cat_5_issue_oa-japaaan oa-japaaan_0_d2lrowpdr7q5_戦国最強の騎馬隊。武田軍の「赤備え」を組織した兄弟武将【前編】 d2lrowpdr7q5 d2lrowpdr7q5 戦国最強の騎馬隊。武田軍の「赤備え」を組織した兄弟武将【前編】 oa-japaaan 0

戦国最強の騎馬隊。武田軍の「赤備え」を組織した兄弟武将【前編】

2021年3月1日 08:46 Japaaan

戦国期を代表する武将「武田信玄(たけだしんげん)」は、卓越した手腕で甲斐武田氏の全盛期を築き上げた。武田氏の台頭には巨大な軍事力で信玄を支えた武田軍の存在があったが、中でも真紅の鎧に身を包み無敵を誇った騎馬隊は「赤備え」と形容され、敵国を圧倒した

今回は、甲斐武田氏の軍事力基盤として機能し、騎馬隊の基礎を作った2人の武将をご紹介する。

戦国における「赤」の意味

戦国時代において「赤」は特別な色であったとされる。膨張色である赤は、敵味方入り乱れる戦場において味方を正確に認識する手段として機能し、視覚効果により実際の兵数よりも多くの軍勢が存在するように錯覚させ、情熱や興奮という色彩イメージによる士気向上ももたらした。

また、戦国期における赤色の塗料は貴重であり、特別な武将や部隊だけが身に纏うことを許されていたという。真紅の鎧を身に纏った軍団の存在は、それのみで敵軍を威圧する効果もあった。

「赤備え」とは

貴重な赤い鉱物である「辰砂(しんしゃ)」から作られた鎧で統一された軍団や部隊編成を指す。戦国期には赤以外にも黒や黄で統一された部隊の存在が確認されているが、赤備えの部隊は各国の精鋭部隊であることが多く、国の武力の象徴として君臨した。

【主な赤備え部隊】

・武田の赤備え・・・(武田信玄軍の中で組織された騎馬部隊)

・真田の赤備え・・・(大阪夏の陣で真田信繁(幸村)が組織した部隊)

・徳川の赤備え・・・(徳川家康家臣の井伊直政による部隊。武田遺臣からなる)

・江戸幕府の赤備え・・・(将軍外出時の護衛旗本が着用した。武田の赤備えに習った様式)

・その他の赤備え・・・(北条氏の家臣や黒田如水(官兵衛)の配下にも朱色の甲冑を用いて戦った武将が多く存在する)

【後編】では、赤備えを生んだとされる武田氏配下であった二人の武将についてご紹介する。

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cat_5_issue_oa-japaaan oa-japaaan_0_sm772fc315p5_武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】 sm772fc315p5 sm772fc315p5 武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】 oa-japaaan 0

武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】

2021年2月28日 09:14 Japaaan

織田信長が怖れ、徳川家康を一蹴した武田信玄(たけだしんげん)。一般に戦いの天才というイメージが強い信玄ですが、それだけで戦国最強軍団を構築できたわけではありません。

ワンマンが多かった戦国時代において、信玄は家臣たちの意見を取り入れる合議制を行った大名でした。この【前編】では、信玄が実践した合議制と、それにより構築された戦国最強の軍団についてお話ししましょう。

戦国大名としては珍しかった合議制を採用

武田信玄は、多くの家臣たちを集めて合議(今でいう会議)を盛んに行ったことで知られています。これは、戦国時代では珍しいことでした。

当時は、合戦や内政などに関わる重要な決断を行うのは、戦国大名単独か、少数の側近のみの意見を聞き、決定していました。

その理由として、戦国大名の複雑な家臣団の構成にありました。家臣は、代々にわたりその大名に仕えていた者だけでなく、戦いの過程において服従した者たちも多く含まれていたのです。

中には、隙あらば裏切りの機会を狙っている者や、敵から送り込まれた間者(スパイ)などもいたことが考えられます。そうした状況で、多くの家臣たちを交えて重要な事柄を話し合うのは、国の存続にもかかわる、とても危険な行為であったのです。

苦い経験を活かして合議制を採用

危険を冒してまでも、信玄が家臣たちの意見を尊重する合議制を採用したのには、家督相続時の苦い経験があったからでした。

信玄が誕生した1521(大永元)年頃は、甲斐国主でありながら武田家の力は盤石とはいえませんでした。信玄の父・信虎に対する家臣たちの忠誠心は薄く、家臣たちも内紛が絶えないという状況だったようです。信虎は強硬策に出て、自分の意に沿わない者たちを容赦なく処断したため、多くの家臣たちから反発を買っていました。

1541(天文10)年、ついに重臣たちを中心に信虎追放というクーデターが勃発します。そして、信玄を新たな国主に祭り上げたのです。こうした状況ですから、家臣団にまとまりがあるわけがなく、若き国主信玄は家臣たちの掌握に苦労し続けました。

その結果、家臣団を束ねるには、合議制を行い彼らの言い分に耳を傾けること。そして、領土拡大により、彼らの所領を増やし、保証することという結論にたどり着いたのです。

合議制が信頼感・連帯感を生んだ

合議が行われる際に、信玄は出席した家臣全員に意見を述べるように促したとされます。そして、家臣の意見を取り入れることにより戦いで勝てたり、内政などの問題の解決に至った時、信玄は家臣の功績を第一とし褒め称え、しっかりとした報酬などで報いました。

武田家臣団と言えば、江戸時代の講談などで特に評価が高い武将の総称「武田二十四将」が有名です。しかし、こうした信玄の姿に、二十四将だけでなく多くの家臣たちはますます奮い立ったことでしょう。

さらに、武田家という組織の運営に、自分たちが主体的に参加しているという意識とともに、主君信玄に対する信頼感や連帯感が強まったのはいうまでもないことでした。

このようにして、『風林火山』の旗のもと、信玄の下知に従い、「はやきこと風のごとく」「しずかなることはやしのごとく」「侵略すること火のごとく」「動かざること山のごとし」のような際立った進退を誇る、戦国最強の武田軍団が構築されていったのです。

【後編】に続く……

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長崎の町役人から江戸幕府に仕える幕臣へ上り詰めた男!幕末の砲術家・高島秋帆の生涯

2021年2月28日 09:11 Japaaan

外国船の来航によって、江戸時代の泰平は終わり動乱の幕末が始まります。新時代を生き抜くため、日本全体が大きな変革を求められました。

時代の最先端を走り、長崎から日本の開化政策を主導した男がいました。町年寄で砲術家でもある高島秋帆(たかしま しゅうはん)です。

秋帆は優れた見識や手腕を幕府や全国に認められますが、無実の罪によって投獄。それからは長い戦いが続きました。しかし出獄後、彼は幕府のブレーンとして取り立てられます。

大河ドラマ『晴天を衝け』でも描かれた、高島秋帆の生涯を見ていきましょう。

高島秋帆、長崎の町年寄の家に生まれる

寛政10(1798)年、高島秋帆は長崎町年寄・高島四郎兵衛茂起の三男として生まれました。諱を茂敦,通称は四郎大夫と名乗りました。「秋帆」は号にあたります。

高島家は近江国高島郡高島荘を発祥とする一族です。同家は戦国時代に長崎に移住して以降、長崎の町年寄を代々世襲してきた家柄でした。

町年寄は、町奉行の下で町政を司る立場の役人でした。職務においては、奉行の御触や指令の伝達を行い、消防や交通など町政全般を取り仕切っています。

特に高島家は長崎の脇荷貿易(個人的貿易)で潤い、十万石の大名に匹敵するほどの利益をあげていました。長崎の大村町に、広さ1024坪の邸宅を構えていたといいます。

平穏な時代であれば、安穏な暮らしが約束されていたはずでした。しかし18世紀末になると、国外の情勢は大きく変化していきます。日本近海には、次々とロシア船やイギリス船が出没するようになっていました。自然、国防に対する意識も高まってきます。

当時の日本は鎖国体制にあり、長崎は海外との唯一の玄関口です。同地では特に外国への危機意識が強くありました。

秋帆の父・四郎兵衛は,長崎港の出島の台場(砲台)を任されていました。四郎兵衛は荻野流砲術家・坂本孫之進に学んで砲術を極め、砲術師範となっています。

秋帆も早くから父・四郎兵衛から荻野流砲術を学び、自身も皆伝を受けるほどの腕前でした。

高島秋帆、長崎でオランダ仕込みの砲術家となる

文化11(1814)年、秋帆は高島家の家督を相続。わずか十七歳の若さでした。

その後、町年寄見習となって台場を任され、後には長崎会所調役頭取となっています。秋帆は町年寄や鉄砲方を勤める一方で、大きな危機感を抱いていました。

当時の日本は、鎖国によって欧州文化の輸入が途絶えた状態です。当然、日本の砲術に関する進化も止まり、西洋砲術に大きな遅れを取っていました。

このときの日本の砲術は、軽砲に限定されています。武装した外国の軍艦には、とても歯が立たない状態です。

秋帆は、蘭学など西洋の砲術の知識を学ぶことを決意。長崎に在留していたオランダの砲兵士官の下で学びます。四年の間にオランダ語をはじめ、西洋の兵器学や戦術などを身につけています。

文化13(1816)年には,儒学者・藤沢東畡(とうがい)が長崎に遊学し、秋帆の自宅に寄宿。そこから三年間、秋帆は東畡の教えを受けています。

秋帆は蘭学だけでなく、儒学においても一流の教育を受けたことになります。多彩な学問の知識を貪欲に取り入れることで、複合的な視点が培う意味があったのかも知れません。

しかしまだ、秋帆の向学心を満たしたわけではありません。私費で砲術に関する文献や大砲、砲弾や小銃などの武器も大量に輸入しています。

天保3(1832)年〜天保10(1840)年の八年間に、前装式野砲6門、前装式臼砲4門、前装式榴弾砲3門、小銃350挺を購入しています。これらの大砲は全て滑空砲(ライフリングが施されていない大砲)で、砲弾は鉄円弾でした。

天保5(1834)年、秋帆は高島流砲術を完成させます。同時に全国から門人を集め、砲術を教授していきました。同年には、佐賀の武雄領主・鍋島茂義が入門。翌天保6(1835)年には、茂義に免許皆伝を与えると同時に、モルチール砲を献上しています。

天保11(1840)年には、門人の数は300人を超えました。門人の中には、伊豆国韮山代官・江川太郎左衛門(坦庵)や幕臣・下曾根信敦が名前を連ねています。

秋帆は砲術家として、日本でも有数の指導者であったことがわかります。

やがて長崎に衝撃的な報告が長崎にもたらされます。清国がイギリスを相手としたアヘン戦争(1840〜1842年)で敗北したのです。

これにより,西洋諸国が日本などの東アジアに進出する可能性が高まっていました。

秋帆は「オランダ風説書」を通して、清国の敗因を分析。その結果、武器の相違と優劣こそが清英両国の勝敗を決定づけたとの認識を持つに至ります。

天保11(1841)年、秋帆は当時の長崎奉行,田口加賀守を通して幕府に上書(天保上書)を提出します。これには「洋砲採用の建議」が盛り込まれていました。大砲の近代化と兵制改革を訴えた内容です。

高島秋帆、長崎から江戸に出て公開軍事演習を行う

天保12(1842)年には,実際に行動に起こしています。

武蔵国徳丸ヶ原において,日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の訓練を公開演習形式で行いました。幕府の命によるものです。

訓練は、砲兵・騎兵、そして歩兵による銃陣(銃で武装した兵隊からなる陣)を行っています。これは予行演習、本演習と二日間に続いて実施されました。

秋帆は装束に筒袖に裁着袴(たっつけばかま)、頭には黒塗円錐形の銃陣笠を着用して臨んでいます。検分した幕府の役人は「異様之冠物」と称しています。

この演習には、秋帆とその門人たち総勢百人が参加しています。

老中・水野忠邦らが検分者として見学し、多数の大名関係者や蘭学者、砲術家や江戸の住民らが訪れています。人数は一千人を数えたと言われています。

見学者の中には,まだ若い時代の勝海舟の姿もありました。

公開演習は不発が一つもなく,無事成功に終わります。幕府は秋帆が所有する大砲を買い上げ,演習の功績として銀500枚を与えています。

昭和44(1969)年には,この訓練地は高島秋帆にちなみ「高島平」と名付けられました。

演習の後,秋帆は幕府からは砲術家として信任を受けることとなります。老中・阿部正弘は「火技中興洋兵開基」と秋帆を高く称賛しました。この後、秋帆は幕臣にも高島流砲術を教授する立場となります。


 

稀代の砲術家・高島秋帆、長崎会所の件で捕らえられる

砲術家として、秋帆の人生は順風満帆に見えました。しかしあるときを境に、運命は暗転してしまいます。

天保13(1842)年,秋帆は長崎奉行・伊沢政義によって突如捕縛されます。そのまま投獄され、江戸に護送されていきました。結果、高島家はお家断絶となってしまいます。

捕縛理由は,長崎会所の杜撰な運営というものでした。秋帆が会所調役頭取であったため,責任を問われたという形です。

しかしこれは、幕府の一部によって仕組まれた事件だったようです。

当時の幕府目付・鳥居耀蔵(伊沢政義の舅)は,蘭学者を敵視する人物でした。耀蔵は洋式軍備に明るく、豊富な資金力を持つ秋帆を危険視します。そこで耀蔵は伊沢と組み,秋帆の逮捕に踏み切ったといいます。

耀蔵は秋帆に「密貿易」と「謀反」という罪を着せ,断罪しようと目論みました。小伝馬町の牢屋敷では,耀蔵が直々に秋帆の取り調べを行うという徹底ぶりを見せています。

さらに耀蔵の背後には,老中・水野忠邦がいたという説がありました。当時水野は天保の改革を遂行していました。水野は,長崎会所の経理の乱脈が銅座における精銅生産に影響することを恐れたともされます。

秋帆は死罪こそ免れましたが,さらに身柄を武蔵国の岡部藩(現在の埼玉県深谷市)に移されました。そのまま同地において幽閉されますが,諸藩は秘密裏に秋帆と接触。洋式兵学の教授が行われていました。

秋帆は幽閉の身でしたが、完全な軟禁状態にあったわけではないようです。秋帆は岡部藩では客分扱いとされ、藩士に兵学を教授したと伝えられています。

さらにこの岡部藩で、新たな出会いもあったようです。

岡部藩領には、血洗島という村があります。同地は、のちに近代日本経済の父と言われる渋沢栄一が生まれ育った土地でした。

秋帆は岡部藩に幽閉された際、渋沢と面識を持った可能性があります。大正10(1921)年になりますが、高島平に「高島秋帆先生紀功碑」が建てられました。その際、渋沢も同企画に賛同した上で寄付をしています。

日本の軍備と経済の基礎をつくった二人は、岡部藩でどのように出会い何を語り合ったのでしょうか。

その一方で、秋帆の門人である江川太郎左衛門らは,幕府に秋帆赦免を願い続けていました。


出獄後の高島秋帆、長崎の町年寄から砲術を教える幕臣となる

嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。幕府は開国政策に舵を切ることになります。

その最前線に立っていたのが、当時老中首座となっていた阿部正弘でした。阿部はかねてから秋帆の砲術家としての知見を見込んでいた人物です。

阿部は、本土を防衛するための砲台建設が急務と考えます。そこで専門家である秋帆に赦免を言い渡しました。

ほどなく秋帆は出獄。11年ぶりに幽閉を解かれて自由の身となりました。その上で海防掛御用取扱の役職に任命され、江川太郎左衛門の手付(下役人)の地位を与えられています。かつては罪人扱いされた秋帆が、今度は幕臣に取り立てられました。

この段階では,攘夷論が根強い風潮にあります。開国政策は忌み嫌われ,批判や迫害の対象とさえなっていました。

しかし秋帆は臆しません。これまでの鎖国政策を誤りだと批判。さらに開国と通商行うべきだと、幕府に『嘉永上書』で上申します。

幕府は本格的な西洋式軍隊を作り始めていました。そこで西洋兵学の実務教育が重要視されていきます。

秋帆はさらに幕府講武所(武芸訓練機関)において、砲術師範に任命。講武所教授方頭取,講武所奉行支配などを勤めるに至ります。砲術家として、公的な立場で後進の指導と育成に力を入れていくことになりました。

砲術の重要性は、既に全国の諸藩が認識するところです。当時の幕府は80門の大砲を入手。嘉永7(1854)年の段階では、全国の大名家221家に合計1374門の大砲があったと伝わります。

元治元(1864)年,秋帆は兵学の教練書である『歩操新式』を編纂。すでにこの頃の秋帆は、日本における兵制改革の先駆けとも言える存在でした。

この頃,妻子を江戸に呼んで長屋住まいをしていたようです。十万石の大名に匹敵すると言われた町年寄の身分には戻っていません。あくまで質素な暮らしを続けていました。

しかし幸せな時間は長くは続かなかったようです。晩年の秋帆は、妻子や孫に先立たれています。

慶応2(1865)年,高島秋帆は世を去りました。享年六十九。墓は大円寺にあります。

参考文献

  • 「高島秋帆」 埼玉県深谷市HP
  • 「【西洋砲術の先駆者:高島秋帆】日本に洋式砲術を導入した男の生涯と逸話」歴人マガジンHP
  • 「高島秋帆と武雄の砲術」 武雄氏HP
  • 坂本保富 「武州徳丸原操練に参加した高島秋帆門人ー既知史料の吟味と新史料の紹介による比較検討ー」
  • 「高島秋帆」 関西大学HP
  • 水野大樹 『図解 火砲』 新紀元社 2013年
  • 幕末研究会 『幕末維新人物事典』 新紀元社 2004年

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大正〜昭和初期にマルチな才能で活躍した「小村雪岱」の洗練されたモダニズム

2021年2月27日 10:44 Japaaan

「小村雪岱(こむらせったい)」という画家をご存知ですか?

大正から昭和初期まで日本画家・版画家・挿絵画家・装丁家、そして舞台背景までも手掛け活躍された画家です。

今回は挿絵画家としての「小村雪岱」の作品を中心にご覧いただきたいと思います。

新聞小説挿絵群

おせん

 

上掲の絵は『東京日日新聞』に昭和8(1933)年に国枝完二が連載した『おせん』に小村雪岱が寄せた挿絵の中の一枚です。

この『おせん』という新聞小説は、あの「鈴木春信」が好んで浮世絵に描いた笠森稲荷の水茶屋で働いていた看板娘「笠森お仙」を題材にした新聞小説です。

 

 

新聞小説『おせん』は、鈴木春信にモデルにされるほど美しい少女である“おせん”。それ故に“おせん”に近づこうとする男達の中には、度を越してまでしつこくつきまとう者さえおりました。しかし実は“おせん”には幼い頃から大事に思う人がいたのですが・・・といった内容です。

 

 

どの線も一本も無駄な線は描かれていない、けれど揺れ動く心情が全て描かれていると言ってもいい絵ではないでしょうか。

お傅地獄

 

上掲の絵は『読売新聞』に昭和9年から国枝完二により連載された、新聞小説『お傳地獄』に掲載された小村雪岱の挿絵です。

この『お傳地獄』は「高橋お伝」という実在の女性が起こした事件をもとにして書かれたものです。

「お傅」は夫が皮膚の病にかかり名医を訪ねて横浜へと移り住むのですが、やがて夫は病死してしまいます。手持ちのお金はすぐに底をつき「お傅」は体を売ってお金を得るようになります。やがてある男が夫婦になれば金は用立ててやるということになり、その男と同衾した翌日男は金を払わないと言いだし、腹を立てた「お傅」はその男を殺してしまい・・・といった内容です。

 

 

鏡に写した“お傅”の顔。このなんとも言い難い表情はどうでしょう。

「この挿絵を描いた小村雪岱とはウマが合い、『あれだけわたしの作品を理解して、江戸の女を描いてくれる人は、今後二人と出るまいと思っている」邦枝完二『名作挿画全集』平凡社

上記に述べているように邦枝完二と小村雪岱のコンビは小村雪岱が亡くなるまで続き、その画風は『雪岱調』とも呼ばれました。

邦枝完二新聞小説の挿絵(その他)

 

 

 

細鋭な線とベタ(黒塗り)で描かれる絵のバランスの素晴らしさは、悲しさややるせなさといった人間の感情を静かにそして荒々しく描き出しているように思えます。

 

お傅地獄の色刷絵

]
 

浪之助「お伝」

伝「え」

浪之助「もっとこっちへ寄ンねえ」

伝「あい」

浪之助「おめえ夜っぴて俥で帰(けえ)って来た上に、あんな騒ぎをやったんで、

くたびれたろう」

・・・

]
 

市「お伝」

伝「あい」

市「おれ、どうでも気が済まねえかえら、やっぱりおめえは先へ帰(けえ)ンねえ」

伝「あたしを帰してお前さん、どこぞへ行く気じゃないのかえ」

・・・

上掲の2点の絵、背景にセリフが書き込まれているのがお分かりでしょうか。絵の下記にその一部を記してみました。

これは新聞小説『お傅地獄』の挿絵の何点かを色刷りし、新聞記事上では余白になっていた部分に小説の中のセリフを描き込んだものだと思われます。

この絵の色合いそして人物の居ずまい等々が既にそれだけで素晴らしい作品として完成しているものに、更に“文字”を描きこもうという発想自体が今で言う高度な“グラフィックデザイン”の感覚を感じさせます。

小村雪岱は5歳の頃、両親をなくし親戚を転々とした末に叔母の世話で日本橋檜物町に住む“書家”の安並賢輔の学僕となり後に養子となりました。多感な時代を「書」に接していたということは雪岱に大きな影響を与えたでしょう。

27歳の頃、小村雪岱は創設間もない「資生堂意匠部」に在籍し、装幀や雑誌そして和文ロゴタイプの作成に携わり、後に「雪岱文字」と言われるタイポグラフィを生み出しました。

風景画

]
 

上掲の作品を“風景画”というカテゴリーに加えることに迷いがありました。なぜかというとこの作品には“静物画”のような佇まいがあります。

一枚一枚丁寧に書かれた屋根の瓦。そして家に降りかかるように青柳が枝を垂らしています。その新緑のような色の清潔な青畳の中央に整然と並んでいる三味線と鼓が二つ。

確かに誰かがここに居たのだという気配を感じさせながら、ただ静かな時間だけが切り取られているようでもあります。

小村雪岱が15歳の頃に住んでいた“日本橋檜物町”は江戸時代から戦後まで一帯に花街が広がっているような場所でした。日本髪に着物姿の花柳界の女性や江戸の雰囲気が多少なりとも残っていたであろう町で育ったことも、小村雪岱の画風に関係があるとも考えられます。

このような景色も小村雪岱にとっては珍しい場所ではなかったのかもしれません。

まとめ

今回紹介した「小村雪岱」の作品は数多くある作品の一部に過ぎません。数々の傑作をあらゆる角度から企画した【特別展 小村雪岱スタイルー江戸の粋から東京モダンへー】という美術展が三井記念美術館で2021/2/6(金)~2021/4/18(日)まで開催されています。

評価されるに遅すぎたと思われる「小村雪岱」氏の作品を是非その目でご覧になり感じいただければと思います。

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「本能寺の変」後、豊臣秀吉が驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”ができた理由

2021年2月27日 10:35 Japaaan

織田信長の死を知った豊臣秀吉が3万もの兵を引き連れながら1日50キロという驚異的なスピードで行軍したという“中国大返し”。

この速すぎる反応に、後世の人々は「秀吉本隊だけが先に行軍し、他はあとで秀吉を追ってやってきた」とか「秀吉は信長の死を事前に知っていた」などの理由を考えました。

しかし、記録によると秀吉はこれよりさらに速く行軍していた記録があります。それは、賤ケ岳の戦いでのこと。相手は、秀吉のライバル・柴田勝家でした。このとき秀吉は1万5000の兵を引き連れながら、約52キロの道のりを僅か5時間ほどで駆け抜けたのでした。

時速に計算すると、約10キロ。その余りの速さに、秀吉の登場を予想していなかった柴田軍はすっかり油断をし、錯乱状態となって敗走したのでした。

今と違って、自動車も鉄道もなかったあの時代、秀吉はなぜこれほどまでのスピード行軍を実現できたのでしょうか。

それは、行軍に必要不可欠な食糧・武器を、道中で調達できるようにしたからでした。

秀吉はまず先発隊を賤ケ岳に向けて出発させて、その道中の村々に協力を要請しました。つまり、恩賞と引き換えに食糧・武器を準備させたのです。そして、本隊の方はほとんど荷物を持たずに出発。道中の村々で、村人たちから握り飯やたいまつなどの必要なものをもらい、休まずに行軍。

その結果、驚異的なスピードで敵陣の元へと向かったのでした。かつて鬼柴田といわれるほどの強さを誇った柴田軍。まともに戦うには、敵の意表を突くしか勝ち目はなかったのではないのでしょうか。

参考
小和田哲夫 『賤ヶ岳の戦い「兵站線の確保と機動力」』 歴史群像デジタルアーカイブス

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ジュリ〜〜ッ!日本レコード大賞やベストテンなど沢田研二の音楽番組の映像を厳選した7枚組DVD BOX発売

2021年2月26日 15:00 Japaaan

伝説のグループ・サウンズ“ザ・タイガース”からロック・バンド“PYG”を経て、1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でのソロ・デビューから50年目となる、沢田研二さんの7枚組DVD BOX『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』が発売されます。



本商品には、1973年から1990年の間にTBSテレビで放送された沢田研二さんの音楽番組の映像を厳選し収録。すべての映像をデジタル・レストアと音声リマスタリングしています。



「8時だヨ!全員集合」「ザ・ベストテン」などの大人気番組から、「セブンスターショー」「キラリ・熱熱CLUB」に出演したレア映像、そしてこれまでどの歌手でも商品化されたことのなかった「日本レコード大賞」の映像が初めてパッケージ化。

収録内容

  • [DISC1.]『in 8時だヨ!全員集合』約84分 「危険なふたり」「胸いっぱいの悲しみ」「立ちどまるなふりむくな」他
  • [DISC2.] 『on TV』約70分 「白い部屋」「巴里にひとり」「時の過ぎゆくままに」「危険なふたり」「さよならをいう気もない」「ある青春」他
  • [DISC3. ]『inセブンスターショー』約72分 「立ちどまるなふりむくな」「フランチェスカの鐘」「モナリザの微笑」他
  • [DISC4. ]『inザ・ベストテンⅠ』約76分 「憎みきれないろくでなし」「サムライ」「ダーリング」「ヤマトより愛をこめて」他
  • [DISC5. ]『inザ・べストテンⅡ』約72分 「恋のバット・チューニング」「酒場でDABADA」「渚のラブレター」他
  • [DISC6. ]『 inロックな番組』約74分 番組『15th NEW YEAR ROCK FESTIVAL ’87-88』より「流されて」 番組『ライブG』より「DAYS 彼は眠れない」「ポラロイドGIRL」他 番組『音楽派トゥギャザー』より「あなたに今夜はワインをふりかけ」他 番組『キラリ・熱熱CLUB』より:「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」「KI・MA・GU・RE」他 番組『メジャーステージ』より「abc…I love you」「ジェラシーが濡れて」他
  • [DISC7. ]『awarded 日本レコード大賞』約40分 「許されない愛」「危険なふたり」「追憶」「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「LOVE (抱きしめたい) 」「カサブランカ・ダンディ」「酒場でDABADA」「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」「きめてやる今夜」

トータル収録:約488分/全63曲+メドレー+5曲 150テイク(※メドレー個別カウント)

『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』は4月28日(水)発売予定です。DVD7枚組で価格は¥33,000(税込) 。

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45m巨大スクリーンで日本美術の最高傑作を堪能!デジタルアート展「巨大映像で迫る五大絵師」が開催

2021年2月26日 14:27 Japaaan

な、なんだかスゴそう!

日本の伝統美術をデジタル技術と映像演出で魅せるデジタルアート展「巨大映像で迫る 北斎・広重・宗達・光琳 〜浮世絵と金屏風の世界〜」。

昨年夏に開催予定だった本展は、新型コロナウイルス感染拡大に伴い開催が延期されていましたが、遂に開催日が7月16日(金)~9月9日(木)の全56日間に決定しました。

しかも昨年発表されていた内容からパワーアップし、新たに伊藤若冲の作品も加わることになったのです!新たな展覧会名は「デジタルアート展『巨大映像で迫る五大絵師』 −北斎・広重・宗達・光琳・若冲の世界−」。



江戸時代の絵師たちの情熱と想像力が込められた浮世絵や金屏風、金襖絵。その歴史的作品が超高精細デジタルアートとして蘇ります。

本展では、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」と歌川広重の「東海道五拾三次」、俵屋宗達と尾形光琳が描いた2つの「風神雷神図屏風」の競演、伊藤若冲の代表作「仙人掌群鶏図」など、日本美術の最高傑作を公開。デジタル技術と映像演出、そして巨大スクリーンによる大スペクタクルを展開します。











3面ワイド45mスクリーンに高輝度4Kプロジェクターを駆使したダイナミックな巨大映像空間で、浮世絵は原作和紙の繊維一本一本まで、金屏風や金襖絵は素材や表現の緻密な違いまでを再現します。また、作品のディテールを拡大表示し、わかりやすい解説とともに作品の魅力に迫ります。





昨年の開催を楽しみにしていた方はもちろんのこと、デジタルアート、日本美術に興味のある方にはオススメの展覧会です!

『巨大映像で迫る五大絵師』 −北斎・広重・宗達・光琳・若冲の世界−

  • 会期:2021年7月16日(金) ~ 9月9日(木)*会期中の奇数日・偶数日で上映作品が変わるダブルプログラム
  • 開館時間:午前10時30分~午後7時30分 ※入館は閉館の30分前まで
  • 会場:大手町三井ホール

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ジブリ映画「千と千尋の神隠し」が世界初の舞台化!千尋は橋本環奈と上白石萌音のWキャスト

2021年2月26日 10:54 Japaaan

宮﨑駿監督によるスタジオジブリのアニメーション映画『千と千尋の神隠し』が、2022年に舞台化されることが明らかになりました。2001年に初公開され、世界中で愛され続けてきた『千と千尋の神隠し』が舞台化されるのは、世界で初めてのこと。



壮大かつ独創的な世界観が日本のみならず世界中で愛され続けてきた『千と千尋の神隠し』。宮﨑駿によるアニメーション映画の最高傑作が、世界で初めて舞台となって帝国劇場に歴史を刻みます。

舞台化にあたり翻案と演出を手掛けるのは、ミュージカルの金字塔『レ・ミゼラブル』の世界初演の潤色・演出を担い、そのほか『ナイツ・テイル』や『ダディ・ロング・レッグズ』など演劇史に残る名作を生み出してきた英国ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの名誉アソシエイト・ディレクター、ジョン・ケアード。

気になる出演者ですが、主演の千尋は、今回が待望の初舞台となる橋本環奈さん、声優や歌手としても活躍の場を広げる上白石萌音さんがWキャストで演じることに。その他の出演者はまだ明らかにされていません。

舞台『千と千尋の神隠し』は2022年2月・3月に帝国劇場で上演、その後、4月 大阪、5月 福岡、6月 札幌、6月・7月 名古屋で上演予定となっています。

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大晦日・お正月・節分・お盆をつらぬく日本文化の「根っこ」とは?【後編】

2021年2月26日 10:38 Japaaan

お正月にやってくる「カミ」はご先祖様

さて、前編の内容から、大晦日という日が、日本人にとっては邪気やケガレなどの悪いものを祓うための節目の日だったことが分かると思います。

前編はこちら

そこに底流している日本人の精神は、節分の時期にまで拡がりを持つものでした。

実は「お正月」も、そうした大晦日のあり方と密接な関係があります。裏と表の関係にあると言ってもいいかも知れません。

大晦日が悪いものを祓うための日なら、お正月は、折口信夫が述べたような、新しい生命と豊穣とをもたらしてくれる「異界のカミ」と迎えるための日なのです。お正月の儀式は、全てこの「異界からのカミ」のためにあると言っても過言ではありません。

ではこのカミは何者なのかというと、ちょっと掴みどころがありません。呼び名は地域ごとにさまざまです。「歳徳神」「とんどさん」「恵方神」「お正月様」「トシドン」……。

ただ日本では、このカミをご先祖様の霊と同一視する地域が多いようです。

つまり日本においては、お正月というのは、お盆と同じようにご先祖様をお迎えする日だということです。

ご先祖様の霊をお迎えするために、私たちは大晦日になると家の中を清めて、お正月に向けて飾り立て、神棚に向かってお参りをしたりするのです。

数あるお正月用品も、無関係ではありません。

門松も、しめ縄も、おせち料理も、実は……

たとえば、玄関先に飾る門松としめ縄。


もともと、門松は霊が降りてくるための目印になるものでした。また、しめ縄はあの世とこの世の境界線を示すアイテムです。お正月の期間にこれを飾っておくことで、霊が滞在できるように結解を張る役目があるのです。


おせち料理はどうでしょうか。起源を辿ると、招いた霊が静かに過ごせるように調理の音を抑えるための料理であるとか、霊にお供えした後で人間も食べられるように保存がきくメニューになったという説があります。お供え物を人間が食べるのは、もちろん霊から与えられた生命力を体内に取り込むためです。

まだまだあります。「左義長(さぎちょう)」という、小正月に行われる火祭りの行事があります。これは全国の神社などでよく行われるもので、「どんど焼き」や「道祖神祭り」「三九郎焼き」「鬼火」「オンベ焼き」とも呼ばれます。ここでお正月の飾りや書き初めの作品などを燃やすことで、霊をあの世へ送り出す意味があるそうです。

聖なる食べ物「お餅」に宿る力

極めつけは鏡餅。あの可愛らしい姿かたちの鏡餅は、霊を宿すためのものなのです。お正月にやってきたご先祖様の魂はそこに宿り、あの世へ戻っていくまでの間、一族を見守ってくれるのです。

そもそも「鏡」は、古代においては神事に使われる神聖なアイテムで、この世とあの世の境界を示すものです。「鏡開き」で、霊が宿った鏡餅を雑煮やお汁粉に入れて食べるのも、聖なる力を体内に取り込む意味があります。

正月に限らずとも、仏壇にお供えしたものを食べるとご利益があるとよく言いますが、もしかすると鏡餅やおせち料理が、こうした考えの原点なのかも知れません。

実は、お年玉にも、もともとはそういう意味がありました。かつては、ご先祖様の霊に捧げた鏡餅を、子供の無事な成長を願って分け与えていたのが起源で、現在のようにお年玉が現金になったのは江戸時代からだと言われています。今でも、お正月になると丸餅を子供たちに配る地方もあるそうです。

また、これはお正月とは直接関係がありませんが、地域によっては、四十九日などの法事で餅を食べる習慣があります。これは「食い別れ」などと呼ばれたりしているようですが、むしろ餅に宿った霊力をこの世の人間が頂くという、鏡餅の風習と重なり合っているようにも見えます。

これは余談ですが、キリスト教で、聖人イエス・キリストの肉と血に見立てたパンと葡萄酒を体内に取り込む「聖体拝受」という儀式があります。このパンは、聖別という儀式によって食べられるようになるのですが、聖別する前の状態のものを日本語では「聖餅(せいへい)」と訳します。いつ、誰が最初にこの訳語をあてたのかは分かりませんが、こうした聖なる食べ物に「餅」の一字が入っているのは、日本人の心性をよく表していますね。

以上のことから、お正月の期間は、お盆と同じように、ご先祖様の霊を迎える聖なる期間でもあることがはっきり分かると思います。

大晦日、節分、正月、お盆……。現代に生きる私たちは、この四つはそれぞれ独立したバラバラの祝祭日のように思いがちですが、実は深い根っこの部分でつながっています。そしてその根っこは、遠い昔から日本人が保ち続けた精神そのものでもあるのです。

参考資料

山折哲雄『仏教民俗学』(講談社学術文庫・1993年)

火田博文『本当は怖い日本のしきたり』(彩図社・2019年)

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雪駄とスニーカーを融合させた新世代の履物「unda-雲駄-」が軽量化モデルを発売!新色オールホワイトも

2021年2月26日 10:09 Japaaan

雪駄とスニーカーを掛け合わせ、日本の伝統技術と現代の最新技術を融合させた履物「unda-雲駄-」。

2019年にクラウドファンディングでリリースし、1週間で2,000万円を超える支援を集めるという圧倒的な人気を獲得しました。そんな「unda-雲駄-」がついにアップデートモデルをリリース!


2年の時を経て「unda 2.0」としてアップデートした「unda-雲駄-」。最大の特徴であるエアユニットと雪駄が組み合わさった見た目はそのままに、アウトソールの素材・構造を根本から見直し再構築することで、約25%の軽量化に成功しています。







従来モデルに比べ、より雲の上を歩くような軽い履き心地を実現したという新バージョンには、新たに2種のカラーを追加。定番モデルを含め全5種展開となります。

ニューカラーはこちら。

【Shiro】


待望のオールホワイトが誕生。撥水加工の生地を採用したことで汚れに強く、どこか涼しげな印象に。オールホワイトスニーカーライクな使い勝手でどんなファッションにも自然と馴染むデザインになっています。

【Kinari】


耐摩耗性に優れた生地を天板に採用、鼻緒にはアウトドアグッズでよく用いられるリップストップ生地を採用。最もアウトドアに適したモデル。流行のナチュラルトーンにもよく合うカラーで、取り入れるだけで大人な印象になっています。

アップデートした「unda-雲駄-」は2月26日(金)12:00からgoyemon ONLINE STOREで発売。売り切れ次第終了とのことなので気になっている方はお早めに!

ラインナップ

  • 〈Black〉S(22cm-25cm)/M(24cm-27cm)/L(26cm-29cm)¥18,150(税込)
  • 〈White〉S(22cm-25cm)/M(24cm-27cm)/L(26cm-29cm)¥18,150(税込)
  • 〈Sumi〉S(22cm-25cm)/M(24cm-27cm)/L(26cm-29cm)¥19,250(税込)
  • 〈Shiro〉S(22cm-25cm)/M(24cm-27cm)/L(26cm-29cm)¥18,700(税込)
  • 〈Kinari〉S(22cm-25cm)/M(24cm-27cm)/L(26cm-29cm)¥18,700(税込)

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