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虐待や経済的困窮…親と暮らせない子どもたち 児童養護施設の日常

2020年7月21日 11:00 神戸新聞NEXT

 虐待死など、子どもを巡る悲しい事件が後を絶たない。

 「もっと早く保護されていれば…」

 事件が起きる度、児童相談所など関係機関の対応や制度に注目が集まるが、保護された後の子どもたちについては、あまり知られていない。

 神戸新聞の記者たちは、神戸市北区にある児童養護施設「尼崎学園」に通い、子どもたちと生活を共にした。


 心の傷、親と暮らせない葛藤、進学の壁…。長期間の取材を通じ、「当たり前」を取り戻そうとする子どもたちや職員の姿を伝える。
(肩書は取材時、子どもは仮名)

※この記事は神戸新聞社によるLINE NEWS向け特別企画です。

家族の終わり、突然に…


 小学生の愛梨がこぼした。

 「帰るところ、なくなっちゃった」

 かぶったままのコートを小さな手で握りしめた。痛みと強がりの混じった、か細い声だった。


 家族の終わりを突然告げられる。
 ここでは、何度も繰り返されてきた光景だ。

 ベテラン職員大庭英樹が振り返る。

 「何回経験してもつらい。たまらんです」

 眼鏡を上げ、両目尻を押さえた。

悲しすぎる「区切り」


 愛梨は父と2人で暮らしていた。
 尼学に来たのは、幼児の頃。経済的困窮による養育困難が理由だった。

 父は1~2カ月に1度、面会や行事で訪れた。愛梨はそのたび大はしゃぎした。

 「お父さん、大好き」

 しかし大型連休の後、父はぱったり来なくなった。何度連絡してもつながらない。

 「お父さん、どうしてるかな」

 愛梨は毎日、職員に尋ねた。
 心と体が徐々に悲鳴を上げていった。髪を引っ張り、血がにじむまで爪で腕をひっかいた。

 ある日、こども家庭センター(児童相談所)から連絡が入った。父は住居を移し、新しい家族をつくっていた。

 事実を告げなければならない。

 職員らは愛梨が落ち着くのを待ち、戸惑いや心細さに耳を傾けた。1年以上が過ぎた頃、愛梨の顔から少しだけ、とげとげしさが消えた。
 大庭が言う。

 「悲しいけど、区切りがついた。ここからが我々の仕事です」

学園での「暮らし」


 児童養護施設の尼崎学園は、のどかな田園風景が広がる神戸市北区道場町にある。

 通称「尼学(あまがく)」。身体への虐待や経済的困窮、親の逮捕や育児放棄など、さまざまな背景を持つ子どもたち約40人が暮らしている。

 生活するのは「ユニット」と呼ばれるスペースだ。一つの建物の中にあり、各ユニットでは小学生以上の6人が共同生活送っている。

 ユニットごとに台所やトイレ、浴室があり、玄関も別々。子どもたちには小さな個室もあり、ベッドや勉強机を置いている。例えるなら「6LDK」のようなイメージだ。

 職員は子どもたちから「兄ちゃん」「姉ちゃん」と呼ばれ、午前6時45分から午後10時まで各ユニットに担当の職員が常駐。午後10時以降は、宿直の職員が施設全体を見ている。

聞き分けの良さと、少し残るご飯と


 「そらちゃーん。早く起きー」

 12月中旬の午前7時、大庭の声がユニットに響いた。朝ご飯の支度をしながら、子どもたちを次々と起こしていく。

 室内の気温はマイナス2度。小学1年の蒼空(そら)は、なかなか布団から出てこない。大庭は2度目の声を掛ける時、小さな手をさすりながら起こした。

 パジャマから着替えた蒼空が、眠い目をこすってテーブルに着く。
 この日の朝食はご飯、みそ汁、卵焼き、ゴマあえ。向かいには1年上の大雅が座っている。

 「大縄跳び、俺は100回跳べるで」
 「俺は200回」

 2人はおしゃべりに夢中でご飯を運ぶ手が止まりがち。それでもしばらくすると、大雅は完食した。
 食の細い蒼空。

 「大庭兄(にい)、もういい?」

 お茶わんを見せるが、大庭は首を横に振る。残ったご飯を見て、蒼空は「まだやな」とにやり。再び口に運び出した。

 蒼空たちが通う道場小学校へは、学園の子どもで集団登校する。集合時間は7時35分。
 7時半すぎ、「もう時間やでー」と大庭の声が響くと、蒼空はランドセルを持って飛び出して行った。

 お茶わんには、少しだけご飯が残っていた。

毎日「手をさする」理由


 蒼空は幼児の時に学園に来て、小学1年から今のユニットで暮らす。

 人懐っこい性格で、甘え上手。学園を訪れる大人たちにも積極的に話しかけた。
 しかし当初は、大庭が抱きしめようとすると、体をすぼめた。抱っこをしても、体や顔を離した。


 「大人が怖くないと、私たちが教えてあげないといけない。だから毎日、手をさすりながら起こすんです」と大庭。

 大雅も同じ。寝る前と起こす時、必ずぎゅっと抱きしめる。嫌がるそぶりを見せるが、口元は笑っている。

 「1年かかって、ようやくできるようになったんですよ」

家にさえ帰れたら…


 身体への虐待や育児放棄など児童養護施設に子どもたちが来る理由はさまざまだが、多くの子に共通する思いがある。

 「親と暮らしたい」「普通の家の子だったら」―。

 麻美は幼児の時に尼学に来た。何かあるたびに「家に帰りたい」と言った。
 「いつでも帰っておいで」。母親も望んでいた。

 だが、母親は心や体を病んでいた。家の床はごみで埋め尽くされ、他のきょうだいも施設に入っていた。児童相談所は「帰さない」と判断した。

 「家にさえ帰れたら…」

 麻美の生活は乱れた。朝起きられない。学校に行けない。風呂に入れない。

 働く意味も見いだせなかった。親が働けず生活保護で暮らしていたため、周りに働く人のモデルがいない。いくら職員が「働かないと生きていけないよ」と話しても、理解できなかった。
 

私は生きていていいのか。


 「現実逃避せざるを得ないんです」

 副園長の鈴木まやは言う。

 親と暮らしたい。でも、かなわない。常に葛藤の中におり、他のことへの気力が湧かない。
 普段は楽しそうに暮らしていても、いま自分に必要な課題と向き合えない。施設の子に多い傾向という。

 受験、人間関係、将来のこと…。
 「親と暮らすことさえできたら、すべての問題が解決する」と思ってしまう。

 まるで、魔法のように。 

 そして、自己の存在が揺らぐ。一緒に暮らせないのなら、何のために私を産んだのか。私は生きていていいのか。何もしたくない。何も考えたくない。

 「だから、いまを頑張れないんです」

退所した少女からの"SOS"


 鈴木まやには、「敗北」と呼ぶ出来事がある。かつて尼学で暮らした少女のことだ。

 夜遅く、尼学の電話が鳴った。少女が尼学近くのJR道場駅の公衆電話から掛けてきた。
 だが、声がうまく聞き取れない。すぐに駅に向かった。

 無人駅の傍らで、少女がうずくまっていた。睡眠改善薬を大量に飲み、ろれつが回らず、フラフラだった。尼学に連れ帰り、寝かせた。

 少女が児童相談所に保護され、尼学に来たのは小学生の時だった。
 学校には通っておらず、両親は体や心に複数の病と障害を抱えていた。部屋の壁にはカビが生え、衣類やごみ、食べ物が山積み。生活環境は劣悪だった。

 それでも、少女は家に帰りたがった。

 当時の尼学は、大人数が同じ部屋で集団生活する大舎制。ユニット制になった今ほど、子どもたちに目が届かなかった。


 少女は何度も尼学を抜け出した。定時制高校に進学が決まると、中学卒業と同時に退所した。

 尼学に電話があったのはその3、4年後のことだった。

少女の「心」を埋めたのは…


 少女は風俗で働いていた。

 派遣型のデリバリーヘルス。少し眠って落ち着くと、泣きながら話した。

 「自分が嫌い」
 「こんなお金は汚い」

 だが、睡眠改善薬が抜けると、知らない間に帰っていた。そしてまた、フラフラになって戻ってきた。何度も何度も繰り返した。風俗も薬も、やめたいのにやめられない。

 「だって、その時だけは、みんな私を大事にしてくれるから」

 鈴木はがく然とした。かつて少女がいた間に、自分たちが大切な存在になれなかった。大切にされていない感覚を埋められないまま、少女を送り出してしまった。

 それを埋めたのが風俗だった。

 「ここにいる時に私たちがちゃんと埋められていたら、風俗に行く前に来てくれたんじゃないか」

 その後、少女は入院した。

犯罪に手を染める。自殺する。


 大庭も、以前勤めていた児童養護施設で同じような経験をした。

 20年ほど前に関わった拓真は、乳児院から施設に来た。
 親の顔は写真でしか知らない。朝起きられず、嫌なことから逃げ、頑張れない子だった。中学を卒業して働き出したが、紹介した仕事をすぐに辞めた。

 何度も叱りに行き、励ましたが、続かなかった。日雇い現場やホストクラブなどを転々とし、結局、美人局(つつもたせ)をして捕まった。

 「兄ちゃん、ようやく働けるようになったんや。病院の売店」

 別の子は久しぶりに大庭に連絡した直後、自殺した。

不安定なまま社会に…消えぬ悔恨


 大庭が振り返る。

 「人は愛着の土台(どだい)が形成されていなければ、自分の存在価値を認められず、何も積み上げられない。だから彼らは頑張れず、続かなかった」

 愛着の土台とは何か。誰かに愛され、必要とされる経験。大庭は「人間の根幹」という。約30年、子どもたちと向き合ってきた実感だ。

 かつての児童養護施設は、子どもたちが暮らす環境に今ほど配慮がなかった。職員の「専門性」という概念も薄かった。

 また、20年ほど前までは中卒で退所し、働き始める子がほとんどだった。子どもたちが不安定な状態でも、社会に出した。多くは仕事が続かず転々とし、犯罪に手を染めた子もいる。行方不明。自殺。嫌というほど見てきた。

 しかし、どんな背景があっても、世間では単に「続かない子」と見られた。

 「私たちの力不足もあった」

 悔恨をにじませた。

「生まれてきてよかった」と…


 ユニット制になった現在の尼学では、同じ職員が継続して子どもたちと関わり、一人一人に目が届くようになった。

 「俺がおるから安心せい。何があっても見捨てない」

 大庭は子どもたちに何度も語り掛ける。

 いろんなものを背負い、生きている。それが、どんなに尊いか。
 あなたは大切な人。生まれてきてよかったと思ってほしい。

 ここにいる間に少しでも、土台を築きたい。

「決意」の作文


 2019年3月16日。中学生の太一が、落ち着きなく尼学の廊下をうろうろしていた。

 「緊張するわー」と何度もつぶやく。
 制服を着て、胸に薄紫のコサージュを付けていた。

 この日、毎年恒例の中学生の卒業を祝う会が開かれた。

 地域の人も招き、約70人がホールを埋めた。この年の卒業生は4人。それぞれの担当職員がどんな子か紹介した後、決意を書いた作文を発表する。トップバッターが太一だった。

 「4人で相談して、自分で1番を希望しておきながら、朝から何回もトイレに行ってました」。太一のユニットを担当する大庭が紹介すると、会場から笑いが起きた。

"失われた"6年間

 
 太一は幼児で尼学に来た。

 くりっとした目が愛らしく、活発な子だった。しばらくして家庭に引き取られたが、小学校に行かなくなってしまった。
 家にこもり、ゲームばかりの日々。中学1年のとき、児童相談所は尼学に戻す判断をした。

 大庭は当初、帰ってきた太一が学園の生活になじめるか心配した。だが、杞憂(きゆう)だった。

 まじめで繊細な性格。朝は誰に言われなくても5時すぎに起きた。学校の準備を完璧にして、必ずトイレに3回行った。
 抜群の社交性があり、職員以外の大人にも積極的に話しかけた。大庭は「不登校になったのが不思議なくらい」と振り返る。

 太一が明かす。

 「転校してきたのに、遅刻ばっかりしてたらあかんなって。最初はいろいろと考え過ぎてた」

 朝になると勝手に目が覚めた。学校に休まず通い、多くの友達ができた。何よりも楽しかったのが、休憩時間の何気ないおしゃべり。

 「学校に行ってなかったときは、ずっと一人って感じ。しんどかったもんな」

 ユニットでは、小学生から高校生までがにぎやかに暮らす。それが心地いい。
 尼学のことは「施設」と思っていないという。「人を笑顔にできる場所」と表現した。

勉強漬けの毎日


 高校受験を控えた18年8月。

 普段は温厚な太一が珍しくイライラしていた。夕食後、ユニットのリビングで小学3年の大雅に声を荒らげた。

 「お前も中3になったら大変やねんぞ。絶対見に来るからな」

 大雅も言い返す。

 「そのとき僕、ここにおるか分からんもん。でも、やっぱりおるんかな…」

 この日、太一は職員の大庭英樹に、関西学院大の学生が学習ボランティアに来ることを告げられた。
 まずは週2日で、1回2時間。慣れてきたら週4日に増やすという。すでに週2日塾に通っているので、ほぼ毎日勉強漬けになる。

 「週6なんか絶対無理やって」
 「追い詰められて自殺するわー」

 ひとしきり文句を言った後、ふてくされて「もう寝る」と自分の部屋に入った。

身にしみる「現実」


 小学校に行っておらず、中学1年で尼学に戻った。直後のテストは5教科合計が10点に満たず、足し算の筆算すらできなかった。

 大庭は「授業が理解できず、ただ座っているだけ。つらかったはず」と振り返る。

 太一は小学校の基礎から学び直すため、塾に通い始めた。

 教室では小学生から高校生までが一緒に学ぶ。低学年の児童に「まだそんな所やってるん」とからかわれた。
 算数の宿題が分からず、小学生の大雅に教えてもらうこともあった。

 「みんなよりスタートが遅いから挽回せなあかんと思ったけど、すごいしんどかった。宿題と同じで、ため込むとしんどい。毎日積み重ねてきてたら、もっと楽なペースで覚えられたのになって」

 小学校に通っていない現実が身にしみた。

 塾には休まず通った。小学生と競いながら、着実に学力を付けていった。
 「元々は頭のいい子。最初はわくわくするくらいに伸びた」と大庭。

 それは、失った時間の大きさでもあった。

衝突。小言。でも本当は…


 高校受験が近づくにつれ、太一は大庭と衝突することが増えた。

 公立高校に目標を定めたが、太一には無理やり勉強させられているという思いが消えなかったからだ。ことあるごとにぶつかり、2~3日、口をきかないこともあった。

 だが、大庭は小言を言い続けた。

 「受験生がこんな時間にゲームしてていいのかな」
 「受験生の割には、のんきだね」
 「ゲームは何も君を助けてくれないよ」

 太一がいない時、大庭は打ち明けた。

 「彼の育った環境を考えれば、100点をあげたいくらい頑張っていた」
 

頑張った経験、支えられる経験を…


 太一にのしかかるのは、勉強だけではない。

 進路選択は、将来を考えること。そのためには、過去を振り返り、自分の置かれた現実と向き合わなければならない。相当なストレスだったはずだ。

 それでも大庭が厳しく接したのは、「受験が大変だった」という当たり前の経験を積んでほしかったからだ。頑張った経験はいつか、次の壁を乗り越えられる力になる。

 そして、学生のボランティアら多くの人に支えられていることを感じてもらいたかった。
 あなたのことを思い、手をさしのべてくれる人がいる。その思いに応える。そんな経験をさせたかった。

 当初、太一にとって勉強は「死んでも嫌なもの」だった。

 公立をあきらめ、手の届く私立でいいと何度も思った。そのたびに学生ボランティアに励まされ、大庭からは叱咤(しった)された。
 少しずつ、学ぶ喜びを知った。数学の問題が解けたり、宿題を完璧にできたり。達成感があった。

未来への「選択肢」


 場面を再び、3月16日に尼学で開かれた中学生の卒業を祝う会に戻す。
 太一は、大庭に促されて約70人の前に立った。緊張しながらも優しさがにじむ声で、丁寧に作文を読み始めた。
 

心が折れそうになったことは、何度もありました。そんな中、受験への勉強がスタートしました。そんな僕に、学習ボランティアの方々がたくさん来てくださり、今までできなかったことが少しずつ理解できるようになりました。

 出会いに支えられた1年だった。

 関西学院大の学生ボランティアが、徹底的に勉強につきあってくれた。合格祈願のため、一緒に近くの三田天満宮に行ってくれた。大庭に見守られながら、着実に学力を伸ばした。
 そして、受験当日。

支えてくれたたくさんの人たちを浮かべ、受験に挑み、届かないとあきらめていた壁を見事突破することができました。

 
「みんなでやったから、合格できた」

 素直な思いだ。

 勉強ができなくてよかったとさえ思える。それは、学生ボランティアの人たちと出会えたから。
 自分の強みも見つけた。継続する力だ。スタートが遅くても、努力すれば追いつける。これからもっと努力すれば、さらに先に行ける。
 

4月から始まる高校生活を全力で頑張りたいです。


 太一は「選択肢がほしい」と言う。小学校に行っておらず、選ぶ高校は限られていた。だからしっかりと学び、卒業する時の選択肢を広げたい、と。
 決意は、こう締めくくった。

たくさんの方々に支えられたこの1年は一生忘れることはできません。本当にありがとうございました。



(文・岡西篤志、土井秀人、小谷千穂、写真・三津山朋彦、風斗雅博)

外部リンク

cat_18_issue_oa-kobenext oa-kobenext_0_yjci81mg51f5_世界一の司令塔 ダン・カーターが日本に残した伝説 yjci81mg51f5 yjci81mg51f5 世界一の司令塔 ダン・カーターが日本に残した伝説 oa-kobenext 0

世界一の司令塔 ダン・カーターが日本に残した伝説

2020年6月11日 11:00 神戸新聞NEXT

 「世界一の司令塔」が神戸を去った。
 ラグビー・トップリーグ神戸製鋼を退団した元ニュージーランド代表(オールブラックス)、ダン・カーター(38)。

 2015年ワールドカップ優勝の立役者で、世界歴代1位の代表通算1598得点。世界年間最優秀選手には3度選出された。

 世界レベルの知名度は劣っても、その実績はサッカー界のリオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドにも匹敵する。バスケットボール界ならコービー・ブライアントやレブロン・ジェームズのような存在だ。

 ラグビー界の生ける伝説。ダン・カーターは日本に何を残していったのか。

(文・神戸新聞 山本哲志)
 ※この記事は、神戸新聞社によるLINE NEWS向け特別企画です。

熱狂。感嘆。「至宝」日本に


 2018年9月14日、東京・秩父宮ラグビー場。トップリーグ第2節、サントリーvs神戸製鋼。

 「オールブラックスの至宝」と呼ばれたビッグネームのデビュー戦に、スタンドは熱気に覆われていた。観衆は1万8000人。平日夜のトップリーグの試合としては異例の光景だった。

 ファンの視線が一点に注がれる中、キックの名手でパス能力にも優れるカーターは楕円球を自由自在に操る。
 ポジションはチームをコントロールする司令塔のスタンドオフ(SO)。トップリーグ2連覇中のサントリー相手にも正確な左足のキックやずばぬけた判断力で翻弄(ほんろう)した。

 司令塔の巧みなパスに周囲の選手も躍動し、試合は36―20で神鋼が制した。カーター一人で挙げた得点は1トライ、2ゴール、4PGの計21点。スタンドは感嘆のため息に包まれた。
 試合後、敗れたサントリーの沢木敬介監督(当時)はこう言った。

 「素晴らしい教科書が日本に来た。日本にとってプラスになる」

 両チームは3カ月後、日本一を懸けた日本選手権決勝で再び相まみえた。
 このときもカーターはシンプルかつ多彩なプレーで55―5の圧勝劇に導き、神鋼は18大会ぶりの日本一に返り咲いた。

 優勝インタビューの冒頭、カーターは「長く神戸にいる選手たちの思いを背負ってプレーした。今日のパフォーマンスは自分のためではなく、彼らやOB、メンバー外の選手たちのもの」と話した。
 15年W杯後に代表からは引退していたが、「より良い人間が、より良いオールブラックスをつくる」というNZ代表の格言を地でいく彼の人間性を表していた。

世界的セレブ。その素顔は…


 世界で活躍してきたダン・カーターはセレブリティーだ。

 昨年、高級ブランド「ルイ・ヴィトン」とコラボレーションした30万円のラグビーボール112個(ニュージーランド代表キャップ数)を発売。マスターカードのCMではメッシやネイマールらとも共演した。

出典: Instagram

 にもかかわらず、素朴で謙虚、練習熱心なラガーマンの面は失わない。

 神戸製鋼在籍時、取材を受けるのは常に最後だった。スターだからではない。練習が終わらないからだ。
 「若い才能を成長させることも役割の一部」と、全体練習後も若手に声を掛けて練習に付き合わせ、アドバイスを惜しまない。

出典: Instagram

 それが終わると通訳をキャッチ役にひたすらキック練習。いつ終わるとも知れない様子を見たチームメートの元日本代表スクラムハーフ日和佐篤は、「ただのラグビー好きのおっさんですよ」と親しみを込めて笑っていた。

 ようやく取材陣の元に歩み寄ってきたカーターは、どんなに寒い時期でも広報が差し出すジャンパーコートを断り、丁寧に答え続けた。

どうする?”世界一”が同ポジションに


 昨秋のW杯で初のベスト8に躍進した日本代表にも、カーターの加入が転機となった選手がいる。神戸製鋼のフルバック山中亮平だ。

 高校時代から多彩なプレーで「ファンタジスタ」と称されたスタンドオフ。
 だが、ひげを伸ばす育毛剤が原因で2年間の資格停止処分を受けるなど、2011年と15年のW杯を逃し、「ラストチャンス」と懸けていた。

 同じポジションに世界的名手のカーターが加わった昨季、出場機会を求めてフルバックに移った。
 カーターに押し出されるようにポジションを転向したが、それで「迷いがなくなった」という。新たなポジションで伸び伸びとプレーし、三度目の正直で日本代表の座をつかんだ。

 W杯では全5試合に出場。1次リーグのスコットランド戦、山中がボールを蹴り出して日本の悲願の8強入りが決まった瞬間、テレビの瞬間最高視聴率は53・7%に達した。

 山中は「カーターはキックを教えてくれるし、考え方もトップレベル」と刺激を受けた。
 指導者としてカーターとともに神鋼を再建した元NZ代表コーチのウェイン・スミス総監督は「山中は良く成長した」と評し、カーター自身も「山中は国際経験を積み、バックスリー(ウイングとフルバック)を引っ張る存在になった」と認める。

日本の攻撃起点「カーター流」に


 日本代表の司令塔を担った田村優(キヤノン)も、カーターを手本にした。チームメートの日和佐が説明する。

 「体が真っすぐでぶれないので、相手に次のプレーを読ませない」

 ボールを持ったカーターは常にゴールラインに体の正面を向ける。
 その姿と対峙した相手ディフェンスは左右どちらにパスをするのか、ランで持ち込んでくるのか、ぎりぎりまで分からない。

 相手を迷わせ、引きつけることでスペースを生み、味方の人数を余らせる。自らの動きで優位な状態をつくり、瞬時に攻撃のオプションを選択。ボールを前へ前へと運び、トライにつなげる。

 カーターと同じポジションの田村はW杯の直前合宿で、その技術を必死に習得したという。
 相手に次の動きを予測させない田村のプレーが、日本代表を初のベスト8に押し上げたのは言うまでもない。

神戸にふるさとを重ね合わせて…


 ダン・カーターは日本を愛し、神戸を愛した。

 とりわけ深い思いを寄せてきたのが、まちに深い傷跡を残した阪神・淡路大震災だ。

出典: Instagram

 1995年1月17日。平尾誠二(故人)らスター選手を擁して日本選手権7連覇を達成した2日後に起きた地震で、神戸製鋼は会社の心臓部である第3高炉が緊急停止した。

 復旧させるために力を尽くした当時の鉄鋼マンの姿を、カーターはチーム加入後に映像で知った。

 震災発生時に高炉を守るため、ショベルカーで突入した作業員。その心意気に自分たちを重ねるチームメートに、カーターもならい、ともに戦った。

 各試合のチーム内最優秀選手賞はその作業員の名前を冠して「田中賞」と名付け、ショベルカーのミニチュアが贈られる。練習グラウンドは「第3高炉」、相手をはね返す防御は「スチールウォール(鉄の壁)」と呼ばれている。

 震災から立ち上がった鉄鋼マンの精神を、チームはこうして名門復活への力に変えてきた。

 カーター自身も2011年2月のニュージーランド地震で被災していた。

 日本人を含む185人が亡くなったNZ地震では、当時所属した地元チームの練習後に被災した。
 クライストチャーチ市郊外の自宅周辺は液状化などで大きな被害を受け、チーム関係者が犠牲になった。

 「クライストチャーチでも同じようなことをこの目で見た。自分や家族のことではなく、会社やコミュニティーのために頑張る人々の姿を。つながっていることを感じた」

 ボランティアの消防士だった父親も救助活動に従事した。その父親が今年1月に来日した際は、真っ先に崩れた岸壁を残す神戸港に連れて行ったという。

 神鋼は今季、選手たちが身にまとう深紅のジャージーに、第3高炉を新たにあしらった。
 カーターも言った。

 「神戸にとって震災はとても重要だが、チームにとっても重要なこと」

 神戸の「復興のシンボル」を胸に、連覇に向けて走り出した。

この先も、明るい未来が


 W杯日本大会の熱気そのままに開幕した今季のトップリーグでも、カーターは主役だった。

 リーグ中断までの6試合中5試合に出場し、自在にタクトを振るった。チームは連勝街道を突き進み、自身は得点ランキングトップの68得点をたたき出していた。

 コロナ禍でシーズンは打ち切られ、2連覇は幻となってしまったが、カーターは2シーズンでトップリーグ13試合(カップ戦1試合含む)に出場し、公式戦無敗。229得点を挙げた。

 特筆すべきはキックの精度だ。中でも相手の反則により与えられたペナルティーゴール(PG)は21度の機会をすべて決め、100パーセントの成功率を誇った。
 「ラグビー界ではもうおじいちゃん」とおどけていたが、昨季のTL最優秀選手(MVP)に選ばれるなど、30代後半にして世界屈指の実力は健在だった。

 2万3647人の観客を集め、日本代表主将のリーチ・マイケルを擁する東芝に57―0で圧勝した2月22日が、結果的に日本での最後の勇姿となった。
 その試合でもカーターは珠玉のプレーを見せ続けた。日本代表CTBのラファエレ・ティモシーのトライをアシストした鮮やかなノールックパスについて聞くと、「トラスト(信頼)」と一言で表現した。

 「チームが必要とするならウオーターボーイ(給水係)だってする」

 チームの勝利に全てをささげてきた謙虚なスターと神鋼の幸せな時間は幕を下ろした。
 だが、カーターは退団に際してこんなコメントを残している。

 「(神戸製鋼)コベルコスティーラーズは、とても良いチームへと進化しており、この先も明るい未来が待っている」

 山中やラファエレ、伸び盛りの若手ら、残る選手たちがカーターのレガシーを受け継ぎ、新たな黄金時代を築いていく。

外部リンク

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コロナ禍の今だからこそ…大切なのは「つながること」。高校野球の名将・永田裕治の教え

2020年4月24日 11:00 神戸新聞NEXT

 心機一転、晴れやかに新天地に立つつもりが、グラウンドは新型コロナウイルスの闇に覆われた。

 この春、高校野球の名門、兵庫・報徳学園から静岡・日大三島に転任した永田裕治監督(56)。

 2年間にわたる高校日本代表監督の大仕事を終え、新年度の4月1日から新監督として始動したが、わずか4日間の練習で部活動は休止を余儀なくされた。

 選手がいないグラウンドに目をやりながら、永田は25年前の記憶を重ねていた。

 あの時も、野球どころではなかった。

登校すら困難…今と重なる苦境


 1995年1月、報徳学園があった西宮市は阪神・淡路大震災に襲われた。

 ライフラインが寸断され、家屋が倒壊。犠牲者は6400人を超え、避難所には被災者があふれた。野球はおろか、学校すら再開の見込みが立たなかった。

 監督就任1年目だった永田はグラウンドに車を乗り入れ、寝泊まりした。

 震災発生から2週間が過ぎたころ、休校は解除されたが、そもそも公共交通機関が動いていなかった。

 多くの生徒が登校できず、自転車に乗って何とか学校にたどり着いた部員も、ひび割れたグラウンドで体を動かすのが精いっぱい。1カ月以上、まともに練習ができなかった。

 開催可否が検討された3月のセンバツ大会は決行され、報徳学園は神港学園、育英とともに地元兵庫から3校が選出された。くしくも永田にとってはそれが監督として初めての甲子園出場だった。

心をつなぎ、野球をする喜び


 被災者は生活再建もままならず、世間の目はまだ厳しかった。激震地に近かった神戸のチームは、近隣住民から「お前らだけ野球をやっててええんか」と怒鳴り散らされたと伝え聞いた。

 永田自身、被災者の心情を慮り、素直に甲子園出場を喜べなかった。

 センバツ出場が決まり、本格的に練習を再開できたのは3月に入ってからだった。その時の光景が永田の胸を打った。

 「みんな笑顔で本当に楽しそうにキャッチボールをしていた。当たり前のことに気付かされた。上手下手は別にして、みんな野球がやりたくて報徳に入ってきている」

 その思いが、甲子園で春夏23勝を積み上げる永田の原点となった。


「ボール回し」の理由とは…


 「全員野球」を信条に掲げる永田の練習は、レギュラーも控えも分け隔てない。

 ある年、新チーム結成後間もないころにグラウンドをのぞいた時のことだ。永田はノックバットを持ったまま、本塁付近に立ち、黙って「ボール回し」を眺めていた。それぞれのベース上には1年生を含めて部員全員が散らばり、列をなしている。

 「ボール回し」とは、各塁上にいる野手の間で送球をつないでいくことだ。ノルマは本塁から一塁、二塁、三塁、また本塁という"ダイヤモンド一周"を50回。1度でもミスすればやり直し。成功するまでノックは始めないという。

 レギュラーだけなら一発で達成できる。ただ、1年生や控えが入れば、誰かがどこかでミスをする。周回を重ねると、主力組でもプレッシャーで腕が縮こまり、時に送球が乱れる。だから、なかなか終わらない。

 50周まで残りわずかのところで送球が逸れた。一斉に大きなため息をつき、しゃがみ込む。苛立った上級生はグラブをたたき、声を荒げる。

守備練習よりも「つなげろ」


 「昨日も同じことをさせたんやけど、結局、朝から夕方まで一日中やっとったわ」

 秋に向けたチームづくりの貴重な時期に守備練習ができなかったというのに、永田はどこか楽しんでいる風だった。

 翌日の昼過ぎ、電話がかかってきた。

 「ボール回し、やっと成功した。子どもら優勝したみたいに喜んでるわ」

 永田の声の奥から選手たちの歓喜の雄叫びが聞こえてきた。

「何で助けてやらないんだ」


 ある時はストップウオッチを片手に部員全員をグラウンド横の陸上トラックに集めた。制限時間を設定し、全員がタイムを切らなければ、もう1回。

 脚力のある選手は悠々とクリアするが、最後尾の数人が届かない。何度、繰り返しても制限時間を超える。後方の部員に嫌気が差しているレギュラー陣に永田はこう告げる。

 「自分らだけゴールできてもいつまでたっても終わらんぞ。何で助けてやらないんだ」

 我に返った主力たちは、へとへとになっている部員たちの腕を引っ張り、背中を押してフィニッシュを目指す。その姿に永田はうなずく。

 実戦や技術練習を後回しにし、ただ投げるだけ、走るだけの練習。しかも、レギュラーと控えが同じメニューをこなす。最初は理解できなかった。甲子園出場を最終目標に置くならば、遠回りではないかとさえ思えた。

 だが、永田は「これが土壇場で生きてくる」と言って憚らなかった。

勝負強さの裏にある「つながり」


 1981年、報徳学園はエースで4番の金村義明(元近鉄、中日、西武)を中心に、夏の甲子園大会を制した。永田も右翼手として優勝メンバーに名を連ねた。

 だが、以降は不祥事が続き、チームは低迷。中京大を卒業した永田が他校のコーチを経て母校に戻った時、名門は甲子園からほど遠い状態だった。

 94年にコーチから監督に昇格したが、中学生勧誘のためにあいさつに出向いても「報徳は『グラウンドがない』『特待生がない』。そして『甲子園に行けない』」と蔑まれるほどだった。

 事実、専用グラウンドはなく、シートノックをする際にはラグビー部やサッカー部などと陣取り合戦。夜間照明はティー打撃ができる程度の明るさで、雨が降れば校舎のピロティで素振りをするのみ。

 特待生制度も部員寮もなく、ライバル校に比べて有力選手は限られていたが、永田が率いる報徳学園は勝負強かった。

 23年間の監督生活で7度、夏の兵庫大会決勝に進出して1度も負けていない。秋は14度、近畿大会に出場して11度、翌春のセンバツ出場につなげている。

 圧倒的な力を誇ったのは数えるほど。ほとんどが終盤の競り合いを制し、底力で1点をもぎ取ってきた。

 「ボール回し」や「トラックダッシュ」は全員が連帯しなければクリアできない。

 互いに協力する一体感、仲間と目標をかなえる達成感。永田は実戦練習を抑えてでも、精神力を植え付け、チームを一つの束にすることに心血を注いだ。

 「仲間のために頑張ろうという気持ちが、個々が持っている力以上の力を引き出す」

たとえ強くても…変わらぬ「姿勢」


 2002年春のセンバツ大会で報徳学園は28年ぶりの優勝を果たした。

 エース大谷智久(現ロッテ)、後にドラフト1位で日本ハム入りする強打の尾崎匡哉らを擁し、自身の高校時代に続き、永田は監督としても甲子園の頂点に立った。

 前年秋の明治神宮大会も制したチームは、永田が監督就任以来、最も戦力が整っていたと言える。主力選手は2年生の春からレギュラーとして扱われ、経験を積み上げた。

 満を持して最高学年となったチームは新チーム結成以来、練習試合も含めて無敗。秋の県大会では激戦の兵庫で9試合連続コールド勝ちと無類の強さを誇った。

 個々が抜群の力を誇るタレント集団に対しても、永田の姿勢はぶれなかった。

 02年のセンバツでは1回戦で日大三(東京)、2回戦で広陵(広島)と歴代優勝校を連破。前評判通りベスト8に名乗りを上げ、優勝の最右翼に位置していた。

 だが、前年秋から公式戦で負け知らずのチームには過信の空気が漂い始めていた。そのわずかな緩みを逃さなかった永田は控えも含めて全員を集め、ミーティングを開いた。

涙の議論。つながる打線


 2回戦は快勝の陰で緩慢なミスがあった。永田は厳しい表情でそれを指摘する。沈黙を破るように、主将が口を開く。

 「チームがバラバラや。これでは優勝できない」

 全力疾走を怠った主力に向かって、控え選手たちが追随する。

 「全力でやらないなら俺たちと代われ」

 涙ながらに激しく意見をぶつけ合った。

 緩みかけていた手綱を締め直したナインは、続く準々決勝の浦和学院(埼玉)戦で「つなぎ」の攻撃に徹する。

 クリーンアップが送りバントを決め、押し出し四球を選んでガッツポーズ。優勝への大きな関門だった浦和学院を結束力で沈め、チームは勢いづく。

 準決勝で福井商(福井)、決勝で鳴門工(徳島)を破り、永田は甲子園で宙に舞った。

門下生が広める「つながれ」の教え


 その後も片山博視投手(元楽天)、近田怜王投手(元ソフトバンク)、田村伊知郎投手(現西武)、岸田行倫捕手(現巨人)らを擁して甲子園出場を果たし、一昨年は小園海斗内野手(広島)、昨年は佐藤直樹外野手(ソフトバンク)と2年連続でドラフト1位を誕生させた。

 

 プロの世界では結果を残せなかった片山は独立リーグのBCリーグ埼玉武蔵でヘッドコーチ兼選手となり、昨年、無名の高校生投手をNPBに送り込んで脚光を浴びた。

 現役引退後、JR西日本に入った近田も社業の傍ら、関西学生リーグの京都大のコーチに就任して学生選手と汗を流す。恩師から薫陶を受けた永田チルドレンたちがプロ、アマを問わず、指導者として花を開かせている。

今こそ大切「つながること」


 阪神・淡路大震災は局地的に深刻な傷をもたらした。

 今のコロナウイルスは被害が目に見えにくいが、全国に広くはびこっている。

 一概に同列に扱えるものではない。ただ、球児にとって、好きな野球をできない辛さに変わりはない。

 グラウンドでの顔合わせもそこそこに自宅で過ごすことになった日大三島の部員たちと、永田新監督は今、メールでやりとりしている。

 慣れないタブレット端末を手に、丁寧にコメントを返して日々の過ごし方をアドバイスしている。

 「こういう時やからこそ、コミュニケーション、つながることが大切だと思う」

 56歳で迎えた人生のセカンドステージ。今はただ25年前のあの時と同じように、選手たちと笑顔で白球を追いかけられる日を待っている。 


(文・神戸新聞 松本大輔)

※この記事は、神戸新聞社によるLINE NEWS向け特別企画です。

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J1神戸、ベルギー代表DF獲得へ 昨季までバルサ在籍

2019年7月25日 18:09 神戸新聞NEXT

 サッカーJリーグ1部(J1)ヴィッセル神戸が、昨季までバルセロナに在籍したベルギー代表DFトーマス・フェルマーレン(33)の獲得に迫っていることが24日、分かった。同日夜、神戸市内のホテルであった神戸とバルセロナ(スペイン)が対戦する国際親善試合「楽天カップ」の歓迎会でクラブ関係者が明らかにした。

 フェルマーレンはアヤックス(オランダ)やアーセナル(イングランド)などを経て2014年にバルセロナに加入。ベルギー代表では昨夏のワールドカップ(W杯)ロシア大会で過去最高の3位躍進に貢献した。

 クラブ関係者によると、すでに来日し、24日夜に神戸市内のホテルで交渉の席についているという。

 正式に加入が決まれば、神戸の外国籍選手は計9人となり、バルセロナの所属経験がある選手もイニエスタ、ビジャらに続き4人目となる。

 神戸とバルセロナの親善試合は27日午後6時からノエビアスタジアム神戸(神戸市兵庫区)である。

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飛び込み・寺内健が練習公開「先陣切って五輪決める」

2019年6月12日 16:27 神戸新聞NEXT

 2020年東京大会で6度目の五輪出場を目指す飛び込み男子の寺内健(38)=ミキハウス、兵庫県宝塚市出身=が10日、活動拠点のJSS宝塚(同市)で練習を公開した。来月の世界選手権の結果次第で、全競技を通じ東京五輪日本代表内定第1号になる可能性があり「先陣を切ってオリンピックを決めたい」と誓った。

 2月から肩を痛めており、板を踏む練習を本格的に再開したばかりだが、世界選手権に向け「5本の指に入る自信はある」と話す。五輪では3メートル板飛び込みとシンクロ板飛び込みでメダルを見据え「どちらにも100パーセントの力を注ぐ」と決意を示した。

 4月の日本室内選手権男子高飛び込みで史上最年少優勝を果たした宝塚市立高司中1年の玉井陸斗(JSS宝塚)には「26歳下のライバルに大きな刺激を受けている。僕の経験も伝えたい」と笑みを見せた。(藤村有希子)

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J1神戸、ポドルスキの復帰めど未定 母国・独で静養中

2019年6月12日 16:17 神戸新聞NEXT

 体調不良で母国ドイツに帰国したJ1神戸のポドルスキについて、復帰の見通しが立っていないことが11日、分かった。当初は同日の練習からチームに合流する予定だったが、三浦スポーツダイレクター(SD)は「へんとう炎でまだドイツにいる」と明かした。

 ポドルスキは5月15日の一般公開練習後、高熱により離脱。同26日の湘南戦で復帰し、1アシストを記録したが、再びチームを離れていた。三浦SDによると、手術を受けず、ドイツの自宅で静養しているといい「一日でも早く戻ってきてほしい」と回復を願った。(有島弘記)

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