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ピンクのドレスが似合わなかった。秋元才加さんのコンプレックスと自信。

2020年8月21日 10:00 ハフポスト日本版

うず高く積み上げられた茶色いゴミの山。

自分と同じか、もっと幼い子供達が、ゴミをかき集めて運んでいる。

秋元才加さんはその場所のことをよく覚えている。

「ちゃんと見ておきなさい。うちはお金持ちではないけど、日本でちゃんと学校に通えて、勉強ができている。

とても、恵まれていることなんだ。だから頑張りなさい」


幼い頃、フィリピン出身の母親らに連れられて行った、マニラ郊外のスモーキーマウンテン。

この世界には様々な境遇や考えの人がいて、気持ちを全て理解できなくても、よく知り、考えることで、共に生きられる。

両親はそんなことを伝えようとしていた。

「人と分かり合えるって、期待しすぎないこと。

それは幼少期の私の経験も影響しているのかもしれません」

「元アイドル」にとらわれない存在感


AKB48を卒業して7年。

2020年、俳優としてハリウッド映画デビューを果たした。それだけではない。

ジェンダー平等やLGBTQ、人種差別などの社会課題について、Twitterで意見をハッキリと表明する。

的外れな批判に、時には毅然とした態度で切り返すこともある。

想像されるような「元アイドル」の枠にとどまらず、きちんと主張する俳優として、その存在感は日増しに大きくなっている。

裕福ではなかった。いじめも経験した。

「自分はマイノリティなんだという意識がずっとあります」

秋元さんは、父親が日本人、母親がフィリピン人という2つの国をルーツに持つ。

それを理由に小学生の頃にはいじめられた。

父は専業主夫で、母は夜も忙しく働いていた。

裕福な家庭ではなかった。

「当時、フィリピンとの『ハーフ』あるいは『ダブル』は、私の周りにはあまりいなくて、いじめも経験しました。

家も貧しくて、何でも買ってもらえる状況ではなかった。

それに、同じ『ダブル』なのに、アメリカやフランスなどの他の国なら『かっこいい』って言われることも多いのに、なんでアジアだとそうではないんだろう。

それが疑問でもあり、悔しい思いもしました。

だから、『みんなにとっての当たり前』が、私にとっては当たり前ではなかった。

必死に勉強したり、芸能界を目指したり、私の反骨精神はそういうところから来ているのかな」


だが、飛び込んだアイドルという世界では、自分のコンプレックスと嫌というほど向き合うことになる。

自分だけ、似合わないように感じた。

166センチの、平均より高い背丈、目鼻がはっきりとした顔立ちーー。

その容姿が、アイドル時代にはコンプレックスだった。

「持って生まれた本質って、変えることはできない。

でも10代から20代、それが変えられるはずだ、と思い込んでいました」


AKB48の衣装といえば、カラフルでポップ。

制服風や、パフスリーブのドレスや、リボンやフリルがついたミニスカートも多い。

お揃いの衣装が基本だが、自分だけ、似合わないように感じられた。

たとえば、ピンクのドレス。

後輩のまゆゆ(渡辺麻友さん)など、可愛らしく着こなし「完璧なアイドル」を体現するメンバーもいた。

そんな姿と自分とを比較しては、欠点ばかりが目に入った。

「私も似合うはずだ、似合わなきゃいけない、似合わない自分が悪い...」

そう思い込んで自分を追い詰め、深みにはまっていった。

「痩せ信仰」に苦しみ


多忙な生活とダイエットで、生理が止まった経験もある。

「私は標準的な日本女性の体型より、ももとお尻が大きいんです。

自分ではそれを変えたくて、10代の頃、一時期は毎日、ヨーグルトとサラダだけを食べていました」

日本の女性は、痩せすぎの傾向にあると言われている。

極端なダイエットが原因で、摂食障害などに繋がることもある。

アイドルという仕事は大勢の視線に晒される機会が多い。

自分の容姿に関して、必要以上に言及される負担が積み重なっていく。

「一人だけデカい」「筋肉すごくない?」

...そんな言葉に、苦しんでいた。

激しいダイエットの結果、確かに体重は減った。

でも、「ガリガリに痩せても、自分が望む体にはなりませんでした」

私に自信を与えてくれたのは…。


人と同じにならなくてもいい。

個性は魅力になる。

そんな風に思えるようになった理由の一つは、メンバーとの関わりだった。

最近寄稿した『文藝』(河出書房、2020年秋季号 )の特集「覚醒するシスターフッド」で、秋元さんはAKB48時代を振り返りながら、こんな思いを綴っている。

「女性が連帯した時の心強さやパワーを、私は知っていた」

フェミニズムの視点で、日本のアイドル産業を見ると、幼さを売りにし、女性に対する幻想を体現する存在であることなどが批判の対象となる時も多々ある。

最近、フェミニズムを学び始めたという秋元さん。

その視点には頷くこともあるが、自分がいた世界を否定しきれないという複雑な思いもある。

自分が体験した、自信を持って生きるきっかけをくれた女性たちの連帯や、ファンとの関わりの全てが、決して批判されるだけのものだとは思えなかったからだ。

悩んでいた秋元さんを見ていたメンバーは、

「才加には個性があるんだから、馴染もうとすることが間違ってるよ」

「そのままでいることが一番素敵だよ」

と声をかけ続けてくれたという。

また、応援してくれるファンからも、握手会などで「秋元さんの筋肉が躍動する姿がいい!」などの言葉をもらった。

「私に自信を与えてくれたのはアイドル時代があったからこそ。

振り返ると、よくない部分もあったかもしれないけれど、これからの時代のアイドルは、もっとアップデートして、女性がもっと強くなっていかないといけない。

今は少し離れたところから見ていて、少しずつこれまでとは違うアイドル像が生まれ始めているなと思います」

その「目標」、本当に合っている?


キャリアを積むにつれ、AKB48でもパンツスタイルが取り入れられるようになった。

秋元さんや他のパンツスタイルが似合うようなメンバーも、それぞれに自分らしいスタイリングができるようになっていった。

「だんだん自信がついてきて、自分が本当になりたい姿をちゃんと考えるようになりました。

実現できること、できないことをふまえて、きちんと目標を立てるようにしました。

そしたら、物事がすごく楽になった。

私と同じように苦しむ人は、その目標の設定を間違えているのかも。

痩せたからってすごく魅力的になれるわけではない。

自分のチャームポイントを見出すほうが大事。

それが今ならわかります」

秋元さんのロールモデルは誰ですか?

「強い女」が輝いた場所は


苦しみも、喜びも味わった、AKB48卒業から7年。

2020年、アクション映画シリーズ『山猫は眠らない』の最新作でハリウッドデビューを果たした。

主人公の敵となる暗殺者という大役。

アメリカの名俳優と共演し、映画のポスターの中心に立った。

かつてはコンプレックスで変えたいと思っていた、日本女性の平均よりも高い身長。

それが、ハリウッドに挑むには武器になった。

身体能力の高さをいかし、ガンや身体を自在に使ったアクションを披露した。

「日本だと、私の身長や体格は大柄なほうですが、ハリウッドだとちょっと細いぐらい。

ビジュアル的にもフィジカル的にも強い女性の役自体が、日本の作品ではあまり出てこないですよね。

どちらかというと『優しい女性』が求められることのほうが多い。

初めての経験で、アクションには必死でもがいて挑みましたが、私のビジュアルで『優しく見せるには...』などと考えなくてもいい部分は、のびのびとできましたね」


カナダで行われた撮影では、公にしていなかった時期もある自分のルーツも、助けになった。

アクション監督が、フィリピンと中国の『ダブル』だったのだ。

何もわからない異国の地、勝手の違う撮影現場。

その中で、ルーツを同じくする仲間として迎え入れられた。

「スタントを使わず、もっと自分で演じてみて」と励ましてくれた。

映画監督にも「本人の意思を尊重してあげて」と進言、秋元さんがスクリーンで輝けるよう、様々な世話を焼いてくれた。

「海外で、まるで家族に出会えたような。すごく心強い存在でした」

ハリウッドで一番苦労したことは?

「私と結婚したら楽しいよ」


幼い頃から憧れていたのは、「強い女性」だった。

母や祖母と一緒に、彼女たちが好きなスティーブン・セガールのアクション映画を観るのが好きだった。

「女は強くあるべきだ」と言われて育ち、外で働く母親の姿を見て、「かっこいい、女性ってすごい」と感じていた。

2020年にはラッパーのPUNPEEさんとの結婚を発表。

「私と結婚したら楽しいよ」と自らプロポーズしたと明かしている。

「相棒」のような、対等な関係性も話題になった。

「たとえば、男性におごられるのも苦手で、フラットじゃない感じがするんですよね。

逆の立場を考えた時に、男性であるというだけで、多くのお金を払うのもおかしいなって。

父がずっと専業主夫だったこともあるかもしれません。

性別に基づいて決められるのは、ずっと違和感がありました」

「母にも祖母にも、ずっと『自分1人で生きられるようにしなさい』と言われてきました。

だから、ちょっと根本的に、誰かに頼って生きる感覚が欠けているのかも。

常に対等であるべきじゃないかって思ってます。

最近はそういう私の考えを『いいね』って言われることが増えてきて、いろいろと声をかけていただくことも増えてきました」

「寂しくなった」母親と自分の間の壁


新型コロナの感染拡大に伴う自粛期間。秋元さんにも変化が訪れていた。

特別定額給付金について話をしていた時に、母親がふと漏らした言葉がある。

「でも、私外国人だから。その制度受けられないかもしれない」

結局、外国籍の人にも支給されることになった。

けれど、その会話をした時に初めて、日本国籍の自分と、外国籍の母親が、この国で同じ権利を得られないことがあり得るのだと認識した。

秋元さんはその時の会話を振り返って「寂しくなった」とツイートしている。

そのほかにも、政府の政策や社会問題を巡り、意見表明をする機会が増えていった。

「非常事態が続く中で、自分がちっぽけな存在だと実感したんです。

それで、『芸能人』以前の『日本国民としての私』のほうが、大きなものになっていきました」

4月には、LGBTQの祭典「東京レインボープライド」のオンラインイベントにも参加。

性的マイノリティの人々の権利を守ること、「アライ」(理解者・支援者)として自分たちができることについて話し合った。

秋元さんは身近な友人に性的マイノリティの当事者がいたとして、「最初は少し失礼なことをしたとしても、『歩み寄って理解しよう』『この人をもっと好きになりたい、知りたい』っていう気持ちの方が大事」と話した。

発信を続けていると「リベラルですね」「勇気がありますね」と称賛されることが増えてきた。

しかし、それにもまた、レッテルを貼られているような、居心地の悪さを感じているという。

秋元さんにとってはごく自然な成り行きだったからだ。

「フィリピンと日本の『ダブル』であるという私の出自や、LGBTQの当事者である友人がいることもあって、社会問題は、私にとって常に身近な問題でした。

だからそもそも、政治って難しいことなのかな?って。

人の立場や視点によって、見え方が異なるから正解もない。

もっと身近に話していきたいです」

批判をどう感じているのか?


Twitter上で意見を表明する上で、今、避けて通れないのが人々からのバッシングだ。

秋元さんがハッシュタグによるデモに参加した際にも、誹謗中傷の言葉を浴びた。

「芸能人が政治的な発言をするな」

「ちゃんと勉強した上で発言しているのか?」というような非難もあった。

辛くはないのか。

心ない声をどう感じているのか?

「世界が急激に変わって、人の本質がむき出しになった状態が、顕著になっていると感じています。

確かに私もすごく叩かれると、不安になります。

でも、そこまで気にはしていないですね。

『分かり合おう』と思う姿勢はすごく大事だけど、分かり合えないことも、ちゃんと受け止めなきゃと思っています。

間違っているかもしれない。

間違ったら謝りたいけど、その時の私がそう思ったんだから、それをまずは尊重したい。

だからこそ、人の意見も

『私とは違いますね。でも、あなたの意見はわかりました』

って互いを尊重できたらいいのかなって」

疑問や間違いに気づいたらどう行動する?

自分は人とは違う存在だ。

それぞれの意見を認め、尊重することは、「強さ」がないとできない。

その第一歩は、自分に自信を持つことから始まる。

秋元さんはそう考えている。

「昔は『強さ』がなかった」


実は、AKB48時代から今も変わらず実践していることがある。

振付師の夏まゆみさんに教わった、「自信を持つ方法」だ。

「『好きなこと、続けられることを10個続けなさい』って。

今でも、その小さな積み重ねを大事にしています。

それと、私、日記に書き残してるんです。

『今日はこんなことを褒められた』って(笑)。

嫌なことを言われたほうが覚えているもので、褒められたことって忘れていきませんか?

だから自信を失わないように、覚えておけるように」

人からもらったポジティブな言葉を信じる。

好きなことを継続する。

広い世界を知る。

そして、自分のことをちゃんと守ることで、相手を尊重できるーー。

秋元さんは、そうして自分のコンプレックスと付き合い、「自信」を持ち、顔も名前も知らない「誰か」のことも尊重できるようになったのだという。

「自分の思いを尊重すること。

この強さって、すごく当たり前にみんな持ってなきゃいけないものだと思うんですけど、これを育むのはすごく大変だなぁと思いました。

その力をつけること。別に政治の知識があるとかないとかじゃなくて、その時私はこう思ったって言葉にして伝えられること。

それが自信だと思うんです。

私も、昔はその『強さ』がなかった。

10代、20代の頃は人の意見を鵜呑みにすることもありましたし、今でもそういう一面はあると思います。

だからこそ、学んで吸収する姿勢を大事に、自分なりのペースでアップデートしていけたらいいなぁと思ってます」


(取材・文=若田悠希、泉谷由梨子、動画=坪池順、写真=小原聡太)

当記事は、ハフポスト日本版とLINE NEWSとの特別企画です。

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cat_7_issue_oa-huffpost oa-huffpost_0_tsjsx21ecbgi_旅・海・サーフィン。「神童」五十嵐カノアの選択と、居場所をめぐる物語。 tsjsx21ecbgi tsjsx21ecbgi 旅・海・サーフィン。「神童」五十嵐カノアの選択と、居場所をめぐる物語。 oa-huffpost 0

旅・海・サーフィン。「神童」五十嵐カノアの選択と、居場所をめぐる物語。

3歳の誕生日、旅行で訪れたハワイ。

オアフ島のサーフショップで、プレゼントに自ら選んだのは、6フィート、シングルフィンのサーフボードだ。

そのままショップで滑り止めのワックスを塗り、海へ直行。

父親に押されて、初めて波に乗ったのがこの時だった。

サーファーである両親譲りのセンスだろうか、なんと、1回目でボードに立った。

「もう1回!もう1回!」

波乗りの感覚に魅了され、そのまま何度も何度も繰り返し波に乗った。

これが、その後「サーフィン界の神童」と呼ばれる少年のサーフィンライフの始まりだった。



あれから19年。

その少年は、今や、世界トップクラスのサーファーとして、世界中の海を舞台に活躍しているーー。

来たる東京オリンピックで初めて競技として採用される、サーフィンの日本代表候補選手、五十嵐カノアだ。

しかし肝心のオリンピックは、新型コロナウイルスの影響で、2021年夏への延期に。3月27日付けの米ロサンゼルス・タイムズ紙でこう話した。

「今は身勝手に自分のオリンピックのことを考える場合ではありません。どう地域に貢献できるかを考えています」


「アスリートを超える存在」を目指す、五十嵐選手の信念がにじみ出る。ハフポスト日本版は、オリンピック延期が決定する前の2月末、日本を訪れていた五十嵐選手に話を聞いた。

最大の武器で狙う「金」


日本人の両親の元、アメリカ・カリフォルニア州で生まれ、サーフィンのメッカとして知られるハンティントン・ビーチで育った。

3歳でサーフィンを始め、11歳でNSSA(全米アマチュアサーフィン連盟)の大会でシーズン最多となる30勝を記録。

14歳でUSAチャンピオンシップ18歳以下の部を、史上最年少で優勝した。

そして2016年、18歳で世界最高峰のチャンピオンシップツアーWCTにアジア人初として参戦。

2019年の世界ランキングは自己最高の6位を記録した。

着実に世界の頂点へ近づいている彼は、東京オリンピックの日本代表候補選手として注目を浴びている。

幼い頃から多くの大会を制し「Prodigy(神童)」と呼ばれてきたが、そんな彼も今は22歳。

持ち前のスピードを生かしたエアーを武器に、金メダルを狙うー。

「これは戦争ではない」


アメリカで生まれ育った五十嵐選手は、以前はアメリカ国旗をゼッケンの肩に掲げ、競技していた。

彼がその国旗を日本に変えたのは、2018年のことだ。

「どの国を代表するかなんて、1度も考えたこともなかった。もっと若い時は、ただ自分の為に競技をしていたし、ずっと『日本とアメリカを代表している』という気持ちでいたので」

しかし、舞台が大きくなるにつれ、「どの国旗を付けるのか?」という選択を強いられる時がきたという。

「戸惑いましたが、僕に多くを捧げてくれた両親や日本の家族に敬意を示したいと思ったんです。 家族や日本人としてのルーツを考えた時、これが自然で正しいことだと感じた。 そして家族に僕の海での活躍を、もっと身近に感じて欲しいと思いました」

五十嵐選手が日本チームに加わる事に日本が沸いた一方、アメリカでは様々な意見もあった。

しかし彼は、そういった声も前向きに受け取った。

「誰も気にしないだろうと思っていたから、正直びっくりしました。僕の選択に人々が関心を持ってくれたことは、ある 意味嬉しかった。そしてそれは、 僕がサーフィンの世界である意味重要視されているということだと受け取りました。自分はサーフィンにおいて、やるべきことをやっている、と」

そして、「競技で代表する国を選ぶ時、これはサーフィンで、スポーツであって、戦争ではありません」と加えた。

生活苦も「子供をプロに」その一心で


五十嵐選手は、プロサーファーとなるべくして生まれてきたと言っても過言ではない。

そこには両親の強い想いがある。

共にサーファーである彼の両親は、1995年に将来子供をプロサーファーに育てるため、日本からサーフィン環境の良いアメリカ・カリフォルニアに引っ越してきた。

しかし、父親・勉さんは当初英語もあまり分からず、日常生活にも苦労をしたという。

さらに、テロやリーマンショックなどでアメリカの景気が悪くなり、経済的に日々の生活も大変になっていったそうだ。

それでも勉さんは「プロサーファーを育てたい」という一心で、様々な仕事をこなしながら、何とかアメリカに留まった。​

五十嵐選手はそうした両親の思いを受け、徐々にサーファーとしての才能を開花させていった。

弟のキアヌ選手も、アマチュア大会での活躍を経て、今シーズンから本格的にプロサーファーとして活動を始めている。

「サーフィンが僕に居場所をくれた」


「カノア」という名前は、ハワイ語で「自由」という意味。

日本とカリフォルニアの中間であるハワイの言葉ということ、そして将来、ハワイのサーフィンの聖地「パイプライン」に行ったときに、ローカルだと思われてより多くの波に乗れるように、との願いを込めてつけられたという。


アメリカは多民族国家であるが、五十嵐選手が育ったハンティントンビーチは、白人が多くを占める街だ。

アメリカで生まれ、英語に不自由ない五十嵐選手だが、それでも違和感を感じていたという。

そんな彼にとって、サーフィンは大きな意味を持った。

「ハンティントンビーチで育つにあたって、僕にとってサーフィンは大きな存在でした。サーフィンが僕に居場所をくれたんです。いじめなどを受けたわけではないですが、僕は周りと違っていると感じていた。アジア人、日系人でアウトサイダーだった僕が、サーフィンで活躍することで一気にクラスのスターになることもできました」

「サーフィンはとにかくオープンで、サーファーはみんな波をシェアする仲間。サーフィンによって友達と繋がり、ローカルに溶け込むことができた。自分は周りと違っていたけれど、サーフィンが僕をみんなと溶け込ませてくれた。その全てにおいて、サーフィンへの感謝を一生忘れません」

神童にとって「海」とは…


ハワイ語で「自由」を意味する「カノア」ー。彼の一番好きな言葉は、ポルトガル語で「自由」を意味する「Liberdade」 だという。

そしてその「自由」こそ、五十嵐選手が好きなサーフィンの象徴だ。

「サーフィンの素晴らしい所は、水の中で得られる自由。海にいるときは、自分と海とサーフボードだけ。波に乗りたければ乗ればいいし、乗らなくてもいい」

そして海は、彼にとっては人々とつながる場所でもある。

人々が友達とカフェでお茶をするように、彼は海でサーフィンをしながら友達や弟や父などの家族と会話をする。

一方、海・サーフィンは彼にとって競技場でありオフィスでもある。

「僕にとって海は、とてもユニークで特別な場所で、携帯電話や現実から遠く離れ、母なる大地に包まれるような場所」と話す。

話せる言語は「4.5カ国語」


世界ツアー中はもちろん、オフシーズン中も世界を転々とし多忙な五十嵐選手。

インタビューのこの日も、朝にインドネシアから日本に着いたばかりだった 。

常に世界を渡り歩き「拠点はない」と話すが、カリフォルニアやポルトガルに家を持つ。

ポルトガルは「オフモードになれて自分自身になれる」とお気に入りの場所だという。

実際、五十嵐選手はポルトガル語が堪能だ。

ほかにも、日本語・英語・スペイン語、そしてフランス語(現在勉強中)と、合計4.5カ国語を話す。

日本語は両親から、英語は地元の学校で、ポルトガル語はブラジル人の友達から…と、それ以降は国々を旅しながら喋れるようになっていったそうだ。

「僕は世界とつながっている」


高校を卒業したのち、プロサーファーとして世界を回る選択をした彼にとって、旅はまさに「学校」だった。

「世界を旅する事は、僕の人生を変えました。決まり文句に聞こえるかもしれませんが、僕にとっては本当のこと。旅するとき、それぞれの土地に学びの姿勢を持ってオープンでいることで、文化、人々、言語を学んでいった。いつも意識的に学ぼう、経験しよう、としていました」

そしてそれは、話し方や人や自分の見方、人生の捉え方 、そして競技や食べ物、服装からマナーまで、すべての面で彼に影響を与えた。

「僕は世界とつながっていると感じています。特定の文化でなく、世界が僕を形成し、それらのブレンドやフュージョンが自分だと感じています。そんな貴重な経験に、とても感謝しています」

彼が旅してきたそんな世界の中でも、日本、アメリカ、ポルトガルに強い繋がりや影響を感じているという。

「自分はとても日本人だと思いますが、こんな経験をしてきた自分を『世界の市民』だと感じています」

"大怪我"負ったからこそ…


幼い頃から世界を周り、若くしてチャンピオンシップツアー参戦を果たした五十嵐選手。

順風満帆のキャリアに見えるが、不安や挫折がなかった訳ではない。

13歳の時、サーフィンの練習中に左足を骨折。焦りと不安に駆られたという。

「どうなっちゃうんだろう、と。もしかしたら6カ月か1年くらいサーフィンできないと言われて、みんなに追いつかれちゃう、レベルが下がっちゃうかもしれない、もしかしたらサーフィンが一生できなくなっちゃうかもしれない、と本当に落ち込みました」

しかし、彼は困難を乗り越え、再びトップステージに復活した。

「戻ってきたら、前よりもモチベーションが上がって、やっぱり本当にサーフィンは幸せだな、と気持ちをまたリセットできたんです。怪我をした時は辛く大変でしたが、後から見れば、それがメンタルをリセットするきっかけとなって、良かったのかもしれません」

そして今、サーフィン史上初の、オリンピックの舞台に挑もうとしている。

五輪会場は"運命の地"に


サーフィンは、2021年に予定されている東京オリンピックで初めて競技として採用される。

採用が決定した時の喜びはひとしおだったという。

「まさに夢が叶った!と思いました。自分にとってチャンスというだけでなく、自分のスポーツが偉業を成し遂げた、という嬉しい気持ちになりました。サーフィンは僕にとって自分の子供のようなものだから。僕に多くをくれた『自分のスポーツ』という思いが強いので、このようにオリンピック種目になって、誇れる父親の気分です」

そして偶然にも、開催されるのは、父・勉さんが昔からホームポイントとしてサーフィンしてきた、千葉の釣ヶ崎海岸だ。

五十嵐選手自身も、小さな頃から日本に来てはそこでサーフィンしてきたという思い入れのあるビーチだ。

「他の大会とは全く違う意味を持ちます。僕だけでなく、これは家族にとっても大きな事です」

アメリカの両親だけでなく、今も日本に住む祖母も、「今まで人生でたくさんのことを経験してきたけど、1つだけ欠けているのは、孫がオリンピックでサーフィンするのを観戦すること」と楽しみにしており、それが彼のモチベーションにもなっている。

オリンピックは延期になってしまったが、延期決定前、延期が懸念される中でのCNNでのインタビューでは、「オリンピックが7月だとしても、延期されても、僕らサーファーは何事にも準備はできている」

「辛いが、過程を信頼し、自分がコントロールできることだけに集中し、どうなるかを見守るしかない」と話していた。

「アスリート以上の存在に」


まさにワールド・アスリートと呼ぶにふさわしい五十嵐選手にとって、2020年の夢は、もちろん「オリンピック金メダル」だと話す。

残念ながら、大会延期により、この夢は2021年に持ち越されることになる。

しかし、彼の長期的な目標は、もっと大きなところにある。

「サーファーよりも、アスリートよりも、もっと大きな存在になりたい。スポーツで築いた名声を使ってメッセージを広め、世界にポジティブな影響を与えられるようなロールモデルになりたいです。 それこそが、まさに真のスポーツマンだと思う。トロフィーやメダル、お金を得るよりもずっと意味のあることです」

ロールモデルにする人物について尋ねると、サッカー界のレジェンド「デイビット・ベッカム」との答えが返ってきた。

彼は元プロサッカー選手で元イングランド代表キャプテンなど、スポーツでの功績はもちろん、引退後も子供達にサッカー教室を開催したり、ユニセフとの基金を設立するなど、サッカーだけにとどまらず、社会に貢献している。

「世界の優れたアスリートは、スポーツを引退してからも、世界にポジティブな影響を与えている人達。それはアスリートとして次の次元です。いつかそのようになりたい、というのが僕のゴール。サーフィンは僕にそのチャンスをくれた。 そのために、重要な問題について教育を受け、ポジティブなメッセージを広めたい。僕にとってはもちろん海がテーマで、サーフィンや海や環境を守る、ということに貢献したい。それが僕の将来のゴールです」

五十嵐カノア

1997年、アメリカ・カリフォルニア州生まれ。サーフィンのメッカとして知られるハンティントン・ビーチで育つ。3歳でサーフィンを始め、14歳でUSAチャンピオンシップ18歳以下の部を、史上最年少で優勝、2016年、18歳で世界最高峰のチャンピオンシップツアーWCTにアジア人初として参戦。2019年の世界ランキングは自己最高の6位を記録。東京オリンピックの日本代表候補選手。2020年からハワイ観光局親善大使も務めている。持ち前のスピードから生み出されるエアーを得意とする。サーフィン競技だけでなく、サステナビリティーに関わる活動でも今後世界に貢献していく方針。木下グループ所属


当記事は、ハフポスト日本版とLINE NEWSとの特別企画です。

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「私にとってママはレジェンド」。5度目の五輪出場、クレー射撃中山由起枝の競技を支えた娘の手紙。

2020年2月19日 10:00 ハフポスト日本版

2008年北京オリンピック、クレー射撃3位決定戦。日本代表・中山由起枝選手は、同点の4人による延長を戦っていた。

出産、復帰後初めて臨んだオリンピックだった。

「ママとして銅」をかけた最後の射撃。弾丸は宙を舞うオレンジ色の円盤、「クレー」をとらえられず、空を切って消えた。

メダリストと4位の差は大きい。競技後、中山選手は静かに帰国した。

当時6歳の娘・芽生さんが手紙をくれた。表には「ママへ 4位入賞おめでとう。♡☆めい」と書かれていた。

中を開くと、黄緑の背景に無数の黒い点。クレーのカケラが散りばめられたフィールドの上空に、円盤が1つ浮いている。

命中して割れている場面を描いたつもりが、円盤は形を保ったまま。

絵を指差しながら、「割れてないでしょ」と思わず苦笑いした。

『5回は普通じゃないよ』


12年がたった。

日立建機に所属する中山選手はその間もロンドン、リオデジャネイロと、オリンピックへの出場を重ねてきた。

そのたびに、芽生さんからは手紙をもらった。

大舞台を前に母を励ますもの。重圧がかかる戦いの後にねぎらうもの。開くと「金メダル」が浮かび上がる手作りカードは、2012年のロンドン大会。

英語で日頃の料理やサポートへの感謝がつづられたクリスマスメッセージは、2016年リオ大会のころのものだ。

そして2019年。芽生さんから新しい手紙を受け取った。

「私にとってママはレジェンドだよ」。中山選手は通算5度目の大舞台となる、東京オリンピックに出場することが決まった。

その分、月日も流れた。娘も18歳になり、大学受験を控えていた。
手紙には英語で「次は私の番」とつづられていた。

「その手紙をくれたとき、娘が一番最初に発した言葉が『5回は普通じゃないよ』でした」

都内の施設。中山は遠い目をしながら振り返る。

「一緒に歩んできたという歴史を感じるなと、しみじみ思いました。いつも娘と会話をしている中で、言葉がシンクロするときがあるんです。だから、性格は全然違うんですけれど、いつも思いや考えは一緒だね、ということが2人の中にあって」

 「うちって、ちょっと変わっている家庭じゃないですか。シングルピアレントで、母親がオリンピック選手。この年齢でもやっている。『5回は普通じゃないよ』と言われたときは、本当にスッと『あなたも普通じゃないよね』と。今までの歴史を本当にギュッと凝縮した、2人だけにしかわからない空間であって、言葉であったな、というふうに思います」

「私が悔しいと思うときは彼女も悔しいと思うし、娘がつらいと思っているときは私も本当に心が痛いくらいつらい。北京オリンピック前からずっときた年月というのは、本当にかけがえのないもの。2人にしかわからない、泣いても泣いても泣ききれない思いがありました」

五輪は母と娘の「死活問題」


中山選手は、競技を始めて今年で23年目を迎える。

長く現役を続けてこれた原動力について尋ねると、思わぬ言葉が返ってきた。

「子育てをしていく生活のためです」

長女の芽生さんを出産したのは22歳。初出場の2000年シドニーオリンピックの翌年だった。芽生さんがまだ幼かったころ、シングルピアレントとして育てていく決断をした。

当時、出産後も競技を続ける選手はほぼいなかった。それでも、シングルピアレントとして芽生さんを育てていかないといけない。独り立ちさせるまでは、競技をやめるわけにはいかなかった。

「クレー射撃をしませんか?と声をかけていただいて入社しているので、競技をやめれば、当然会社に残ることはないと思っていました」

覚悟は決まっていた。

近くに住む両親の助けを借り、子育てをしながら2008年の北京オリンピックを目指すため、再出発した。

「あまり理解できないと思うのですが、常に4年後を想像するわけです。北京オリンピックが終わった次の年には娘は10歳になります。また4年経つとロンドン五輪で、その頃は中学3年生です」

企業に所属する中山選手にとって、オリンピックを目指すことができるか。そして代表に選ばれるかどうかは、夢というよりも「死活問題」だった。

「会社から確約がもらえれば、4年間はとりあえず生活はできる。この4年間はすごく大きい。私は競技者でもありますけど、母親でもありシングルピアレントでもあります。とにかく生活をしていかなきゃいけないというのが一番で、次にそこに夢があるかないかというのがくる。他の選手とは考え方や追いかけているものがちょっと違う。必死です」

それでも一つだけ、追い続けている夢がある。

北京オリンピックの時、当時小学1年だった芽生さんに「首にメダルをかけてあげる」と約束した。メダルはそれから2人の夢になった。

まだその約束は果たせていない。

「4位という結果で、いまだにあのときの願いが叶えられていなくて。やっぱり、娘との約束を果たすというのを1つの夢として追い続けている部分もあります」

出産か引退の2択?


出産か、それとも引退か。

スポーツ界ではまだ、女性の競技者が産後に復帰することは、当たり前の選択肢ではない。

身体能力などの理由から、多くの競技でアスリートは20代までにピークを迎えると言われている。そこで、まずは競技に専念し、引退後に出産や子育てをするのが一般的だ。

「30歳手前で全盛期が終わってしまう競技もあります。でも長く続けられる競技では、出産や子育てを考えているアスリートもいる。そういった悩みを共有できる場や情報が、私の時代には少なかった」

現在、オリンピックに手が届くレベルで、子育てをしている女性トップアスリートは数える程しかいない。中山選手の他には、陸上100メートルハードルの寺田明日香選手、バスケットボール大﨑佑圭選手、バレーボール荒木絵里香選手らぐらいだ。

中山選手が出産した2001年、アスリートの産後復帰や子育てを支える仕組みは全くなかった。中山選手は両親の助けを借り、練習を早く切り上げたりして、子育ての時間を確保した。

2012年のロンドンオリンピック後、ようやく、産後復帰するアスリートへのサポート体制が徐々に整えられるようになる。東京都の国立スポーツ科学センターには、アスリートのための託児室なども設置された。

でも…。中山選手は続ける。

「東京に住んでいなければそのサポートは受けられない。それからアスリートの中でも、サポートを受けられるレベルや順位があるはず。スポーツの裾野を広げていくには、皆がそのサポートを受けられる社会が理想的じゃないでしょうか」

日本でも「普通」になればいいのに…


海外ではどうか。

出産後も競技を続け、オリンピックでメダルに獲得したアスリートも珍しくない。

16年リオ大会の女子アメリカ代表は、少なくとも10選手に子どもがいた。そのうち3選手がメダルに輝いた。

ロシアのスベトラーナ ズロワ選手は、出産から2年後、トリノオリンピックでスピードスケート500メートルの金メダルを獲った。

陸上短距離で6つのオリンピック金メダルを獲得したアリソン フェリックス選手や、テニスのセリーナ ウィリアムズ選手は、幼い子どもを育てながら第一線で活躍している。

そうした現状を踏まえて、中山選手は言う。

「今はまだ、子どもを持つ女性がまだ競技を続けられるんだ、オリンピックに行けるんだということが、日本だとすごく珍しい。その珍しいということ自体が(先進諸国のスタンダードから見れば)珍しい。私たちからすれば、日本でもそんなものが普通の世の中になればいいのにという思いがあります」

競技の枠を超えて「成功例」を


クレー射撃は、他の競技と比べて選手の寿命が長い。そのため「子育てしながら続けられる息の長い競技」と中山選手は語る。

実は、リオオリンピックの女子スキート種目では、子供のいる選手が表彰台を独占しているのだ。

「クレー射撃ではこれだけ例がある。こんなに珍しい競技はないでしょう?と伝えていくと、女性が『えっ、何ならじゃあやれるじゃない』と。そうやっていくことで、競技人口に繋がるのではないかと考えています」

もちろん、クレー射撃の状況を他の競技にそのまま当てはめることはできない。だからこそ、様々な競技からロールモデルとなる選手が出てくることが重要だと、中山選手は考えている。

「可能な競技だけを取り上げると、『その競技だからできるんでしょ?』となってしまう。でも、谷亮子さんも、子育てしながら柔道を続けて、北京で3位を取った。すごいことです。バレーボールの荒木絵里香さんも子育てをしながらプレーを続けています。色々な競技から出てくるとインパクトもあるし、可能性もすごく広がります」

「中には、競技の性質上難しいものもあると思います。しかし、女性特有の問題に対応して競技人口を増やすためには、各競技団体がどうやってサポートしてくか、それをもっと働きかけないと駄目ですよね」

「できればパリまで...」夢よりも大切なもの


中山選手はリオオリンピックの後、順天堂大学院に進学し、コーチングを学んだ。

そこでの研究で、日本で女性アスリートをサポートする仕組みが認知されていなかったり、一部の選手に限定されていたりする課題に直面した。中山選手はその先駆者の一人だ。

「だから、子育てと競技の両立の可能性は、そんな自分たちが残していくものなのかなというふうに考えています」

国立スポーツ科学センターが実施する「Mama Athletes Network(MAN)」の一員にもなっているのは、そんな思いからだ。

「私は子どもが小さい時に辞めてしまった。本当は、中山さんのように、まだまだ子供に競技を続ける自分を見せたかった」。そう話しかけてくれたのは、ソチオリンピックに出場した元スノーボード・ハーフパイプの三星マナミさんだった。

MANには、平昌オリンピックでカーリング女子を率いた本橋麻里さんらも参加している。「これから出産したい」「子育てをしながら競技を続けたい」。そんな若いアスリートに、先駆者として自分の経験を伝えていく。

「自分たちがやってもらえなかったことを、今まさにやろうとしているところです。今回の東京オリンピックでは、出場選手の男女比率が50%に近い。世界やIOCは、将来的には選手だけでなくコーチらも含めて、50:50で比率を同等にしていきたいう目標があります。しかし、世界に任せるのではなくて、日本からも私たちができることをまずはやっていこう。問題を抱えている選手がいれば何か手助けしたい。そう思っています」

東京オリンピックは、現役で迎える最後のオリンピックになるかもしれない。

そんな覚悟で臨む一方で、中山選手は「あと4年、できればパリまでやりたい」とも漏らす。その頃には、芽生さんが大学を卒業して、独り立ちしているはずだからだ。

ただ、「夢よりも生活のため」ときっぱり話した中山選手の選択は、いつも現実的だ。たどり着いた答えが指導者への道筋も同時に目指すという道。そのため、競技生活と並行して、2019年に大学院も修了した。

18歳でクレー射撃をはじめ、競技生活は23年目を迎える。

その間、妻、母親、シングルピアレントとライフステージの変遷を経験しながら、常にトップ選手として走り続けてきた。

選手として、親として、先駆者として、将来の指導者として。

さまざまな思いや夢を胸に、中山選手は「集大成」の大会として東京オリンピックに臨む。


当記事は、ハフポスト日本版とLINE NEWSとの共同企画です

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サンタとコカインのクリスマスセーターを販売➡︎謝罪に ウォルマート

2019年12月11日 10:30 ハフポスト日本版

サンタクロースと粉雪... それとも...?

ウォルマート・カナダのウェブサイトで、サンタクロースとコカインとみられる白い粉が描かれたクリスマスセーターが販売されていた。

同社は、このセーターと、その他ファミリー層に不適切な描写があった洋服を販売停止し、謝罪した。

カナダのメディア、グローバルニュースによると、問題のセーターには目を大きく見開き青白い顔色をしたサンタが、3列に並べられた白い粉と、同様の粉で作られたクリスマスツリーが置かれたテーブルの前に座っているデザインと、「雪よ降れ」の文字が描かれていた。

そして、これがただの雪ではないことをカタログの説明文が証明している。

Twitterに掲載されたカタログのスクリーンショットには、「僕らはみんな、雪ってどんなものか知っている。白くて、粉みたいで、最高の雪は南アメリカ産だ。遠い北極に住むサンタには残念だけど。だからこそ、サンタは最高品質のコロンビア産の雪が手に入ったとき、じっくりと楽しむんだ」と書かれていた。


12月9日、ウォルマートの広報担当者はハフポストに対し、「ウォルマート・カナダのウェブサイトで第三者によって販売されていたこれらのセーターは、ウォルマートの価値観を代表するものではなく、私たちのウェブサイトに掲載されるべきではありません」と声明を発表した。

「これらの商品の販売を停止しました。これらの商品によるあらゆる意図せぬ攻撃に、謝罪します」

CNNは、「第三者でもウォルマートの市場で商品を販売することができる。ウォルマートのポータルは、同社が他の販売者がウェブサイト利用することを許可できる仕組みになっている」と指摘した。

同社のウェブサイトには他にも、性的描写を含んだクリスマスセーターなどが販売されていたという。

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。

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中村哲医師、アフガニスタンで銃撃され死亡 現地で医療活動や水利事業に励んでいた【UPDATE】

2019年12月4日 17:25 ハフポスト日本版

アフガニスタンで活動している福岡市のNGO、「ペシャワール会」現地代表の医師、中村哲さん(73)を乗せた車がアフガニスタン東部で何者かに銃撃され、中村さんが死亡したとNHKなどが報じた。

ペシャワール会は、事実確認中としており、現地との連絡を続けている。


中村さんは胸を撃たれて、病院に運ばれ、集中治療室で治療を受けていた。

ペシャワール会によると、中村さんは九州大学医学部卒業。国内の病院勤務を経て、1984年、パキスタンのペシャワールにあるミッション病院ハンセン病棟に赴任し、パキスタン人やアフガン難民のハンセン病治療を始めた。

1989年よりアフガニスタン国内へ活動を拡げ、医療過疎地でハンセン病や結核など貧困層に多い疾患の診療を始めた。

2000年からは、アフガニスタンで飲料水・灌漑用井戸事業を始め、2003年から農村復興のため大がかりな水利事業に携わってきたという。

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cat_7_issue_oa-huffpost oa-huffpost_0_f125792f8953_コールドプレイ、“環境配慮“で世界ツアーの代わりにYouTube生配信。「一番の問題は飛行機だ」 f125792f8953 f125792f8953 コールドプレイ、“環境配慮“で世界ツアーの代わりにYouTube生配信。「一番の問題は飛行機だ」 oa-huffpost 0

コールドプレイ、“環境配慮“で世界ツアーの代わりにYouTube生配信。「一番の問題は飛行機だ」

2019年11月22日 17:04 ハフポスト日本版

グラミー賞アーティストのコールドプレイが、新作アルバムのプロモーションのためのコンサートツアーを行わないことを明らかにした。

ボーカルのクリス・マーティンが11月21日にBBCのビデオインタビューで語った。

イギリス出身のバンド「コールドプレイ」は、11月22日に最新アルバム「Everyday Life / エヴリデイ・ライフ」をリリースしたばかり。

コールドプレイは、2015年にリリースしたアルバム「A Head Full of Dreams」では、5大陸を回るワールドツアーを行い、計122回のステージを披露した。

「この1〜2年は、ツアーをどのようにしてサステナブルにするかだけでなく、環境にプラスの影響を与えられるように運営の方法を考えていく」 とマーティンは話した。

「私たちみんなが、業界に関わらず、最善に仕事をこなすためにどうするべきかを考えるべきだ」

さらに、将来のツアーについて、このように述べた。

「一番の問題は、飛行機での移動だ。でも、例えば、使い捨てプラスチックを使わない、太陽光発電を活用する、といった方法もある」

「どうすれば、“奪う“より“与える“ものが多いやり方に変えられるだろうか」


今回は、長期ツアーの代わりに、11月22日にヨルダンでサンライズとサンセット2回の公演を開催し、YouTubeで世界中に無料放送される。

(日本時間の11月22日13時と23時午後2時)

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。

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cat_7_issue_oa-huffpost oa-huffpost_0_b23b60686da3_耳の聞こえない両親と生きた娘の後悔「私たちは、どのくらいお互いのことを理解できていたんだろう」 b23b60686da3 b23b60686da3 耳の聞こえない両親と生きた娘の後悔「私たちは、どのくらいお互いのことを理解できていたんだろう」 oa-huffpost 0

耳の聞こえない両親と生きた娘の後悔「私たちは、どのくらいお互いのことを理解できていたんだろう」

2019年11月22日 16:48 ハフポスト日本版

耳の聞こえない両親のもとに生まれた一人の女性がいる。

浅川昭子(56歳)さん。

現在は、東京・板橋区で手話通訳の仕事をしている。

本格的に手話を習い始めたのは、両親が亡くなってから。

「私たちは、どのくらいお互いのことを理解できていたんだろうーー」

手話を学び、ろう者のことを知れば知るほど、昭子さんはそんな後悔に苛まれるようになったという。

「私が親を守らなきゃ、強くならなくちゃ、我慢しなきゃ」


昭子さんは、1963年に東京・足立区で父・昭三さんと母・タイ子さんの長女として生まれた。

両親はともに耳が聞こえなかった。

「子どものときは、聞こえない親のことがすごく恥ずかしかった」昭子さんは、子ども時代をそう振り返る。

両親が使う手話やろう者独特な話し方に、周りの視線が気になった。

「母に電車やバスの中で話しかけられると、すごく恥ずかしくて。『みんなが見てくるから、手話はしないで』って母に言ったこともありましたね」

一方で、聞こえない両親を「かわいそう」と思う気持ちも強かった。

小学校低学年のとき。

学校の授業参観で、親子でドッジボールをする企画があった。

「みんなは『危ない』って声をかけあってボールから逃げることができるけど、うちの母親は聞こえないから、ただコートの中を走り回るだけ。それでやっぱり母親にボールが当たっちゃったのね。その姿を見たとき、すごく切なくなっちゃって。かわいそうだな、母親も聞こえれば当たらずに済んだのになって…」

また、昭子さんは今でもある光景を鮮明に思い出す。

賑やかな親戚の輪の中で、ポツンと座る両親の姿だ。

両親は、周りが何を話しているか分からないはずなのに「うん、うん」と笑顔で頷いていた。

「そんな姿を小さい頃から見てきて、『両親かわいそうだな』って思いがずっとずっと心の奥にあって。だからこそ『私が親を守らなきゃ、強くならなくちゃ、我慢しなきゃ』って、全面的に弱みを見せたり、甘えられなかったりしたのはあったと思う」昭子さんは言う。

「一番大切なことを親には伝えられない」


思春期になると、悩みを一番身近な親に相談することができなくなった。

高校3年生で進路について悩んだとき。

卒業後は就職するはずだったが、大学に進学したい気持ちが芽生えた。

部活でやっていた陸上を、大学で続けたかったのだ。

しかし昭子さんには、そんな自分の複雑な感情を両親に伝えられるほどの手話のスキルがなかった。

日常的な手話は問題がなかったが、少し混み入った話になるとなかなか思いを伝えることができなかった。

しかも、昭三さんは未就学で読み書きすらできず、タイ子さんも小学3年生までしか学校に通っていない。

そんな両親に、健聴者の大学進学の事情なんて分かるはずもなかった。

それでも母親には自分の思いを一生懸命伝えようとは、した。

「母親も『うん、うん』とは頷くんだけど、全く理解していないだろうなという感じ。分かってもらえないって察知して、もう諦めるしかないんだなって」

結局、進学は諦めた。

『ああ、一番大切なことを親には伝えられないんだなあ』って。その頃から、何か悩んでも、自分で判断して決めることが多くなった」と昭子さんは言う。

「聞こえない世界」を深く知った今


手話を習い始めようと考えたのは、1995年にタイ子さんが亡くなったあと。

自宅で一人きりになった昭三さんの「手話がなくて寂しい」という一言がきっかけだった。

手話では、父と深い会話ができなかった昭子さん。

「私がちゃんと手話を勉強しなきゃ」。

それまで手話を学ぼうと思ったことは一度もなかったが、母親が他界し、それが娘としての義務のように思った。

しかし、当時の昭子さんは子育ての真っ最中。

思うように手話の勉強を始められないまま、昭三さんはタイ子さんの後を追うように他界してしまう。

やっと育児が落ち着いた1999年ごろ、両親亡き後だったが「せめて両親の友人と手話で話せたら」と手話講習会に通い始めた。

「だんだん、手話を勉強していくうちに、親について知っているようで知らなかったことがいっぱいあったんだって気付いた」と、昭子さんは話す。

たとえば、「あとで、あとで」という昭三さんの口癖。

「ああ、また父親の『あとで』が始まった」昭三さんの生前は、そんな風に少し呆れて聞くことが多かった。

しかし、手話を通じてろう者と交流するなかで、その口癖の「意味」を知る。

ろう者は周囲で行われている会話について周りに尋ねても「あとで」と、後回しにされてしまうことが多いのだと、他のろう者から聞いたのだ。

「それを聞いたとき『ああ、そういうことだったんだ』って思って。父も聞こえる兄弟の中で育ってきて、『なに?』って聞いても周りから『あとで、あとで』といつもいつも後回しにされてきたんだろうなって」

昭子さんは続ける。

「私、親に対して失礼なこといっぱいしてきちゃったのかな。大事なことなのに親に伝えてあげないで、のけ者にしてしまったり…」

「もっと早く手話を勉強していれば」という心残りも残る。

「あの時は手話でどうやって伝えたらいいか分からなかった気持ちも、今だったらきっと伝えられるんだろうな」昭子さんは言う。


手話通訳者になったのは、ろう者から「ろう者の感覚をよくわかっている」と手話を褒められたことがきっかけだった。

昭子さんが通訳をする際に大切にしていることは「ろう者を1人の人間として尊重すること」だ。

ろう者と健聴者同士で、手話や身振り、表情などで会話が成り立っているときは、あえて通訳はせずそっと見守るようにしている。

「ろう者にだってプライドがある。ろう者が必要としているところだけを、補ってあげればいい」聞こえない両親を持ったからこそ分かる、ろう者の気持ちだ。

「親に伝えられなかった分、せめて今、自分のできることで他のろう者の役に立ちたい」

天国の亡き両親を想いながら今、手話で一生懸命伝える。

***

聞こえない親を持つ子ども(Children Of Deaf Adults) は、その頭文字を取ってCODA(コーダ)と呼ばれている。

コーダは、親を助ける役割を親や周囲から期待されることが多かったり、進学などの情報や助けを親から得にくかったりなど、特有の悩みを持つことが多いという。

当事者ばかりに目が向けられがちな「障がい」。

しかし、障がい者の近くにいる「見えないマイノリティー」の人生にも目を向けていく必要があるのではないか。

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cat_7_issue_oa-huffpost oa-huffpost_0_0fea8b79d2d3_東京の街で「ヒジャブ」の彼女がクリエーターとして生きる理由 0fea8b79d2d3 0fea8b79d2d3 東京の街で「ヒジャブ」の彼女がクリエーターとして生きる理由 oa-huffpost 0

東京の街で「ヒジャブ」の彼女がクリエーターとして生きる理由

2019年9月14日 10:00 ハフポスト日本版

クリエーターとして活躍するUNDER30に、同年代のハフポスト編集部スタッフがインタビュー。同年代ならではの視点で"職業"について聞いてみました。

世界を見透かすような眼差し。華奢な体が放つ、静かな強さ。

髪や肌の露出を控えた「モデストファッション」を東京から世界に発信するクリエーターがいる。

「作品」にはそんな彼女の印象が色濃く反映されている。

ラハマリア・アウファ・ヤジッドさん(25歳)
国籍はインドネシアで、イスラム教を信仰するムスリム。同時に、東京の下町で生まれ育った生粋の下町っ子でもある。

彼女は、クリエーターという仕事を通じて「社会の『壁』をぶち壊したい」と話す。「壁」とは、マイノリティとして日本で生きてきた彼女が今感じているものだ。

アウファさんは現在、クリエーターとして、ファッションやメイク・デザインの分野で商品のPRなどに携わっている。

彼女自身が企画、出演から編集を手がけた作品の一つが、松屋銀座とのコラボレーション動画だ。訪日するムスリム観光客に向けて作成したもので、撮影と編集を兄に手伝ってもらった。

黒いヒジャブとワンピースをエレガントにまとったアウファさんが、銀座の街をハイヒールで軽快に歩く。

デパートに入ると、真剣な表情で靴や帽子を吟味し、風鈴やおしゃれな雑貨を眺めては手に取る。抹茶に舌鼓を打ったり、天ぷら屋の暖簾をくぐったり…。

ブランド名など固有名詞は動画に映らないようにという制約のなか「空気だけでどう銀座を演出するかが難しかった」とアウファさんは振り返る。

「ラグジュアリーで上品な銀座のイメージ」を、ファッションや小物、バックミュージック、立ち居振る舞いや表情などで表現した。

スタイリングに関しては、銀座の高級感を演出するため、全身を黒でコーディネート。一方で、女性らしい軽やかさを出すために、ヒジャブはシフォン素材のものを使い、ふわっとした巻き方にした。

「外国人観光客にとって、東京観光といえば”桜”や”浅草”となりがち。だからこそ、モダンでスタイリッシュな東京の都会的な楽しみ方も伝えたいとイメージしました」と彼女は話す。

その他にも、アパレル系企業とのコラボレーションの仕事なども手がけるアウファさん。日本を訪れるムスリムの外国人が増える中で、彼女を頼る企業が増えてきている。

日本の「もののあはれ」がインスタの世界観


アウファさんのクリエーターとしての原点は、2015年に始めたインスタグラムでの発信だ。2019年9月現在、フォロワー数は8万3000人以上。2018年頃から、このインスタグラムをきっかけに企業などからコラボレーションのオファーが増えた。

コンセプトは、「東京×モデストファッション」。東京の街並みを背景に、ヒジャブをまとったアウファさんの自撮り写真が並ぶ。

「ぜひ撮影風景を見せてほしい」そんなお願いをしたところ、撮影に同行させてもらえることになった。

撮影場所に現れた彼女は、夏っぽい涼しげな素材の濃紺のヒジャブを着け、その上に黒いベレー帽を被っていた。深緑のブラウスの下は、紺色のボトムス。

「今日は撮影が上野周辺なので、エレガントよりはマットなスポーティー系の方が良いかなと思って。本当は、ニット帽を着けたかったんですけど、ちょっとカジュアルすぎるかなと思って」

「それぞれの街に自分がどう入り込めるか」が、スタイリングのこだわりだ。

撮影する場所を決めると、折りたたみの三脚を組み立てて、カメラを設置する。カメラは、アプリを通してスマホと連動している。

カメラに向かってポーズを取りながら、手元のスマホでシャッターを押し、撮影を始める。撮れた写真をスマホで確認しながら、視線や体の向きを微妙に変えていく。

撮影は1日がかりだ。「今日は“写真の日”というのを決めて、がっつり撮ります」とアウファさん。スタイリングとメイク、撮影、加工にそれぞれ2時間くらいかけ、全ての工程を自分ひとりで行う。

彼女が創作活動全般で最もこだわるのは「世界観」だ。

たとえばインスタでは、彼女の目を通した「日本の色」を表現する。

「私の作品はちょっと薄暗いトーンなんですけど、それは、日本の、なんていうんだろう…『もののあはれ』とか『無常』みたいな気持ちと重なっていて…。

四季の移ろい方、その儚さとか美しさは、日本ならではのものですよね。たとえば、冬の寒い中にある温かなランプの明かりとか。夏は蒸し暑いけれども、風鈴の音が涼しく感じて…みたいな。そういう音のソノリティも、独特だと思うんです。

インドネシアは1年中夏の国。みんな優しいんですよ。ただ、ずっと陽気でポカポカしていて、悲しむ期間がないというか。逆にその悲しみの期間、ちょっと淡い感じというのが日本では大切な時期でもあったりもして。そういうちょっと淡い感じが『日本の色』として、ファッションだけじゃなく写真の表現の仕方にも出ているんじゃないかと思っています」

写真の背景は、住宅街やストリートの風景が多い。

「私は、ギラギラしたものがあんまり好きではなくて。ダイナミックなネオンとかで東京を表す人もいると思いますが、私の写真はどちらかというと“哀愁”、どこか“冷たい”東京がモチーフ」彼女はそう話す。

初めてメイクに会った瞬間に『あ、これだ』って思った


クリエーターとして、ヒジャブを身に着けた自分の姿を積極的に発信しているアウファさん。インスタグラムを始めるきっかけは、一体何だったのか。

「実は、もともとファッションには無頓着で…」彼女はそう打ち明ける。

それどころか、かつて彼女はヒジャブに対して「ある葛藤」を抱いていたのだという。

そもそもヒジャブとは、イスラム教の聖典コーランの教えに基づき、ムスリムの女性が公の場で頭髪を隠すスカーフのこと。一部の国ではヒジャブの着用が法律で義務付けられているが、それ以外の地域では着用するかしないかはコミュニティや家族、そして個人の価値観によって左右される。

アウファさんによると、一般的にムスリムの女性がヒジャブを着け始めるのは思春期が始まったころ。しかし、中学・高校は制服もあったことから、彼女がヒジャブを着け始めたのは高校卒業後だった。

ヒジャブは自ら着けることを決めたというアウファさん。着けること自体には抵抗はなかった。しかし、問題はそのデザインだった。母親がインドネシアで購入したものはピンクやオレンジなどド派手なものばかりで、東京の街を歩いていると自分が浮いているように感じたという。

「日本には絶対ないような色やデザインでした。手元には他のヒジャブがなかったので仕方なく着けていたのですが…。もともと顔立ちも名前も外国人だし、幼い頃から人からの視線には多少慣れていたんですが、でも(ヒジャブを着けると)それ以上に目立つんですよね。自分のセンスと合わないものを無理矢理着せられて、街に出ているという気持ちがぎこちなかった」

そんな時に出会ったのが、日系ムスリムのデザイナー・HANA TAJIMA(ハナ・タジマ)のモデストファッションだった。東京の街に溶け込むような自然なデザイン。そして、それを自分らしく着こなすHANA TAJIMAの姿に「ヒジャブでも、自分なりに美しい着こなしができるんだ!」と感銘を受けたという。

出典: Instagram

メイクに興味を持ったのもちょうど同じ時期だった。

「姉の買い物の付き添いで、デパートのコスメ売り場に行ったんです。その時、ついでに私もカウンターでお化粧をしてもらったんですが、自分の変わり様に驚いてしまって。『あ、だから女性ってメイクするんだ』ってそこで初めて納得しました。それまでメイクは必要ないと思っていたんですけれど」

鏡に映る、今まで見たことのない自分ーー。同時に、もう一つの発見をした。

「私はもともとデザインが好きで、小さい頃から『将来は何かのデザインをしたい』って思っていたんです。でも、何のデザインをしたいのかわからないまま、大学も適当なデザイン系の学部に進学したんですけど…。

大学生の頃に、初めてメイクに出合った瞬間に『あ、これだ』って思ったんです。自分をキャンバスにし、試行錯誤を重ねることによって、自分の強みや弱みなどの、性質がどんどんわかってくること、磨きがかかることに楽しさを見出せたのです」


「それからは、ファッションとメイクに自分の本領が発揮できるようになった」と彼女は言う。

一方で、考えるようになったのは「ファッションとメイクという”ツール”を使って、何か社会に訴えられないか」ということ。そうして始めたのが、インスタグラムだった。

「自分の能力や生まれた環境をどうやって”社会”に還元するか」が今のテーマ


アウファさんがインスタグラムで投稿する作品に込める想い、それは「イスラム文化を知ってもらいたい」という願いだ。

「メディアで出るイスラムの話題といえば、テロなどあまりいいとは言えないニュースばかりなので…」。アウファさんはそう話し始めた。

「日本人にとって『宗教』はあまり馴染みのないものだと思います。ましてイスラム教は『男尊女卑』や『厳しい戒律』『原理主義』など、偏ったイメージを持たれてしまっていると感じます。私たちがどんなことを信じていて、どんな思いで生きているのか、本当の姿を知っている人の方が少ない。『知らないということ』が偏見を生み出してしまっているのかなと考えます」

「もう少し柔らかく、誰でも楽しめるような方法でイスラム教を知ってもらえないか…」そう考えたときに、目の前にあったのが「ファッションとアート」だった。

「物事を伝える手段はたくさんあります。でも、イスラムの文化を伝えていくのは、そう簡単なことではないと感じました。そこで、誰もが直感的に入り込める『ファッションとアート』を通して、まずは人と社会と繋がってみようと考えました。相手のことを知るだけでも、恐怖心って少し減ると思うんです」

インスタグラムから始めた発信をクリエーターという職業に発展させた今も、彼女はこのメッセージを変わらず持ち続けている。

一方で、クリエーターとしての彼女が今挑むテーマは「自分の能力や経験、生まれた環境をどうやって”社会”に還元するか」だ。

自分の経験ーーそのひとつが、マイノリティとして日本社会で感じてきた「肩身の狭さ」だと彼女は言う。

「外国人という見た目のせいでアルバイトで面接すら受けさせてもらえないなど、外見だけで判断されて、本来の自分を見てもらえないこともありました。また、『国籍はインドネシア、宗教はイスラム』という“聞こえ”だけで、日本とは何も関わりのなさそうな立場にいると受け止められてしまうことが、とても悔しかった」

しかし彼女は今、「日本人であろうがインドネシア人であろうが、『自分は自分』みたいなポジションにようやく辿りつけた」と語る。

「20代に入り、学業や仕事、人間関係など様々な成功や失敗の経験を繰り返していくうちに、人生について考える機会が多くなりました。また、さまざまなバックグラウンドを持つ人々との出会いのなかで、自分の抱える苦悩がいかに小さいものかにも気付きました」

「では自分はどうあるべきなのか、どうすべきなのか」。そこから芽生えたこうした意識が、いま彼女が「仕事を通して社会に還元したいこと」に繋がっている。

「日本は他人や違いを受け入れる文化がまだ少し弱いのかなと思っています。外国人やハーフなど、様々なルーツをもつ人々が集まって同じ社会で共生している時代なのに、いまだ“違い”に対して、人々の意識には“壁”があります。

そこで、人々の触れやすいデザインやアートという方法で、私なりに人々の意識の“壁”をぶち壊して、多様性の溢れる日本にできたらなって。

日本では、外国人やムスリムが“特別枠”として注目されることが多いですが、そもそもそんな違いが話題にされないくらい、日本人/外国人というボーダーをぼかしていきたいなと、私は思っています」

幼い頃から「新しさを見つけ、磨き上げることが好きだった」と話す彼女。今後もひとつの枠にはまらず、表現の可能性を追求していきたいという。

「今はメイクとファッションを通して、人や社会との繋がりをつくっています。でもそれが永遠に続くわけではないと思っています。これから経験を積み重ねるなかで、もっと表現に厚みが増して、新しい可能性を見出していけるのではと。そういう人生が楽しいなと感じます。まだまだ、いろいろ現在進行中」

アウファさんは目を輝かせてそう話した。

今回のインタビューのテーマは「仕事」。

最後に「あなたにとって仕事とは?」という問いをアウファさんに投げかけた。

「仕事とは、成長するために欠かせない”ツール”。失敗や成功など様々な経験や、人との出会いを経て、広い視野で物事を見極められる人になりたいです。一方で、そうやって得た経験やスキルを最大限に社会に還元し、人の“ライフ”を明るくすることができたら…」

ラハマリア・アウファ・ヤジッド
1994年生まれ。インドネシア人の両親をもつ、東京都出身のクリエイター。ヒジャブを使った、モデストファッションを提案。東京らしいセンスを取り入れたメイクやファッションを、Instagramを中心に発信している。スタイリングのアドバイザーとしても活躍中。

【取材・文=吉田遥(ハフポスト日本版)、撮影=ERIKO KAJI】

当記事は、ハフポスト日本版とLINEの"U30職業シリーズ"共同企画です。

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国籍は日本。だけどアメリカに家族がいて、香港に兄妹がいる。

2018年11月8日 12:06 ハフポスト日本版

<文・えるあき>

私は日本生まれ、日本育ち。

もっと細かく言えば、日本生まれ・日本育ちの母と、日本生まれ・日本育ちの父の元で育った。国籍は、日本だ。

自分の国籍に疑問を感じたことや、嫌悪感を感じさせられたことは一度もない。

ただ、少し広いレンジから私自身とつながっている家族たちを眺めてみると、ルーツやバックグラウンドは「日本」だけではない。

日本人の父親が2人、日本人と中国人の2人の母がいる。

日本人の祖父母と、アメリカ人の祖父母がいる。

そして、4人兄妹で私は上から2番目。

母は実父と26年前に離婚した。

実父は15年前ほどに中国人の奥さんと再婚して、今中国の大連で暮らしている。

ふたりには10才の息子がいる。彼は私の弟にあたる。

母は継父と22年前に再婚した。私が16才のとき、両親の間に娘が生まれた。彼女が私の妹。

継父は母と再婚する前に離婚していて、私よりひとつ上の娘がいる。

それが広域でみたときの私の姉だ。一度も会ったことはない。

アメリカ人の祖父母は、母が高校時代、留学先でお世話になったホストファミリーだ。

彼らは専門機関に所属せずに母を受け入れたため、彼らの元にきたのは後にも先にも母と母の妹だけだ。

母はこの一家のことを「私に家族の愛をくれた人」と説明する。

幼いときに父親を失った彼女にとって、実の両親よりも愛を感じたということだと思う。

母は辛いことがあると必ず彼らのもとへ帰る。そして、回復して日本に戻ってくるのだ。

私が彼らと初めてあったのは生後7カ月のとき。

生まれたときからずっと彼らは私の「アメリカのグランマとグランパ」で、彼ら家族は私のことを「グランドドーター」と呼ぶ。

一緒に買い物へ行けば、「うちの孫!大きくなったでしょ」と店員に話しかける。

そして相手は私をみて「あら〜、もうガールじゃないくてレディね!!」と笑顔を見せる。

私も何か辛いことがあったり、精神的に限界を感じたりすることがあると、彼らのもとに帰る。
「行く」のではなく、「帰る」。

だって、誰よりも安心感を与えてくれて、どんな場所よりもリラックスできる場所だからだ。

人はそんな場所に戻りたくなるとき「帰る」と表現するはずだ。

私がこういう話をすると、必ず誰かが「そんなの本物じゃない」とか「嘘つきだ」という人がでてくる。

約1年前、Ask.FMという匿名の質問投稿サイトを通じ、こんな質問が投げかけられた。

受け取ったとき、どうしても、腑に落ちなかった。

だって、「本物ってなに?」

「家族ぶってる」というならば、家族ぶらない家族とはどういうものなの?

離婚して再婚して得た家族は偽物なの?

血のつながらない関係は本物にはなれないのか。

アメリカの祖父母から美味しいミートソースパスタの作り方、ベッドメイキングのやり方、人を愛するということを教わった。

愛していると思ったときには相手の目を見て愛していると伝えること、言葉で伝えるのが恥ずかしかったら手紙を書く。

手紙の最後には「この胸いっぱいの愛とともに」と一言添えることーー。

アメリカの家族から受けた、こうした教えから、私は仕事ですれ違いが増えたとき、夫に毎晩手紙を書いた。

旅行に行けば、旅先でも手紙を書いた。

前職で心を病んでしまい、髪の毛を失った。

そのとき誰よりも助けてくれたのが、アメリカの祖父母だった。

祖母は「私よりあなたのほうが髪の毛ないけど、若さってずるいわ。だってキュートなんだもん」と言って、抱きしめてくれた。

祖父は「頑張ることだけが美しさじゃないんだよ。美しい人は顔にトマトソースが付いてても美しいんだから」と私の顔を拭いてくれた。

彼らの優しさに涙していると、叔父は私を膝にのせ「本当だったら抱っこしてあげたいけど、もうベイビーじゃないし、重いし腰にくるから」と抱きしめてくれた。

アメリカの家族だけじゃない、それぞれが私に与えてくれた愛や知識や教養は、全部今の私を作り上げている。

これが私のルーツで、私を語る上で、挙げた家族は全員、誰が欠けても成立しないのだ。

友人だって私の大切なルーツ

ASK.FMにあった「台湾」はきっと香港のことだろう。

14才のとき、イギリスに留学していた。そこで仲良くなった香港人の友人たちと、ずっと交流を続けている。

年上の彼らは私を「妹」と呼び、お互いに香港と日本を行き来して、同じ時間を過ごしている。

私が香港にいけば「日本のハーガオ(蝦餃子)じゃ、満足できないでしょ」と、食い倒れに付き合ってくれる。

お腹いっぱいになったら、私のホテルの部屋で仕事や家族、これからの将来について夜通し話す。

離れている時間も、私が不妊や扁桃炎に悩んでいると知れば「こっちにこういう漢方があるよ」と教えてくれる。

今年の夏に妊娠の報告をした。「赤ちゃんができたの」とメッセージを送ると、すぐに電話がかかってきてで泣いて喜んでくれいた。

妊娠の報告から1週間ほど経ったある日、香港の友人のInstagramをみると、見たことのある景色が載っていた。

思わず「え、東京にいるの?」とメッセージを送ると、返事が来た。

「そうだよ!!おめでとうって言いにきたよ!!」

サプライズ訪問の翌日、私と夫とみんなで焼き鳥を食べた。

「ねえ、生まれたら連絡して絶対」

「もちろん」

「やっぱり陣痛きたら教えて?その連絡と同時に空港に行くから」

「うそでしょ笑 それはおもしろすぎる」

彼らは友人だけど、私のルーツの1つだ。

誰がなんといおうと、彼らもアメリカの家族のことも、私は「恥ずかしい」なんて思ってない。

彼らのことを心から大切に思う自分のことも、「恥ずかしい」なんて思わない。

だって、そんなふうに自分を恥じるのは、彼らにすごく失礼だからだ。

人はいろんなところで生きて、愛されている。

私はこんな風に様々な家庭の真ん中で育ってきた。

もし私が日系人だったら、もし私が白人の養子だったら、あんな質問がきたらすごく悲しいはずだ。すごく傷つくはずだ。

見た目が外国人であれば日本国籍でも"ガイジン"だし、見た目が日本人だったら、外国籍でも"ニホンジン"。

理解できないからって蓋をするんじゃなくて、否定するんじゃなくて、一つの小さなデータとして頭に置いてもらえるとすごく嬉しい。

ハーフだから、日系人だから、日本人だから...。

両親が揃っていないから、血の繋がりの無い関係だから...。

ぜんぶひっくるめて、人は皆真ん中で生きている。

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様々なルーツやバックグラウンドの交差点に立つ人たちは、自分を取り巻く地域の風景や社会のありようを、どう感じているのでしょうか。当事者本人が綴った思いを、紹介していきます。

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