2019年10月17日は名古屋大の左腕・松田亘哲(ひろあき)投手が一生忘れられない日となった。プロ野球ドラフト会議に備えて豊田講堂に設けられた会見場。2014年に天野浩さんがノーベル物理学賞受賞の喜びを語ったのと同じ場所は、午後7時を過ぎてからのアナウンスで歓声に包まれた。
「中日 松田亘哲 投手 名古屋大学」
地元のドラゴンズが育成1位で松田を指名したのだ。まばゆいフラッシュがたかれる中、ひな壇に黒縁メガネ、スーツ姿で座った松田が満面の笑みを浮かべる。1939年、名古屋帝国大学がこの地に創立されてちょうど80年。東大、京大に次いで「旧帝大」からのプロ入りを果たした左腕は心にわき上がる喜びをこう表現した。
硬式野球は大学から
「非常にうれしくて頭が真っ白です。実感が湧いていないですが、伝統ある名古屋大学初のプロ野球選手ということは大変光栄です。中日はこれまで応援させていただいたチームです」
それから1週間後。松田は名古屋大のグラウンドにいた。ドラフト前の喧噪(けんそう)から解放され、〝あの日〟を振り返る。「正直、ホッとしました」。一方、こんな思いも芽生えてきた。「これから未知の世界。ドラフトから日がたつにつれて、競争を勝ち抜かないといけないんだと思うようになりました」。冷静に事実を見つめる。
ドラフトの前から注目を浴びていた。理由は旧帝大の学歴だけではない。球歴が異色だったからだ。愛知・江南高時代はバレーボール部。春夏の甲子園大会とは全くの無縁だった。硬式野球の世界に飛び込んだのは、名古屋大に入学した後。一度は野球に別れを告げた男が大学での3年半でプロまで駆け上がった。
中学までは軟式野球を続けていた。しかし、土曜と日曜にプレーするだけ。ポジションは投手だったが、3番手の存在で外野に回ることも多かった。限界を感じていた松田は「中学卒業で終わりにしようと思っていました」。高校進学を機にすっぱり諦めた松田は友人に誘われてバレーボール部へ入る。ポジションは守備専門のリベロ。目指したのは夏のインターハイや秋の国体だった。
甲子園に魅せられて
しかし、もともとは野球ファン。受験勉強をしていた高校3年の夏、甲子園大会の中継を見ていた松田は一人の左腕の姿に目を奪われた。2015年大会で優勝した東海大相模(神奈川)のエースで、今は中日でプレーする小笠原慎之介。同学年の左腕が甲子園で力投するのを見て、投手への思いが再び芽生えた。
「バレーのポジションはリベロだったので、試合では球を拾うだけでした。でも、野球の投手は試合を自分で左右することができる。バッターと相対して自分の力をみせられるし、自分の力で抑えられる。小笠原が投げている姿を見て面白さや魅力を再び感じました」
もう一度野球をやってみよう。やるからには本気で神宮を目指してみよう。こう決意した。しかし、高校で硬球を触っていない。強豪大学のセレクションには参加できない。それでも、第一志望の名古屋大に硬式野球部があった。しかも、愛知大学リーグ1部を5度優勝した古豪。夢がかなうかもしれない。「名大で野球をする」と思うようになった松田は経済学部に現役で合格した後、硬式野球部の門をたたいた。
決まった背番号は空き番号だった「13」。くしくも、愛知大学リーグの愛知大出身で同じ左腕の岩瀬仁紀(元中日)がプロでつけたのと同じ数字だった。その時はすでに名球会のメンバーだった岩瀬と違い、松田は初心者。直球の球速は120キロほどしかなかった。しかし、服部匠監督は特徴に気付いた。キャッチボールで投げる球に強いスピンがかかっていたのだ。「硬式の経験がないにもかかわらず、回転のいい球を投げていましたね」。さらに、練習での姿勢に注目した。
「野球に飢えているというか、とにかく一生懸命でした。その姿勢があるから、技術もついてきたんです」。一度離れていたからこそ、プレーの喜びをより感じられる。そして、素直に練習に取り組める。「練習して試合に投げてというサイクルが楽しいんですよ」という松田の凝り性といえる性格が上達に幸いした。
卒論はナチスドイツ
やりたいことはとことんやるタイプ。今は自らを「野球おたくですね」と評する。野球の技術書をむさぼり読んだ。そして、自らの合うと思った理論を学び、理にかなった投球フォームを模索する。西洋経済史のゼミで戦前のヨーロッパ経済史を学び、集大成といえる卒論のテーマに「1930年代前半のナチスドイツの経済政策」を選んだ学業よりも野球の勉強を優先するようになった。
動画サイトで米メジャーで活躍する左腕の映像もくまなくチェックする毎日。「自分は上から球をたたくタイプのフォームなので、同じタイプの投手は大体見ました。暇さえあれば見ていましたね」。特に参考にしたのはドジャースのカーショー、レイズのブレークスネル。一流の投手の特徴をつかんで練習で試す。仲間に動画を撮影してもらい、練習後にチェックする。「もっとうまくなりたい」と思って練習に取り組む日々は何事にも代えがたい時間だった。
そんな中で、いつしかこんな思いが芽生えるようになった。「高いレベルで野球をしたい」。ビジネスマンとして野球の世界に飛び込むことではない。あくまで目指すのは一人のプレーヤーとして野球に取り組むことだった。「結構早い段階から考えていました」。夢をかなえるためまずは体力強化に着手。食事の量を増やすことで、一回りも二回りも体を大きくすることにした。
5度の食事に四股踏み
「技術はともかく、体だけは努力次第でプロ野球など上のレベルでプレーできるものにすることができると思いました」
炭水化物を摂取するために米やパンをほうばったかと思うと、タンパク質を多く含む肉類も食べ続けた。卵を口にし、プロテインも飲み続けた。1日の食事の回数として自らに課したのは5度。しかし、松田は食が細い体質。一度に多くのものを食べることが苦手だった。口にしたものが胃から食道にとどまり、苦しむこともしばしば。水で流し込むこともあった。
そして、トレーニングも本格的に取り組んだ。重視したのは自らの体重を最大限に利用したトレーニング。ウエートトレ以上に入念に行ったのは四股踏みだった。大学入学後に出会ったトレーナーに勧められ、ランニングに加えて、足を上げては降ろす単純なトレーニングに毎日取り組んだ。さらに、バーベルのボードを持ってのすり足も。力士のようにも見える地味なトレーニングは回数をこなせなかった。しかし、できるようになるにつれて、腰回りの筋肉が太くなり、体重も80キロ近くまで増えていった。
両親の反応は意外にも
そんな松田を見た両親は進路について何も言わなかったという。高校進学を機に野球を辞める時も、名古屋大で硬式野球を始めるときも後押しをしてくれた。「プロ野球に進みたい」と相談した時も同じだった。「あなたの人生だから」「好きなようにやればいい」。反対しなかった。「うちの教育方針はどこか放任主義なのかも…」と苦笑いする松田も「両親はいつも自由にやらせてくれました。強い体を作れたのも両親のおかげ。感謝しています」と語る。
勝負を賭ける4年生のシーズン。大学野球は春のリーグ戦と就職活動の時期が重なる。旧帝大の名古屋大の学生とはいっても、一人の社会人となるためには企業回りは必要だ。野球部の仲間や経済学部のゼミ仲間はリクルートスーツに身を包んで就職活動をするようになった。しかし、松田だけは違っていた。企業周りは一切しなかった。
「野球で就職する!」
松田にとってのリクルートスーツは野球のユニホーム。周囲が忙しく就職活動に励むのを横目に練習を続けた。進む道はプロ一本。企業からの内定をもらうことはなかった。「上で野球をしたいという気持ちの方が強かったんで」と振り返る松田だが、グラウンドを離れれば一人の大学生。野球部の仲間、経済学部の友だちが内定を勝ち取り始めたころにはどこか心がそわそわしたという。
本当にこれでいいのか…
銀行や商社といった一流企業に就職すれば高額の給与を将来手にすることができる。一方、プロ野球は実力がないと判断されたら容赦なく戦力外通告を受ける。しかも、下位指名ならば年俸も安い。心の中での葛藤もあった。「果たして、これでいいのだろうか…」。しかし、プロ入りをしたいという決意が左腕の心の中の不安を打ち消し、再び練習に駆り立てた。
「実力はない。でも、指名される可能性はゼロではない。とにかく信じて練習していこう」
鍛錬はウソをつかなかった。春のリーグ戦が始まる前の最高球速は146キロだったが、6月に社会人チームの練習に参加した時に2キロアップの148キロをマーク。カーブやチェンジアップ、スライダーに加えて、打者の手元で鋭く曲がるカットボールもキレを増した。さらに、腹をくくったことでプレッシャーを楽しめるようになった。ネット裏にスカウトがいても動揺しなくなった。
覚悟の「ケセラセラ」
「ステップアップしたという感じでした。何よりも試合で心がぶれなくなりましたね」。プロ入りの話が現実味を帯びてくるにつれて、周囲は注目するようになった。しかし、松田はその状況すら「プロ入りしたらさらに注目されるわけになるから」とメンタルトレーニングと位置付けた。
そんな中、「ケセラセラ」という思いもわいてきた。スペイン語由来の「なるようになる」という言葉だ。「ドラフトの指名は自分の手ではどうにもならない。次のステージを見据えて練習するしかない」。覚悟を決めた松田にはぴったり。球団、指名順位は全く気にしなかった。とにかく、プロ野球選手になりたかった。
「どこかの球団の最後列でもよかった。自分の力は客観的に見て、それくらいの実力ですから。でも、プロという土俵で自分が納得するまで野球をしたかったんです」
悲願2部リーグ昇格
この強い思いはかなった。さらに、松田はプロ入りと並ぶ秋の目標も達成した。後輩を愛知大学リーグ2部へ引き上げること。まずは愛知淑徳大との3部優勝決定戦に勝利。延長10回タイブレークにもつれた接戦を完投した。さらに、名古屋経大との2、3部入れ替え戦でも1回戦と3回戦で登板し、2試合ともに完投。2部復帰の原動力となり「大学野球をいい形で終えて、ドラゴンズへ行く」という願いを自らの左腕でかなえた。
10月24日の愛知大学リーグ閉会式。特別賞と3部最優秀選手賞に選ばれた松田はそれまで面識もなかった1部の4年生から写真や握手を求められた。同学年の選手の「ドラゴンズで頑張れよ!」「絶対、球場へ応援に行くぜ」という激励はうれしかった。中日は故郷の球団。周囲は大きく期待する。あまり目立ちたがらないタイプという松田は戸惑いを隠せない。将来への不安も感じる。
「これからプロでやっていけるか、結果を出すことができるかという不安もあります」。松田はポツリとつぶやいた。これからは名古屋大卒業という学歴は一切、通用しない。実力がないと判断されれば、容赦なく戦力外通告を受ける。「いろいろな感情がありますね」と率直な心境を語る。
でも、プロは自らが選んだ道。後悔はしていない。未知の世界への楽しみ、支配下選手登録を目指すという目標もある。そして、自らの手で新しい道を切り開いてきた自信が松田の心を支えている。「高校でバレー部だった僕は自分を信じてここまでやることができました」。そして、周囲に対する感謝も忘れない。
「決して、自分だけの力でプロにいけたのではないと思っています」
だからこそ、「縁」という言葉が心に思い浮かぶ。
「僕は野球との縁、人の縁、環境の縁とかにすごく恵まれていたんだと思います。両親、服部(監督)さん、野球部の仲間、名古屋大、ドラゴンズさん。そして、ドラフトのタイミング。全てに感謝しなければいけない。ふるさとである愛知県の球団でこれから野球ができるんですから」
そして、感謝の念を抱く対象は別れを告げたあの球技にも…。「僕は高校でバレーボール部だったということで注目された面は否めませんからね。いつか、またやってみたいです。もちろん、野球をやめてからですけど」。こう語った松田は黒縁メガネの奥で人懐っこい笑みを浮かべていた。
(中日スポーツ・川越亮太)
※この記事は中日スポーツによるLINE NEWS向け特別企画です。