主将に抜てきされた昨季、横浜DeNAの佐野恵太(26)は周囲の予想をはるかに上回る活躍で首位打者に輝いた。2016年のドラフト会議でベイスターズから9位指名され、セ・リーグで最も遅く名前を呼ばれた強打者は、どんな道のりを歩んできたのか。野球人生の原点を訪ねた。
官公庁の集まる岡山市心部から車を約40分走らせると、山に囲まれたのどかな風景が広がる。
昔ながらの瓦屋根の平屋が並び、縄文遺跡の彦崎貝塚跡を示す石碑も残る。そこからほど近くにある同市南区の彦崎小では、新年早々から抜けるような青空の下、真っ白なユニホームの子どもたちが白球を追っていた。
「誇らしいし、宝物のような存在」。地元の彦崎野球スポーツ少年団で監督を長らく務め、現在は団長として見守る板倉正亘さんは、リーディングヒッターにまで上り詰めた佐野の活躍に目尻を下げる。
プロ入り後は毎年のように、段ボール箱いっぱいの野球道具やTシャツを直接届けてくれるという。「プロ野球選手にサインを求めるんじゃなくて、サインをする側になってくれ、と卒団する時にお願いしたんだよ。本当にそうなるとはね」。記憶は今も鮮明だ。
06年春、旧灘崎町が岡山市と合併して初めての大会。小学6年のエース佐野はチェンジアップを武器に決勝まで進み、最後も6─5で競り勝った。板倉さんは「こんな田舎の小学校のチームが、いきなり優勝して盛り上がったんだよ」と懐かしそうに振り返る。
「練習は誰にも負けないくらいやっていたね」。放課後や週末はグラウンドでバットを振り続けた。右翼後方にある体育館2階の窓ガラスを割る大飛球を放ったことは、関係者の間で語り草になっている。
現在の左打ちに変えたのは
小学4年から本格的に指導した祖父正毅さんも「野球が好きで、練習が終わって『帰ってもいいよ』と言われても、泣きながら『僕は野球がやりたい』と言っているような子だった」ことを覚えている。街中を走ったり、バッティングセンターに通ったり。就寝前は2歳下の弟悠太と一緒に反省会をするのが日課だった。
現在の左打ちに変えたのは小学2年時。祖父のアドバイスで、イチローや松井秀喜らを参考にしたという。ただ、飛び抜けた能力があるとは思っていなかった。
「足が遅いから、少しでも一塁に近い方がいいと思って」と正毅さん。板倉さんも「才能はいつ開くか分からん。本人の野球選手になるという執着心、家族やきょうだい、全てがそろって努力することをいとわなかった」と強調する。
2人の師を驚かせたのは卒業後の進路だった。同級生4人は同じチームに入ったが、佐野だけは厳しい練習で知られる「倉敷ビガーズ」を選んだ。
「友達が行くところには行かん。一人で頑張れるところにする。みんなと行ったら、なあなあになる」。板倉さんが聞いたその真っすぐな言葉こそが、プロという夢へ猛進した左打者のルーツだった。
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