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今大会で101回めを迎え、新たな歴史を刻む夏の甲子園。令和の時代を迎え、高校野球はどこへ向かうのか? いまどきの高校生との接し方は? 甲子園優勝5回の横浜・渡辺元智前監督と、優勝3回の智辯和歌山・高嶋仁前監督が語り尽くす。
−−まずは、お互いの印象をお聞かせください。
高嶋「横浜も最初から強かったわけじゃない。渡辺さんは、やんちゃな子を預かり、監督になってから教員免許を取りに行ったりしながら、イチからチームを作った。苦労してますよね。
それが采配にも出ている気がします。試合の中で出しゃばらないし、確実に勝つ野球をしますよね」
渡辺「よく見てますね(笑)。高嶋さんは昨年まで監督をされてましたけど、執念とか根性とか、今失われている昔のフレーズが残っている数少ない指導者だったと思います。
(参加校の少ない)和歌山だから、甲子園に数多く出られると言う人がいますけど、そうじゃない。監督の器が大きくなかったらできません」
−−監督に就任されたのは、渡辺さんが1968年、高嶋さんが1972年。当時はスパルタで、鉄拳制裁が当たり前の時代。2人とも厳しい指導で有名です。
高嶋「厳しく怒ったときは、その子が自宅に帰る前に車で先に行って、親に『今日はこういう指導をしました』とはっきり言うんです。『それをアカンと思うなら、どうぞ学校に言ってください。いつでもクビになります』と。
そう言われたら親は、『うちの子が言うこと聞かんからや。もっと指導してくれ』となる。選手は親から聞いて『監督は来てくれたんや。この監督は信用できる』となるんです」
渡辺「よく似てますよ。当時の横浜はやんちゃな子の集まりでしたから、厳しく指導しました。そんなときは、どんな遠い所でもまず家に行きましたよ。親には『この子が悪いから叱るんだ』と言います。
ただ同時に、『期待してるから、よくしてやろうと思うから叱るんだ』と言うと理解してくれる。昔は “愛のムチ” があった。でもそれは、信念があるからできるんです」
−−時代が変わり、指導法も変化していきます。どのような工夫をされましたか?
渡辺「ショートメールはしょっちゅう打ってますよ。威厳を出して、近寄り難い雰囲気を与えていたので、選手は胸の内を明かさない。ところが、メールを打つと返ってくるんです。
典型的な例が涌井(秀章、現ロッテ)ですよ。2年の秋、横浜隼人に負けて、あまりにもふがいないので『お前なんかやめろ』と言ったら、もう口をきかない(笑)。
これではいかんと思って、『松坂(大輔、現中日)の後のエースになってもらいたい。お前しかいない』と送ったら、すぐに返ってきた。こんなに早くかというぐらい(笑)。次の日に会ったら、『夏に向かって頑張ります』と」
高嶋「昔と違い、今の子は怒られ慣れていないですよね。頭ごなしに言ったらふて腐れる。こちらも、そういうつもりで接していかないといけません。
たとえば、何か問題があったとき、呼んで話をしますよね。そのとき、選手に全部言わせるんです。途中で『それは違うやろ』とか口を挟むと、絶対本音を言わなくなる。聞くだけ聞いて、その日は終わるんです。
で、次の日にまた呼んで、『俺もひと晩考えたんやけど、こう思うんやけどな』という言い方をする。そうすると、選手は「監督は考えてくれたんや」となるんです。
言いたいことは言わせる。ワンクッション置く。これは心がけてましたね。こちらの気持ちをそのまま出してしまったら、選手はやっぱりついてこないです」
渡辺「信頼関係を築かない限り、いくらアドバイスをしても聞きません。うわべだけの愛情では、彼らは心を開かない。絆があって、初めて愛情が生きてくるんですよね」
高嶋「『この子には甘い言葉、この子は怒ったほうがいい』というのは、人によって違います。ふだんから観察して、性格を把握して考えて言う。アメとムチをどう使うか。それは、試合中とは違う監督の手腕。これは年の功でしょうね」
名将2人には「ベンチ前の流儀」がある
−−選手に力を発揮させるために、試合中に心がけていたことはなんでしょうか?
渡辺「ベンチ前で円陣を組むときに、膝をついて選手と目線の高さを同じにしてました。目を見ると選手の気持ちや状態がわかる。
ベンチの中でも選手を見て、『ギラギラしてる。使ってほしいんだな』とか、『視線を逸らした。ああ、出たくないんだな』と判断することもありました」
−−高嶋さんはベンチ中央での “仁王立ち” が有名でした。
高嶋「智辯和歌山に移って、初出場から甲子園で5連敗したんです。それまではベンチに座ってたんですけど、6回めに立ったら勝ったので、それから座れんようになった(笑)。雨が降ってていても、『選手は濡れながら頑張っとるんやから』と。
でも、ああやって前に出ていると、ミスをした子に対して、わざわざ後ろを向いて怒れないんです。怒られないから選手はのびのびしてる。せいぜい、ちょっと呼んで『お前のエラーで何点取られたんや? 2点? 2ラン打ったら帳消しやな』と言うぐらい(笑)。
その結果、2000年夏は優勝チーム最多の13個もエラーしたのに、ホームランを11本打って勝った。だから、立ってよかったと思ってます」
−−甲子園の魅力とはなんでしょうか?
高嶋「2000年夏の準々決勝・柳川戦で8回表まで4点負けてたんです。武内(晋一、元ヤクルト)が放り込んで、さらに2人出て山野(純平)に回った。
そしたら、『ホームランが出たら同点や』というお客さんの声が聞こえるんです。山野の打球は上がりすぎて、無理だと思った。そのときです。お客さんが後ろから『入れ! 入れ!』と言うのが聞こえた。
そしたら、スタンドにいくんですよ。スタンドとの一体感。負けてるほうを応援する雰囲気。あれがホンマの魔物というんでしょうね」
渡辺「私もそれは経験しました。松坂が延長17回(1998年夏・準々決勝・PL戦)を投げ切った翌日の、明徳義塾戦です。松坂に投げさせなかったら、8回表まで0対6。
『負けるなら、最高のメンバーで』と、最後に松坂をマウンドに立たせたら異変が起きたんです」
−−松坂の登場とともにスタンドの雰囲気が変わり、横浜は7対6と奇跡の逆転サヨナラ勝ちを収めましたね。
渡辺「私はね、15歳から18歳って、いちばん我慢できる年だと思うんですよ。高校野球で真剣に練習して、真剣に涙を流して、真剣に自分に向き合う。ただ楽しむ野球であってほしくないと思うんです。楽しむプラス自分を鍛える。
今の時代でも、厳しさがなかったら勝てませんよ。甲子園という場所は、お客さんに何かを与える場所。そして、選手たち自身も何かを学んでくる場所。限界にトライしてもらいたい。
それが、卒業後に生かされるし、感動を与えることにもなる。それが、高校野球であり、甲子園なんですよ」
わたなべもとのり
1944年11月3日生まれ 神奈川県出身 1968年に横浜の監督に就任。松坂大輔を擁した1998年の春夏連覇をはじめ、1973年春、1980年夏、2006年春と5回日本一に導く。甲子園通算51勝
たかしまひとし
1946年5月30日生まれ 長崎県出身 1972年から1978年まで智辯学園で監督を務めた後、1980年に智辯和歌山の監督に就任。甲子園優勝3回、準優勝4回。監督歴代最多の68勝を挙げた
取材&文・田尻賢誉
(週刊FLASH 2019年8月20・27日号)