美を紡ぐ人 吉田守秀さん(パティシエ)【前編】
取材・文/ルロワ河島裕子
本場の人々が認めたパティスリー新時代のアイコン
フランスの大手テレビ局「M6」のパティスリーのコンテスト番組「LE MEILLEUR PATISSIER:LES PROFFESIONNEL(ル メイユール パティシエ:レ プロフェッショネル)」にて、2018年、2019年にチームで参加し2年連続優勝、仏版「VOGUE」や「Madame FIGARO」など名だたる数々のメディアからも称賛を浴びる、今フランスで最も注目を集めるパティシエの一人、「MORI YOSHIDA」オーナーパティシエの吉田 守秀さん。
2019年11月には東京・渋谷にも初の店舗をオープンし、連日完売するほどの人気を博すなど、日仏で飛ぶ鳥を落す勢いの活躍を続ける彼のニュースは、パリから遠く離れたブルゴーニュの田舎に住む私の耳にも届いていました。
そんなパティスリーの本場で認められた人物が生み出す“フランス菓子”とはいかなるものか、無性に興味をそそられた私は、自宅から300km離れたパリ7区のブティックを訪ねたのでした。
静かな語り口にのぞく自信とパティスリーへの情熱
これまでに多くの実績を残し、舌の肥えたパリの美食家たちを唸らせてきた吉田さん。フランスの多くのメディアでも注目を集めているスターパティシエですが、初対面で言葉を交わす彼は、物腰穏やかで、取材陣の私たちにもこまやかに気を使うジェントルマン。
しかし、その静かな語り口の中にも、これまで歩んできた道のりに裏打ちされた自信とパティスリーへの人一倍の情熱が感じられます。
日本でも大きな成功を収めていた彼が、それを投げ打ってでも挑戦せずにはいられなかったという、パリでのゼロからのスタート。
そこには、現状に満足せず「常に面白いことをしていたい」という吉田さんの強い思いがありました。今回は、そのヒストリーに迫ります。
お菓子づくりに特別な思いのない青年が、パティスリーの魅力に開眼するまで
静岡にある実家が祖父の代から和洋菓子店を営んでいたこともあり、高校卒業と同時に洋菓子の専門学校に通うことになった吉田さん。しかし、当時はお菓子作りに特別な思い入れはなかったといいます。
「僕には兄が2人いるのですが、2人とも優秀でそれぞれ薬科大学、美術大学と、将来を見据えた勉強をしていました。末っ子の僕は、なんとなく自分が後を継ぐのかな、という空気を感じ取り、東京への憧れもあり都内のお菓子の専門学校へ通うことになりました。でもモンブランが栗のお菓子であることも、その時知ったくらい(笑)。意欲のある生徒とは言い難かったですね」と吉田さん。
専門学校卒業と同時に、東京・青山の洋菓子店「アニバーサリー」に勤務。翌年、“フランス菓子”の本場フランスへ留学します。
「でも当時は、フランスのパティスリーにあまり面白さを感じられなかった。僕が“日本の舌”のまま行ってしまったというのもあるのですが」。
そこで半年で帰国、直後、知人の紹介で「パーク ハイアット 東京」で働くチャンスを得ます。ここでの経験と出会いが、吉田さんのパティスリーへの情熱のスイッチをオンする契機になったのです。
コンクール出場やメニュー考案、新たな挑戦が菓子づくりの奥深さを教えてくれた
「当時外資系のラグジュアリーホテルはまだまだ少なく、パークハイアットはその先駆けでした。その中にあるレストランのデザート部門で4年間働いたのですが、ここではスタッフの熱量も技術もレベルが違いました。僕より年下の先輩もいて、生来負けず嫌いの僕は、その中で上に行くにはどうしたらいいか考え行動する日々。
勤務時間以外もコンクールのための練習や準備に時間を費やし、シェフの講習会にも同行させてもらったり、レストランのデザートメニューを考えさせてもらう機会ももらったり……。すべての経験が身になり、その後の自分のベースとなりました」
その後当時お世話になったシェフが自身の店をオープンすることになり、オープニングスタッフとして引き抜かれ、1年間春日部のパティスリーに勤務。
さらに1年後には、実家のお店が道路拡張計画により移動を余儀なくされたため、そのタイミングで故郷の静岡に自身の店「パティスリー ナチュレナチュール」をオープンすることに。27歳の時でした。
「TVチャンピオン2」優勝でたちまち時の人に
しかし、「オープンから1年くらいは全く売れなかった」と言います。
「東京圏で最先端である洋菓子を静岡の田舎で提案しても、お客さまには全然響かない。今考えればニーズとマッチしていないことは簡単にわかることなのですが。それでも“自分のスタイル”は変えたくない。ならば、“自分のステータス”を変えるしかない」と、テレビ東京の「TVチャンピオン2」のケーキ職人選手権に出場。
2006年、2007年の2年連続優勝を果たし、そのテレビ番組の効果もあり、たちまち屈指の人気店に。
「朝10時の開店から、売り切れのため午後2時には店を閉める。そして翌日の仕込みで深夜まで働き、再び早朝から働き始める。そんな働きづめの数年間でした」と当時を振り返ります。
“本物のパティスリー”を求めてパリへ
アメリカ資本のパーク ハイアット 東京で経験を積み、若くして自身の店を構えた吉田さんですが、パティスリーの世界に身を投じれば投じるほど、そのルーツがフランスであり、フランスでのパティスリーの現状を知ることが不可欠であることを痛感したといいます。さらにある出来事が吉田さんを動かすことに。
「デモンストレーションのため在タイ日本大使館に招かれた際、現地の有名寿司店に連れて行っていただいたんです。普通においしかったのですが、そのときのタイの食材で握られた寿司が僕にはしっくりこなかった。その時、“日本人の僕が日本で同じことをしているのではないだろうか”という疑問が頭をよぎったのです」
その後もテレビ番組の選手権での快挙もあり、身を粉にして働く日々。ある年の夏、2週間の休暇をとってパリに滞在していたとき、現地のマルシェで地産の食材を見て、「パティスリーの本場で、その地の食材を使い、本物のパティスリーを作ってみたくなった」のだそう。そうしてパリに拠点を移す決心をしたのでした。
36歳、パリでゼロからのスタート
「静岡の店も順調でしたし、多店舗展開の話もいただいていましたが、そのまま静岡にい続け金銭的に無難に成功したとしても、それは僕が“面白い”と思える未来ではなかった。先が見えてしまうのが嫌なんです」
思い立ったが吉日とパリでブティックを開くため、間もなく渡仏。50〜60軒ほどの物件を巡り、ついに自分が思い描く場所を見つけます。
それが、通りからアンバリッドが望める7区のブルトゥイユ大通りの店。静岡の店の成功により得た資金を元に、開店資金はすべて自身で賄いました。
「スポンサーをつけることもできたと思いますが、妥協のない自分の思い描く形で、現地の人たちにパティスリーを届けるためには、自分の力で店を構えるべきだと思いました」。
そうして工事の大幅な遅れなど幾多の難題を乗り越えながら、36歳のとき、パリに「MORI YOSHIDA」をオープン。
「フランスでは、就業時間は週に35時間までという規制があります。36歳での再スタートを遅いととるか早いと取るかは、その人次第かもしれませんが、僕はそれまでにフランス人の2倍の時間を仕事に費やしてきた。ならば同い年でも2倍の経験がある。やってやれないことはない、という自信はありました」
フランスのメディアでも絶賛、一歩ずつその地位を確かなものに
とはいっても最初から順調だったわけではないといいます。「特に宣伝をしたわけでもなかったので、初めは思うように売れず、地道に少しずつお客さまの信頼を獲得していったという感じです」。
ある時、顧客の一人から「あなたのショコラはとてもおいしいから、サロン・ド・ショコラの品評会に出してみたら」と提案され、参加したところ、いきなり賞を受賞。それから徐々に評判が広がっていき、多くのメディアで取り上げられるように。
さらにフランスでの「MORI YOSHIDA」の知名度を飛躍的に高めたのが、大手テレビ局のパティスリーのコンクール番組「LE MEILLEUR PATISSIER:LES PROFFESIONNEL(ル メイユール パティシエ:レ プロフェッショネル)」にて、2018年、2019年と2年連続チーム優勝を果たしたことでした。
番組の審査員を務めていたパティスリー界の伝説、ピエール・エルメがその実力を絶賛。フランスでの評価が一気に高まっていったのです。
“古き”を知って初めて“新しき”ものが生み出せる
そんな吉田さんがお菓子づくりのインスピレーションにしているのが、食にまつわる研究書や文豪の食にまつわる随筆。
「常に新しいものは生まれていますが、残るものと消えるものがある。例えばカヌレやフラン、エクレアなど、形を変えず世紀を超えて愛され続けるガトーもある。その違いは何なのか。とにかく“味”について知りたいという思いが強く、いろいろな文献を読みあさっています。
知識が増えるほど、これで本当に正しいのか?と不安にもなり、アウトプットのペースが遅くなるというデメリットもありますが(笑)、古いものを知らなければ、後世に残っていく価値のある新しいものは生まれないと思っています。僕が目指すのは、目新しいだけのものではなく、時代が変わっても求められる“普遍的なおいしさ”ですから」
その普遍のおいしさを形にすることに情熱を注ぎ続ける吉田さんは、自身を“味のクリエーター”と表現します。その味へのこだわりについては、次週の後編にて詳しくお伝えすることにいたしましょう。
「パティシエは天職。今が面白くてしょうがない!」
周りから見れば、すでに大きな成功をパリの地で収めているように見える吉田さん。
「褒められているだけの時期は、まだまだ。憎たらしいと思われるくらいになって、叩かれるようになったら、きっと本当に認められたということなんだと思います。その時に“自分の場所”を見つけられるんじゃないかと。
そういう意味では、今はまだもがいているのかな、と思います。ただ、いろいろな出会いが新たな世界へと導いてくれて、今が面白くてしょうがないですね」と未来を見据え、チャレンジし続ける姿が印象的です。
パティシエの仕事を自ら「天職」であると語る吉田さんですが、なぜパティシエの仕事を続けているかと問うと、静かに考え始めました。
「強いて言えば、一つのことにこだわり続けるという性格があるかもしれません。小学校の時に何気なく始めた柔道も、高校の県大会で『こいつには絶対にかなわない』という相手と出会うまでやめられなかったし、子供の頃から好きだったプラモデルづくりが変わらず好きだったり。
それから、実家が和洋菓子店であることや叔母が沼津で一番大きなひもの屋を営んでいたことなどから、小さい頃から人より少し多くおいしいものを食べる機会に恵まれ、無意識のうちに味に敏感に反応する経験を積み重ねてきたことも、今の自分に続いているのかもしれません」
ナンバーワンではなく、オンリーワンになりたい
「現状のブティックでは、お客さまが実際に召し上がっている瞬間に立ち会えないというもどかしさもあります。その場で自分のガトーを召し上がっていただけるサロン・ド・テや、パティスリー教室、新しいことを提案するアトリエ、そしてYouTubeチャンネルの開設など、やってみたいことは山ほどあります。
そのほか現在進行中の計画もいくつかあり、パティシエとして立っているのにこれほど面白いと感じられるのは、パリ以外にはないと実感しています。思いのほかフランス人は保守的だから、ここではアジア人は“ナンバーワン”にはなれないかもしれない。でも、“オンリーワン”にはなれる。これからもパリで地に足をつけて新しいことに挑戦していきたい」。
そう語る吉田さんからは、新時代を切り開く、ポジティブでパワフルなエネルギーがあふれています。
後編では、吉田さんが生み出す美しいガトーの魅力をお伝えします。お楽しみに。
Photo Gallery
吉田守秀/Morihide Yoshida
1977年静岡県生まれ。菓子専門学校卒業後、東京・南青山のケーキ専門店「アニバーサリー」に勤務。半年のフランス留学を経て、「パーク ハイアット 東京」、「菓子工房オークウッド」にて研鑽を積む。27歳の時、地元静岡に「パティスリー ナチュレナチュール」をオープン。2006年、2007年「TVチャンピオン2」パティスリー選手権で2年連続チャンピオンに。
2013年パリ7区に「MORI YOSHIDA」をオープン。2014年サロン・ド・ショコラの品評会で「AWARD DU CHOCOLATIER ETRANGER EN FRANCE」を受賞。2018年、2019年、テレビ局「M6」のパティスリーのコンクール番組「LE MEILLEUR PATISSIER:LES PROFFESIONNEL」にて2年連続優勝を果たす。
2019年11月、渋谷スクランブルスクエアに「MORI YOSHIDA」日本一号店をオープン。現在様々なプロジェクトが進行中。
MORIS YOSHIDA PARIS
65 avenue de Breteuil 75007 PARIS, FRANCE
電話 +33 (0) 1 47 34 29 74
営業時間 10時〜19時15分
定休日 月曜・火曜
MORI YOSHIDA PARIS 渋谷スクランブルスクエア店
東京都渋谷区渋谷2-24-12 渋谷スクランブルスクエア 1階
電話 ︎03-6452-6191
営業時間 10時〜21時
ルロワ 河島 裕子 / Hiroko Kawashima Leroy
ファッションライター。『家庭画報』をはじめ大人の女性に向けた雑誌で、ファッションやジュエリー、時計を中心に幅広く執筆。2018年より、家族とともに、拠点をフランス北部の田舎に移す。2019年夏、ついに憧れのブルゴーニュに家を購入! 夢は夫とともにB&Bを営むこと。パリで道ゆくおしゃれな人に体当たり取材する「パリ、大人のおしゃれの見本帳」、行き当たりばったりのフランス移住エッセイ「意外となんとかなる!? 40代のフランス移住」を同サイトで連載中。
写真/水島 優 編集・取材・文/ルロワ河島裕子
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