プロアスリートの役目とは何か――?
コロナ禍であらゆるスポーツイベントが中止となる中、プロテニスプレーヤーの日比野菜緒は、自問自答を繰り返した。あらゆる職種の人々がこの機に直面した普遍的なその問いに、彼女はいかに向き合ってきたのか?葛藤の履歴を本人が明かす。
これは趣味の延長か? 練習の中で浮かぶ疑念
「考えましたね。プロテニス選手は、プレーしてお金をもらってこそ。試合ができずただ練習しているだけなら、やる必要があるのかなって」。
自分と対話するように、彼女は、ポツリポツリと言葉をつむぐ。
日比野菜緒、25歳。
職業、プロテニスプレーヤー。
世界ランキング、72位。JTA(日本テニス協会)ランキング、1位。
4年前のリオ・オリンピックにも出場した、日本のトップ選手の一人である。
その日比野も新型コロナウイルスの拡大により、3月以降は、公式戦のコートに立てていない。
現時点で世界のプロツアーは、7月いっぱいまでの中断が確定。日比野も多くの制約がある中で、種々の葛藤を抱えながら練習とトレーニングを続ける日々だ。
彼女がテニスを「職業」だと自覚するようになったのは、プロ転向3年目の20歳の頃。
「母親には、3年以内に結果が出なかったら大学に行ってと言われてたんです。3年目でグランドスラム予選に出てツアー優勝もした頃から、自分はプロだと思えました」。
転換期となるその年を、彼女は当時の所属先から契約を切られる窮状の中で戦っていた。そのような経験にも根ざしているのだろう、彼女は『プロ』や『職業』を次のように定義する。
「誰かの役に立てている、社会貢献できていると感じられるのが、仕事なのだと思います。
私の場合は、優勝した時にそれを感じられる。分かりやすく結果が残るので、スポンサーにも『これだけのことをしました』と言えますから。スポンサーに対しては、いつも『これだけお金を出して頂いているのに、私は返せているのかな』と考えるので、結果でお返しできることが一番嬉しいですね」。
自分を支えてくれる人たちの努力や誠意に、結果で報いることができた――日比野が喜びを覚え、プロとしての充実感を覚える瞬間だ。
「自分は、人に希望を与えられているのか?」の疑念
ただ一方で、多くのプロアスリートが口にする「見ている人たちに夢を与える喜び」は、なかなか実感できなかったという。
「もちろん、ファンの方に『感動しました』と言われると嬉しいですが、感動の大きさは測れないだけに、本当に役に立っているのかなと思ってしまったんです。
それは、自分がアスリートに憧れた経験があまりないからかもしれません。浅田真央さんには憧れましたが、それもドキュメンタリーを見て『こんなにストイックにがんばってるんだ』と感動したから。テニスでは、トップ100に入っていても取り上げられるのは上位の数人。たとえば(大坂)なおみちゃんが子供たちに希望を与えているのは分かるけれど、私はどうなんだろうなって」。
胸を巡るそれらの自問は、同世代の若者が社会に出ていくにつれ、一層濃度を増していく。
「同じ年の人は社会の役に立っているのに、自分はどうだろうか?」
そのような葛藤は日比野だけでなく、20代前半の多くの選手が自らに質す問いでもある。その中で男子選手たちは、イベントを立ち上げたり、ソーシャルメディアを使った情報発信を始めた。ただそれらの動きの中で、日比野は何がプロテニス選手として正しいのか、一層悩みを深めていく。
「ツアーが中断になり自分の価値も見えなくなる中で、けっこう悩みましたね、情報発信をやった方がいいのか。私は正直、自分から情報を提供するのはどうだろうと思っているんです。でも今は世間的に、アスリートは何かをすべきだという雰囲気もあり……。
それって、YouTuberやインスタグラマーが増えたからこその悩みだとも思うんです。発信力のある人が求められたり、フォロワー数で評価されている風潮もあるので」。
停止するテニス界の中で、見えてきた一つの真理
IT技術やコミュニケーション手段の発達により、新たに生まれた悩みもあった。同時に、変動する時代の潮流の最中にいた日比野にとって、コロナ禍によるツアー中断は、自分のいた世界を……つまりは、自身の存在価値を客観視する好機にもなったようだ。
「最近は自分と向き合い、考えをまとめる時間が増えました。モチベーションが上がらない時にどうしたか、今どういう思いでコートに向かっているかなどを、ノートに書き留めているんです。ソーシャルメディアでの情報発信も、結局は控えて、ツアーが再開した時にコートで頑張れるように自分のことに集中しようと思った感じです。
さっき言ったことと矛盾するんですが、今こうしてスポーツが中断している中で、ファンの方から『テニスがなくて寂しい』『再開が楽しみ』という声を聞くと、テニスも人々の娯楽の一つとして必要だったんだなというのも感じます。
この状況になって、今まで当たり前と思っていたことが、実はそうでなかったんだなと思いました。世界各国から私たちの試合を見るために来てくれる方がいるのは、すごいことだったんだなって。なので、良かったというと語弊がありますが、そのことに気づけたのはプラス。楽しみにしてくれる方たちのためにも、ツアーが再開したら良い試合を見せたいと思います」。
アスリートにとっての日常とは、多くの人々にとっての非日常であり、それが観る者を魅了して止まない刺激だ。その事実を知った今、彼女は新たな想いを胸に歩み始めている。
日比野菜緒(ひびの・なお)
愛知県出身、25歳。最高ランキング単56位、複43位。単複それぞれでツアー2勝を誇るオールラウンドプレーヤー。趣味は美味しいものを食べることと、日記など文章を書くこと。
【内田暁「それぞれのセンターコート」】