戦国時代には実の息子たちと対峙しようとも、家名を守るために力を尽くした肝っ玉母さんがいました。その人物の名前は妙印尼(みょういんに)こと赤井輝子(あかい-てるこ)です。
輝子は息子たちと戦いに臨んだ歳が70を越えていたにも関わらず武勇誉れ高ったので、巷では戦国最強の女武将とも言われています。
今回は輝子の肝っ玉の据わった豪快な人生を覗いてみたいと思います。
夫の死後、由良家に危機が
輝子の夫である由良成繁(ゆら-なりしげ)は天正6年(1578)に病死してしまいます。その後由良家は舵取りを子の由良国繁(ゆら-くにしげ)に任せ、天正10年(1582)の武田家滅亡後、関東統治を任された織田家家臣滝川一益に仕えます。
そして、同年に起きた本能寺の変で織田信長が亡くなると、一益は北条家との合戦(神流川の戦い)の後、関東から逃亡してしまったので国繁は北条家に仕えました。
しかし、天正12年(1584)の時に国繁と弟の長尾顕長(ながお-あきなが)が北条氏直の計略にはまってしまい、小田原城に幽閉されてしまいました。この展開になってしまったのは成繁の影響があったかと思います。
成繁が当主だったころは武田信玄、上杉謙信、北条氏康と関東を代表する戦国武将が存命していました。自分の領地を守りながら生き残れたのは状況ごとに所属勢力を変えていたからでした。
そんな成繁の子である国繁たちも再度裏切るのではないかと危機感を抱いたから、幽閉にまで至ったと考えられます。
子と家名を守るために輝子が取った行動とは…
北条家は2人を返す条件として金山城と館林城の明け渡しを言い渡します。しかし、輝子はこれに対抗するかのように当主不在の由良家をまとめ上げ、北条と戦う意志を示しました。
71歳の老体でありながら、輝子は300人の兵を巧みに扱ったゲリラ戦法で北条勢を撃退させることに成功しました。
その後は北条家と和睦を結び、金山城と館林城を失いますが、2人の子が由良家に戻すことに成功しています。
そして、天正(1590)の小田原征伐になると再び輝子の出番が来ることになります。
輝子、最後の戦い
小田原征伐時、国繁は北条家に脅迫されたので、やむなく北条方として豊臣秀吉と対峙しました。しかし、輝子は孫の貞繁を大将に200人の兵を率い、豊臣方の前田利家と共に戦いました。
そこで戦果を挙げた輝子は利家の尽力もあって、国繁と顕長の助命に成功した上に新たな領地、常陸国牛久を与えられ家名の存続を達成します。
そして、由良家の家名を守るために戦った輝子は一仕事終えて満足したのか文禄3年(1593)に81歳で亡くなりました。
ちなみに輝子の孫には映画や小説の「のぼうの城」で有名になった女性、甲斐姫がいます。まさに血は争えないと思わざるをえないですね。
最後に
戦国時代は男性が主に家名を守るために戦い、女性は帰りを待つものだと思っていたので、輝子のような女性には正直驚かされました。
しかも年齢もかなりの高齢だったにも関わらず、活躍したので何かを達成できない理由の中に年齢を理由にすることはできないと感じされられました。