この日、東京・浅草の寄席は感染症対策の一環で客席の定員を通常の半数に制限。どことなくもの寂しい雰囲気だ。ところが出囃子にのって主任の落語家が登場すると、空気は一変。瞬く間に、寄席全体が爆笑に包まれる。
「コロナでね、いま『笑点』はリモート大喜利という形でやってまして。あれ、手の挙げ方も難しいんですよ。縦長の画面ですからね、ハイハイって普通に挙げても手が切れて映らないんです。それから皆、自宅でやってますから、メンバーそれぞれ背景が違いますよね。たとえば、(三遊亭)小遊三さんはおしっこが近いんでね、トイレ近くの壁前に座ってるんですよ」
先月21日から10日間、「浅草演芸ホール」で行われていたのは「林家木久扇 芸能生活60周年記念公演」。そう、世界一の長寿演芸番組『笑点』の人気者「木久ちゃん」こと、林家木久扇さん(82)は今年、落語家人生60年の節目を迎えたのだ。
この浅草が、久しぶりの高座。その間、『笑点』のリモート出演以外の時間は、のんびりと過ごしていたのかと思ったら、そんなこともないようだ。
「コロナで寄席が休みになってる間に僕、本を3冊書いたんですよ。それと僕ね、半年前から『KIKUKIN』って名前でYouTuberもやってるんです。孫も一緒にね。6万人以上の人がチャンネル登録して見てくださっていて。でも、毎週1本、新しい動画を撮らないといけないから、けっこう大変なんです、ネタ切れで(苦笑)。だからね、本にYouTubeに『笑点』と、僕、コロナ時間もあんまり暇ではないんですよ」
そんな、80代になったいまも尽きることないバイタリティ。源にあったのは、75年前の体験だった。
「ほかの噺家さんと違ってね、僕には『生まれてくることは普通じゃない』っていう、無常感がずっとあるんです」
37年、東京・日本橋に4人きょうだいの長男として生まれた木久扇さん。小学校1年のときにあったのが、東京大空襲だ。
「毎晩、夜が明るくてね。爆撃の響きがズンズンとありまして。大勢の人が隅田川に飛び込んで亡くなった、地下に避難した人たちが蒸し焼きになっちゃった、人の死骸は酸っぱい臭いがする……。するともうね、自分も今日死んじゃうのかな、明日かなって、そんな思いが、毛穴から体に染み込むように、僕の中に入ってきて」
その後、両親は離婚。母と暮らすことになり、都立の工業高校を卒業後は森永乳業に就職。しかしある日、漫画家の原稿料の高さを知り、驚いて、わずか3カ月で会社を辞め、『かっぱ天国』が大ヒットしていた漫画家・清水崑の書生に。21歳のときには自身の描いたマンガが『漫画サンデー』(実業之日本社)に掲載され、プロとしてデビューもしたのだが。
「声色が得意ですから、捕り物の漫画を描きながら大河内傳次郎や、片岡千恵蔵のまねをしてたんです。そしたら、それを見ていた先生が『お前、面白いから、落語を習って寄席に出てみたら?』って」
清水は懇意にしていた三代目桂三木助への紹介状をしたため、木久扇さんに手渡した。
「僕はここが人生の一大転機だなんて気づきもせずに、言われるがまま、田端の三木助師匠の家を訪ねたんです。そしたら、もう入門することが決まっていて」
じつに軽~い気持ちで転身を果たしたものだが、そこから60年、木久扇さんは落語家として歩み続けている。
「三木助師匠の見習いのころ、亡くなったおばあちゃんの法事があったんです。そこで親戚から『なんかやってよ、おばあちゃん喜ぶから』って頼まれて。それで覚えたての『寿限無』をやったら、お客が知った顔ばっかりだからか、妙にあがっちゃって。それでも皆、喜んでくれて、終わったら親戚のおばちゃんが『これ、とっといて』って3千円くれたんです。そのとき覚えたんですね、落語をやると、皆が笑ってくれて、お金までもらえるって。だから、古典落語が好きだからとか、日本の伝統芸能を守りたいとか、そんな気持ちは全然ないんですよ。『え、これ、いただいていいんですか?嬉しい!』って、そんな気持ちでずーっと60年、きちゃった(笑)」
戦時中の東京を生き抜いて、高座に座って気が付いたら60年。YouTubeへの投稿動画も34本に! 止まることなきバイタリティで、これからも多くの人を笑わせていくだろう。
「女性自身」2020年8月18・25日合併号 掲載