車は吸い込まれるように平壌ホテルに滑り込んだ。2人の監視員に両脇を固められ、十数メートル先のホテル玄関に向かった。中央階段を上り、2階の奥へと連行される。1分足らずの間にさまざまな思いが頭を駆けめぐった。
「まず『殺されるかもしれない』と思いました。殺されるにしてもどう殺されるのか。公開処刑の銃殺か拷問死か薬物供与による病死扱いか。罪状は何か。殺される場合、どんなメッセージを死の直前に発しようか……」
元日本経済新聞記者の杉嶋岑(たかし)氏(80)がこう振り返る。1999年12月4日。その後、2年2カ月に及ぶ北朝鮮抑留生活がこのとき始まった。
杉嶋氏が最初に北朝鮮を訪れたのは1986年のことだった。大学2年のときに『60年安保』を迎えたが、当時、隆盛だった「社会主義に移行するのは人類にとって歴史的必然」というマルクス経済学者たちの論陣に疑問を持っていた。
日経新聞に入社後も、産業界を取材しながら、社会主義諸国の経済発展などをウォッチしていた。さらに、実地調査すべく中国、旧ソ連、ベトナム、旧東ドイツを訪問。そして北朝鮮にも1986年、1987年、1991年、1999年8月と11月の計5回訪問している。5回目の訪朝の帰国直前、平壌で拘束されることになる。
■拘束されたときの行動
連れて行かれた部屋「平壌ホテル32号室」には、畳1畳ほどの長方形の木製テーブルがあり、挟むようにソファが置かれていた。
後に情報機関トップに昇格する50代後半の「幹部先生」、インテリ風の50歳近い男、40代半ばの通訳兼調査官の3人による尋問が始まった。
「あなたの行動に不信な点があります。それが拘束した理由です」
1人の調査官が流暢な日本語で尋問の口火を切った。拘束の理由は「スパイ容疑」だった。杉嶋氏は訪朝の都度、内閣情報調査室と公安調査庁に呼ばれ、北朝鮮の情報を提供していた。
「報酬をもらっていたわけでもなく、善意の情報提供でしたが、それが北朝鮮側に筒抜けだったんです。北朝鮮の調査官は『お前が提供した写真、ビデオ、資料はすべてこちらに送られてきて、保管場所に困っているくらいだ』と言いました。
ハッタリだと思ったが、チェックを入れたら本当でした。私はスパイといわれるような情報提供はしていません。北朝鮮では旅行者コースを案内人に連れられて回っただけです」
杉嶋氏は、自分の発言が日本に不利になっては困ると思い、いったんは自殺を決意するも、未遂に終わる。それからは自白に応じることにした。
拘束されてから解放されるまで、杉嶋氏は6カ所を転々とする。それは以下の通りだ。
(1)平壌ホテル3階32号室(1999年12月4日~同12月29日)
(2)松林の中の招待所(斜面の一軒家、1999年12月29日~2000年11月19日)
(3)平壌市内の招待所(平屋建て一軒家、2000年11月19日~2001年8月16日)
(4)平壌市内の高層団地1階の1室(2001年8月16 日~同年12 月11日)
(5)再び(3)へ(2001年12月11日~2002年2月6日)
(6)羊角島国際ホテル43階27号室(2002年2月6日~同年2月12 日)
いずれも食事は3食きちんと出されたという。当初はそれなりの扱いを受けたが、以後、環境は劣化していく。ただし、最後の羊角島国際ホテルは最高のデラックスホテルだった。先方は「人道主義的待遇」だと盛んに語っていた。
■尋問の様子
尋問はどのようにおこなわれたのか。
「肉体的拷問はありませんでした。私が内調や公安調査庁に提供した情報・資料を、調査官が時系列的に自白調書にまとめ、それを認めていくのです。北朝鮮の工作員たちが報告してきた情報を正解とし、それに私の自白がどこまで肉薄するかがポイントです。パスすると清書し、それを調査官がハングルに翻訳してトップに上げるのです」
自白のウソがバレると激怒された。1500枚ほど調書を書いたが、すべて「自分はスパイ」という筋書きにすることが絶対条件だった。
拘束初日から3カ月間は、終日、尋問が続いた。だが、2000 年3月初旬の「尋問終結宣言」以降、杉嶋氏の身柄は日朝間の外交カードに転化させられた。「帰国は日本政府の謝罪次第」と言われた。
だが、日本政府や外務省の動きはさっぱり伝わって来ない。次第に杉嶋氏は日本政府に不信感を抱くようになる。後に知るが、日本政府は一切、救出に向けた行動をとっていなかった。
2000年6月21日、平壌の人民文化宮殿で、日本政府に交渉のテーブルに就かせるための記者会見を行うことになった。北朝鮮が用意した声明文や想定問答集を暗記させられ、前日、情報機関トップら7人の前でリハーサルまでしたが、当日、迎えの車は来なかった。
中止の理由は、このときTBSが「杉嶋氏が平壌で有罪判決を受けた」との誤報を流したからだが、詳細はわからない。事態は停滞したままとなる。
■そして解放へ
2002年2月11日、突如、杉嶋氏は情報当局トップから解放通告を受ける。
「あなたは、我が国の主権を侵害するという共和国刑法48条に抵触する大罪を犯したが、家族からの嘆願と外務省からの嘆願等を考慮し、寛大なる措置を取ることにした。あなたを国外へ追放する」と宣言された。
この後、(1)帰国後は日朝友好のために尽くす、(2)共和国の悪口は言わない、(3)ここで起こったことは口外しない、の3点を盛り込んだ誓約書を書かされ、印鑑と拇印を押した。
「さらに、『あなたを一生見張っており、あなたがしていることはその日のうちに我々に連絡が届く。誓約を守らないと1カ月以内にこの世から消えることになる』と脅されました。『あなたには家族も親類もいるだろう』と、優しい語調ながら繰り返し脅迫されたのです」
なぜ解放されたのか、本当の理由はわからない。だが、尋問中、ひたすらスパイ容疑を認め、悔い改める姿勢をとっていたことは大きかったのではないかと杉嶋氏は考えている。
さらに、帰国させるタイミングが見付かったことも大きい。アメリカのブッシュ大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」と断定したことで、米朝関係は膠着。その打開の切り札として、北朝鮮が日朝関係に友好的なシグナルを発するため解放した可能性もある。
「北朝鮮で驚いたことは、あの国の諜報レベルの高さです。私は1987年以来、自宅も書斎も盗聴されていたようで、個人情報はすべて筒抜けでした。
ペンネームで雑誌に書いた原稿も、銀行口座の振り込み履歴から特定していました。
尋問中、『お前の家の書斎の本箱の奥にロシア女と撮った写真があったな』などと言われたこともあります。間違いなく、家宅侵入していたのでしょう。また『お前の記録だけで1巻の映画になるくらいだ』などと言われたこともあります。向こうが持っていた情報は、恐るべき量でした」
こうして、杉嶋氏は無事に帰国した。
帰国後6カ月ほどは尾行がついたが、今は影も形もない。とはいえ、ときどき郵便受けが開けられるなど「見張っているぞ」というシグナルは送られるという――。
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