cat_3_issue_oa-gonkaku oa-gonkaku_0_3kc5ks3vb3u2_デカセギからRIZINへ~サトシとクレベル、日系ブラジル人とボンサイ柔術と日本の絆 3kc5ks3vb3u2 3kc5ks3vb3u2 デカセギからRIZINへ~サトシとクレベル、日系ブラジル人とボンサイ柔術と日本の絆 oa-gonkaku 0

デカセギからRIZINへ~サトシとクレベル、日系ブラジル人とボンサイ柔術と日本の絆

2021年6月11日 11:00 (C)RIZIN FF

 リング上の勝者はトロフィーを掲げてマイクを手に取ると、「ごめん。今日はちょっと難しい話がある」と、満員のアリーナの観客に語りかけた。

「ほんとうにありがたい人はいっぱいいる。私のチーム、私の家族……今日のこのトロフィーは一人ね、一人にあげたい。サカモト・ケン! いつも私を手伝ってくれて本当にありがとう。ごめんね、1カ月前、あなたのお母さん亡くなったね。だから今日、たくさん練習してきた……。お願い、お母さんに持っていって」──そこには、日系3世のホベルト・サトシ・ソウザらブラジリアンと、浜松・磐田の日本人との魂の交流の物語があった。
          *   
 13年前、単独で“デカセギ”が可能になる18歳の誕生日から1週間後、サトシはブラジルから来日した。静岡県磐田市の工場で鉄の加工の仕事につき、朝6時半の送迎バスに乗って仕事に向かう日々。サウナのように暑い作業場のなか、重い鉄を扱うライン仕事は過酷で、すぐに体重が減ってしまった。“ザンギョウ”は時に深夜に及ぶ。それは多くの日系ブラジル人労働者たちの日常だった。

“ニッケイ”と呼ばれたブラジル人たち。そのルーツは113年前に遡る。

 1908年4月28日、781人の日本人が「笠戸丸」で神戸港を出港し、52日後の6月18日にサンパウロ州のサントス港に到着した。最初のブラジル移民だった。

「錦衣帰郷」の言葉とともに故郷に錦を飾ろうと過酷な環境のなか入植した日本人の多くが、現地に根を張った。その2世・3世たちが30年前、「錦衣」の帰郷ではなく「デカセギ」として来日した。

 当時、日本はバブル景気の好況とともに労働力不足が深刻となり、1990年に入管法を改正。以降、滞在期間や就労に制限がない「定住者」として認められた日系ブラジル人たちが多数来日し、日本の製造業などを支えた。

 現在、国内最大級の格闘技大会「RIZIN」で活躍するホベルト・サトシ・ソウザ、クレベル・コイケ(ともにボンサイ柔術所属)もその一人だ。

 2019年7月28日、『RIZIN.17』さいたまスーパーアリーナ大会で1R TKO勝ちしたサトシがマイクで呼び掛けたのは、浜松でソウザ兄弟とともにボンサイ柔術の日本支部起ち上げに尽力した人物の名前だった。

 坂本健──2004年にサトシの兄、長兄のマウリシオ・“ダイ”・ソウザが来日してから17年間、ソウザ兄弟とともにボンサイ柔術を支援してきた人物。その坂本の亡くなった母に、サトシはトロフィーを捧げたい、と言っていた。

 出稼ぎとしての“ニッケイ”ブラジル人には、これまで「派遣切り」など大きく3度の危機が訪れている。最初は2008年のリーマンショック、2度目は2011年東日本大震災、そして、3度目はコロナ禍の今、だ。

 そんな中、なぜサトシをはじめとするボンサイ柔術の面々は、日本に残ったのか。そして、2021年6月13日(日)「RIZIN.28」東京ドーム大会で、サトシがGP王者のトフィック・ムサエフと、クレベル・コイケが朝倉未来と対戦するまでに至ったのか。

 そこには、移民として海を渡った人たちを祖先に持つ日系人が、日本をルーツとする「柔術」を通して、日本に根付いた「共生」の歴史があった。

ソウザ兄弟の才能を埋もれさせてはいけない

 早朝から夜9時の残業まで、昼夜を問わず工場で働いていたサトシの兄ダイに、坂本が出会ったのは2004年のことだ。

 日系ブラジル人しかいない磐田のサークルでブラジリアン柔術を習っていた坂本は、その年に来日した小柄なボンサイ柔術の長兄ダイに、巨漢の重鎮2人が実力を測るように、疲労した練習後半にスパーリングを仕掛けたときのことを覚えている。

「ダイ先生は力を使わず、2人ともことごとく極めてしまった。ボス的な2人がすぐにその実力を認めて、従うようになりました」

 ボンサイ柔術の創始者で父アジウンソン・ソウザと同じように小柄な分、引き出しが多く確かな技術を持っていたダイ。そして内面的にも信頼できる人柄に、坂本は惹かれた。

 ダイやサトシの父アジウソンは、ヒクソン・グレイシーの父エリオ・グレイシーも認めた柔術家だ。サンパウロで柔道、極真空手も学んでいたアジウソンは決して裕福ではなかったが、自分たちより貧しい人たちに無償で柔術を教えるなど地域に貢献し、周囲から敬意を得ていた。その息子たちはデカセギとして来日し、資金を蓄えることでボンサイ柔術を世界に広めようとしていた。

 そんななか、ノールールに近い“何でもあり”の試合で活躍する柔術家たちに憧れてブラジリアン柔術を始めた坂本と、ソウザ兄弟が日本で出会った。日系ブラジリアンによる犯罪もあるなか、坂本にはもともと偏見が無かったという。

「周囲にそう指摘されるまで、自分はそのことに全然気付かなかったんです。というのも、柔術が強くて上手い彼らを尊敬していたから、差別するなんて考えたこともなかった」

 パウリスタ(サンパウロ柔術選手権)で5度の優勝を誇るダイに続いて、19歳で黒帯を巻いた次男のマルコス・ヨシオ・ソウザ(マルキーニョス)、そして「将来の黒帯世界王者候補」といわれた三男のサトシも来日。彼らが長時間の「3K(キツい、危険、汚い)」労働の後に柔術に勤しむ姿に、坂本は自分に何か出来ることはないか考えたという。

「以前、自分もバイク工場でアルバイトをしたことがあるんです。すぐにこれは無理だ、と思いました。ライン作業で常にベルトコンベアにクラッチが流れてきて、ちょっとでも気を抜くと、あっという間にたまってラインが止まってしまう。わずか1カ月だけのバイトでしたが、ほんとうに厳しかった」

 ソウザ兄弟は、特別な才能を持っているのに、工場で働いて疲弊している。このまま埋もらせてしまってはいけない。自分が道場をつくって、指導者としての仕事をつくれないか。そうしたら、いつか彼らも工場で働かなくても生活できるようになるかもしれない──そんな思いで坂本は、浜松の積志駅近くに「ブルテリア格闘技ジム」をオープン。そこをボンサイ柔術の日本支部とした。

 デカセギとして14歳で両親とともに来日したクレベル・コイケもソウザ兄弟の実力に惚れ込んだ一人だ。日本のボンサイ柔術に入門することで初めてブラジリアン柔術を知ったクレベルは、サトシと同い年。サトシの柔術での輝きを知るクレベルは、兄たちが道場運営に専念できるようになっても、工場で働きながら練習や指導をするサトシとともに工場に通い、その背中を追っていた。

「派遣切り」に身を寄せ合って暮らした

 そんななか、2008年の秋、リーマンショックが起きた。

 ブラジル人の多くは短期契約の非正規雇用。不況で最初に痛手を負うのは社会的弱者だ。雇用の調整弁として働き「派遣切り」で職を失うと、派遣会社の寮で暮らしていた多くのブラジル人達が住む場所を失い、突然の帰国を余儀なくされた。

 橋の下で寝泊まりをする者も現れるなか、日本政府は「帰国支援金」として、手切れ金のように30万円を給付して帰国をうながした。しかし「5年間再入国禁止」という厳しい条件付きだった。抜け穴のように法を改正し“ニッケイジン”を利用するだけ利用し、都合が悪くなると「国へ帰れ」という。そのとき、マルキーニョスもサトシもクレベルも、ブラジルには帰らず、日本に残った。

2021年5月、浜松のボンサイジムでサトシとクレベルは激しいスパーリングを行っていた

 ひとつのアパートに身を寄せ合って暮らす日々。当時を彼らはこう振り返る。

当時は、道場に日系ブラジリアンが多かったから、すぐに道場経営が成り立たなくなった。ブラジル人がみんな帰ったり、残っててもみんな給料が無いから、月謝を払えない。2年くらい、ただ家賃を払い続けて。だんだん生徒が戻って来たときに、今度は2011年にツナミが起きた……大変だったけど、このときは日本に恩返しがしたくて、チャリティーセミナーで物資を集めて、被災地まで送ったりしたよ(マルキーニョス)

リーマンショックは本当に一番キツかった。工場の仕事も急に午後2時とか3時までに短縮されて、給料もすごい下がった。道場生も数人になってしまって、わずかなお金を食費にあてていた。マルキーニョスとクレベルとお金を持ち寄って、3万円ずつ分け合って暮らしていた。ブラジルに戻らなかったのは、夢があったから。私の夢は日本での夢だった。でもいろいろなデカセギ外国人たちはやっぱりお金を貰って帰ったよ。それぞれの事情があったし目的が違う。私はここで成長したかった。いまのようにRIZINも無いし、ツラい時期だったけどね(サトシ)

リーマンショックのときは18歳だった。家族で家を買うためのお金を貯めてたけど、それをブラジルに帰るための費用にあてることにして、両親たちはブラジルへ帰った。僕はちょうど柔術から2008年にMMA(総合格闘技)でデビューしたときだったから、ツラくても日本に残ったよ。工場の仕事が無いときは、養鶏場やゴミ回収のアルバイトもした。頭の中は、“一度やってみなきゃ分からない”だった。自分の柔術をMMAで試してみたかった。日本でどれだけ格闘技でやれるのかも。

 もともと柔術は日本がルーツだ。それを僕は、日本で出稼ぎにきて、このボンサイ柔術で習ってプロファイターになった。あのときブラジルに帰っていれば……それはいまに至るまでの道のりより簡単なルートだけど“ニゲミチ”だった。そしていまの僕は無かった。ここにはボンサイ柔術と、サカモトさんのように、僕ら“ニッケイ”を繋ぐ日本人がいたし、日本の“セイト”たちがいたからね(クレベル)

心奪われた。柔術をやってみたいって(関根)

 RIZINやプロレスで活躍する関根“シュレック”秀樹も、サトシたちを「先生」と呼ぶ「生徒」の一人だ。

 元刑事の関根は、柔道出身。当初は、愛するプロレスラーの船木誠勝がヒクソン・グレイシーに絞め落とされた姿を見て、ブラジリアン柔術を「敵」だと感じていた。

 2000年代、関根が勤務していた浜松ではブラジル人による犯罪が頻発していた。外国人犯罪の事案を手がける国際捜査課に異動となった関根は、ブラジル人に関する情報収集を目的に、ブルテリア・ボンサイ柔術に入門した。

 柔道で活躍し、機動隊出身の関根にとって、オリンピック競技でもない柔術は“下”の存在だった。ところが、ボンサイ柔術で関根は、その奥深さに触れる。

「初めてダイ先生のテクニックを見たときに、十字絞めの襟への手の入れ方が美しすぎて“ああ、モノが違うんだな”と。そして、マルキーニョスと組んでみたら、もうこてんぱんにやられた。自分の力を使う前に流されて、力が入らない。このときに、心を奪われたんです、柔術を習ってみたいって」

 当時は、いまよりずっと日本人と日系ブラジリアンの間に大きな壁があった。互いを知らず、知ろうともせず、距離を置くことで、分断と対立が生まれていた。

 関根は、初めて出場した柔術の白帯の大会を勝ち上がるなかで、予想もしなかった応援を受ける。

「4試合目でもう足がつって、握力も無くて、体力の限界がきちゃったんです。それで動けなくなったら、ブラジル人たちが男の子も女の子もみんな、ものすごい大きな声で応援してくれて……まるでテレビで観ていたブラジルのサッカーの試合みたいに、『セキネ、セキネ!』って……感激しましたね。勝ったことにじゃなくて、今までの人生でそんなに応援されたことなんてなかったから」

 義理がたく情に厚い──昔の日本人のような気質を持つ彼らを、最初から色眼鏡で見ていたことに、関根は気付いた。

 練習後のある日、ダイから自宅でのシュラスコパーティーに誘われた。野趣溢れる料理に、ラテン音楽。明るく、ときに情緒的な旋律は、祖国を離れた日系ブラジリアンたちの郷愁、同じルーツを持ちながら異なる文化を育った、サウダージとも呼べる感情を呼び起こした。おおらかなブラジル人たちは緩やかな時間を生きている。もしかしたら日本人の方が急ぎすぎなのかもしれない。相手の習慣や価値観を理解すること。関根は、またひとつブラジリアンたちの、ほんとうの気持ちに近付いたような気がした。

レッテルを貼ること、無知が恐怖を呼ぶ

 関根のなかで変化が起きていた。

「当時、警察官と接点のあるブラジル人の多くが犯罪者で不良ブラジル人とばかり会ってるから、ブラジル人を見ると『ブラ公、ブラ公』って蔑称で呼んでる同僚がいたんです。『お前らは……』って。それを聞いて思わず自分、『ブラ公なんて言うんじゃないよ。なんにも悪いことしてない人にそんな風に言うなよ』って」

「お前ら」と呼ばれた瞬間、そう呼ばれた人がマイノリティーになる。何らかのレッテルを貼っていることが意識の中で働き、ひとくくりにしてしまう。そして“知らない”ことが、恐怖を呼ぶ。

 坂本も関根も口をそろえて言う。

「悪いブラジル人もいれば、良いブラジル人もいる。日本人も同じ。悪い日本人も良い日本人もいる。そんな当たり前のことに、気付けないのは“知らない”から。もしかしたら、日本人がブラジル人を怖い、と思うように、ブラジル人も日本人を怖い、と思っているかもしれないのに」

日本人はフリオ(冷たい)じゃなかった

 リーマンショック後、職を失い「あなたの国に帰りなさい、ここにいる必要はない」と日本人から言われ、多くの同朋たちが帰国した。しかし、サトシには、この地で「一緒に歩いてくれる人」たちと、すべきことがあった。

 ブラジルで父アジウソンから、いつも「人として正しい道を進むように」「やるべきことに100パーセントを注ぎなさい」と言葉を受けていたサトシは、末期がんで入院した父のために一時帰国し、直に黒帯を手渡されている。それは「アジウソン ソウザ」と刺繍された父の黒帯だった。

「この帯を病院のベッドの上ではなくタタミの上で渡したかった。でもここから出られないって分かっている。この帯を誇りに思い、幸運を祈る。腰に締めるたびに、“何を求めるべきか”思い出して。力になるから」

 サトシにそう言った夜、父は逝った。

「父が危篤状態のとき、私たちはお金が無くてブラジルに帰れなかった。そこでお金を貸してくれたのが、お父さんの知人でした。その時、彼に聞かれたんです。『なんでまだ浜松にいるのか? なぜブラジルに帰って来ないのか?』と。そのときに兄のマルキーニョスと話し合ったのは、私たちには夢がある、ということ。将来的にボンサイ柔術を世界に広めていくという夢を持っていて、その目標があったから、決して諦めなかったし、これからも諦めない」

 サトシがデカセギをしながら、ムンジアル(柔術世界選手権)の紫帯と茶帯で優勝したのは、来日後だ。欧州選手権では黒帯を制している。青帯まではブラジルで基礎を作り、それ以降は日本でしか練習していなかったサトシが優勝したことは、世界の柔術家を驚かせた。日本で「世界」を獲ることは不可能と言われていた状況を、サトシが切り開き、サトシの活躍を見て日本の柔術家、そして日本のブラジリアンコミュニティの子供たちも「頑張れば僕たちもできる」と希望を持つことが出来た。

 そんなサトシたちを見守ってきたのが、坂本健の母・正子さんだった。2018年の秋にステージ4のがんと宣告を受けながらも治療を耐え抜き退院。マルキーニョス、サトシ、クレベルの試合をいつも会場で応援してきた。

「サトシのRIZINデビューが決まった時も、すぐに母を連れていく約束をしました。まだ10代の頃からサトシを見て来た母は、サトシが念願のRIZINで勝利したことを我がことのように喜んでいて、サトシも勝利後、浜松に帰る前に横浜アリーナの観客席にいる母にこっそり会いに来てくれたんです。その後、母は様態が急変し緊急入院し、6月16日にこの世を去りました」(坂本)

 冒頭のサトシの言葉は、この正子さんに向けた言葉だった。2019年7月さいたまスーパーアリーナで勝利したサトシは、日本の母を失い、勝利者トロフィーを捧げた。

「どこへ行っても、僕が試合をすると坂本さんのお母さんも一緒に来ていて、応援してくれた。常に自分と一緒に歩いてくれた。日本人はフリオ(冷たい)という人もいたけど、そんなことはなかった。日本でボンサイ柔術を始められたのも、今、坂本さんが僕を助けてくれているのも、坂本さんのお母さんが坂本さんと僕らを助けてくれたからだと思っています」(サトシ)

「柔術は規律を与えてくれる」という。

 道場では生徒たちが待っている。キッズたちに最初に教えるのは基本の技と「防御」だ。自身をいかに護るか。柔術の源がセルフディフェンスなら、自分の心も護れないといけない。だから、2019年のライト級トーナメントのジョニー・ケース戦で見せたような、心が折れる敗戦はもうしたくない、という。

 2021年6月13日、東京ドームで、RIZINライト級のベルトがかかる試合を前に、サトシは誓う。

「前回のトーナメントで優勝したムサエフのことをすごくリスペクトしている。でも、たとえどんなに劣勢になっても、諦めない。心も身体も柔術が護ってくれる。ラスト1分でも一瞬を逃さない。上にいても下にいても、どこにいても必ず、極めてみせる」

自分なら出来る、この道で行くと決めた

 サトシとともに、クレベル・コイケは、東京ドームで、YouTuberとしても人気を博す朝倉未来と対戦する。両者の試合は、「日伯の喧嘩屋対決」とも言われている。

 来日当時14歳のクレベルは、痩せっぽちの少年だった。日本の中学校で日系ブラジル人たちがいじめられている姿を見て、学校には行かなくなった。

 日本人の祖父がブラジルで柔道をやっていた縁から、サンパウロで7歳から柔道を始め、来日後、ボンサイ柔術に入門した。静岡県天竜市の伯系コミュニティーの柔道サークルにも通っていたクレベルは、後の北京五輪柔道女子ブラジル代表にもなったダニエラ百合中沢バルボーザとも練習していたという。

 柔道は「下手くそだった」。

「柔道でやられそうになったときによく寝技に行った。柔道のルールだと、三角(絞め)を持ち上げられたら『マテ』じゃないですか。でもそれで止めないで絞めたら、めっちゃ怒られた」と苦笑する。

「柔道の“微妙な黒帯”にはなりたくなかった」という。柔術でスペシャルな黒帯選手になること、そしてMMAで成功すること。

「サトシはいつも自分にとってこうなりたい、という存在。サトシとは歳も同じで、帯の進級も一緒だった。でも、柔術のレベルは全然違った。だから、僕はMMAを感じてみたかった。子供の頃から喧嘩も多かったし“何でもあり”になったらどうなるか、自分ならできる、僕はこの道で行くと決めたんだ」

 リーマンショックの年に始めたMMAは、初期の試合で苦い敗戦を経験しながらも、9年をかけて、欧州のメジャータイトルを獲得するまでになった。

 2017年5月27日、ポーランドのワルシャワ国立競技場でクレベルは、王者マルチン・ロゼクに判定勝ちし、第3代KSWフェザー級王者に輝いている。磐田のアパートで食費をかきあつめていた少年が、「5万8千人」の大観衆の前でベルトを巻いた。クレベルにとって最初の到達点だった。

「欧州のKSWではいつもライオンと戦っているようだった。常に自分はアウェーで勝ちを望まれていなかったから。僕にとって周りにいる人たちが幸せだと思えることが最大のモチベーションだ。両親と離れて戦うことが、それだけのことをかける価値があることだと感じたかった」

 その後、2019年から日本に主戦場を移したクレベルは両親も呼び寄せ、3試合連続で一本勝ちをマークしている。

“センセイ”という言葉はすごく重みがある

 そして、今回の朝倉未来戦。類まれなストライカーの朝倉に対し、クレベルは強い柔術を軸とした思い切りのいい打撃、そして時に、相手を引き込むことも辞さない、下からの柔術のガードワークを武器とする。それは、現代MMAでは、タブー視されている危険なムーブだ。

「僕は、本当に自分の柔術を信じている。人生で生きていくなかで、大変なときがあって、それを乗り越えて、そこから強くなって成長してきた。試合も人生と同じで、良いときも悪いときもある。悪かったときに、大きな経験を積んで強くなった。みんな『ヒジ打ちありでグラウンドで下になるのは危ない』と言うけれど、今までたくさんそういった経験をしてきた。もしミクルがパンチやヒジを打って来たら、自分にとっては極めるチャンスがどんどん生まれてくる。僕が警戒すべきは、ミクルのコーナーゲームやロープゲームだ。コーナーやロープを掴む反則はしっかりチェックしてほしい」

“喧嘩屋対決”と喧伝されるが、坂本も関根も、クレベルが怒りをあらわにするときは、たいてい周囲のことだという。

「クレベルが熱くなるときって、自分のことじゃなくて周りに何かあったときなんです。例えば試合中に、相手コーチに生徒が突き飛ばされて怒ったり、友達に何かあったりとか、義侠心のようなものがある」(坂本)

 その部分で朝倉未来と比較されることについて、クレベルは、「ミクルと違いがあるとしたら、僕たちの方が厳しい時代を過ごしてきた、ということ。悲しい話はいろいろあるけど、それだけに執着したくないんだ。いろいろ難しかったよ。彼は好き好んで自分からそっちの道に行ったかもしれないけど、僕にとっては行きたくて行ったわけじゃなくて、場合によってはギャングの道に巻き込まれてしまう可能性もあったんだ」という。

 そうならなかったのは、ボンサイ柔術の仲間たちの力が大きい。

 父の亡き後、サンパウロ本部を継いだダイは、リーマンショックで帰郷を迫られたクレベルが、様々な誘いを受けるなか、「マルキーニョスとサトシと一緒に住むといい。彼らとともに進んでほしい」と道を示した。

 同い年のサトシもクレベルの良い資質を引き出してきた。クレベルが仲間のために会場でもめ事を起こして問題になったとき、破門されそうになったクレベルをサトシは涙を流して「自分が一緒にいるからチャンスをあげてほしい」とマルキーニョスを説得し、道場に留まらせた。そんなサトシが、RIZINのリング上にクレベルも引き上げたのだ。

 そして、多くの偏見にさらされた日本で、敬意を獲得するきっかけも柔術だった。

「僕にとって“センセイ”という言葉はすごく重みがある。それは彼らにとって良き道を示す責任があるということ。セイトたちもその親たちとも、一人の人として接することが出来る。自分のことを格闘家として知っている人たちは敬意がある。

 でも、反面、“ニッケイ”“ガイジン”として、差別的な思いを抱く人がいることも理解できる。ニッケイブラジル人の中にも悪いブラジル人がいて、それによって自分たちも影響を受けてしまうことも。

『日本で義務教育も受けてない日系人が一人で生きていくことなんてできない。だから自分を守るためにもギャングのメンバーになるしかなかった』という言葉を聞いたことがある。自分は、できれば証明したい。みんながみんな悪いブラジル人じゃない、柔術が君を守ってくれるよ、と」

クレベルの打撃クラス。キッズとプロが隣り合って練習する

常に“外側”にいたアウトサイダーとして

 日本とブラジルの国旗を掲げてKSWで王者になったとき、ポーランドでは空港職員からサインを求められた。帰国した日本の空港では、職務質問を受けた。何が自分を既定するのか。ブラジルではブラジル人として見られず、出稼ぎに来た日本では日本人に見られず、それでも日本人の血が流れ、この国に住んで18年になる。いまの自分はナニジンなのか。

「いまでも日系ブラジル人。日本人とは言い切れない。でもここでは自分に差別はない。それに、日本人と同じじゃなくていい」と、クレベルは、いう。

「日本人と違うところがある。私とあなたは違う。でもその違いがあることを認めることが大事。それが……ディベルシダージ(多様性)だし、その力を育むのが格闘技だ。それを通して、僕は共通の言語、柔術でみんなと会話できる」

 朝倉未来とは、その意味で似てるとも思う。
“ニッケイ”として常に日本人の“外側”にいた。
 クレベルもまた“アウトサイダー”の一人なのだ。

 それでも、いまの彼には帰るべき場所がある。
「日本に僕の生活がある。僕らの夢はこの日本で、日本の子供たちが柔術を通して成長し、人として豊かになることをサポートすること。そして、それを僕ら“ニッケイブラジル人”がやれるってことを、この国の人に見てほしい。僕の家族を助けることが出来るのも、僕にとって大きな夢だ」

 コロナ前に、母国ブラジルのファベイラ(貧民街)で、ボンサイ柔術のソーシャルプロジェクトとして、120人の子供たちに柔術を指導し、道衣や大会参加費などを援助。さらにスポンサーを集め、食べ物や衣服などを提供する“足長おじさん基金”を起ち上げた。

「『サトシやクレベルみたいになりたい』ってメーセージが来るよ。彼らの目標になりたい。その意味で、MMAのベルトは僕にとってファイシャ・プレタ(黒帯)みたいなものだ。試合は僕たちの違いが如実に出るだろう。打撃が勝つか、僕らの柔術が勝つか。試合も人生も苦しい時間は必ずある。でも、最後にベルトを巻くのは自分。それ以外の道はない」

人として人生に向き合うこと

 現在、在留ブラジル人は20万人を超えている。それでもブラジル人の増加率は他国よりもゆるやかで、総数で1位は中国人、2位は韓国人、3位はベトナム人、4位はフィリピン人、ブラジル人は5番目だ。

 少子高齢化が止まらない日本は、今後も海外からの人材がなければ経済が立ちゆかないのが現実で、すでに日本は移民大国と言える。そんななかで、いかに対立から相互理解を深めるか。

 ボンサイ柔術とその仲間たちは、浜松・磐田の地で、行政より先に、コミュニティーの一員として共に歩む道を進んできた。少なくとも坂本は、サトシやクレベルたちの「人生」を受け入れてきた。

 坂本は、サトシやクレベルらボンサイ柔術の面々が試合に向かうとき、必ず行っている儀式を、控え室や柔術会場の片隅で見守ってきた。

 父アジウソンが遺した写真と言葉を前に正座し、戦うことを誓い、気持ちを集中させて、リングや畳に向かう。

O jiu jitsu sempre foi a alegria da minha vida.
Todas as vezes que amarrei minha faixa honrei meu kimono.

Dos adversarios que perdi, aprendi a licao de como fazer certo.
Dos que ganhei, a certeza de que percorri o caminho da vitoria
sem nunca me sentir melhor ou pior.


「柔術は私の人生で常に幸福をもたらしてくれました。毎回、帯を結ぶ度に私は、自分の道衣の労をねぎらってきました。戦い負けた時は、私は戦った相手から正しいやり方を教わりました。戦いに勝った時は、勝利に向かって進んで来た道が正しかったことが確認できました。それにより、最高や最悪といった気持ちに支配されることはありませんでした」

Tirei de cada treino, todo o prazer que o esporte de kimono
pode oferecer.

A maior verdade que encontrei foi a alegria dos meus filhos,
o amor da minha esposa e o respeito dos meus amigos.
Sigo em paz certo de haver cumprido minha tarefa.”
Adilson de Souza


「私は日々のトレーニングで、柔術の中で幸福を感じていきました。柔術は私にそれらを提供してくれました。そして私の見つけた最大の真実は、私の子供たちの喜び、妻への愛、そして友人たちへの敬意でした。私は安らかに、自分の使命を果たしたことを確信しています」──アジウソン・デ・ソウザ

 勝つこと・負けることより、真に戦うこと──それはタタミの上だけではなく、リングでも日常でも、相手だけでなく自身の心とも戦い、敬意を持つこと。それを父は柔術の“息子”たちに伝えていた。

変わるアイデンティティ、変わらないスピリット

 アジウソン・ソウザが創始した「ボンサイ柔術」の由来は、ボンサイは手入れが大変だが、手をかければ美しく、強くなることから名付けられたのだという。

 かつてブラジルに渡った柔道家は柔術との対立のなかで、「柔道も柔術も同じ」だと言った。「だって柔道も柔術も同根ですから」と。

 人の魂は住む土地の風土に根差す。どのような人物に成長したか、どこに帰属するかという意味で、人は土地の影響を受ける。土が変わればボンサイも変わる。マルキーニョスは、ボンサイ柔術も変わっているという。


「いま、お父さんが見たら驚くかもしれないね。クラシックなボンサイ柔術にモダン柔術が加わり、いまはサトシたちのMMAが、僕たちの柔術のなかに確実に備わっている。でもボンサイ柔術のスピリットは変わらない。そして、アイデンティティも変わるものだと思う。常に自分が何者であるかは再定義していくものでしょう? でも、それは誰かにレッテルを貼られるものじゃない。自分のアイデンティティが何かを決めるのは、自分自身の選択だから」

 2021年6月13日、東京ドームで我々は新たなボンサイ柔術と、サトシ&クレベルの姿を見ることになるだろう。(取材・文=松山 郷)

この記事はゴング格闘技とLINE NEWSによる特別企画です。

外部リンク

cat_3_issue_oa-gonkaku oa-gonkaku_0_9jk1167oi1su_「生きる」──ステージ4のがんと闘う格闘家・高須将大 9jk1167oi1su 9jk1167oi1su 「生きる」──ステージ4のがんと闘う格闘家・高須将大 oa-gonkaku 0

「生きる」──ステージ4のがんと闘う格闘家・高須将大

2020年11月19日 11:00 (C)ゴング格闘技

 腹に大きな手術痕を持つ27歳のファイターは、リングコールに高々と右手を挙げた。

 鋼のような筋肉は、治療に必要なカテーテル(管)がなかなか通らず、医師を苦笑させたという。

 試合開始のゴングが鳴る。

 リングに立つ青年に向け、会場のあちこちから声が飛ぶ。家族、野球部の仲間たち、道場の先輩後輩、そして担当医。

 その誰もが念じる。がんばれ、がんばれ、ショータ、がんばれ。

 彼が戦うのは、目の前の敵だけではなかった。

 高須将大はかつて、「余命3カ月の男」だった。

 それでも彼は、リングから降りなかった。生きることを諦めなかった。

スパーリング中に蹴られた腹部の痛みは、がんだった


 高須将大が総合格闘技を始めたのは今から7年前。それまで格闘技経験はなく、「野球漬けだった」という高校時代は茨城県の名門・霞ヶ浦高校野球部に所属していた。

 部員100人弱という層の厚さもあり、レギュラー入りは出来なかったものの、外野手を務めた高須は、引退して社会人になって「何か身体を動かしたい」と思い、就職先の寮の近くにあった格闘技道場のストライプル茨城に通い始める。

田園のなかにある小さなジムの門を高須は潜った

 20歳から始めた格闘技。

 野球で培ったフィジカルと筋トレの経験もあり、通用するだろうと考えていた初スパーリングの内容は、よく覚えていない。覚えているのはレスリングの練習で「もうめちゃくちゃにされて……何をやってもダメだった」ということだけだ。

 ジムの井上和浩代表は、当時の高須を「正直あんまり器用ではないので、寝技も打撃も時間かけて覚える感じ。プロになるなんて、まったく思っていなかった」という。

 高須がめちゃくちゃにされるのも当然、井上はトップアマチュア時代に、後にPRIDEで活躍することになる五味隆典と対戦し、腕十字固めで一本勝ちをマークしている強豪グラップラーだ。

「代表が認めてくれるまでは、技量を伴う総合格闘技(MMA)の試合には出させてもらえなくて、3年くらい打撃無しの柔術の試合に出ていました」という高須に、井上からMMAの試合のゴーサインが出たのが2016年11月。

 格闘技団体ZSTの育成大会である「SWAT!」に参戦も、時間切れドローのほろ苦いデビュー戦だった。

 2戦目はKO勝利。24歳になっていた高須は、プロ初勝利後にすぐに次戦を望んだが、疲労が抜けず、スパーリング中に蹴られた腹部の痛みも2日ほど引かなかった。「アバラが折れたのかなと思ったんです」と、“そのとき”のことを振り返る。

 病院での検査の結果、肝臓がんが発覚。その時すでに肝臓に10センチ大の腫瘍があった。

肺に転移、『ステージ4』の宣告


「自分ががんということを最初は受け入れられなくて……『肝臓がん』とネットで検索したら、5年生存率とか予後何年とかいっぱい書いてあって……調べられなくなりました、怖くて。そのまま緊急入院して1週間後には手術、目覚めたらあちこちメチャクチャ痛くて熱も毎日40度くらいあって、すごくしんどかったです」

 術後、引きこもり気味になり、練習からも遠ざかった高須に、1本のLINEが届く。「スパーリングパートナーが必要だ。道場で待ってる」──井上からだった。

 ストライプル茨城に戻ると、ジムの仲間は手術前と変わらず練習に誘ってきた。相手を制する格闘技は、相手がいなければ練習が出来ない。対人練習で、パンチや蹴りを交換し、一本を極め合う。その間は、自分が病人であることを忘れることが出来た。

 最初に手術したのが、2017年7月。退院して1カ月後には復帰に向けて練習を再開していた。「その時はもう腫瘍も取ったし治ったものだと思っていた」というが、術後2、3カ月で再発。がんは肺に転移しており、診断は『ステージ4』。複数の部位にがんが存在している深刻な状態だった。

副作用、ステップも踏めないほど痛かったけれど…


 若い身体は体力があるが、病気の進行も速い。

「最初は落ち込んでしまって、もうダメかなと思ったんですけど、井上代表や道場のみんな、友達が気にかけてくれて……毎日のようにお見舞いに来てくれて、何とか前向きな気持ちになることが出来ました」と高須は言う。

 化学療法に取り組んだ高須は抗がん剤治療でがんを潰していくが、副作用もあった。

「全身じんましんが出たり、手足症候群(抗がん剤によって手や足の皮膚の細胞が障害されることで起こる副作用)で足の裏とかが痛みました。道場でステップも踏めないくらい痛かったけど、テーピングをいっぱい巻いてスパーリングして、だましだまし練習していました」

病院の帰り道、母の涙


 当時のことをブログでこう記している。


 9月に退院してから1回目の定期健診で再発してしまい肝臓に4つくらい腫瘍が出来ていました。その時が1番辛くて親の前では泣かないようにしていたのですが、その時は泣いてしまいました。道場の人達にもどんな顔で会っていいのか分からなくなって少し引きこもってしまいました。

 落ちこんでいても意味ないし、井上さんも気にかけてくれていたので、少し経ってから道場に行きました。みんな普段通り接してくれて、格闘技やってる間は嫌なこと忘れられるのでそれから毎日のように練習してました。

 自分がアホみたいに練習してる間、家族は色んな病院を調べていてくれて医療系で働いている姉の紹介でいま通っている病院に決まりました。決まるまで都内まで色んな先生に会いに行きましたが、どの先生にも厳しいことを言われ、希望持たせてくれるようなことは言ってくれませんでした。

 母は毎回ついてきてくれたのですが、帰り道いつも自分にバレないように泣いていてそれも辛かったです。

 今の病院でもう一度検査した時には肺転移、肝臓の腫瘍も進行していて肝臓にある門脈という大きい血管に腫瘍が浸潤してしまいました。門脈に腫瘍が出来てしまうとがん細胞が血液と一緒に流れてしまうそうです。それでステージ4と言われました。


「余命5年」ではなく「余命3カ月」


「ステージ4」の「B」──主治医である順天堂大学病院の永松洋明氏は、当時をこう振り返る。

「かなり急速に悪化してましたので、状況的には治療がうまくいかなければもう数カ月という状況でした」

 すでに手術が出来るような状況ではなく、永松氏は高須に、まず肝臓の中のがんを抑えるために、肝臓に直接抗がん剤を流す『肝動注療法』を提案する。同時に、肺のがんも抑え、残っている肝臓の病巣を切除出来る状況まで持っていけたら切除して完治を目指す、という方針を伝えた。

 辛い治療の間も、高須が格闘技をあきらめることはなかった。まだ何も“試せて”いないし、何も証明していない。再びリングに上がる──その強い思いが高須を突き動かした。

「ずっとベッドの上でしたけど、絶対に復帰してやると思っていました」

 その言葉通り、高須は入退院を繰り返す間も、永松氏と相談しながら練習を再開する。

「試合では、やっぱり筋肉を断裂したり、身体にダメージを受けることもありますので、そこがちょっと心配ではありましたが、体力的にはしっかりある。まだ肝臓の働きは保たれていましたので、練習しながらでも、十分治療には耐えられるであろうと思いました」と、永松氏はファイター高須の体力を称える。

復帰戦、最初で最後の涙


 そして、ステージ4と診断されてから、11カ月後にあたる2018年8月の『ZST/SWAT! 166』で復帰戦。高須は再びリングに上がる思いを、周囲へ手紙を書くように、ブログに記している。


 大会が決まってからは道場の人みんなが僕のサポートをしてくださいました。土曜日は僕の都合でスパーしてくれたり、日曜日は僕のためにラントレメニューを組んでくれて一緒に走ってくれました。試合も野球部時代の仲間がチケットを買ってくれて凄く気合い入りました。

試合当日。やっとここまで来れたなって感じで、いままでのことを考えたら泣いてしまいそうでした。しんどい時あったけど、1度も妥協しないで練習してきたから負けるはずないと思って堂々とリングに上がれました。

 結果はぎりぎりだったけど判定勝ち。

 控え室に戻ったら込み上げてきてしまって泣いてしまいました。小さい頃からスポーツやってきたけど、勝って泣いたのは初めてで、たぶん最初で最後だと思います。応援にきてくれた人達も喜んで泣いてくれていたらしく、凄く嬉しかったです。内容はあれだけど勝ててよかった。


がんをオープンにした理由とは


 当初、周囲に気を遣われるのを嫌いがんを患ったことを公にしていなかった高須だが、今はあえてその経験を公表して試合に出場している。それは、「試合に出て、同じがんの人に勇気を与えられる存在になりたい」からだという。

「ちょうどその時、同じ病気で闘っていた山下弘子さん(闘病生活を描いた著書『雨上がりに咲く向日葵のように』の著者)が亡くなられたことを知りました。山下弘子さんは自分よりひどい状態にもかかわらずいつも前向きで明るくていつも勇気をもらっていました。

気を遣われたり心配されたりするのが嫌で、自分の病気をひたすら隠していたけど、俺が山下弘子さんに勇気づけられたように、俺も同じ病気の人やその家族の人を勇気づけられたらなと思い、SNSで発信していくことにしました」

2度目の開腹手術後、4勝目もがん再発


 その後も、治療は続いた。1カ月後に肺に転移していた腫瘍を切除するラジオ波の手術(電極針を刺して腫瘍を焼却、熱凝固壊死させる治療)を行った。さらに2カ月後、2度目の開腹手術で肝臓の腫瘍を取り、計3度の手術でがん細胞を全て取り除いた。「経過観察」の状態で練習を重ね、2019年8月13日、初のZST本戦(前座の次の試合)に臨んだ。

本戦での勝利、練習の成果を見せたTKO勝ちだった(C)ZST

 結果は、20秒 TKO勝ち。得意のタックルをフェイントに、相手の蹴り足を掴んで右フックでダウンを奪った。不得意だった打撃を組みと融合させての勝利だった。

 これでプロデビュー戦のドロー後、4連勝。いよいよ上位陣との対戦を視野に入れた高須だが、検査でまたもがんが見つかってしまう。肺での再発だった。

「また再発する可能性はずっと頭にあって……ただ、アマチュアの頃に目標にしていたプロ本戦にデビューして、すごくいい勝ち方が出来て、これからというときだったから、正直すごいショックでした。でも、道場の人たちや家族の支えもあって、また頑張ろうって」

 道場で井上たちも高須が戻ってくるのを待っていた。

「SNSを見ると痩せて、そうとう苦しんでいた。LINEでのやりとりでもかなりしんどそうだったので、正直これはどうなるのかなと過りながらも、帰ってくることを信じてました」

「こんながん患者、見たことないよ」


 兵庫県でラジオ波の手術を2回、その入院中に次は肝臓にも再発が見つかり、帰京しそのまま東京の病院に入院。再び肝動注療法に取り組んだ。腕から肝臓までカテーテルを入れて、抗がん剤を直接、腫瘍に注入する。

 局所麻酔で切開し、カテーテルを血管に挿入するが、筋肉が大きく、なかなかカテーテルがスムーズに入って行かない。担当医から「こんながん患者、見たことないよ」と苦笑された。

 手術を終え、ひと月に一度の定期検査を繰り返し、2020年1月に、まずは寝技のみのグラップリングマッチでリングに上がった。

 試合が決まったある日、高須の両親である明倫さん英子さん夫妻に、主治医の永松先生から連絡があった。

主治医の先生が両親に依頼したもの


 母、英子さんは言う。

「あのときに先生から連絡があったんですね。もう怒られることしか考えてなくて、退院中も本当にいろいろなことがあったので、ご迷惑ばかりをかけて申し訳ない気持ちでいっぱいで。そうしたら、物静かな先生が、電話口で『高須選手からチケットを買いたいのですが』と。とても驚きました」

 会場で永松氏と再会した英子さんは、「やっぱりそこでも私はもう頭を下げることしか出来なくて。治療では映像を見ながら、本当に細心の注意で、細かい技術でせっかく治していただいているのに、こんな無茶なことばかりして」と、我が子が治療した身体を痛めつける格闘技を続けていることを、謝罪したのだという。

「そうしたら、先生が『免疫力を上げるのにいいのかもしれないですよ』と、笑顔でお言葉をかけてくださって……」

道場の人たちが支えてくれた


 言葉に詰まった英子さんの代わりに、父・明倫さんが続ける。

「最初に病院に連れて行ったのは自分なんですけど、状況を聞かせていただいて本当にびっくりして、何も考えられなかった。何て言葉かけていいのか分からなくて、朝に病院に行って夕方になって、一言も話さないで帰ってきました。

 将大が格闘技をやるようになってから、いろいろな人たちとすごい出会いがあったと思うんです。その出会いのおかげで、病気になったときも、道場の人たちが自分たちが出来ない分も支えてくださった。今になってみると、やっぱり格闘技をやってもらって良かったなとつくづく思います」

 幼少時からあまり主張せず、前に出ることもなかった高須が、20歳を超えてから出会い、強くこだわったもの。それが他者と究極の形で交わるマーシャルアーツ・コミュニケーションともいうべき格闘技だった。

コロナ禍のなか、マンツーマンで練習


 またひと夏を越え、世界では新型コロナウイルスのパンデミックが起きていた。それは、肺を含む臓器の病を持つ高須にとって、健康体の人以上に、厳しい時期だった。それでも道場では、マンツーマンで指導する井上と高須の姿を見ることが出来た。

 2020年8月30日、高須の6戦目が決定していた。

 格闘技では、試合前に「もうひとつの試合」と呼ばれる減量が待っている。減量中にハードな練習をすると、腎機能の血液検査で「脱水してるね、ちょっと頑張りすぎかな」と永松先生から見透かされ、アドバイスをもらう。

 職場は重機会社で、高須自身もさまざまな資格を持っている。溶接、低圧電気取扱、国家資格であるつり上げ荷重が無制限の天井クレーンを運転する資格も持つ。しかし、マシンではすべての溶接が出来ず、日々「顔を真っ黒にしながら」手作業で溶接を行う。減量の最終段階で「水抜き」をしなければいけないとき、計量前に現場仕事を終えたら、多量の汗で体重が自然と落ちていたことさえある。

絶対に諦めない男


 高熱の作業を終え、黒ずんだ手や顔を洗い、道場に向かう。
「本当に仕事でヘトヘトになってしまうので、1回家に帰ってシャワーを浴びると一気に疲れが来て、いつもちょっと葛藤しちゃうんですけど“さあ行くか”って道場に向かいます。デビューしたばかりの頃は、そのまま道場に行かなかったりしたんですけど、今は一歩を踏み出すことが出来ます」

 道場では、練習仲間が待っている。井上代表は言う。

「将大は、病気になるまではそんなに詰めて集中した練習は出来ていなかった。『試合に出たい』って言ってたから、『試合に出たいんだったらもっと練習しなきゃ駄目だよ』って言ったのも覚えています。いまはハートが強い。キワの勝負で諦めないんです。毎日、スパーしていますが、たぶん彼は、記憶を飛ばされないと諦めないと思います」

「あのとき、彼が帰ってくることが出来たら……」と師匠は振り返る。

「初めて病気が再発したとき、帰ってきたら、必ず最後まで面倒を見ると決めていました。僕も歳なので、マンツーでこうやってみてやれるのは最後。こいつはもう最後まで見ようかなと。ベルト取るまではもうマンツーマンで。僕は取れなかったので。いいところで身を退いたから」

この世界の片隅で感じる幸せ


 仕事を終え道場に向かうとき、激しい息づかいだけが響くスパーリングのとき、汗を拭き、帳が落ちた田んぼの間を歩くとき……その一瞬一瞬の世界を、高須は愛おしく感じている。

「病気になってからあらためて、やっぱり格闘技が好きだなって。入院中、早く練習したいなと心から思っていました。でも何度も、もう無理なんじゃないかとも思っていた。今こうして、練習が出来ているのはすごく幸せで、奇跡なんじゃないかなと思っています。格闘技をやっている時間を大切にするようになりました」

格闘技が、命を救ってくれた


 がんに気付けたのも、格闘技のおかげだった。

「肝臓は“沈黙の臓器”と言われていて、他の人はもっと腫瘍が大きくなってから気づくことが多いらしいです。自分の場合は、あの時、スパーリングで蹴られたことで病気に気付くことが出来た。格闘技をやっていてよかったなと思いました」

 8月大会の入場時、リング上で大きく呼吸し、周囲を見渡すと落ち着いた。セコンドに井上代表の顔があり、ソーシャルディスタンスを守った会場には練習仲間の姿も見えた。

ダウンから立ち上がっての一本勝ち。生存本能が動いた(C)ZST

「リングに上がるときは一人ですが、その過程でたくさんの人の支えや力があってリングに立てている。一見個人スポーツに見えるんですけど、チームスポーツなんじゃないかなと思います」

 人は存外、自分のために頑張れることは限られる。誰かのために戦う、その誰かが試合を重ねるたびに多くなってきた。


どの試合も「最後の試合」になるかもしれない


 2020年11月22日(日)、高須は「ZSTフェザー級王座挑戦者決定トーナメント」で、島村裕(総合格闘技宇留野道場)と対戦する。トーナメントを2試合勝ち上がれば、現在RIZINで活躍中の王者・関鉄矢への挑戦権を得ることが出来る。

対戦相手にも物語はある。練習では危険すぎて試せない必殺技・ローリングサンダーがこの試合でも島村のフィニッシュとなった。(C)ZST

 しかし、対戦相手の島村は強豪だ。吉田道場出身で国際武道大卒業の柔道ベースの猛者。必殺技ローリングサンダー=腕ひしぎ脚固めで、多くの対戦相手の腕・肩を、文字通り「破壊」してきた。

「ベルトに向かう、ここからの試合というのは、全部厳しい試合になります。でも、格闘技を通して、同じ病気の人だったり、同じように引き込んでしまった人に、勇気を与えたいという気持ちが本当にあります。

 自分の病気はまたいつ再発するか分からないし、急に悪くなることもあるので、毎試合毎試合、ラストチャンスだと思って戦っています。最後の試合になるかもしれないという思いで戦っている。余命3カ月を経験して、闘病を経て、チャンピオンになったら、勇気を与えられる人はたくさんいるんじゃないかと思っているので、このチャンスは必ずモノにしたいです」

同じような病気で頑張っている人の励みに


 その意気込みを主治医の永松氏も頼もしく感じている。

「高須くん、ステージで言ったら4Bという一番進行した状況でしたから、それでもこういうふうに完治して、元気に格闘技も出来る状況にまで持ってこれたということは、同じような病気で頑張っている人には励みになるかと思いますね」

 実は、11月の試合もチケットを手に入れたのだという。

「頑張っている姿を見に行きたいなと思ってですね。リクエスト? ベストを尽くしてくれれば──」

「生き残る」ことが、格闘技


 27歳の高須が「ステージ4」から生還出来たのは、的確な治療と強い意志の賜物だ。前戦で先にダウンを喫したのは高須だった。そこからサバイブし、チョークを極めて、ベルトへの道を繋いだ。

 勝っても負けても人生は続く。その折々に「試合」がある。周囲のさまざまな思いを背に、己のすべてをぶつけ合い、「生き残る」こと──それは格闘技の本質だ。「格闘技に打ち込むことが生きがい」という高須はファイトと闘病のなかでそれを体現している。

 高須将大がステージ4のがんを克服しながらリングに向かえるのは、もしかしたら、生死を賭けた戦いに身を置くことで、生存本能が研ぎ澄まされるからなのかもしれない。マットに崩れそうになったとき、身体中の細胞が叫んでいるようだという。「生きろ!」「生きろ!」「生きろ!」と。(取材・文=松山 郷)

高須将大(たかす しょうた)

1993年7月29日、茨城県出身。小学生から中学生時代にリトルリーグ・シニアリーグで活躍し、霞ヶ浦高校野球部に所属。卒業後、地元の重機会社で働きながら、格闘技道場・ストライプル茨城に入門。ブラジリアン柔術の大会で実績を積み、2016年11月に総合格闘技団体「ZST」でデビュー。「ステージ4」のがんと闘病しながら格闘技を続け、5勝1分の戦績を挙げる。2020年11月22日、プロ7戦目で「ZSTフェザー級王座挑戦者決定トーナメント」に抜擢され、MMA12勝6敗3分の強豪・島村裕(総合格闘技宇留野道場)と1回戦で対戦する。167cm、65.8kg(試合時)。


この記事はゴング格闘技とLINE NEWSによる特別企画です。

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