明治天皇のお妃さま、昭憲皇太后
東京の中心である原宿からも代々木からもほど近い、明治神宮。この神社に御祭神として祀られているのは、明治天皇と、そのお后・昭憲皇太后です。御祭神がご夫婦ということで縁結びのご利益があると言われ、都心でありながら大人気のパワースポットとなっている神社です。
このお二方のお名前を並べて見ていると、不思議なことに気付きます。明治天皇と並んで祀られている昭憲皇太后は、確かに亡くなられた時の身位は皇太后でした。皇太后とは、天皇の母の意味。しかし「両陛下」をお呼びする時には「天皇皇后両陛下」であり、「天皇皇太后両陛下」とは呼びませんよね?
また、亡くなられた方は生前の最も高い身位で呼ばれるのが習わしとなっています。皇太后では皇后より位が下となってしまうので、本来であれば昭憲皇太后にも皇后としての諡(おくりな)が追贈されるはずです。実際に、大正天皇の皇后は「貞明皇后」、昭和天皇の皇后は「香淳皇后」との追号が贈られています。これらに基づけば、「昭憲皇后」と呼ばれることになるはずなのに、なぜ「皇太后」なのでしょうか?
皇后ではなく皇太后と称される理由
昭憲皇太后は嘉永3(1850)年4月17日、左大臣・一条忠香(ただか)の三女として誕生され、大正3(1914)年4月9日に64歳で崩御されました。お亡くなりになったとき、夫である明治天皇は既に崩御されていて、実子のいなかった昭憲皇太后は明治天皇の側室が産んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子としていたため、「大正天皇の母」という意味で「皇太后」と称されていました。
昭憲皇太后が崩御されると、当時の宮内大臣は彼女の追号を大正天皇に上奏しました。ところがここで、ちょっとしたミスがありました。何と!宮内大臣は、昭憲皇太后の身位を「皇太后」から「皇后」に改めず「皇太后」としており、大正天皇もそれをそのままご裁可してしまったのです。
そして彼女は明治天皇と共に明治神宮に祀られたのですが、この時の御祭神名も「昭憲皇太后」のままとされてしまったのでした。
このことは、ご鎮座寸前の大正9(1920)年に問題となり、「昭憲『皇太后』から昭憲『皇后』に改めるべきではないのか?」と明治神宮の奉賛会会長より宮内大臣へ意見が出されました。
しかし、
「天皇よりお許しがあったものは、間違っていても変更できない」
「既にご神体に御祭神名が記されているため、御鎮座の日までに新たに作り直すことは不可能」
といった理由で、訂正することはできませんでした。
その後も何度かこの件は問題視され、明治神宮の奉賛会から宮内庁へ意見が複数回にわたり出されてきましたが、2017年現在も改められることはないままとなっています。
まさか崩御後にご自身の追号についてこのような議論が巻き起こるとは、昭憲皇太后ご本人もさぞかしビックリしていらっしゃることでしょう。私達も既に「昭憲皇太后」とお呼びすることに慣れてしまってはいるものの、今後何かの機会に「昭憲皇后」と改められる日も来るのかも知れませんね。