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骨髄腫を押し事故の収束へ。自宅も中間貯蔵施設に…原発と生きた父は幸せだったのか?

2021年4月11日 10:00 福島中央テレビ

その強力打線は「アトム打線」と呼ばれていた。

双葉高校野球部は、過去3度の甲子園出場を誇る。
創部90年以上。福島県の太平洋沿岸部において「名門」と呼ばれている。

高校野球の世界では、強力打線にはよくご当地ネタになぞらえた「〇〇打線」という愛称がつけられる。
「アトム」とは、英語で「原子」という意味を持つ。つまり、双葉町と大熊町にまたがってそびえる福島第一原発にちなんだ愛称だ。

2010年、秋。
私はこの双葉高校野球部のレギュラーとなり、アトム打線の一角を担った。

甲子園を夢見ていた私の日常が崩れ去る、6か月前のことだった。

注がれる愛情。父との思い出


私の名前は渡邉郁也。
27歳。福島第一原発がある大熊町で生まれ育った。

野球を始めたきっかけは、元高校球児の父・忠明の影響だった。

父に叱られたという記憶はほとんどない。
いつも明るく、優しく、試合で結果を出せば「あのプレーは良かったな」と笑顔でほめてくれた。

父は私が幼いころから、運動会などの子供の晴れの舞台には欠かさず参加してくれた。
どんなに忙しくても子供と過ごす時間を大切にしてくれた。

大熊町はもともと、仕事がなく貧しい地域だった。
父の子供のころは、両親が農作業などで忙しく、かまってくれる余裕はなかったという。

その分、父は私たちには愛情を注いでくれた。

少年野球チームの監督でもあった。
日が暮れるまで、自宅の庭でキャッチボールやゴロを捕る練習につきあってくれた。

私はプロ野球選手に憧れ、そして甲子園に憧れ、名門・双葉高校に入学した。

帰らない父。働く先が…


2011年3月11日。
私は翌日に控えた練習試合に備え、高校のグラウンドで守備練習をしていた。

午後2時46分、いきなり地面が激しく揺れ出した。
高校球児の鍛えた足腰でも立っていられないほどだった。


目を疑った。「ガシャン!ドカドカ!」。学校の周りの住宅などが地震で崩れていく。
「止まってくれー!」。私は恐怖のあまり地面に這いつくばり大声で叫んでいた。

直後に大津波警報が出される。
「ここにも津波が来るのかな・・・」と同級生たちから不安の声があがる。

高校は海岸から3キロしか離れていなかった。
私は当時学校にいた約200人の生徒とともに、300メートルほど離れた高台に向かった。

高台に到着すると携帯のテレビを付け被害の状況を確認した。
津波が家や田畑を飲み込む沿岸部の様子に息をのんだ。幸いにも避難した高台には津波は到達せず、私たちは無事だった。

高台に母の史子が車で駆けつけてくれた。
自宅に戻ると、タンスがなぎ倒され皿やコップは割れて床に散らばっていた。余震への恐怖から、みんなで車の中で過ごすことにした。

父はこの日からしばらく、家族のもとへ帰ってこなかった。

なぜなら、東京電力の原発で働く社員だったからだ。

ヘリの飛行音と、鳴らない電話と


地震直後。母の携帯に父から「とりあえず体は無事だ」とメールが入っていた。
しかし、午後9時30分ころ、私は車内でポータブルテレビを見ていて「えっ」と驚いた。

政府の緊急会見に切り替わり、当時の枝野官房長官がこう語った。

「落ち着いて対応頂きたい、21時23分、大熊、双葉に住民の避難の指示をした、3キロ以内の住民。これは念のためのもの、放射能は現在も炉の外には漏れていない、環境に危険は発生していない」


自宅は原発から約1.5キロ。
そこで何が起きているのか分からないまま、私は原発から約5キロ離れた中学校に避難した。

その日は、駐車場に停めた車で一夜を過ごした。

飛び回る自衛隊のヘリコプターの音。
ラジオから聞こえる被害情報。


ただ事ではない状況に、私は一睡もできなかった。

そして、父からもあのメール以降、連絡がなかった。
母は携帯をずっと握りしめていた。

爆発の映像。映り込む我が家


翌朝の午前6時、避難指示範囲が10キロに拡大された。
町全域が、避難の対象エリアとなった。

車のガソリンは半分以上あったので、私たちは原発から西に向かって車で走らせた。

ほかの住民よりも早く避難を始めたため、渋滞にはまることはなかった。
だが、初めにたどり着いた避難所は、すでに満員で入れなかった。

訪れた2か所目で、私たちは避難所に入ることができた。
原発から40キロ離れた田村市の体育館だった。

避難所の入り口付近に設置されていたテレビの前に住民たちが集まっていた。
津波被災地の映像から急に第一原発の映像に切り替わると、原子炉建屋が静かに爆発した。

福島第一原発1号機の水素爆発(撮影:福島中央テレビ)

アナウンサーが上ずった声でリポートしていた。

「え、さきほど1分前、福島第一原発1号機から…大きな煙が出ました。大きな煙が出まして、そのままその煙が北に向かって流れているのが分かるでしょうか」

約17キロ離れた旧式の定点カメラが捉えた映像。
原子炉建屋の壁がこなごなになり、数百メートルほど飛び散った。

煙は原発の敷地を越えて周辺の山林、農地、そして住宅などに流れていく様子が映っていた。
映像には自分の家がある場所も映し出されていた。爆発に巻き込まれたようにも見えた。

「家もつぶれてしまったかもしれない」

そう思った。

周りでは「家には戻れねえな」「原発の安全神話も崩壊だな」という声が次々に聞こえる。

目に見えない放射能への恐怖を強く感じた。
「このまま死んでしまうかもしれない」と血の気が引いていく感覚だった。

この日からもう、私たちは故郷の自宅で暮らすことはできなくなった。

東電の作業着、避難所では…


映像を見て、さらに遠くへと避難する人も出てきた。
しかし、私たちはこの避難所からは離れられなかった。

原発で働く父を待っていたからだ。

地震から4日目。
やっと父から電話があった。

「ようやくそっちに行けそうだ」

しかし、職場から戻ってきたのは10日後だった。

やっと会えた父。
自宅に帰れなくて、家族が避難所で暮らしている状況なのに、原発で復旧に向けた仕事を続けたいという。

「若い社員たちに無理はさせられない」

父の考えに、母はうなずくことしかできなかった。
高校2年生だった私は、父が戻ってきてくれるだけで嬉しかった。

10日ぶりに会った父は目にクマを作り、疲れた様子だった。
それでも「避難所でもやれることはやろう」といつもの明るい口調で、私と一緒に炊き出しの手伝いや避難所の掃除を率先して行った。

原発のことは話をせず、父とは大好きな野球の話ばかりしていた。
「野球やれるかな」とつぶやいた私に、父は「必ずできるようになる、しっかり練習しておけよ」と笑顔で励ましてくれた。

しかしそんな父も、普段羽織っていた東京電力のマークが入った作業着を避難所で着ることだけはしなかった。

父も母もそして私でさえも、そんなことをしてしまえばこの避難所で暮らしていけないということが分かった。
人々の暮らしを破壊した東電は悪者でしかなかったからだ。

「ここに長くはいられない」

父は避難先となるアパートを原発から約60キロ離れたいわき市に見つけ、家族はそこに身を寄せた。
その後、いわき市に新たな家を建て生活の拠点を確保したことで、ようやく暮らしの立て直しができるようになっていった。

変わった人生。思いもよらぬ未来


原発事故がなければ、おそらく私も父と同じように、東京電力関連の仕事に就いていただろう。

私が住んでいた町では、一家に1人は原発関連の仕事をしている人がいるほどだった。
故郷で暮らしていくには、原発は欠かせない存在だった。

福島第一原発の昔と今

私は故郷で暮らしたいと思っていた。
だから、働ける年齢になったら、父に原発関連の仕事がないか相談してみようかと思っていた。

原発事故で、人生は大きく変わってしまった。
しかし、その後、私は思いもよらなかった新たな道へと進むことになる。

寄せられる支援。メディアの力


震災の年、私たち野球部は部員が3分の1の13人に減った。
それでも、甲子園を目指すという方針は揺るがなかった。

部員たちは、それぞれの避難先で受け入れてくれた高校に通っていた。
平日はその高校の練習に混ざり、週末だけは他に練習場を見つけて、13人が集まって練習ができた。

他校の球児たちは私たちを温かく受け入れ、「一緒に頑張ろう」「でも、戦うときは手加減しないよ」と励ましてくれた。
ありがたかったが、それでもやはり、週末に仲間と集まれることは楽しみだった。

そんな私たちを多くのメディアが毎日のように取材に訪れた。
私たちは、ボールやバットを母校において来てしまったこと、練習場の確保に困っている状況などを説明した。

するとニュースや記事を見て、野球道具の寄付や練習場の提供、さらには応援のメッセージなど温かい支援が寄せられた。
悪い状況ばかり続いていた私たちにとっては、全国の人たちの優しさが何よりも胸に響いた。

「絶対に諦めない、ここから盛り返すんだ!」

部員みんなでそう励ましあった。

夏の大会では3回戦敗退だった。
その後、高校は休校となり、野球部の歴史も途絶えてしまった。

しかし私は、メディアが情報を伝えることで、被災者の心を奮い立たせることもできるのだということを知った。
被災地出身の私が、被災者に寄り添いながら伝えることに、大きな意味があると考えるようになった。

「心苦しい」友人の家を解体


事故から5年後、私は大学を卒業し、福島県にある福島中央テレビに入社した。
そこで記者として、被災地の取材を始めることになる。

原発の周辺にある被災地は、震災直後の状況から復興の段階へと歩み始めていた。

私の故郷の周辺では、政府から出されていた避難指示命令が少しずつ解除され始めていた。
帰還できるエリアは徐々に広がる。人々は少しずつ故郷に戻り、商店や医療機関、学校などが再開していった。

小さいころからの球友である青田瑞貴さん(27歳)は、地元の建設会社を継ぎ、今は復興関連の仕事を受注している。
ただ、その仕事は、住めなくなった被災地に残る家の解体作業が多かった。

解体する家の中には小さいころに遊びに行った友達の家もあった。
青田さんは解体された友達の家の跡地をじっと見つめ「心苦しいよね、でもこうしないと前に進めないから」と複雑な気持ちを明かしてくれた。

解体された跡地は町の復興計画に沿って、企業誘致や商業振興などに活用されるという。

「東電は悪者」なのか


複雑な思いは私にもある。

日常の記者活動の中で、毎日のように取材するのが東京電力だ。
福島の人から故郷や生活を奪った企業でもある。

東電は賠償金の支払いや被災地の復興支援への人材派遣、福島産食材の風評払拭のための都内でのPRなど、さまざまな取り組みを進めている。
しかし、それらの取り組みを記事にするのは難しい。「東電は悪者」というイメージは今も県民に根強いと思うからだ。

事故から10年経つが、福島の人たちの生活が震災前に戻ったとは言えない。
特に原発周辺の被災地は人口が減り、コミュニティがなくなり、放射線量が震災前のレベルに戻ったわけでもない。

さらに言うと、事故を起こした原発は今もそこにある。
2月13日のような大きな地震が起きれば、再び原発による避難ということも十分考えられるからだ。

ただ、東電は父が務めた会社でもある。

そこで働く人たちのことを何人も知っている。みんな仕事に真面目で、気持ちのいい人ばかりだ。
原発から溶け落ちた核燃料を取り出す廃炉作業に向けて、今も懸命に作業にあたっている人たちもいる。

「東電は悪者」は私の中では今でも整理ができない言葉だ。

我が家が中間貯蔵施設に…?


私が記者としての道を歩み始めた一方で、父は私が入社する直前に原発の仕事から身を引いた。

震災の年の夏。健康診断で異常が見つかり、多発性骨髄腫と診断され、仕事を続けることができなくなったという。
私がこのことを知ったのは、だいぶ後だった。父が一切、私たち子供には言わなかったからだ。

父が私に黙っていたことが、もう一つある。

私たちが暮らした家は、福島県内の除染で出た汚染土壌などを30年保管する中間貯蔵施設の建設エリアに入ってしまった。
原発の周囲16平方キロメートルのエリアで、国による土地の買収交渉が進められた。

家族で暮らした家や土地をどうするのか。
私は気になっていたが、父はどんな決断をしたのか語らなかった。

病をおして収束作業。父の背中


震災から6年後、父は病で亡くなった。

私が病名を知ったのは、父が亡くなるわずか3日前だった。
そして、家や土地を手放すことも、父の死後に母から教えてもらった。

「いつ戻れるのか分からない家を子供の代にまで残すことはできない。子供に心配はかけたくない」

父は母にそう告げたという。
そして、母は私にこんなことも教えてくれた。

「お父さんは仕事に復帰したいという気持ちがあったから、通うために、いわき市だったら高速道路にのっても6号線を通っても通いやすいなってことでこの家を買った。自分は絶対復帰してやるんだくらいの気持ちでいたと思う。仕事に本当に誇りを持ってたね」

亡くなった後で初めて知った父の本当の姿。

病を抱えながらも原発の収束作業にあたっていたこと。
現場を離脱した後でも再び復帰しようと考えていたこと。

脳裏に浮かんだ父の背中が、とてつもなく大きく感じた。
そして、私の中にもう一つの疑問が芽生えた。

原発が変えた生活


父を育てた祖父・忠男(83)は、福祉施設に入所している。
コロナ禍の今は、直接会って話を聞くことができない。施設の人のお願いして、リモート形式で話を聞くことができた。

父はなぜ、そうまでして原発の収束作業に関わろうとしていたのか。
なぜそこまで身を投じようと思ったのか。

祖父は目をつぶりながら昔を思い出すように教えてくれた。

「原発ができる前は農業しかやることがなかった。俺も山梨の方に出稼ぎに行ったことがあるが、大熊町とか原発の周辺の人たちはほとんどが農閑期に出稼ぎに行っていた。そうしないと生活が苦しくてやっていけなかった。そこに原発ができたんだ。仕事がいっぱい増えて、町全体が潤って、出稼ぎする人もいなくなった」

農家だった祖父は、原子力発電所の警備員の仕事に就いた。
長男の忠明には同じ思いはさせたくないと、東電に入れるために懸命に育てたという。

農閑期でも収入が得られたことで生活が安定したのは、父が高校生になるころだった。

父の思い。息子の思い


私は2年前に結婚した。
来月には第一子が誕生する予定だ。

今度は私が父親になる。
生まれてくる我が子には、私が被災した状況や故郷で何があったのか、しっかりと伝えていきたいと思う。

妻・麻美と一緒に、お腹にいる赤ちゃんのエコー写真を見る。
そのたびに、父親になるという実感が少しずつ湧いてきている。

同時に、私の中である思いが確信になっていくのも感じる。

父・忠明は原発事故直後、どんな思いで収束作業にあたっていたのか。

祖父・忠男から託された思いを受け継ぎ、故郷で2人が築き上げたのは家族の団らんだった。
私たちが暮らした大熊町に無数に点在する家族の暮らしを父は守ろうとしたのだ。

故郷の暮らしは原発事故によって奪われたが、私は父の思いを受け継ぎたい。
父が見届けられなかった故郷の復興。この先、30年後か40年後になるか分からない。

それでも、これを見届け、伝える。
それこそが、私の使命だ。

※この記事は福島中央テレビによるLINE NEWS向け特別企画です。

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彼らはなぜ、死と隣り合わせの現場に向かったのか #あれから私は

2021年3月9日 11:00 福島中央テレビ

「大津波があって波が引き返すところだった、車や巨大なタンクなどが流されていった」

協力企業から東京電力に出向中で、数年後に定年を迎えるはずだった梅松悟さん。

当時、60歳。福島第一原子力発電所の事務本館にいる時に、東日本大震災のM9の揺れに襲われた。

地震発生時の福島第一原発

建物の外に出た際に、原発を襲った大津波の引き潮でさらに原発の施設が破壊されていく光景を目の当たりにした。

第一原発には6つの原子炉があった。
地震で電線の鉄塔が倒壊し外部電源を失っていたが、非常用発電機が稼働し冷却機能は維持できていた。

しかし、津波により1~4号機は非常用発電機が浸水し、全ての電源を失ってしまう。
緊急対策室が設置された重要免震棟に駆けつけると、人で溢れかえっていた。そこでは東電の幹部たちが血相を変えて動き回っていた。

「作戦」の始まり


梅松さんは電気関連の部署に所属していたが、原子炉が冷却できない状態になっていると分かったのは、午後7時ころだったという。
このままでは核燃料が解けるメルトダウンとなり、原発の一帯は人が住めなくなるほどの汚染が広がってしまう。

「原発で全電源喪失が起きることはあり得ないことだった。それが現実に起きたんだなって、ものすごい緊迫感はありました」

梅松さんは電気工事のベテラン技術者。
東電の職員や他社の作業員からも「梅さん」と頼りにされるほどだった。

中学卒業後に職業訓練所で技術を習得し、40年以上、発電用ダムや原発などさまざまな工事現場での経験がある。
高度成長期を支えた日本の技術力を誇りに思い、自らが原子力発電の仕事に携わっていることを親戚などに胸を張って語っていたという。

梅松さんたちは作戦を練り始めた。
電源を復旧させるためには、発電ができる車両「電源車」を原子炉建屋に近づけ、電源ケーブルを繋いで原発に接続しなくてはならない。

電源車の道、切り開くのは


ただ当時は、その「電源車」を原子炉建屋に近づけることすら難しい状況だった。
津波によって、原子炉建屋周辺はさまざまなガレキが打ち上げられていた。車両が通行できる状態ではなかった。

この根本的な問題に立ち向かったのは東電職員でも、自衛隊、消防、警察でもなく、地元の人だった。
栃本良重さん。従業員10人ほどの地元企業の専務だ。

当時は51歳。
地震直後、原発の重要設備が破壊される瞬間を目撃した。

「斜面にある鉄塔が地震で崩れて、バシャーってスパークを起こした。ピンク色だった。10メートルから20メートルのスパークだった。鉄塔がカチャって折れて根足がとられた」

栃本さんは当時、原発の耐震工事の下請け企業として敷地内のプレハブを事務所にしていた。

揺れを感じたのはプレハブ前の駐車場。立っていられないほどだった。
さらに地震の後は津波が押し寄せ、自家用車などが流された。だが自社のパワーショベルは、キャタピラの部分が浸水した程度で助かったという。

栃本さんは被ばくのことを気にして、もともとは原発関連の仕事を積極的に受注することはなかった。
それがたまたま、原発事故に遭遇してしまった。

「あ、これ何かが起きんじゃねーかな、やばいんでねーかなぁって思った」

「ちょっと行ってくる」


栃本さんたち協力企業の作業員たちはいったん、免震重要棟前の駐車場に集合した。
点呼をとり、無事を確認。その後、元請け企業から「解散」との指示があった。家族や家が被災した人もいると予想されたためだ。

その際、他の作業員たちが話していたことを覚えている。

「水素爆発起こさないように、どこか息抜きするとかって話はチラっと聞いた」

水素爆発。
聞きなれない言葉だった。

とはいえ、自分にはあまり関係のない話に思えた。
妻や息子たちのことも心配だったため、約13キロ離れた自宅に帰ることにした。

原発敷地内に置いていた車は、津波で流されてしまった。知り合いの車で自宅まで送ってもらった。
普段は車で30分ほど。だが、道路という道路が避難のために大渋滞で、約2時間もかかった。

家に着いて、家族の無事を確認した時に、元請けの企業から電話が入る。

「第一原発の復旧やっぺ?」

第一原発内の道路は至る所に段差ができたり、ガレキに阻まれたりして車両が通れない状態だった。
栃本さんは道路の復旧程度ならすぐに行って、すぐに帰って来れるだろうと思った。

家族には「ちょっと行ってくるから」とだけ伝え第一原発に向かった。
午後7時半ころだった。

電源復旧、恐怖との闘い


梅松さんは、東電や協力企業の若手を集めていた。

原発の電源を復旧させるため、接続する電源ケーブルの取り扱い方やルートなどを説明する。
ケーブルは「トリプレックス」という特殊な高圧ケーブルで、引きずると破損してしまう恐れもある。

1メートルで約6キロも重さがあるケーブルを、外に停車させた電源車から電源盤に接続させる。
複雑な構造をしている建屋内を通すその長さは、約150メートルにも及んだ。

メンバーは、こうした機材の取扱い方すら知らない若手たちばかり。
しかも、短時間で完了させなければメルトダウンしてしまい、自分たちも致死量の被ばくをしてしまうかもしれない。

電源さえ復旧できればこの危機を脱することはできる。
ただ、状況も加わって、作業は困難を極めるものだった。それができるかは、梅松さんにかかっていた。

「絶対怖くない人はいないと思うんです。絶対怖いですよ。ただ、怖いのとビビるのは違う。ビビってる連中、行きたくないってのがいるんですけど、我々は確かに怖いです。ものすごくおっかないですよ。未知のとことにいくんだから、だけどビビるのとは違う。怖いけど、普通に行動するわけです」

この時、東電への出向社員は約50人いた。だが、梅松さん以外は全員、帰宅させることになった。
東電の上司が梅松さんの技術を頼って引き留めたのだ。

出向中の身でもあり、どれほどの被ばくをするかも分からない状況。現場を離脱することもできた。
それでも、梅松さんは自分の心の声に従った。

「私の力量が試されるところだと思いました。逆にここで自分の技術がいくらかでも役に立つのであれば本望だと思った。日本が沈むか浮くかの時に放射線量が高いから、怖いからやめるなんてできない」

妻や息子たちと連絡が取れない状況は続いていた。
それでも一人の技術者として、原子炉建屋の傍で収束作業に身を投じることを決めた。

誰も知らなかった「功績」


しかし、まだ電源車が原子炉建屋近くまで行ける状況ではなかった。
そこに至るまで、道路の復旧が進んでいなかった。

地震で生じた道路の段差は、最大で1メートルはあった。
栃本さんたち協力企業の作業員たちが現場を確認し、対応を検討していた。

敷地の外の採石場から砂利を持って来て段差を埋める案が出されたが、時間がかかり過ぎる。
栃本さんは「要は車が通れればいいんだべ」と考えた。敷地内にあった自社のパワーショベルの鍵を回すと、エンジンがかかった。

先端のバケットで段差ができていた部分の道路の舗装を剝がし始めた。
そして、舗装の下にある砂利を削り出し、擦り付けるようになだらかな斜面にすると、なんとか車が通れる状態ができた。

「俺がパワーショベルで道を作ってる時は見てる人の方が多い感じだったな。こっちだ、あっちだって言われても、暗かったから、こうしろ、あれしろって言われたけど、そんなこと聞かないで作業したけどな」

この時、現場で重機を使って道路を復旧させたのは栃本さんだけだったと言われる。
一人でわずか3時間で原発内の道路をほぼ全て車が通れる状態にしたという。

電源を復旧させるための電源車も、原子炉を冷却するための消防車も、栃本さんがいなければ現場に近づくことすらできなかった。
この事実は、ほとんど知られていない。

道路の復旧を急ピッチで進めた結果、深夜には原子炉建屋近くまで車が通れるようになった。
栃本さんはその後、他の協力企業の作業員と協力し原子炉建屋周辺に散乱していたガレキの撤去にもあたった。

1週間後、燃料の冷却のため現場に入った東京消防庁のハイパーレスキュー隊の幹部は、当時の様子をこう語っている。

「原発の山側は石ころ一つないほどきれいで、車両がスムーズに入っていけた。予想外だった」

相次ぐ中断。進まぬ作業


11日の午後11時ごろ、1号機原子炉建屋内で高い放射線量が確認され、建屋内への入域が禁止された。

メルトダウンが始まり、炉内の圧力が急上昇していることが推測された。
その1時間後の12日午前0時ごろ、核防護上のゲートを壊し、高圧ケーブルを積んだトラックと電源車が原子炉建屋へと向かっていった。

現場を指揮するのは梅松さん。
2号機原子炉建屋の電源設備拠点に電源車を接続させれば、1号機の一部電源も回復し、冷却設備が復活するとみていた。

放射線量が上昇している原子炉建屋の傍で電源ケーブルを敷き詰める。
リスクの高い作業が始まろうとしていた。

ただ、作業は幾度となく中断を余儀なくされる。震度5や4クラスの余震が相次いでいた。
巨大津波の襲来を経験しているため、揺れに襲われる度に現場から退避せざるを得ない。梅松さんはそれがもどかしかった。

「実際には5,6時間あれば電源復旧はできるくらいの予定だったんですけど、余震がある度に作業を中止して引き上げてきなさいとか、みんな安全第一でやってるものですから。なかなか進まなかった。一晩徹夜でやってるんですけど大半は手を動かしていない時間の方が多かった」

基準の約3万倍…大量被ばく


数時間後の12日午前3時。
当時の枝野幸男官房長官(当時)が会見で、1号機原子炉の圧力を抜く「ベント」を指示したと公表する。

内圧を下げなければ、核燃料を収納している鋼鉄製の圧力容器ごと爆発を起こす。
そうなれば、周辺に膨大な放射性物質を撒き散らしてしまう。

しかし、原子炉建屋内ではベントに必要な「弁」を開ける作業が難航を極めていた。
東電の原発運転員たちが決死隊をつくり、弁がある場所へ突入していくが、あまりにも高い線量のため引き返さざるを得なかった。

12日の午前6時ごろ、その建屋のすぐ外では、梅松さんたちによる電源ケーブルの接続作業が本格的に始まった。
梅松さんは作業の進捗を、PHSを使って逐一対策本部に報告していた。現場は電波状況が悪く、通話可能な場所を探して動き回っていた。

無意識のうちに、1号機の排気塔に近づいてしまう。
ちょうどその時に、外部からの操作で弁が開きベントが成功した。

膨大な放射性物質を含んだ蒸気が、梅松さんの傍の排気塔を一気に通り抜けていった。

「排気塔の近くにいた時に、少し前まで線量計が反応しなかったのにいきなりピピピと急に反応しだした。まさかと思いながらも作業を続けるしかなった」

一般の人が法律で定められているのは1年間で1ミリシーベルト以下だ。
それに対し、梅松さんはわずか1日で80ミリシーベルトを超える被ばくをしてしまった。


ケーブル接続、成功したのに…


ベント成功は、12日の午後2時30分ごろの出来事とされている。
この直後、夜を徹して作業を続けてきた電源ケーブルの接続作業が完了する。

電気を流せば、電源が復旧するところまできた。
しかし、梅松さんたちはその場から離れ、対策本部へ一旦、引き上げることになる。

「発電所関係はどこでもそうだと思うんですけど必ずみんなに周知して許可をもらってから次の作業をやるので。自分の判断だけでは進められないんですよ。必ず、何々が終了しました、何々チェックをしますということを、通常であれば運転員に指示して自分の上司にも承知してもらってから次の作業に進む」

梅松さんたちが対策本部に着いた、まさにその時だった。

「ズシーンとかズドーンとかではなくて、ポンっていう響く音だった」

12日、午後3時36分。
1号機が水素爆発を起こす。

原子炉建屋に充満した水素が、何らかの原因で引火し爆発した。
大破した建屋のコンクリートなどが、ものすごいスピードで原発敷地内に飛び散った。

「空いてる車を探せ!」

梅松さんは、近くにいる作業員たちに怒鳴るように叫んだ。
頭上には放射能に汚染されたガレキや断熱材が落ちてくる。これに触れただけでも相当の被ばくをすると察知した。

近くにたまたま消防車があった。前列と後部座席の列に次々と作業員たちが我先にと乗り込んでいく。
通常なら6人程度しか乗れないスペースに、10人以上が殺到した。ドアを閉め、約10分。息を飲みながら、汚染物質が通り過ぎるのを待った。

「もう後戻りできない。あぁ、やっちゃったなぁっていうとんでもないことになったなぁと思った。それから腹は据わりました。チェルノブイリみたいなことになれば敷地の中にいても外にいても同じですからもう」

10年たっても消えぬ「後悔」


この水素爆発により、電源ケーブルは破断した。

周辺には、再びガレキが散乱してしまった。
2号機、3号機で進められていた復旧作業も振り出しに戻り、その後の危機へと連鎖していくことになる。

梅松さんたちが接続したケーブルに電気をすぐに通し、1号機の水素爆発さえ防げていれば…
その後の未来は変わっていたかもしれない。当時を振り返る梅松さんの表情からは、苦渋の色がにじむ。

「その時、指揮を出す人間が現場に一緒にいて、もしくはお前に任せるからってやれば、ケーブル繋がった!送電!って送電できるんですよ。そこでもうコントロールセンター生きてるんですよ」

「せっかくケーブルがつながって、電気がそこまであるのに、はいエンジンとめてみんなして事務所にあがってとなったのが非常に残念だなと思う。今になってみれば少し悠長なことをやっちゃったのかなという気もしますね」

梅松さんは翌日も、電源の接続作業などにあたった。
だが、被ばく量があまりにも多かった。14日からは現場で作業をすることを認められず、15日は原発の敷地外へ退避することになった。

その時、震災後初めて長男と電話がつながった。
梅松さんはこう告げたという。

「ギリギリの状態でやっていることは間違いないけれど、パニックにはなっていないから安心せい!」

梅松さんは1週間後、再び第一原発に戻ってくる。

現場での作業はできないが、放射線下の現場で作業をする人たちの食料や飲み物を準備するなど身の回りの世話ならできた。

「彼らがいなければ、事故は収束しないからね」

恐怖より「何とかしないと」


道路の復旧とガレキ撤去にあたっていた栃本さんは、1号機爆発の時は重要免震棟の中で休憩していた。

「なんか爆発したというか。これ何だべななんて思ったよね、また地震かななんて、いや違うなガタガタって地震とは違う衝撃がすごかったね」

しばらくして外へ出てみると、至る所にコンクリートや断熱材などが散乱していた。
もう一度これを片付けないと、車両が通過できない。そう思い、原子炉建屋の傍らで作業を再開する。

「放射能が出てると思うんだけど分からなくてだいたいどれくらい浴びたらどうなんだっていうかさ。APD(=線量計)を持つ自体も分からなかった。うちら管理区域外だからそういうのはもってなかったよね」

周囲では、いつまた爆発が起きるかもしれない現場へ向かうことに恐怖を感じる作業員も出始めた。
頭上からコンクリートの塊が降ってくる、さらに大量の被ばくをしてしまう現場だ。恐怖を感じないという方がおかしい。

ただ、栃本さんには別の思いが芽生え始めていた。

「怖いってよりも、なんとかしねっかなんねーなってニュアンスだべ。地元だからなおさらなんとかしねっかなんねーな、できることはやるしかねーなって気持ちになっていったんだな」

守りたい「日常」


栃本さんが生まれ育った福島県双葉郡は、原発が建設されるまでは「福島のチベット」と揶揄されていた。
それほどに、貧しい地域だった。

栃本さんの父は農閑期になると、関東などに出稼ぎに行った。
生活するため、子供に食べさせるために、多くの家庭がそうしていた。

月に1回帰ってくるか来ないかで、家族の団らんなど経験したことがなかったという。
出稼ぎで懸命に働いた父親は、ダンプカーの操作を覚えて地元で栃本重機を起業した。

その後、原発ができ、地域に仕事や雇用が生まれ、初めて家族の団らんが生まれたのだ。
生活が落ち着き、孫と遊ぶ父の姿が微笑ましかった。

「孫と親父は、落ち着いてから結構遊んでたっつーかさ。機械に抱っこして乗せたりして。遊びながらいろんなことはやってたけどね、孫は可愛くてへへへ」

父の代が礎を築き、それぞれに育んできた家族の日常がこの地で続いている。
危険を極める現場にいながら、栃本さんは地元の人間として、そのことを強く思い起こしたという。

避難するか。原発に戻るか


栃本さんは車両が通れる道をつくっていった。
どれほど汚染されたガレキか分からなかったが、重機で近づき次々と撤去した。

さらに、東電職員や作業員たちがマイクロバスで避難しようとする際のことだった。

「バスに人は乗ったはいいが、運転手誰かいないですかねって言われて、みんなシーンとしちゃって。誰かが手をあげねーとあれでねーかなって。俺が運転してやっからって。できることやってやっぺという考えだった」

避難用のバスの運転手をするということは、再び避難に使えるように、原発にバスを戻すということだ。
避難しようとする人たちはもう原発に戻らない。避難する人たちを乗せたバスを運転し、原発の敷地外の中学校に向かった。

そのまま避難をしようかと頭をよぎった。
だが栃本さんは、再び原発に戻った。

「戻りたくないという思いもあったけども原発で作業している人がまだいたからね。ここで家に帰った方がいいかななんて思いながらもまた1F(福島第一原発)に戻ったんだな」

特殊部隊と"地元企業のおじさん"の共闘


原発に戻った栃本さんは、ガレキの撤去作業の他、原子炉を冷却する水を確保する作業にも参加する。
敷地内をあちこち回って施設に溜まっている水を汲んでは、消防車に運ぶ。

この時、原子炉を直接冷却する機能は失われていた。
そのため、外部から原子炉に直接注水できるパイプに消防のホースをつなぎ、冷却を試みていた。

14日、栃本さんが作業にあたる現場に、陸上自衛隊がやってきた。
放射性物質などの化学兵器への対処能力を持つ中央特殊武器防護隊だった。

隊を率いる岩熊真司隊長ら6人は、原子炉建屋近くにあるろ過タンクから自衛隊の給水車に水を入れたあと、3号機へ向かっていった。
栃本さんたちも同じタンクから、水を散水車に入れていた。その時だった。

「ドカーンって。上を見上げると、きのこ雲みたいな感じだった」

14日午前11時1分。3号機が水素爆発を起こす。
再び頭上から無数のコンクリートの塊などが落ちてくる。自衛隊の隊員らがその真下にいた。6人中4人が重軽傷を負った。

1人は出血し、内部被ばくの恐れがあるため自衛隊ヘリで千葉県の放射線医学研究所に緊急搬送された。
栃本さんはすぐに車を走らせ現場を離脱した。

二度の水素爆発を目の当たりにした栃本さんだったが、再び散乱したガレキの撤去などにあたる。

「東電が困っていて何とかしてくれって言われれば、ダメですとか簡単には断れなかったんだね。一緒にやるしかねーのかなってはその時は思ったね。事態を好転させるとかそんなこと考えながらやってたらできないと思うわな。逆に言ったら」

14日の夜、ついに栃本さんにも退避命令が出る。

「後はお願いします」とショベルカーの鍵を東電職員に渡した。
東電や原発との関係が決して密接ではなかった一人の作業員が、死と隣り合わせの現場でギリギリまで奮闘した。

栃本さんも梅松さんと同様に、のちに再び第一原発に戻ってくる。
退避している2週間で、原発の燃料プールに注水するコンクリート圧送機の遠隔操作方法を学び、事故の収束作業の一線に立ち続けた。

奮闘の末…発災から10年


梅松さんや栃本さんが退避した後、自衛隊や警察庁、東京消防庁、東京電力の復旧部隊などが現地入り。
原発の暴走は食い止めることができた。

政府内では当初、東京にすら人が住めなくなり東日本が壊滅するほどのシナリオが想定された。
だがその危機は、各方面の尽力で何とか免れた。

定年を控えたベテラン技術者、原発とは関わりの薄い小さな地元企業の専務。
2人は今も「力不足で役に立てなかった」と当時を語る。

梅松さんは今、現役を引退し、自宅で妻と2人で過ごしている。木工制作など趣味の時間が生きがいとなった。
あの日、1日で80ミリシーベルトという大量被ばくをしたが、70歳となった今でも健康そのもの。

「この程度の被ばくでは何もないですよ」と梅松さんは笑顔で話してくれた。
被ばく量の増加に伴いガンが増えるのは、同100ミリシーベルト以上とされている。

栃本さんは、栃本重機の社長となった。
今もなお、被災地の復興・復旧工事を支えている。


※東日本大震災の発災10年に合わせ、LINE NEWS提携媒体各社による特別企画を掲載しています。今回は福島中央テレビによる特別企画記事です。

外部リンク

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小野町7人死亡住宅火災から1年

2019年11月21日 12:00 福島中央テレビ

福島県小野町で住宅が全焼し7人が死亡した火災から21日で1年。現場は住宅の基礎や燃え尽きた木材だけが残されていて、火災から1年が経とうとしているがいまだに痛ましい記憶が消えることはない。
火災は去年の11月21日午後11時ごろ、塩田恒美さん(当時61歳)の住宅で起きた。住宅や倉庫が全焼し4世代9人家族のうち、子どもを含む7人の尊い命が奪われた。現場には献花台が設けられ花をたむける人の姿もあった。
*献花した人
「子ども4人いたが本当にそれが悔やまれる。」
これまでに火が出た住宅には住宅用の火災警報器が設置されていなかったこともわかっている。この教訓をどう生かすか対応が求められている。

cat_18_issue_oa-fct oa-fct_0_dc6fbc85b090_長床の大イチョウのライトアップ幻想的 dc6fbc85b090 dc6fbc85b090 長床の大イチョウのライトアップ幻想的 oa-fct 0

長床の大イチョウのライトアップ幻想的

2019年11月19日 10:52 福島中央テレビ

喜多方市慶徳町にある新宮熊野神社で「長床の大イチョウ」のライトアップが始まった。
境内にある国の重要文化財「長床」の脇にそびえる「大イチョウ」は高さ40メートル、樹齢はおよそ800年と言わている。その「大イチョウ」の葉が今月10日ごろから色付き始め、ライトアップも始まった。訪れた人は「落ち葉が絨毯のようになるのがものすごく綺麗で感動しました。」と話し、境内に広がる幻想的な空間をカメラに収めていた。
「長床の大イチョウ」のライトアップは11月22日まで行われている。

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災害廃棄物の悪臭や虫発生が問題…ようやく撤去作業始まる

2019年11月18日 18:00 福島中央テレビ

災害廃棄物の撤去作業が始まったのはいわき市の住宅街。台風19号後に多くの災害廃棄物が集めらていた臨時集積所では、臭いや虫の発生が問題になっていた。
いわき市中平窪にある災害廃棄物の臨時集積所では自衛隊などによる撤去作業が始まった。台風19号による災害廃棄物の仮置き場として、いわき市は17か所の臨時集積所を設置している。
■記者リポート
「住宅からすぐ近くのところに災害廃棄物の仮置き場があります。私の身長をはるかに超えるところまで積み上げられているだけでなく、道路のほうまではみ出してしまっています。」
集積所となった公園には遊具が見えないほどの高さまで災害廃棄物が積み上がっていた。
■住民
「異様な匂いだね。カラスがやってきてね、朝のうち、カラスがすごいんだよ。」
「寒くても虫が湧いてくるんだよね、家の中にも細かい虫が入ってくるんだよ。」
災害廃棄物の中には生ごみも混ざっていて、臭いの問題だけでなくホコリも上がって洗濯物が外に干せないほどだという。
■住民
「何もかも分別もされていない状態で、車からポンポンポンポン投げていくだけで、ちょっとひどいこの置き方はね。日に日に山積みされていく。」
当初は近くの住民で分別を呼び掛けていたものの、次第に分別されずに置かれることが問題になっていた。
■作業する自衛隊員
「危険物が多いかもしれない。撤去作業には結構日数はかかるかもしれない。」
この日は17か所ある臨時集積所で作業が始まり、1か月以内を目途にいわき市四倉にある仮置き場に運ぶ計画。自衛隊も団長は「なるべく早くこの撤去作業を終わらせて、ここに住んでいる方々の希望になればと思う。」と話した。
周辺に住む人を悩ませる災害廃棄物の問題の解決にはもう少し時間がかかりそうだ。

cat_18_issue_oa-fct oa-fct_0_8d386df73820_全国制覇目指す尚志 初戦の相手が決まる 8d386df73820 8d386df73820 全国制覇目指す尚志 初戦の相手が決まる oa-fct 0

全国制覇目指す尚志 初戦の相手が決まる

2019年11月18日 18:00 福島中央テレビ

高校サッカー選手権の県大会決勝で6年連続11回目の優勝を飾った尚志高校が、18日、都内で行われた組み合わせ抽選会に臨んだ。
組み合わせ抽選会は日本テレビで行われ、前回大会でベスト4の尚志は第3シードとして抽選をせず、トーナメントの一角に名を連ねた。
尚志の相手となる札を引いたのは徳島県代表の徳島市立高校で、2年連続17回目出場の実力校に決まった。
徳島市立は堅い守備が持ち味で、徳島県大会の決勝では1点を固いディフェンスで守りきった。
■徳島市立・阿部夏己キャプテン
「尚志は前線に強力な選手がいて、それを自分たちがいかに止められるか。全員でしっかり集中して戦っていきたい。」
■尚志・山内大空キャプテン
「去年の悔しさを胸に1年間練習してきて、自分たちの最終目標は全国制覇なので、一戦一戦全力で戦っていきたいと思う。」
全国大会は12月30日に開幕、2回戦から登場する尚志の初戦は来年1月2日・午後2時10分に駒沢陸上競技場で行われる。

外部リンク

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川俣町で親子の遺体発見…無理心中か

2019年11月18日 18:00 福島中央テレビ

福島県川俣町の民家で18日、親子2人の遺体が見つかった。現場には死亡した60代の息子が書いたとみられる遺書もあった。
遺体が見つかったのは18日午前7時前、川俣町の斎藤幸男さん68歳が自宅倉庫で首を吊って亡くなっていた。寝室では幸男さんの母・マスヨさん92歳が頭から血を流した状態で亡くなっていて、幸男さんの妻が警察に通報した。
自宅には幸男さんが書いたとみられるマスヨさんの殺害をほのめかす遺書があったという。警察は無理心中を図ったとみて調べている。

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サンマの初水揚げ 海水温上昇で例年より2か月遅れ

2019年11月18日 12:00 福島中央テレビ

福島県いわき市で18日、今シーズン初めてサンマが水揚げされた。
小名浜漁港には18日朝早くにサンマ船「第11権栄丸」などが帰港し、常磐沖などで捕れたサンマおよそ26トンを水揚げした。今年は海水温の上昇により漁場が南下するのが遅かったことなどから例年より1か月半から2か月ほど遅い。
■第11権栄丸・髙萩廉平船長
「小名浜で水揚げできたのはうれしいが、例年ならもっと早く持って来れた。地元の人にサンマを食べてもらいたいので、これからも頑張りたい。」
水揚げされたサンマは1キロ361円から415円で取引され鮮魚店などで販売される。

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会津の観光地で雪国ならではの冬支度 「雪つり」

2019年11月18日 12:00 福島中央テレビ

会津若松市の観光庭園「御薬園」で毎年恒例の「雪つり」の作業が18日から始まった。
「御薬園」では毎年、降り積もる雪の重みで松などの木の枝が折れるのを防ぐために、雪国ならではの作業「雪つり」が行われている。今年は例年に比べ、一週間ほど紅葉が遅れたため、紅葉で木々が色づくなかで作業が進められている。
「雪つり」の作業は今月いっぱいまで続く。

cat_18_issue_oa-fct oa-fct_0_0de850691caa_台風被害で76億円補正予算 0de850691caa 0de850691caa 台風被害で76億円補正予算 oa-fct 0

台風被害で76億円補正予算

2019年11月18日 12:00 福島中央テレビ

福島県は台風19号による災害対応のために76億円にのぼる補正予算を計上した。
今回の補正予算は国の対策パッケージを活用したもので、総額は76億8,700万円。内訳は、中小企業を支援するいわゆるグループ補助金として67億9,000万円あまり。また、農業の復旧を支援する予算として4億6,000万円あまりが盛り込まれてた。
さらに、災害で落ち込んだ観光客数の回復のため、旅館やホテルの宿泊費を補助する予算として3億5,000万円あまりが計上された。
台風19号による補正予算の計上は今回で2度目。