「まったく耳の聞こえない先天性の聴覚障害者が原告になって提訴した労働事件というのは初めてではないでしょうか」
日本労働弁護団の幹事長を務めたこともある棗一郎弁護士をしても、その事件はまったくの手探りだった。
原告はオリックスに30年近く勤める聾唖(ろうあ)者の和田明子さん(48)。2017年3月、職場での嫌がらせなどを訴え、東京地裁に提訴した。
「これまで泣き寝入りをしたり、やめていったりした多くの聴覚障害者を知っている。絶対にやらないといけないと思って、勇気を出して提訴しました」(和田さん)
今年2月、無事和解が成立。3月に記者発表した。会見の中では、先天性の聴覚障害者が裁判をするうえでの課題も語られた。
●筆談なら「コミュニケーションできる」は本当?
棗弁護士は語る。
「筆談なら大丈夫と思うかもしれませんが、日本語ができるからといって、文章でコミュニケーションできるかというと容易ではない。日本語と手話はまったく違う言語という前提がないとうまくいかないと思いました」
そんな和田さんをサポートしたのが、自身も生まれつき耳が聞こえない田門浩弁護士だ。聴覚障害のある弁護士は、日本でもまだ少ない。
「耳が聞こえない人の中には、新聞の内容もなかなか把握できない人もいる。裁判は文書で戦いますが、きちんと内容を把握できないことが多い。それを私たちが手話で説明し、理解してもらうこともあります」
手話には「てにをは」(助詞)がなく、指の向きなどで主語や目的語を表現する。また同じ意味でも、手を動かすスピードやちょっとした形の違いで微妙なニュアンスを伝えるという。語彙の違いもあり、先天性の聴覚障害者は、健聴者にとっての「外国語」で育ってきたと言えるのかもしれない。
実際、和田さんが裁判に際して提出した陳述書には、次のような記述があった。
「書かれた文章については、健聴者に比べると読み取りが難しく、長い文章、複雑な文章、主語がない文章などは正確に理解することができません」「考え事をするとき、頭の中で手話をして考えています。健聴者であれば、音や文字などの言語によって考えるのでしょうが、私は、手話、つまり手の形や動きのイメージで考えています。たとえていうなら、(略)チャップリンの無声映画を見ている状態で考えているのです」