調を崩したほかの個体のために、薬草を持って食べさせることはしないという点だ。「薬草だけでなく食べ物も、チンパンジーがほかの個体に直接渡すことはありません」

 医師や看護師ら医療関係者は、患者という他人のために治療を施す。医療の本質にも関わる点で、人間とチンパンジーは大きく異なる。一方で、チンパンジーの行動からは、人間が学べることもある。

■病気やけが 悲観せぬ感覚

 霊長類研究所の中で、ほかのチンパンジーとは離れて1頭だけで暮らしている雄がいる。36歳のレオだ。

 レオは2006年9月、原因不明の脊髄炎を発症した。当初は首から下が動かず、寝たきりになった。床擦れもできた。しかし目が覚めている時のレオは、口に入れた水を人に吹きかけていたずらするなどいつも通り。「人間のように、未来に不安を覚える様子はなかった」。同研究所の林美里助教は振り返る。今も足がうまく動かないが、手を使って自力で歩けるようになった。

 レオは隔離が長いため、同研究所で暮らす群れに戻すことは難しいが、動物園では、片腕の肘から先がないチンパンジーが群れの中で生活するケースが報告されている。ほかの子どもがその肘につかまって遊んでも、特にいやがらない。「ほかと違う体だからといって、こだわることなく接している。『差別』がないのはうらやましい」。林助教授がふと漏らした。

 病気やけがに悩まされるのは、チンパンジーも人間も変わらない。ただ他人を思う想像力を持った人間は、大切な誰かを失いたくないという願いから医療を発展させてきたのかもしれない。一方でチンパンジーは病気やけがを「忌むべき物」と捉えず、悲観することは少ないようだ。どちらが病気やけがとうまく向き合っているのか。一概に言えないのではないだろうか。

 ◇

 1948年12月、今西錦司ら京都大の研究者が宮崎県の幸島でニホンザルの調査を始めたことから日本の霊長類学は始まったとされる。70年の歴史を刻む間、ニホンザルの芋洗い行動の発見からチンパンジーの「心」の解明まで世界をリードする成果を上げてきた。研究で明らかになった霊長類の多様な生態は、人間に何を教えるのか。「家族」や「平等」「暴力」といった現代人が抱える課題を、サルの視点から考える。

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_d26d279d9c43_ニンジンとゴボウのごま酢あえ  <旬の献立を探しに> d26d279d9c43 d26d279d9c43 ニンジンとゴボウのごま酢あえ  <旬の献立を探しに> oa-kyoto 0

ニンジンとゴボウのごま酢あえ  <旬の献立を探しに>

2019年1月2日 04:42 京都新聞

 <旬の献立を探しに 小平泰子>
 粉さんしょうはたっぷり使うとおいしいです。香りのおかげで、ついつい箸が進んでしまいますよ。

 【材料】(2人分)

金時ニンジン     70グラム
ゴボウ       100グラム
いりごま        大さじ3
粉さんしょう        適量
A=だし大さじ3、薄口しょうゆ大さじ11/2、米酢大さじ1

 【作り方】
(1)ニンジンとゴボウは0.5センチ角ぐらいの拍子木切りにし、それぞれ水から、歯ごたえが残る程度にゆでる。
(2)すり鉢にいりごまを入れてすり、Aを加えてさらにする。
(3)ゆで上がった(1)をざるにあげて水を切る。熱いうちに(2)に入れ、ざっくりと混ぜ合わせる。仕上げに粉さんしょうを振り、器に盛る。

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_60ca5fa9cf70_日本酒「憲法と人権」で一献 京都・佐々木酒造、大吟醸など3種 60ca5fa9cf70 60ca5fa9cf70 日本酒「憲法と人権」で一献 京都・佐々木酒造、大吟醸など3種 oa-kyoto 0

日本酒「憲法と人権」で一献 京都・佐々木酒造、大吟醸など3種

2018年12月31日 16:35 京都新聞

 京都弁護士会や佐々木酒造(京都市上京区)が共同企画したオリジナル日本酒「憲法と人権」が今冬も京都市内の酒店で販売されている。

 2005年に誕生し、毎年約千本を醸造する。後味のよい「大吟醸」、爽やかな味わいの「しぼりたて新酒」、程よい酸味の「吟醸あらばしり」の3種。四合瓶と一升瓶があり、約千~5千円。

 京都弁護士協同組合は「憲法と人権を身近なものとして考えるきっかけに一献を傾けて」と話している。販売は中京区の酒店富屋本店075(231)0561。

外部リンク

cat_18_issue_oa-kyoto oa-kyoto_0_5ba2db998811_平成の野菜は「パクチー」 タキイ種苗発表、ネット調査で3冠 5ba2db998811 5ba2db998811 平成の野菜は「パクチー」 タキイ種苗発表、ネット調査で3冠 oa-kyoto 0

平成の野菜は「パクチー」 タキイ種苗発表、ネット調査で3冠

2018年12月31日 16:21 京都新聞

 タキイ種苗(京都市下京区)は、平成を代表する野菜についてインターネット調査を行い、パクチーが1位になったとこのほど発表した。「流行」「代表」「定着」の各分野で1位の3冠だった。

 平成の30年間で流行した野菜、代表する野菜、定着した野菜について全国の310人を対象に複数回答でアンケートを行い、3部門とも1位がパクチー、2位はアボカド、3位はフルーツトマト、4位はズッキーニとなった。

 パクチーはコリアンダーや香菜とも呼ばれるセリ科の野菜で独特の風味があり、主に東南アジア、中国で薬味として用いられる。

 平成の30年間でタイやベトナムなど東南アジア料理が普及し、風味を生かしたソースやスナック菓子なども製品化されている。近年は国内でも栽培され、生鮮野菜としてスーパーの店頭にも並ぶ。こうした背景もあってか、「流行」では半分以上の人がパクチーを挙げた。

 新たな元号のもとで流行しそうな野菜については、ブロッコリーやダイコンなどの新芽にあたるスプラウトが1位で、パクチーも2位に入った。同社は「パクチーはタイやベトナム料理店の増加とともに広まったのではないか。栽培も難しくなく、身近な野菜になっている」としている。

外部リンク