織田信長が怖れ、徳川家康を一蹴した武田信玄。一般に戦いの天才というイメージが強い信玄だが、それだけで戦国最強軍団を構築できたわけではありません。
ワンマンが多かった戦国時代において、信玄は家臣たちの意見を取り入れる合議制を行った大名でした。後編では、嫡男義信廃嫡事件を契機に家臣団を引き締め、戦国最強軍団に仕上げた信玄のリーダーシップを紹介しましょう。
前編の記事
→武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】|https://news.line.me/issue/oa-japaaan/sm772fc315p5}}
嫡男信義の謀反で揺らぐ家臣団
合議制を採用したことで、盤石かと思われた武田家臣団。しかし、1567(永禄10)年、思わぬことで揺るぎが生じてしまいます。それは、嫡男義信の謀反でした。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川義元を討たれた駿河国主今川家は、後を継いだ氏真の代になると、三河の徳川家康の圧力に抗しきれなくなっていました。
こうした状況を見ていた信玄は、駿河侵攻を決意します。しかし、今川義元の娘を正室に迎えていた義信は、妻の実家を攻めることに承服できなかったのです。
ここにおいて、義信は側近の飯富虎昌(信玄重臣で義信傅役)と図り、信玄暗殺を企てました。信玄はこの動きに素早く反応。義信を廃嫡のうえ幽閉し、虎昌ら側近を根こそぎ処断したのでした。
実はこの事件、信玄にとっては憂慮すべきものでした。武田家臣団が、反今川派(信玄派)と親今川派(義信派)に分裂、派閥抗争に発展してしまったのです。
家臣団の分裂こそ、信玄が一番恐れることでした。それ故に、武勇・知略に優れ、将来を期待された嫡男と譜代の重臣を処断したのでした。
義信廃嫡の後、信玄は、生島足島神社において、家臣たちに忠誠を誓わせる起請文を奉納させます。これは、事件で生じた家臣団の動揺を鎮めることと、団結の引き締めを図ったに違いありません。
苦難を乗り越え戦国最強軍団に仕上げる
1570(永禄13)年、信玄は今川氏真を追い、駿河を手中に収めます。さらに、その2年後の1572(元亀3)年、第15代将軍足利義昭の要請に応え、西上作戦を開始、織田信長との全面対決に突入していくのです。
信玄は京都を見据え、遠江に侵攻します。浜松城に本拠をおいていた徳川家康を三方ヶ原で一蹴すると、三河に軍を進め、1573(元亀4)年、野田城を陥落させました。
この頃の信玄と武田軍団には、凄みすら感じられます。信玄は、武田軍を「向かうところ敵なし」という表現がぴったりな戦国最強軍団に仕上げていたのです。
三方ヶ原で惨敗を喫した家康が、浜松城に逃げ帰る際、恐怖のあまり馬上で脱糞してしまったという逸話は、武田軍団の恐ろしいまでの強さを物語っていました。
しかし、天命は信玄に味方しませんでした。野田城攻め直後から持病による喀血を起こし、病状は悪化する一方でした。信玄は、家臣たちと話し合い、甲斐撤退を決意します。そして、帰国途中の信濃で53歳の波乱の人生を閉じたのでした。
リーダーシップが合議制を成功させた
家臣団の信頼と結束を固めるため合議制を採用し、武田家を戦国最強軍団へと成長させた武田信玄。
その成功は、信玄が強力なリーダーシップを発揮したことにありました。ただ意見を聞くだけなら誰にでもできます。問題は、その意見の善し悪しを判断して、まとめ上げる力があるかどうかです。
もし、合議の席で結論が出なければ、リーダーが毅然たる態度で、結論を出し、家臣たちを納得させなければなりません。信玄は、常に強力なリーダーシップを発揮して、明確なビジョンを打ち出し、家臣団を導いたのです。
また、信玄は自分に対しても常に厳しい態度で臨みました。
「晴信が定めや法度以下において、違反しているようなことがあったなれば、身分の高い低いを問わず、目安をもって申すべし。時と場合によって自らその覚悟をする」
と述べています。
これは、信玄が定めた決まりを家臣や領民だけに押し付けるのではなく、国主である自分もその束縛を受けるのだ、という意味です。
信玄は、自分も武田家という組織の中の一員であると考えていました。だから、決めごとに違反した時には、自分にも厳しく罰すると明言したのです。
信玄のようなリーダーがいたからこそ、家臣たちは信頼と結束の絆で結ばれ、戦国最強といわれる強靭な組織が構築されたのでした。
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