毎週金曜日にオススメ映画3本をレビュー。
①映画ファンが待望した7月最大の注目作「ゴジラvsコング」(映画館で公開中)
②コリン・ファースとスタンリー・トゥッチがカップル役に扮した「スーパーノヴァ」(映画館で公開中)
③「舟を編む」の石井裕也監督による最新作で、池松壮亮、オダギリジョーらが共演した「アジアの天使」(映画館で公開中)
劇場へ足を運ぶ際は、体調管理・感染予防を万全にしたうえでご鑑賞ください!
「ゴジラvsコング」(映画館で公開中)
◇満腹!“映画史上最も激しい怪獣バトル”に偽りなし!!(文:映画ライター 尾崎一男)
レジェンダリーによるゴジラ3作目は、2017年公開の「キングコング:髑髏島の巨神」と融合を成し、コングとの怪獣王を争うドリームマッチを実現させた。
本家・東宝のシリーズでも「キングコング対ゴジラ」(62)というタイトルで顔合わせをしているが、リメイクとまでは行かずとも、人間が私利私欲で怪獣を手札にし、モンスター狂騒曲を鳴り響かせる作劇を受け継いでいる。
生態系の破壊者キングギドラを倒したゴジラは、タイタン(怪獣たちの呼称)の勝ち残りとして秘密機関モナークの監視下にあった。だがある日、再び人類の前に姿をあらわし、人工頭脳開発企業エイペックスの施設を襲撃する。理由は人類が生態系を乱そうとするのを察したからだ。
いっぽう同じモナークに見張られていた髑髏島のコングも、新たな動きを見せる。タイタンの驚異的存在の源に迫ろうとするエイペックスと科学者チームが、彼を島の外に出し、生誕の地へ案内させようとするのだ。
かくして始まるコング輸送作戦。映画はこうした流れを、過去2作にはないハイテンポな編集でさばいていく。そして移動中の洋上で遂に両巨獣は接触し、映画史上最も激しいモンスターバトルへと一気になだれ込む。光線や飛行能力を駆使するギドラやラドン、モスラと違い、コングはステゴロ(素手喧嘩)のファイターだ。
「眼前に立つ奴はひとまず殴る」のジャイアン主義で、ゴジラの顔面やボディに容赦ないパンチをあびせる。ゴジラも尾をしならせ倍返しで応酬。これがオレ様の流儀だ、返礼だと言わんばかりに!!
カメラも激闘を逃すまいと対象にグイグイ迫り、衝撃を食らって構図が乱れるといった、新鮮な映像スタイルを展開していく。そして彼らを脅かす第三者の介入など物語は波乱を起こすのだが、戦いの派手さに応じて都市破壊も大規模化。クライマックスの約30分間にわたる戦いづくめの展開は、必ずや怪獣映画ジャンキーたちを昇天へといざなうだろう。
個人的にはゴジラの特徴的な背びれを活かした、前半部での「ジョーズ」(75)を思わす海戦演出に唸った。事実、今回はゴジラの背びれが重要なキーとなるので、その布石としてパワフルな印象を残すのだ。本作でレジェンダリーのゴジラはひとつの節目を迎えるが、いや待て、まだ登場してないヤツのライバルがたくさんいる。やっとモーターのコイルがあったまってきたところだぜ!((c)金田/「AKIRA」より)
「スーパーノヴァ」(映画館で公開中)
◇2人の人気俳優が繊細な表情一つ一つでストーリーの行間を埋め尽くして行く(文:映画ライター 清藤秀人)
キャンピングカーの運転席と助手席に隣り合わせて座る男たちが、イギリス北部のハイランドを徐々に北上している。車のギアを使うか使わないか? カーナビに頼るか頼らないか? 些細なことでいちいち意見が異なる2人だが、そんな諍いが日常茶飯事だということ、そして、彼らは付き合いが長く、何よりも互いに深く愛し合っていることが、冒頭の数分間で説明される。
やがて訪れたドライブイン・レストランで、片方がどうやら重い病に冒されていることも分かる。それが脳と記憶を蝕んでかなり深刻な状態にあることも。
脚本はやや凡庸かも知れない。しかし、演技がそれを肉付けして行く。2人の人気俳優が繊細な表情一つ一つで行間を埋め尽くして行くのだ。自分の死が近いことを知っても、悲しみを押し隠そうとする作家のタスカーを、スタンリー・トゥッチ。どんなに相手を労り、愛しんでも、残される身の恐怖から逃れられないピアニストのサムを、コリン・ファース。
映画の命とも言えるこのキャスティングに不自然さはない。かつてファースは「マンマ・ミーア!」(08)や「シングルマン」(09)で、トゥッチは「プラダを着た悪魔」(06)や「バーレスク」(10)で、各々ゲイのキャラクターを演じたからだけではない。
病魔に蝕まれたその上半身にまだ少し筋肉の名残があるタスカーと、自身もマッチョで端正なルックスをキープしているトゥッチとは、似たような美意識を共有しているように思える。一方、タスカーに翻弄され、怒りと赦しの間で激しく揺れ動くサムの優しさとあどけなさは、やはりファースの個性ありきの役どころだろう。
そうして、キャンピングカーはサムの実家を経由して、ハイランドのさらに上へとハンドルを切って行く。果たして、2人の思い出を辿る旅は、そして、別れを覚悟した旅は、旅路の果てに観客の記憶に何を刻みつけるのか?
そこに、答えがある。死は誰にでも平等に、着実に、容赦なく訪れ、人々の前から愛する者たちを奪っていく。それは決して抗えないこの世の掟である。しかし、掛け替えのない時間を共に過ごし、死の間際まで側に寄り添い、肌の温もりを感じ合える相手と巡り会う幸運は、限りある時間を生きる我々人間に与えられた最大のアドバンテージ。
それを手に入れずして、いったい何の意味があるというのか? キャンピングカーのキッチンに立つサムを、ソファーに体を横たえ、愛おしそうに眺めるタスカーが見せる、ほんの一瞬の笑顔は、そう訴えかけて来るようだ。
依然続くパンデミックの最中で、人との出会いや触れ合いを欲している人々の心に、その笑顔はどのように映るだろうか?
「アジアの天使」(映画館で公開中)
◇石井裕也監督が奏でた“むきだし”3部作に見る、彷徨う愛の発着点(文:映画.com副編集長 大塚史貴)
気鋭の映画作家・石井裕也の2020年代は、“むきだし”からの船出となった。
「茜色に焼かれる」でいち早くコロナ禍の日本を描いたわけだが、「アジアの天使」はコロナの脅威が忍び寄る20年2~3月、オール韓国ロケで撮影。キャストとスタッフの95%が韓国人という、日常と異なる環境でクルーを束ねながら製作を進めるうえで、そして誰もが目に見えぬ恐怖と戦ううえで、何もかもを“むきだし”にする必要にかられ、問答無用で愛情について思いを巡らせることは必然ともいえるが、不思議と観る者の心に寄り添う作品となった。
石井監督が手がけてきた作品群を紐解いていけば、いつだって映画を撮るということに関して誠実に取り組んできたことが見て取れる。だが時に、悩ましいテーマを難なく撮り上げてしまう手腕から、酸いも甘いも知り尽くした老獪さを感じてしまうことがあった。実際は試行錯誤を繰り返しているのだろうが、ベテランが撮ったかのような作風を見せつけられるたび、底知れぬ洞察力に唖然とさせられながら、その脳内に思いを巡らせたものである。
冒頭で記述した石井監督の20年代は、「生きちゃった」(仲野太賀主演)から始まる。幼なじみだった男女3人それぞれの不器用な生きざまを抉るように描いたものだが、まさに“むきだし”の感情の発露を目撃することができる。
そして、21年になって公開となる「茜色に焼かれる」と「アジアの天使」を眼前に突き付けられるのだが、“むきだし”の向かうべき対象が「母親」と「愛情」であることに、石井裕也という映像作家を知ったつもりでいた人々は大きく心を揺さぶられることになる。
撮影の順でいえば、「アジアの天使」が先行。記憶が正しければ、オリジナル作品と括られるものの中で石井監督が「愛情」を真正面から描いたのは、今回が初めてのはずだ。ましてや、石井監督が7歳のときに36歳という若さで他界してしまった母親と、映画を通じて交わしたとしか思えない極めて私的な往復書簡を銀幕で観られるだなんて、同時代を生きる映画ファンにとって僥倖以外の何ものでもない。
今作は、それぞれ心に傷を持つ日本と韓国の家族がソウルで出会い、新しい家族の形を模索するさまに迫るロードムービー。石井監督が初めて海外で撮影した作品だからこそ、“むきだし”の感情が今作の鍵となる「母親の不在」を、奇をてらうことなく描くことに躊躇する間を与えなかったのだろう。
それが次の「茜色に焼かれる」へと繋がり、これまで制御していたものを尾野真千子という代弁者に託すことで映像として残すことに成功したのである。社会性、時代性を常に意識しながら、シニカルな眼差しを忘れなかった石井裕也という映画作家の体内に本当の意味で温かい血が通ったことで、そして、これまで彷徨っていた愛情の発着点を見出したことで、次はどのようなことを仕掛けてくるのか楽しみが増したのは言うまでもない。