子供が生まれた時、大人はその幸せを願って名前をつけるもの。そこで古くから様々な名前が記録に残されていますが、今回ピックアップするのは『日本書紀(※1)』に登場する豪族・物部目(もののべの め)。
目の字なら「まなこ」「さかん(律令制度における国司の階級)」などと読んだ方が語呂もよさそうですが、あえて「め」というシンプルさが、接する者に強烈なインパクトを叩き込みます。
命名の由来は不詳ながら、生まれた時によっぽど目がぱっちりクリクリと輝いていたのかも知れませんね。視力もマサイ族並みに5.0とかありそうです。
さて、そんな「出オチ(※2)」っぽい名前の物部目ですが、その活躍もちゃんと記録に残されており、今回はそちらを紹介したいと思います。
(※1)にほんしょき。日本に現存する最古の正史(正統な歴史書)。
(※2)登場の瞬間にクライマックスを迎え(オチがつき)、以降の内容が薄い状態(作品など)。
伊勢国で叛乱を起こした朝日郎の征伐に
物部目は物部伊莒弗(もののべの いこふつ)の子として生まれ、雄略天皇(※3)が即位した安康天皇三457年11月13日、天皇陛下の政治を補佐する大連(おおむらじ)の姓(かばね)を賜ります。
穏和な性格と公正な態度で、時に「大悪天皇」とも言われた気性の激しい雄略天皇をよくなだめましたが、決して文弱に偏ることなく、醜の御楯(※4)として武勇にも優れていました。
雄略天皇十八474年8月、伊勢国(現:三重県)で起きた朝日郎(あさけの いらつこ)の叛乱を討伐するため、雄略天皇は物部宿禰菟代(もののべのすくね うしろ)を総大将、物部目を副将に軍勢を派遣しました。
朝日郎は「官軍何するものぞ」と伊賀国にある青墓(現:三重県伊賀市、御墓山古墳と推定)まで進軍、そこに立て籠もって迎え撃ちます。
「そなたらに勝ち目はない……降伏すれば命だけは……」
お決まりの和平交渉があっさり決裂すると戦闘開始、数に勝る官軍の圧勝かと思いきや、朝日郎は弓の名手。
「我が矢を受ける勇気はあるか(朝日郎手、誰人可中也)!」
百発百中の腕前で次々に官軍の兵士を射殺し、鎧を二枚重ねに着込んだ者まで仕留められると、菟代は慌てて全軍に後退を命じます。
「……うぅむ、朝日郎の弓勢(※5)を前にすると、皆が怯んでしまう……さて、どうしたらよいものか……」
菟代は考え込んだまま戦闘は中断、そのまま日が暮れてしまいました。果たして物部目たちは、朝日郎を倒すことが出来るのでしょうか。
(※3)ゆうりゃくてんのう。第21代天皇陛下。在位西暦457年~479年
(※4)しこのみたて。尊く美しい者(天皇陛下)の守護役を意味する謙譲語。
(※5)ゆんぜい。弓を引いて矢を射る力の強さ。弓の威力。
【下篇に続く】
※参考文献:
福永武彦 訳『現代語訳 日本書紀』河出文庫、2005年10月5日