リング上の勝者はトロフィーを掲げてマイクを手に取ると、「ごめん。今日はちょっと難しい話がある」と、満員のアリーナの観客に語りかけた。
「ほんとうにありがたい人はいっぱいいる。私のチーム、私の家族……今日のこのトロフィーは一人ね、一人にあげたい。サカモト・ケン! いつも私を手伝ってくれて本当にありがとう。ごめんね、1カ月前、あなたのお母さん亡くなったね。だから今日、たくさん練習してきた……。お願い、お母さんに持っていって」──そこには、日系3世のホベルト・サトシ・ソウザらブラジリアンと、浜松・磐田の日本人との魂の交流の物語があった。
“ニッケイ”と呼ばれたブラジル人たち。そのルーツは113年前に遡る。
「錦衣帰郷」の言葉とともに故郷に錦を飾ろうと過酷な環境のなか入植した日本人の多くが、現地に根を張った。その2世・3世たちが30年前、「錦衣」の帰郷ではなく「デカセギ」として来日した。
ソウザ兄弟の才能を埋もれさせてはいけない
「ダイ先生は力を使わず、2人ともことごとく極めてしまった。ボス的な2人がすぐにその実力を認めて、従うようになりました」
「周囲にそう指摘されるまで、自分はそのことに全然気付かなかったんです。というのも、柔術が強くて上手い彼らを尊敬していたから、差別するなんて考えたこともなかった」
「以前、自分もバイク工場でアルバイトをしたことがあるんです。すぐにこれは無理だ、と思いました。ライン作業で常にベルトコンベアにクラッチが流れてきて、ちょっとでも気を抜くと、あっという間にたまってラインが止まってしまう。わずか1カ月だけのバイトでしたが、ほんとうに厳しかった」
「派遣切り」に身を寄せ合って暮らした
2021年5月、浜松のボンサイジムでサトシとクレベルは激しいスパーリングを行っていた
当時は、道場に日系ブラジリアンが多かったから、すぐに道場経営が成り立たなくなった。ブラジル人がみんな帰ったり、残っててもみんな給料が無いから、月謝を払えない。2年くらい、ただ家賃を払い続けて。だんだん生徒が戻って来たときに、今度は2011年にツナミが起きた……大変だったけど、このときは日本に恩返しがしたくて、チャリティーセミナーで物資を集めて、被災地まで送ったりしたよ(マルキーニョス)
リーマンショックは本当に一番キツかった。工場の仕事も急に午後2時とか3時までに短縮されて、給料もすごい下がった。道場生も数人になってしまって、わずかなお金を食費にあてていた。マルキーニョスとクレベルとお金を持ち寄って、3万円ずつ分け合って暮らしていた。ブラジルに戻らなかったのは、夢があったから。私の夢は日本での夢だった。でもいろいろなデカセギ外国人たちはやっぱりお金を貰って帰ったよ。それぞれの事情があったし目的が違う。私はここで成長したかった。いまのようにRIZINも無いし、ツラい時期だったけどね(サトシ)
リーマンショックのときは18歳だった。家族で家を買うためのお金を貯めてたけど、それをブラジルに帰るための費用にあてることにして、両親たちはブラジルへ帰った。僕はちょうど柔術から2008年にMMA(総合格闘技)でデビューしたときだったから、ツラくても日本に残ったよ。工場の仕事が無いときは、養鶏場やゴミ回収のアルバイトもした。頭の中は、“一度やってみなきゃ分からない”だった。自分の柔術をMMAで試してみたかった。日本でどれだけ格闘技でやれるのかも。
もともと柔術は日本がルーツだ。それを僕は、日本で出稼ぎにきて、このボンサイ柔術で習ってプロファイターになった。あのときブラジルに帰っていれば……それはいまに至るまでの道のりより簡単なルートだけど“ニゲミチ”だった。そしていまの僕は無かった。ここにはボンサイ柔術と、サカモトさんのように、僕ら“ニッケイ”を繋ぐ日本人がいたし、日本の“セイト”たちがいたからね(クレベル)
心奪われた。柔術をやってみたいって(関根)
「初めてダイ先生のテクニックを見たときに、十字絞めの襟への手の入れ方が美しすぎて“ああ、モノが違うんだな”と。そして、マルキーニョスと組んでみたら、もうこてんぱんにやられた。自分の力を使う前に流されて、力が入らない。このときに、心を奪われたんです、柔術を習ってみたいって」
「4試合目でもう足がつって、握力も無くて、体力の限界がきちゃったんです。それで動けなくなったら、ブラジル人たちが男の子も女の子もみんな、ものすごい大きな声で応援してくれて……まるでテレビで観ていたブラジルのサッカーの試合みたいに、『セキネ、セキネ!』って……感激しましたね。勝ったことにじゃなくて、今までの人生でそんなに応援されたことなんてなかったから」
レッテルを貼ること、無知が恐怖を呼ぶ
「当時、警察官と接点のあるブラジル人の多くが犯罪者で不良ブラジル人とばかり会ってるから、ブラジル人を見ると『ブラ公、ブラ公』って蔑称で呼んでる同僚がいたんです。『お前らは……』って。それを聞いて思わず自分、『ブラ公なんて言うんじゃないよ。なんにも悪いことしてない人にそんな風に言うなよ』って」
「お前ら」と呼ばれた瞬間、そう呼ばれた人がマイノリティーになる。何らかのレッテルを貼っていることが意識の中で働き、ひとくくりにしてしまう。そして“知らない”ことが、恐怖を呼ぶ。
「悪いブラジル人もいれば、良いブラジル人もいる。日本人も同じ。悪い日本人も良い日本人もいる。そんな当たり前のことに、気付けないのは“知らない”から。もしかしたら、日本人がブラジル人を怖い、と思うように、ブラジル人も日本人を怖い、と思っているかもしれないのに」
日本人はフリオ(冷たい)じゃなかった
「この帯を病院のベッドの上ではなくタタミの上で渡したかった。でもここから出られないって分かっている。この帯を誇りに思い、幸運を祈る。腰に締めるたびに、“何を求めるべきか”思い出して。力になるから」
「父が危篤状態のとき、私たちはお金が無くてブラジルに帰れなかった。そこでお金を貸してくれたのが、お父さんの知人でした。その時、彼に聞かれたんです。『なんでまだ浜松にいるのか? なぜブラジルに帰って来ないのか?』と。そのときに兄のマルキーニョスと話し合ったのは、私たちには夢がある、ということ。将来的にボンサイ柔術を世界に広めていくという夢を持っていて、その目標があったから、決して諦めなかったし、これからも諦めない」
「サトシのRIZINデビューが決まった時も、すぐに母を連れていく約束をしました。まだ10代の頃からサトシを見て来た母は、サトシが念願のRIZINで勝利したことを我がことのように喜んでいて、サトシも勝利後、浜松に帰る前に横浜アリーナの観客席にいる母にこっそり会いに来てくれたんです。その後、母は様態が急変し緊急入院し、6月16日にこの世を去りました」(坂本)
「どこへ行っても、僕が試合をすると坂本さんのお母さんも一緒に来ていて、応援してくれた。常に自分と一緒に歩いてくれた。日本人はフリオ(冷たい)という人もいたけど、そんなことはなかった。日本でボンサイ柔術を始められたのも、今、坂本さんが僕を助けてくれているのも、坂本さんのお母さんが坂本さんと僕らを助けてくれたからだと思っています」(サトシ)
「柔術は規律を与えてくれる」という。
「前回のトーナメントで優勝したムサエフのことをすごくリスペクトしている。でも、たとえどんなに劣勢になっても、諦めない。心も身体も柔術が護ってくれる。ラスト1分でも一瞬を逃さない。上にいても下にいても、どこにいても必ず、極めてみせる」
自分なら出来る、この道で行くと決めた
「柔道でやられそうになったときによく寝技に行った。柔道のルールだと、三角(絞め)を持ち上げられたら『マテ』じゃないですか。でもそれで止めないで絞めたら、めっちゃ怒られた」と苦笑する。
「柔道の“微妙な黒帯”にはなりたくなかった」という。柔術でスペシャルな黒帯選手になること、そしてMMAで成功すること。
「サトシはいつも自分にとってこうなりたい、という存在。サトシとは歳も同じで、帯の進級も一緒だった。でも、柔術のレベルは全然違った。だから、僕はMMAを感じてみたかった。子供の頃から喧嘩も多かったし“何でもあり”になったらどうなるか、自分ならできる、僕はこの道で行くと決めたんだ」
「欧州のKSWではいつもライオンと戦っているようだった。常に自分はアウェーで勝ちを望まれていなかったから。僕にとって周りにいる人たちが幸せだと思えることが最大のモチベーションだ。両親と離れて戦うことが、それだけのことをかける価値があることだと感じたかった」
“センセイ”という言葉はすごく重みがある
「僕は、本当に自分の柔術を信じている。人生で生きていくなかで、大変なときがあって、それを乗り越えて、そこから強くなって成長してきた。試合も人生と同じで、良いときも悪いときもある。悪かったときに、大きな経験を積んで強くなった。みんな『ヒジ打ちありでグラウンドで下になるのは危ない』と言うけれど、今までたくさんそういった経験をしてきた。もしミクルがパンチやヒジを打って来たら、自分にとっては極めるチャンスがどんどん生まれてくる。僕が警戒すべきは、ミクルのコーナーゲームやロープゲームだ。コーナーやロープを掴む反則はしっかりチェックしてほしい」
“喧嘩屋対決”と喧伝されるが、坂本も関根も、クレベルが怒りをあらわにするときは、たいてい周囲のことだという。
「クレベルが熱くなるときって、自分のことじゃなくて周りに何かあったときなんです。例えば試合中に、相手コーチに生徒が突き飛ばされて怒ったり、友達に何かあったりとか、義侠心のようなものがある」(坂本)
「僕にとって“センセイ”という言葉はすごく重みがある。それは彼らにとって良き道を示す責任があるということ。セイトたちもその親たちとも、一人の人として接することが出来る。自分のことを格闘家として知っている人たちは敬意がある。
『日本で義務教育も受けてない日系人が一人で生きていくことなんてできない。だから自分を守るためにもギャングのメンバーになるしかなかった』という言葉を聞いたことがある。自分は、できれば証明したい。みんながみんな悪いブラジル人じゃない、柔術が君を守ってくれるよ、と」
クレベルの打撃クラス。キッズとプロが隣り合って練習する
常に“外側”にいたアウトサイダーとして
「いまでも日系ブラジル人。日本人とは言い切れない。でもここでは自分に差別はない。それに、日本人と同じじゃなくていい」と、クレベルは、いう。
「日本人と違うところがある。私とあなたは違う。でもその違いがあることを認めることが大事。それが……ディベルシダージ(多様性)だし、その力を育むのが格闘技だ。それを通して、僕は共通の言語、柔術でみんなと会話できる」
“ニッケイ”として常に日本人の“外側”にいた。
「日本に僕の生活がある。僕らの夢はこの日本で、日本の子供たちが柔術を通して成長し、人として豊かになることをサポートすること。そして、それを僕ら“ニッケイブラジル人”がやれるってことを、この国の人に見てほしい。僕の家族を助けることが出来るのも、僕にとって大きな夢だ」
「『サトシやクレベルみたいになりたい』ってメーセージが来るよ。彼らの目標になりたい。その意味で、MMAのベルトは僕にとってファイシャ・プレタ(黒帯)みたいなものだ。試合は僕たちの違いが如実に出るだろう。打撃が勝つか、僕らの柔術が勝つか。試合も人生も苦しい時間は必ずある。でも、最後にベルトを巻くのは自分。それ以外の道はない」
人として人生に向き合うこと
O jiu jitsu sempre foi a alegria da minha vida.
Todas as vezes que amarrei minha faixa honrei meu kimono.
Dos adversarios que perdi, aprendi a licao de como fazer certo.
Dos que ganhei, a certeza de que percorri o caminho da vitoria
sem nunca me sentir melhor ou pior.
「柔術は私の人生で常に幸福をもたらしてくれました。毎回、帯を結ぶ度に私は、自分の道衣の労をねぎらってきました。戦い負けた時は、私は戦った相手から正しいやり方を教わりました。戦いに勝った時は、勝利に向かって進んで来た道が正しかったことが確認できました。それにより、最高や最悪といった気持ちに支配されることはありませんでした」
Tirei de cada treino, todo o prazer que o esporte de kimono
pode oferecer.
A maior verdade que encontrei foi a alegria dos meus filhos,
o amor da minha esposa e o respeito dos meus amigos.
Sigo em paz certo de haver cumprido minha tarefa.”
Adilson de Souza
「私は日々のトレーニングで、柔術の中で幸福を感じていきました。柔術は私にそれらを提供してくれました。そして私の見つけた最大の真実は、私の子供たちの喜び、妻への愛、そして友人たちへの敬意でした。私は安らかに、自分の使命を果たしたことを確信しています」──アジウソン・デ・ソウザ
変わるアイデンティティ、変わらないスピリット
「いま、お父さんが見たら驚くかもしれないね。クラシックなボンサイ柔術にモダン柔術が加わり、いまはサトシたちのMMAが、僕たちの柔術のなかに確実に備わっている。でもボンサイ柔術のスピリットは変わらない。そして、アイデンティティも変わるものだと思う。常に自分が何者であるかは再定義していくものでしょう? でも、それは誰かにレッテルを貼られるものじゃない。自分のアイデンティティが何かを決めるのは、自分自身の選択だから」
この記事はゴング格闘技とLINE NEWSによる特別企画です。