cat_5_issue_oa-japaaan oa-japaaan_0_2gfmghuxiezf_古典の名作『平家物語』がなんと初のテレビアニメ化!悠木碧、櫻井孝宏らがキャストに 2gfmghuxiezf 2gfmghuxiezf 古典の名作『平家物語』がなんと初のテレビアニメ化!悠木碧、櫻井孝宏らがキャストに oa-japaaan 0

古典の名作『平家物語』がなんと初のテレビアニメ化!悠木碧、櫻井孝宏らがキャストに

2021年9月6日 11:11 Japaaan

古典の名作「平家物語」がなんと連続テレビシリーズとしてアニメ化されることになりました。

『平家物語』といえば平家の栄華と没落までを描いた古典の名作。琵琶法師によって語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えたことはよく知られています。

そんな「平家物語」が連続テレビシリーズとしてアニメ化されるのは、今回が初のこと。 アニメ『平家物語』は、圧倒的語り口で話題となった2016年刊行の古川日出男訳を底本に、精鋭クリエイターによってアニメ化されました。

物語の語り部で主人公の琵琶法師として、アニメオリジナルキャラクターの少女「びわ」(CV. 悠木碧)を据えたことは本作品の大きな特徴です。平清盛(CV. 玄田哲章)の長男・重盛(CV.櫻井孝宏)や、その妹・徳子(CV.早見沙織)をはじめとする平家の人々とびわの交流を軸に物語が展開し、叙事的な史実にとどまらず、時代に翻弄されながらも懸命に生きたひとびとの群像劇として描かれます。






監督を務めるのは山田尚子、シリーズ構成・脚本は吉田玲子。漫画家の高野文子が、自身初のアニメーションキャラクター原案を担当します。音楽は牛尾憲輔。







アニメーション制作は、『映像研には手を出すな!』で第24回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞し、サイエンスSARUが手掛けます。

サイエンスSARUは、2022年初夏には劇場アニメーション『犬王』(原作:古川日出男、監督:湯浅政明)の劇場公開も控えており、こちらも注目の作品となっています。

連続アニメ『平家物語』は、2022年1月から3月にかけて、フジテレビ「+Ultra」ほかにて放送。地上波放送に先駆け、日本国内では9月15日(水)より毎週水曜24時~FODにて先行独占配信されるほか、海外ではFunimation・bilibiliで全世界同時配信となります。

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美しきジャパンブルー。徳島の天然藍で染め上げられたシューズが「Allbirds」から数量限定で登場

2021年9月6日 09:06 Japaaan

フットウェアブランド「オールバーズ」から、徳島の天然藍を使用したシューズ「Wool Runner- Watanabe’s Japanese Indigo(ウールランナー ワタナベズ ジャパニーズ インディゴ)」が、数量限定で登場。

2016年にサンフランシスコで誕生した「Allbirds(オールバーズ)」。ニュージーランドのメリノウールを使用し、快適性とサステイナビリティ、シンプルなデザイン性を兼ね備えたシューズが人気です。

Allbirds原宿・丸の内店限定にて数量限定で登場する「Wool Runner- Watanabe’s Japanese Indigo」は、徳島の藍染工房「Watanabeʼs」の、藍師・染め師である渡邉健太さんとコラボレーションした逸品。

渡邉健太さん
古来から日本人の暮らしの中で活用されてきた藍染。藍染で染め上げられた深く美しい青色は、海外では”ジャパンブルー”として明治時代から親しまれてきました。藍染の奥深さは今も変わらず人を魅了し続けています。

本商品は、長い月日をかけて作られた染め液に、メリノウールをゆっくり沈め、引き上げて水気を切り酸化させて発色。この作業を何度も丁寧に繰り返すことで、鮮やかで奥深い 藍色に仕上げられました。

シューズの特性としては、ZQ認証メリノウールを使用したアッパーで、ミッドソールには、サトウキビ由来の「SweetFoam®(スイートフォーム®)」を使用。ヒマシ油からつくったインソールはクッション性にすぐれ、足への負担を軽減してくれます。

「Wool Runner – Watanabe’s Japanese Indigo」は、2021年9月17日(金) からAllbirds原宿・丸の内店限定にて数量限定で発売されます。

  • 発売日:2021年9月17日(金)
  • 販売店:Allbirds 原宿、Allbirds 丸の内
  • サイズ展開: 22~30cm
  • カーボンフットプリント:9.9 kg CO2e
  • 価 格:20,000円(税込)

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いつからそこに?大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主人公・北条義時の墓が頼朝公の隣に!?

2021年9月6日 08:00 Japaaan

仕事で明細地図(令和3年・2021年版)を見ていたら、ふと源頼朝(みなもとの よりとも)公の墓に目がいきました。

「あれ?」

鎌倉市西御門二丁目5番地、頼朝公の墓に並んで「北条義時(ほうじょう よしとき)の墓」と書いてあります。

「いつから義時の墓がとなりに来たんだ?」

近ごろはすっかりご無沙汰とは言え、ボランティアで見守り・観光案内をしていた数年前は、頼朝公の墓は、玉垣の中にただ一基でした。

令和4年(2022年)大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主人公になるからって、行政当局か観光協会あたりが観光客狙いで何かモニュメントでもおっ立てたのでしょうか。

一体どういうことなのか、時間を作って現地へ足を運んでみました。

勘違いするのも、無理はないかも……?

さっそく頼朝公の墓へお参りしてみると、思った通り昔からのまま、頼朝公の墓が一基のみです。

念のため、玉垣の中も周囲も調べてみましたが、やはり義時の墓を示すものは設置されていませんでした。

とは言うものの、明細地図を作成する業者が現地も見ずに地図を作ってしまうこともないでしょうから、勘違いだったにしても何か根拠がある筈だろう……とより範囲を広げて周辺を確認すると、ありました。

史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

平成31年(2019年)に建てられた石柱に、このように刻まれています。だから同じ場所(玉垣の中)に頼朝公と義時の墓が存在すると勘違い、実際には一基の石塔であっても、両者の墓があることを示す二基分の記号が表記されたのでしょう。

この法華堂とは頼朝公の持仏(じぶつ。お守りとして身近に持っていた仏像)をお祀りする仏堂(持仏堂)で、頼朝公の死後はその菩提を弔う場所となりました。

義時の墓はこの場所から少し東にある法華堂跡にあったものと推定されますが、厳密な位置は未詳となっています。

石柱が指す「法華堂跡」とは、頼朝公と義時それぞれの法華堂と墓を包括した広い範囲を示しており、それが地図業者の誤解を招いてしまったようです。

いくら鎌倉幕府のキーパーソンだったからと言って、妻の北条政子(まさこ。義時の姉)ならともかく、墓まで寄り添わせるのは、流石にちょっとね、と思ったひとときでした。

※なお、北条政子の墓は寿福寺(鎌倉市扇ガ谷)にあります。



近くに側近たちの墓も!

ちなみに、せっかく頼朝公の墓に詣でられたのであれば、時間が許すならもう少しだけ足を伸ばしてみるのがおすすめです。

頼朝公の法華堂跡から一度下に下りて東へ進み、すぐ左手(もしくはその一つ先)の石段を上ると義時の法華堂(と墓)跡があり、左手に「三浦やぐら(※)」を見ながら石段を上っていくと、三基の墓が見えてきます。

(※)宝治合戦に敗れ、滅亡した三浦一族が自刃したと伝わるやぐら。現在は供養塔が建立。

これは左から「鎌倉殿の13人」に登場する幕府のブレーン・大江広元(おおえの ひろもと)、その子で毛利家の祖先・毛利季光(もうり すえみつ)、そして頼朝公の落胤とも言われる島津家の祖先・島津忠久(しまづ ただひさ)の墓。

※頼朝公の法華堂跡から山中を伝って三基の墓に出られる道もあるにはありますが、現在通行止めとなっているため、無理に通るのはご遠慮下さい。

鎌倉は幕府が滅亡した後、しばらくは東国の要衝として機能していたものの次第に寂れ、江戸時代にはすっかり荒廃していたところを薩摩の島津重豪(しげひで)、長州の毛利敬親(たかちか)らが整備したと言います。


そんな島津家・毛利家の名残が境内の各所に残っているので、よかったら探してみると楽しいですよ!

※参考:
永原慶二『全譯 吾妻鏡』新人物往来社、2011年12月
鎌倉市観光協会

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cat_5_issue_oa-japaaan oa-japaaan_0_shguzeum7sze_めっちゃ可愛い♡歌川国芳による擬人化の名作「金魚づくし」のキーホルダー shguzeum7sze shguzeum7sze めっちゃ可愛い♡歌川国芳による擬人化の名作「金魚づくし」のキーホルダー oa-japaaan 0

めっちゃ可愛い♡歌川国芳による擬人化の名作「金魚づくし」のキーホルダー

2021年9月5日 11:04 Japaaan

浮世絵のポータルサイト「北斎今昔」が6月、江戸時代の浮世絵師・歌川国芳の人気作「金魚づくし」に描かれた金魚をモチーフにしたアクリルキーホルダー3種を発売し話題になったのですが、このほど、国芳没後160年を記念した《国芳没後160 年限定ver. 》が発売されました!



めちゃくちゃ可愛いじゃないですか♡

浮世絵ファンにはおなじみでファンも多い、傑作「金魚づくし」。夏の風物詩をテーマに、金魚を擬人化したコミカルな描写は、現代のアニメや漫画にも通づる部分がありますよね。



今回新たに登場した、金魚をモチーフにしたアクリルキーホルダーの《国芳没後160 年限定ver. 》には、「金魚づくし」に登場するおたまじゃくしをモチーフにし たアクリルチャームがセットになっているんです。

このおたまじゃくしは、「金魚づくし」シリーズ中の一図「にはかあめんぼう」に登場する小さなおたまじゃくしをモチーフにしたもの。

ほら、いるでしょ♪

このおたまじゃくし、よく見ると小さな水草で頭をおおっているんです♡

金魚のキーホルダーと一緒に重ねて付けても良いですし、ファスナー部分や小物に単体で付けても良いでしょう。



「金魚づくし」キーホルダーの《国芳没後160 年限定ver. 》は、9月4日より、浮世絵専門美術館である太田記念美 術館(東京・原宿)の「没後160年記念 歌川国芳展」の会場にて先行販売中です。 

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cat_5_issue_oa-japaaan oa-japaaan_0_m4kn0wdckkk9_戦国時代の義理堅い名将!今も”せいしょこさん”として親しまれる武将・加藤清正の人生と人柄 m4kn0wdckkk9 m4kn0wdckkk9 戦国時代の義理堅い名将!今も”せいしょこさん”として親しまれる武将・加藤清正の人生と人柄 oa-japaaan 0

戦国時代の義理堅い名将!今も”せいしょこさん”として親しまれる武将・加藤清正の人生と人柄

2021年9月5日 10:43 Japaaan

みなさんは、戦国時代の武将「加藤清正(かとうきよまさ)」についてどれくらいご存じですか?名前だけは聞いたことがある、有名な武将ということは知っているけれど詳しくは知らない、など様々だと思います。

そこで今回の記事では、そんな加藤清正について、彼の生涯や人物像についてご紹介したいと思います!

加藤清正の生涯は?

加藤清正は、永禄5年(1562年)に尾張国に加藤清忠の子どもとして生まれました。

清正が3歳のときに父が亡くなったため、母は彼を妙延寺に通わせ、勉学を習わせました。そして、母と豊臣秀吉の母が親戚関係にあったことから、清正は10歳で秀吉の小姓として使えることに。

天正11年(1583年)に起きた「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、清正は柴田側に突撃し、勝利に導きました。また、その後も小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定などに参加しています。

天草の乱や朝鮮出兵などを経て、豊臣家への忠義を強めていきます。その後、豊臣秀頼と徳川家康の二条城での会見を取り持つなどします。その後京都から肥後へ帰る途中病気になり、そのまま亡くなりました。



加藤清正はどんな人物だった?

幼少期から身体が大きく武芸にも優れていたという清正は、秀吉をはじめ周囲の人から可愛がられていたといいます。

幼少期に負けた方が勝った方の家臣になるという約束をして争い、森本一久と飯田直景は清正の家臣になっています。ちなみに、この二人は加藤家三傑と呼ばれるようにもなります。

また、熊本にある日蓮宗本妙寺と加藤神社は、今でも「清正公(せいしょこ)さん」を信仰する人々が通うといいます。

加藤清正は領内の治水事業にも積極的に取り組み、その土木技術力の高さから、今でも使われている遺構も多くあると言われています。さらに工事現場には工事が無事に終わるようにと、祠(ほこら)に清正公が祀られているそうです。

いかがでしたか?今回は、加藤清正についてご紹介しました。この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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cat_5_issue_oa-japaaan oa-japaaan_0_uf6pyrvd05hn_煉獄さんが食べてた”牛鍋”も!明治時代に誕生した新しい食文化たち uf6pyrvd05hn uf6pyrvd05hn 煉獄さんが食べてた”牛鍋”も!明治時代に誕生した新しい食文化たち oa-japaaan 0

煉獄さんが食べてた”牛鍋”も!明治時代に誕生した新しい食文化たち

2021年9月5日 09:14 Japaaan

文明開化を象徴するものの一つに、西洋から新しく入ってきた食文化がありました。今ではおマジみのものばかりですが、当時は驚くほど新鮮だったに違いありません。

明治に誕生した食文化の一例を見ていきたいと思います。

牛鍋


『安愚楽鍋』より「牛鍋を食う書生」

無限列車でも煉獄さんが食べていた牛鍋弁当。

現在のすき焼きに近い食べ物だそうですが、関東では「牛鍋」関西では「すき焼き」と呼んでいたそうです。

牛鍋は食肉文化が一般的になった明治時代に広まり、「文明開化の味」ともてはやされました。

幕末には味噌仕立ての鍋でしたが、明治になってから現在のような醤油味が主流になりました。

明治の初めの牛鍋は牛肉とネギを使った鍋料理全般を指し、味付けや他の具材などはまちまちだったそうです。

明治4年、仮名垣魯文は著書『安愚楽鍋』で「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と表現していたくらいなので、面白いですね。


牛鍋を食べる女性の図

洋食



洋食は、もともとは幕末から明治にかけて、日本に住む外国人のための西洋料理店が発祥でした。そうした店で働いていた日本の料理人たちは、のちに自分の店を開き、洋食を広めていきます。

江戸時代までの日本では肉食が一般的ではなく、肉を主体とする西洋料理には大きな抵抗がありました。

しかし、明治政府が国民の体格向上のため肉食を奨励したり、明治天皇の食肉や毎日牛乳を飲むといった新聞報道などもあり、庶民のあいだでも牛鍋など徐々に肉食が始まり、洋食への抵抗も薄れていきます。

しかし明治時代の日本で西洋料理の食材を完全に揃えることは難しく、代用品が使われることもありました。

また、日本人向けにアレンジが加えられることもあり、そうして生まれた日本的な洋食の代表が、ポークカツレツ、カレーライス、コロッケ、カキフライ、エビフライ、オムライスなどです。

牛乳



江戸時代以前も、日本国内で牛乳が飲まれることはあったものの、一般的ではありませんでした。

明治4年、天皇陛下が毎日牛乳を飲んでいると新聞で報道され、牛乳を飲む習慣は一般に広まっていきました。

最初は柄杓で秤り売りされていましたが、その後、ブリキ缶容器隣、明治30年代にはガラス瓶で販売されるようになりました。

洋菓子



江戸時代より諸大名の菓子匠を仰せつかってきた凮月堂総本店は、明治時代になると洋菓子の開発を始めます。

明治10年の第1回内国勧業博覧会では、菓子部門において、大住喜右衛門の南伝馬町風月堂の「菓糕」と米津松造の若松町風月堂の「乾蒸餅(ビスケット)」が褒賞を受賞しました。

その後、西洋菓子に力を入れ、1882年(明治15年)ごろには大々的に西洋菓子を売り出し、1886年(明治19年)にはシウアラケレム(シュークリーム)やアイスクリームも製造しました。

あんぱん



明治時代に誕生した日本発の食べ物に、あんぱんがあります。

あんぱんを考案したのは木村屋で、創業は明治2年。

5年後の明治7年、日本独自のあんぱんが誕生します。

木村屋のあんパンは、一般的なホップを使ったパン酵母の代わりに、日本酒酵母を含む酒種を使用しました。これは酒饅頭の製法に倣ったもので、従来の和菓子の製法に近く、日本人にも馴染みやすい人気商品となりました。

翌年には明治天皇に献上し、宮内庁御用達となったことで全国的な知名度も上がっていきました。

アイスクリーム



明治2年、横浜馬車道で使節団の1人・町田房蔵が製造販売を始めたのが日本のアイスクリームの発祥です。

当時の名称は「あいすくりん」で、原料も牛乳、卵、砂糖とかなりシンプルなものでした。

しかし、発売当初は現在の価格で約8000円とかなり高級品で、食べられるのは主に外国人や上流階級の人たちだけで、一般庶民にはなかなかハードルの高いものでした。

明治19年に外国人を招待した鹿鳴館でのレセプションでも、デザートにアイスクリームが出されたと記録が残っています。

明治30年代には東京・銀座の資生堂でもアイスクリームとアイスクリームソーダの販売を始め、人気メニューとなりました。

明治後半には一般家庭にも浸透し始め、明治40年代には家庭用のアイスクリームフリーザーを使用しているところもあったそうです。

いかがでしたか?

現在ではお馴染みのこうした食文化も、明治の文明開化と一緒に花ひらいたと考えると感慨深いですね。

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語源は牛若丸の恋人から?日本の伝統芸能・浄瑠璃の特徴と歴史を紹介

2021年9月5日 09:02 Japaaan

子供の頃から歴史が大好きで、中学生時代の昼休みはたいてい歴史の教科書や国語の資料集(古典の箇所)を片手にお弁当を食べていました。

年表をざっと眺めていくと、近世(江戸時代)の欄に近松門左衛門(ちかまつ もんざゑもん)と彼が大ヒットを飛ばした人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)のタイトルが目に飛び込みます。

「ところで、浄瑠璃って何だろう?」

人形浄瑠璃が「人形を使って演じる浄瑠璃」であることは察しがつくものの、そもそも浄瑠璃とは何なのか……。

何となく疑問に感じながらも、少年ゴコロとしては天下泰平の江戸文化よりも、その前の戦国乱世に興味が惹かれてしまい、ついつい調べるのも後回しに。

そこで今回は「浄瑠璃とは何なのか」そして「それがどうして浄瑠璃と呼ばれるようになったのか」について紹介したいと思います。

浄瑠璃とは「語るお芝居」

まずは「浄瑠璃とは何なのか」について調べてみると、以下のような特徴があるようです。

一、伴奏つき(最初は琵琶から三味線へ)で唄う。

一、唄に登場する人物のセリフや仕草、情景の描写などが含まれ、それらの方にウェイトが置かれる。

要するに「お芝居の台本」を情緒たっぷりに唄い、演じるイメージで、そのことから浄瑠璃は「唄う」のではなく「語る」と言います。

浄瑠璃の起源は室町時代後期から戦国時代と言われ、琵琶法師に着想を得たのか御伽草子(おとぎぞうし)を伴奏つきで演じるようになりました。

やがて安土桃山時代に入って滝野検校(たきの けんぎょう)が沢住検校(さわずみ けんぎょう)と協力して浄瑠璃を洗練させ、江戸時代に入ると本格的な芸能ジャンルとして確立。

庶民人気の高まりから義太夫節(ぎだゆうぶし)や清元節(きよもとぶし)など多くの流派が生まれ、現在には8流派(ほか一中節河東節新内節常磐津節富本節宮薗節)が伝わっています。

※ただし、義太夫節を除いてほとんど廃れたため、義太夫節が浄瑠璃の代名詞とされている場合もあるようです。

浄瑠璃の語源は牛若丸の恋人から

さて、そんな浄瑠璃のネーミングは室町時代に成立したとされる御伽草子「浄瑠璃十二段草子(じょうるりじゅうにだんぞうし)」に由来、又の名を「浄瑠璃御前(じょうるりごぜん)物語」などとも言います。

物語の舞台は平安時代末期、三河国矢矧宿(現:愛知県岡崎市)に住む遊女・浄瑠璃御前(やんごとなき身分設定の場合は浄瑠璃姫とも)の元へ、牛若丸(うしわかまる。若き日の源義経)が通りがかりました。

浄瑠璃御前はその名が示す通り薬師如来(やくしにょらい。瑠璃光如来)の申し子で、牛若丸と惹かれ合って契りを交わし、一度は難病に命を落とした牛若丸を蘇らせます。

これで二人は結ばれてハッピーエンドかと思いきや、天下に源氏再興の志を果たすべく奥州へ赴く牛若丸の足手まといになるまいと、浄瑠璃御前は身を引き、涙ながらに見送ったのでした。

まとめ

浄瑠璃とは:伴奏つきで語るお芝居唄で、室町時代後期から始まった

浄瑠璃の語源:代表作「浄瑠璃十二段草子」のヒロイン・浄瑠璃御前から

今回は「浄瑠璃とは何か」そして「浄瑠璃の語源」について調べてきました。現代でも、曲の間にセリフ(語り)の入った演歌がありますが、それのより演劇要素が強いイメージですね。

こうして知ってみると興味も湧いてくるもので、もし機会に恵まれたら、浄瑠璃を拝聴・観覧してみたいものですね。

※参考文献:

吉川英史『日本音楽の歴史』創元社、1965年6月

若月保治『古浄瑠璃の研究』桜井書店、1943年1月

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日本の象徴「桜」に深く関係!?古代日本人に崇められていた山の神「サ神」を知っているか?

2021年9月4日 11:33 Japaaan

「お花見」の不思議

皆さんは「お花見」はしますか?

コロナ禍で、宴会や飲み会といったイベントからすっかり遠ざかってしまった人も多いと思います。

かつては、人気のお花見スポットとなれば、全国どこでも桜の木のたもとで陣取りをして宴会をする人でごった返したものです。

ちなみに私も以前勤めていた会社では、「お花見」という名目で、春になると居酒屋で飲み会をするヘンな習慣がありました。会場となる居酒屋には、桜はおろか花なんてどこにもないというのに…。


考えてみると、「お花見」というのは、お酒を飲んだりどんちゃん騒ぎしたりすることを正当化してくれる不思議なイベントですね。

話によると、外国人観光客の間でも、お花見は「春に日本を観光するならはずせないイベント」として知られているそうです。

それにしても、お花見はお花見です。その名称に「花を見る」以外の意味はないはずなのに、どうしてこのようなイベントとして日本人の間では認知されているのでしょうか?

山の神と「サクラ」の関係やいかに

先に書いたように、今ではお酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするのが「お花見」だと思われていますが、昔はもっと高貴な催し物でした。

平安時代初期の勅撰史書『日本後記』には、「812年3月に嵯峨天皇が神泉苑で花宴の節を催した」という記述があります。これが日本最古の花見の記録だと言われています。

これ以降、桜による花見は、宮中で天皇が主催する恒例の行事となりました。

花見スポットとして有名な京都市東山の桜も、この時期に植えられたとされています。


一応、定説としては、花見の起源は約1300年前の奈良時代に求められるとされています。当時、貴族の間には、中国伝来でまだ珍しかった「梅」を鑑賞する習慣があり、それが次第に国風文化の発達とともに桜にとってかわられたのだとか。

ただ、そのあたりのはっきりした記録は残っていません。当時詠まれた「歌」などから推測されているようです。

日本には梅が伝来するよりも前から桜が存在していました。ただ、いわゆるお花見の習慣がそれまではなかった(少なくとも記録には残っていない)ということです。

梅の伝来によってお花見の習慣ができあがり、それに桜が使われるようになったのでしょう。


奈良時代よりもさらに前の時代の話となると、もう民俗学の話になります。

で、民俗学上の有名な定説として、「サ神」説というのがあります。



山の神として古代日本人に崇められていた「サ神」というのが存在しており、それの宿る「クラ(座)」が「サクラ」だったというのです。

この説からイメージしていくと、日本人にとって桜とは春の農作業の始まりや五穀豊穣を象徴する樹木だった、ということになりそうです。そこで人々は桜に対して感謝の念を示し、お供えをして一年の豊作を願った……。

お花見は、貴族由来の習慣ではなく、全ての日本人の心に宿った古代からの習慣だということでしょう。

とてもいい雰囲気のイメージですね。

ただ、これは証拠が一切ありません。「サ神」説にしても、サがつく言葉をすべてこの神様由来とする点などが乱暴で、その真偽は判然とせず俗説の域を出ていません。

日本人の起源について、分かりやすく牧歌的なイメージを示されるとなんとなく無条件に納得しそうになりますが、証拠がない以上はあくまでもイメージに過ぎません。


むしろ、桜という樹木にそういうイメージを当てはめたくなる、私たち日本人の心性がそこには表れていると言えるでしょう。

江戸時代以降の「お花見」とその未来

一般庶民に、お花見の風習が拡がったのは江戸時代のことです。

江戸幕府は、上野公園や墨田川などに「桜の名所」を作っていますが、初期のお花見は大きな寺のような格式の高い場所で行われるもので、一般庶民向けのものではなかったようです。


落語の名作に『長屋の花見』というのがありますが、あの作品からも、花見というイベントが庶民にとっては高嶺の花だったことが分かりますね。

こうして見ていくと、お花見の習慣はもともとは高貴な、位の高い人たちだけが参加できるイベントで、それが俗化して現在のようなスタイルになっていったことが分かります。

しかしコロナ禍の現在、大勢で集まって宴会を開くというスタイルを通すのも難しくなってきています。

もしかすると、お花見というイベントそのものが、贅沢な過去のものとして記録されるようになる日が来るかも……!?

参考資料
火田博文『本当は怖い日本のしきたり』(彩図社・2019年)
奈良時代から続く春の楽しみ 桜と花見の歴史

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cat_5_issue_oa-japaaan oa-japaaan_0_vb2fgba5o8zm_シズル感までも再現!?「吉野家​」の人気メニューたちがミニチュアフィギュアになっちゃったぞ! vb2fgba5o8zm vb2fgba5o8zm シズル感までも再現!?「吉野家​」の人気メニューたちがミニチュアフィギュアになっちゃったぞ! oa-japaaan 0

シズル感までも再現!?「吉野家​」の人気メニューたちがミニチュアフィギュアになっちゃったぞ!

2021年9月4日 10:25 Japaaan

もうなんでもミニチュア化される時代!

熱烈なファンも多い牛丼屋さん「吉野家」の魅力がたっぷり詰まったミニチュアフィギュア「吉野家 ミニチュアコレクション」が、ケンエレファントから発売されます。



ケンエレファントのミニチュアコレクションシリーズから、今回新たに登場するのは、創業120年の歴史を誇る「吉野家​」。​​

​1899(明治32)年に、東京・日本橋の魚市場に個人商店として誕生して以来、「うまい、やすい、はやい」のキャッチフレーズ​のもと、庶民の胃袋を満たし続けているお馴染みの大手外食チェーンですね。

ミニチュアのラインナップは、牛丼や焼魚定食など、鉄板メニュー5種をチョイス。店頭で注文した際に提供されるシーンを、ミニチュアで再現して楽しめるように開発したそうですよ!

それでは見ていきましょう。

牛丼(お新香&玉子付)

1899(明治32)年の創業以来、不動の人気を誇る吉野家の看板メニュー。タレが絡まった牛肉、しんなりとした玉ねぎはシズル感たっぷりに再現。人気のサイドメニュー、「お新香」「玉子」とセット。玉子パーツは牛丼の上に乗せて楽しむことができます。店舗で使われている有田焼の丼の模様も、直径2.5cmという小ささながら、細部までこだわって再現。
※お新香は接着仕様です。

焼魚定食

朝定食の定番商品。ご飯、みそ汁、のりと合わせた定食スタイルのセットです。
鮭は脂がのっていて、パリッと焼き上げられた様子や、それぞれの食器の質感を再現しています。のりのパッケージに印字されている小さなロゴにも注目です。

冷酒/生姜

1992年に牛皿に合う日本酒として商品開発され、以来25年以上にわたり愛され続けてきた柏露酒造の冷酒「吉野家」。瓶の透明感、ロゴも本物そっくりに再現。
店舗でおなじみの色鮮やかな「生姜」とセット。生姜の一部が取れるようになっているため、牛丼をはじめとする他のフィギュアの上に乗せて楽しむこともできます。

テイクアウトセット

テイクアウト容器に入れた牛丼に、生姜や七味、割りばしがセットになっています。テイクアウト容器のフタは取り外すことができます。
また、牛丼のアタマも取れるような仕様になっていて、牛丼のアタマを外すと下からご飯が顔をのぞかせます。

おうち吉野家(冷凍牛丼の具/冷凍豚丼の具/キムチ)

「吉野家の牛丼を自宅で食べたい」という声から誕生した「冷凍牛丼の具」。おうち吉野家を存分に楽しめると人気のメニューから「冷凍牛丼の具」「冷凍豚丼の具」、「キムチ」をチョイス。※キムチのパッケージに付属するフィルムは、テープ貼りで取り付ける仕様です。

ラッキーアイテム:湯呑み

ランダムで同梱される湯呑みは、倒れないように設計されているポイントもバッチリ再現!

ミニチュアフィギュア「吉野家 ミニチュアコレクション」は、2021年9月下旬から、全国のカプセルトイ売場、ホビーショップ、オンラインショップ、ロフト(一部店舗)、ケンエレスタンド秋葉原店・新橋駅店、上野ランドなどで発売。

価格は、カプセルトイ/1個500円(税込)、ブラインドBOX /1個550円(税込)。

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生涯で57回もの合戦に参加!徳川四天王の一人であり徳川家最強の武将・本多忠勝とは?

2021年9月4日 09:42 Japaaan

みなさんは、「本多忠勝(ほんだ ただかつ)」という人物を知っていますか?戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将です。徳川四天王の一人で、徳川家康に大きな貢献をしました。

そこで、今回の記事では、そんな本多忠勝について、彼の人生や人柄などについて詳しくご紹介したいと思います。

本多忠勝の人生は?

本多忠勝は、天文17年(1548年)に、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前)に生まれました。本多家は、徳川本家の最古参の家柄で、彼の父は本多忠高です。

父は忠勝が幼いころに戦死してしまったため、叔父の本多忠真(ほんだ ただざね)のもとで育てられます。初陣は永禄3年(1560年)、彼が13歳のときに参加した「桶狭間の戦い」でした。

その後、生涯にわたり全57の戦に参加。三河一向一揆、姉川の戦い、三方ケ原の戦いなど、家康の人生においても重要な合戦で活躍し、大きな功績をあげました。多くの合戦に参加した本多忠勝ですが、なんと傷ひとつ負わなかったと伝えられています。

そんな彼は、「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」という句を残して、63歳でこの世を去りました。



本多忠勝はどんな人物だった?

「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」の一人として、徳川家において最強の武将だったと評されているのが本多忠勝です。

勇猛果敢な人物として知られていますが、それは若いころからも現れており、15歳のときに参加した戦いで、叔父に自分の倒した敵の首を取るように言われたときも、忠勝は「人の力を借りた功などいらぬ」と断ったそうです。

また、長篠の戦いのあと、織田信長は、本多忠勝を「花も実も兼ね備えた武将である」としてほめたたえました。ここで言う「花」とは、兜や鎧などに気を遣い、相手を威圧する姿を指しています。

また、豊臣秀吉からは、「日本第一、古今独歩の勇士」として評されました。

いかがでしたか?今回は、徳川家康の右腕として活躍し、徳川家最強の武将とも名高い、本多忠勝についてご紹介しました。

この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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