君は知っているだろうか。
日本には人が住めない「村」があることを。
福島県浪江町にある「旧津島村」(現・津島地区)。かつて日本テレビ系列のテレビ番組で、アイドルグループ「TOKIO」が農業体験のために住み込んだ「DASH村」と言われれば、聞いたことがあるかもしれない。
番組ではファンに特定されないよう、場所は秘密にされていたが、ロケ地は旧津島村にあった。人口約1400人が暮らす、山間の小さな村だった。
そんな牧歌的な農村を2011年3月、東京電力福島第一原発の事故が襲った。
「村」は原発から北西に20~30キロ離れていたが、大気中へと放出された大量の放射性物質は風に乗って北西方向へと運ばれ、やがて雨や雪と共に野山へと降り注いだ。
住民は避難を余儀なくされ、今も1人も戻れないでいる。そこは放射線量の極めて高い「帰れない村」になった。
2021年はあの震災からちょうど10年の節目を迎える。
彼らは今、どんな気持ちでいるだろう? この10年をどんなふうに過ごしてきたのだろう?
福島に赴任した3年前から、僕は「帰れない村」に通い続けた。ペンとカメラと線量計を持って。
(取材・執筆=朝日新聞記者・三浦英之、映像協力=野田雅也、構成=朝日新聞withnews編集部)
末期がんの21歳。願いを阻んだのは…
旧津島村へ入る道は、すべてバリケードで封鎖されている。
事前に役所に申請を出して、指定の時間にバリケードを開けてもらう。かつてそこで暮らしていた住民でさえも、役所の許可なしには「自宅」に帰ることができない。
「村」に一歩踏み込むと、朽ち果てそうな家々が背丈を超える枯れ草に覆われている。民家の軒先からは突然巨大なイノシシが飛び出してくる。まるで宮崎駿監督が映画で描いた「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」のような光景が広がっている。
野田雅也撮影
「今でも2011年の夢を見ます」
佐々木やす子さん(66)は坂道の途中で僕に言った。今も毎月、避難先から山の中腹にあるお墓の掃除に通い続けている。
2011年の元旦は津島の自宅で一家だんらんを楽しんだ。息子2人は習志野駐屯地で働く自衛隊員。1月2日の夜、やす子さんが車で習志野まで送っていった。
ところが翌3日朝、次男が千葉県内の病院に搬送されてしまう。悪性のガンとの診断だった。手術を受けたが、全身に転移し、医師からは「厳しい」と宣告された。
やす子さんは病院に泊まり込みで次男の看病を続けた。すると2月18日、今度は津島の自宅で、肝硬変を患っていた58歳の夫が吐血して亡くなってしまう。
やす子さんは次男がショックで体調を崩さぬよう、夫の死を伏せて津島の自宅に帰宅した。葬儀や納骨を済ませて病院に戻ると、「何があったの? 顔を見ればわかるよ」と次男から何度も説明を求められた。
「お父さんが死んだの」
そう伝えると、次男は頭から布団をかぶり、声を押し殺して泣いた。やす子さんは布団の上から次男を抱きしめることしかできなかった。
同じ墓に納骨も「放射線量が高いので…」
「津島に帰りたい。お父さんの墓参りに行きたい」
次男はしきりに思い出の詰まった自宅に帰りたがった。少しでも故郷に近い場所へと、津島から約40キロ離れた郡山市の病院に転院したのが3月8日。その3日後に原発事故が起きた。
津島には大量の放射性物質が降り注ぎ、間もなく立ち入りができなくなった。
「津島に帰りたい。お墓の前でお父さんと話がしたい」
次男はそう懇願しながら8月11日、21歳で亡くなった。やす子さんは次男の願いをかなえようと夫と同じ墓に納骨したが、立ち会いを頼んだ住職からは「放射線量が高いので、行けません」と断られた。
やす子さんはこの10年間、次男の写真をいつも大切に持ち歩いている。
お墓を見つめ、疲れた表情でつぶやいた。
「私も同じお墓に入りたい。でもその時に私は津島に帰れているのでしょうか」
難病でも「地域の宝」
旧津島村は1956年に合併して浪江町になったが、人々はその後も役場がある海側の市街地を「浪江」、山側の旧村部を「津島」と呼び、独自の共同体を維持し続けてきた。
最大の特徴は「集落の人間であれば、互いの家の冷蔵庫の中までわかる」と言われる結びつきだ。住民同士がまるで一つの家族のように支え合って生きてきた。
野田雅也撮影
「津島じゃなかったら、私は子どもを育てられなかったかもしれない」
門馬和枝さん(53)は旧津島村での暮らしを思い浮かべながら家族のアルバムをめくった。
3人の子どものうち、長男には先天性の軟骨無形成症という病気があった。足の湾曲や水頭症などのリスクを伴う難病で、成人した今も身長が約130センチしかない。
そんな長男を、津島の人々は「地域の宝だ」として、他の子どもと分け隔てなく、大自然の中で温かく育ててくれた。
どこへ行っても「元気かい?」「学校は楽しいかい?」と声を掛けてくれる。小学校の学芸会や神社のお祭りで、長男が劇や踊りを披露する度に、たくさんの拍手や声援が送られた。
長男はうれしくなって行事に積極的に参加するようになり、地域の人気者として明るく社交的な性格に育った。
長男を通じて知る"失ったもの"
そんな温かな地域コミュニティーを、原発事故はバラバラに打ち砕いてしまった。
最も変化したのは長男への視線だ。避難先ではどこへ行っても、好奇の視線にさらされる。
長男は当時10歳。児童が計約120人の小学校を選んだが、それでも旧津島村の学校に比べれば「マンモス校」。親に心配をかけたくないと思っているのか、長男は泣き言を言わずに、「津島に戻りたい」とだけ繰り返した。
津島では長男のことを特にかわいがってくれていた近所のおばあちゃんがいた。故郷を離れて足腰が弱り、今は関東地方の老人ホームに入っている。
長男はたまにおばあちゃんに会いに行き、そこで昔のようにトランプをして過ごす。すべてが平和だった、津島の空気がその瞬間だけ戻ってくる。
「私は長男を通じて、原発事故で失ったものの大きさを知ったような気がします」と門馬さんは言う。
「人と人とが気兼ねなく交流できる地域コミュニティーが持つ温かさ。それは決してお金では買えないものでした」
「この劇薬では死ねないぞ」
旧津島村は7つの集落からなり、いずれも阿武隈山地の深い原生林の中にある。
広さは山手線の内側の約1.5倍に相当する約9550ヘクタール。終戦後に旧満州(現・中国東北部)からの多く引き揚げ者を受け入れ、「米が食えない」と言われるほど貧しい生活が長く続いた地域もあった。
野田雅也撮影
岸チヨさん(90)と一緒に旧津島村の旧宅を訪ねたのは、2018年4月だった。
古い民家は枯れ草に覆われ、周囲の道路は崩落していた。岸さんは旧宅の前で深呼吸をして「うん、津島のにおいがする」と言った。
福島県の上川崎村(現・二本松市)で生まれ、1942年、国策で推し進められた満蒙開拓団として旧満州に渡った。
当初は楽しく現地の学校に通ったが、戦況が悪化すると、大人から小銃の撃ち方を教わったり、敵を出刃包丁で刺したりする訓練などをさせられるようになった。
敗戦を知ったのは、1945年8月18日。ソ連軍が進駐してくるという話が広まると、住民に集団自決用の手投げ弾と劇薬が配られた。
父は家族に劇薬を手渡し、「これを飲め。俺はお前たちの最期を見届けてから手投げ弾で自決する」と告げた。
岸さんは親友に別れを言おうと外に出た。すると集落のあちこちで「飲むな。この劇薬では死ねないぞ」と叫ぶ声が聞こえる。
急いで家に戻ると、家族は劇薬を飲んで、もがき苦しんでいた。
慌てて解毒剤を飲ませると、胃の中の物を吐き出し、しばらくして快復した。
忘れられない、母の「言葉」
ただ1人、解毒剤を拒んだ人がいた。
最愛の母だった。
日本の勝利と発展を信じ、旧満州の土になろうと大陸に渡ってきていた母は、解毒剤を勧める岸さんの手を振り払い、言った。
「親不孝者!」
岸さんは今もその母の言葉が忘れられない。
15日後、母は苦しみながら42歳で死んだ。
4歳年上の姉は隣家で睡眠薬を飲んだ後、家に火をつけて焼け死んだ。1歳のめいは「連れて行ってもいくらももつまい」と父が首を絞めた。
ようやく得た安住の地。なのに…
一家はドブネズミのようになって大陸を逃げ回り、1年後、日本へと向かう引き揚げ船に乗った。
帰国後、落ち着いた先が旧津島村だった。
山林を切り開き、ササで屋根をふいただけの小屋で寝泊まりしながら炭やジャガイモなどを作った。岸さんは旧営林局の職員と結婚し、浪江町内で2人の娘を育てた。
そして2011年3月、原発事故に遭遇する。
敗戦から約半世紀。岸さんは再び家を追われることになった。
満蒙開拓、引き揚げ、原発事故。
国策に翻弄(ほん・ろう)された人生を振り返る時、胸にこみ上げるのは国家に対する憎しみではないという。
「国が決めることはいつも大きすぎて、私にはよくわからないのよ」
でも、一つだけ、と悔しそうに言った。
「あの時、無理にでも母に解毒剤を飲ませるべきではなかったか。そう思うと胸が苦しくなるときがあるの」
少しだけでいい。福島に思いを…
僕たちはすぐに多くのことを忘れてしまう。あの震災だってきっとそうだ。10年前、あれほど津波や原発事故の被災地の惨状に心を痛めたはずなのに、今はもう新型コロナウイルスや日々の生活のことで頭がいっぱいになっている。
でも、それは仕方のないことなのかもしれないと僕は思う。僕たちには僕たちの生活があるし、人生をかけて夢を追っている人もいれば、大切な人を守っていかなければならない人もいる。「だって、私たちにできることなんて何もないじゃない」と言う人だっている。
そう、僕たちにできることはあまり多くはない。
だから、少しだけでいい。このサイトを読み終わった後に少しだけ福島について考えてほしい。今も自宅に戻れないでいる、「帰れない村」の人々に心の中でエールを送ってほしい。
野田雅也撮影
「僕らはちゃんと知っています。日本には人の住めない『村』があることを」
そう知ってくれただけでも、彼らはきっと喜ぶはずだ。
なぜか?
彼らが一番恐れているのは、人々の記憶から消し去られることだから。彼らは、彼ら自身が生きているうちに、故郷には帰れないかもしれないと思い始めているからだ。
たとえ故郷に戻れなくても、この先地図から消されるようなことになっても、「村」は人々の記憶の中で存続し続ける。
それが「帰れない村」の取材を続ける、僕の小さな願いです。
※この記事はwithnews「帰れない村」編集チームによるLINE NEWS向け特別企画です。
三浦英之
2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』(http://www.shueisha-cr.co.jp/CGI/book/detail.cgi/1765/)。
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街中やインターネット上の至る所で、美容脱毛の広告を目にする。いま、脱毛は世代や性別を問わなくなり、処理をする体の部位も広がっている。
処理はすべきなのか。そもそも体毛は「ムダ毛」なのか。悩みや疑問を募る「#ニュース4U」取材班には、体験談が次々と寄せられた。
そらずにはいられず…
「脱毛しないと恥ずかしい」。千葉県習志野市の大学生の女性(20)は、カミソリで自らそっている。指の毛は毎日。脚の毛はアルバイトでスカートスーツを着る時だ。
周りの誰かに毛のことを言われた経験があるわけではない。それでもそらずにはいられないという。「毎回大変です」。
カミソリをあてた部分は翌日かゆみが出る。なのに、またすぐ生えてくる。「脱毛サロンに行こうか」。
でも数十万円もかかる。手が届かない。
動画サイトの広告にも、小中学生向けの雑誌にも。「体毛は処理すべきもの」というメッセージは色々なところに出てくる。
「黒くて太い体毛」が悩みだという東京都の会社員の女性(27)は、子どもの頃から読んでいた雑誌などの影響から、「女性はツルツルでなければという強迫観念がある」と明かす。
最近は電気シェーバーや家庭用の光脱毛器で処理しているが、産毛の濃さが気になるという。「半袖やノースリーブを着ることはないです。冬は長袖や黒いタイツでごまかせるので、ほっとしています」
体毛の処理はどれほど浸透しているのか。
「装いの心理学」の編著書がある東京未来大学の鈴木公啓(ともひろ)准教授が3年前、インターネット上で10~60代の男女約9千人に調査したところ、脚や足の指の毛、脇の毛を処理したことがあると答えた20代女性は、いずれも9割超に上った。
60代も、脚や足の指の毛が4割余り、脇が7割近くで脱毛を経験していた。
鈴木准教授は「女性にとってムダ毛の手入れをすることは、個人の選択というより、社会の暗黙の了解となっているのでは」と分析する。
女性は男性より、季節によって肌を露出する服が増えたり、外見が他人の評価にさらされる機会が多かったりすることが考えられるという。
男子高校生も悩む
脱毛は、男性でも若い世代を中心に浸透してきている。鈴木准教授の調査では、20代では脚も脇も4割超で経験があった。一方で、60代は1割に届かなかった。
取材班には、男性からも悩む声が寄せられた。
埼玉県の高校生の男性(17)は、体育の着替えや友達とプールで遊ぶときに、わき毛の処理をするかしないか気になるという。「すべてそるのは恥ずかしいけど、結構毛が濃い方なのでそのままというのも……」。
同級生の男子の間で「すね毛はどうすればいいんだろうね」と話題にあがることもあるという。
小中学生の子どもが脱毛をするケースも珍しくない。取材班にも、保護者からの声が数多く寄せられた。
東京都の主婦(50)の娘は中1で、バレエのレッスンでわき毛を気にしていた。それをきっかけに今夏、エステサロンで全身脱毛を始めたという。50万円ほどかかったが、「自己流で肌を傷める前に施術できて、親としても安心しました」。
キッズ脱毛や介護脱毛、高い関心
大手エステサロン「TBC」は、7~15歳対象の「キッズ脱毛」を行う店舗を2011年に開いた。利用客からは「子や孫にも受けさせたい」という声が寄せられ、水泳やバレエなどの習い事や、中学の部活が始まる前に利用するケースが多いという。
利用者は年々増え、大阪エリアでみると、15年に比べ19年は3割ほど増加したという。
中高年が脱毛を始める理由には、「介護脱毛」がある。将来受ける介護をみすえ、アンダーヘアの脱毛をするケースなどだ。
医療脱毛のリゼクリニックによると、開院当初の10年からの10年間で、40歳以上で契約した女性の数は75倍にまで増えた。今年も去年から1・6倍になるなど、増え続けている。
14年に男性専門のクリニックを開院したが、今年の契約者は前年の1・4倍になった。
同院の大地まさ代医師によると、陰部を脱毛すれば、炎症や感染症のもととなる排泄(はいせつ)物が拭き取りやすくなり、清潔さを保ちやすくなるなどの効果がある。大地医師は「介護する人、される人の双方にメリットが大きい」と話す。
脱毛ブーム、実は日本ならでは?
老若男女で「脱毛」に抵抗がなくなりつつある。この「無毛社会」とも言える状況は、歴史的にも世界的にも珍しいとの指摘がある。
日本スキン・エステティック協会の清水京子さんによると、江戸時代では処理をしていたのは遊女が中心で、広く普及はしていなかったとみられるという。
ただ、この時代の浮世絵のほとんどには体毛が描かれていない。清水さんは「体毛が少ない方が好まれていたのでは」と分析する。このころには、軽石を砕いて油とまぜ、手足にすり込んで摩耗させて毛を切る脱毛法がすでにあったという。
体毛の処理が一般的になったのは、ミニスカートやストッキングが流行した高度経済成長期の1970年代ごろ。美容脱毛サロンが登場したのもこのころだ。
2000年代にはさらに市場が広がり、手頃に脱毛できるようになったことから、清水さんは「毛がない方が当たり前になってきた」とみる。海外の事情は国によって異なるものの、「脱毛がこんなにブームになっているのは、日本の特徴と言えるかもしれない」と話す。
皮膚科医は「リスクもある」
「ムダ毛」と呼ばれることもあるが、人間にとって本当に無駄なのだろうか。
ウォブクリニック中目黒(東京)総院長で皮膚科医の高瀬聡子さんは、「むだではない、と本来は言えると思います。ただ、日本や先進国では毛をなくしたからといって生命維持に大きな影響はない」と話す。
例えばわき毛は、汗を蒸散させ、その気化熱で体温を下げる役割がある。「ただ、生えていない人でも機能はほとんど下がらず、多くの人が処理をする中でも特に大きな問題になっていない」と言う。
一方で、高瀬さんは「慎重に処理をした方がいい部位もある」と注意も促す。アンダーヘアだ。
「毛が生殖器官をウイルスや細菌などからブロックしている。毛をなくせば、その機能の一つが減る。研究のデータはまだないが、感染症などのリスクが高まる可能性はある」と話す。
「自分の価値観で決めよう」
体毛の処理について、考えが変わった人もいる。
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ムダ毛処理をテーマにした楽曲「エビバディBO」を18年に発表したラッパーのあっこゴリラさん。「はみ出したとこがきみの才能」と歌い、ブログには緑に染めたわき毛の写真を載せた。
「なんで毛が生えているとだめなんだろう」と思ったのが、曲作りのきっかけという。
「生やしたいときに生やして、そりたきゃそりゃいい」。そう話すあっこゴリラさん自身、学生の頃は「ツルツル絶対正義」と思っていたが、今は、処理するかしないか気分で決めているという。
「自分の価値観のものさしを作って、なにを選ぶのか。みんなが、自分の世界の王様・女王様になることが大事だと思います」
(朝日新聞 「ニュース4U」取材班・田部愛)
※この記事は、LINE NEWSだけで読める朝日新聞#ニュース4Uの記事です。
取材班とLINEでやりとりできます
朝日新聞「#ニュース4U」では身近な困りごとや疑問の投稿をお待ちしています。ツイッターでハッシュタグをつけてつぶやいてください。LINE公式アカウントで「友だち追加」をすると、取材班とやりとりができます。お気軽にお寄せください。
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「ビリギャル」は今年、32歳になった。映画にもなった慶応大学合格までのサクセスストーリー。
「もともと頭がよかっただけ」という冷めた声に対して、原作本のモデルになった小林さやかさんは、ずっと抱えている心のモヤモヤがあるという。
彼女の物語には、どんな続きがあったのか。受験や進路で悩む10代に、先輩が送るメッセージ――。
「キャラ変」したくて受験
小学校のころは、自分のことがすごく嫌いでした。3月生まれなのもあって、まわりよりもできない自分には才能がないと、何となく思っていました。
自己肯定感が低い子どもでしたね。友だちもあまりいなくて、輝ける場所は1ミリもありませんでした。
そんな自分を「キャラ変」したくて、中学受験をしました。いままでの私を誰も知らない世界に無事行けたので、やっと楽しい人生が送れるようになると思いました。
人生ここからだぞ、と。自分の環境は自分で選べる。それを学べたのが大きかった。
今の子はすごくまじめで、ギャルとかヤンキーってあまり見かけなくなりました。「なんでこんなことしないといけないの?」「なんで受験とかするの?」という当たり前に誰もが抱えている疑問を彼らなりに表現してきたのが、ギャルとかヤンキーだと思います。
そんなものに乗るかっていう子がいなくなってきたと感じています。ネットいじめなど別の陰湿なかたちで出てきているのではないかと思います。だから大人は余計に手を焼くのではないでしょうか。
大人の言うことに、子どもが何の疑問も感じなかったらそれは問題です。なぜ大学受験をするのか。なぜその道に進むのか。
私はそういう意味で、少ない経験と狭い価値観のなかではよく考えていた10代でした。
校則でツーブロックが禁止されているとします。先生たちはなぜかちゃんと説明できますか。生徒たちもただ反抗するだけではなくて、なぜ禁止なのか理解しようとしていますか。
ちゃんと突き詰めて考えて、納得できればそのルールは長続きします。
やらされる勉強は続かない
なぜ勉強をするのかも同じ。もし言われた通りにやるだけなら、とにかく走ってくださいっていうマラソンと一緒だと思う。水がどこでもらえるのかも分からないし。いつ終わるのかもわからないと地獄です。
それをみんな学校でやらされているんだと思うと気の毒です。納得していれば必ず私みたいに走れるはずです。
今の子どもたちは、「自分の人生こんなもんだ」って思っている人が多い気がします。
受験だってワクワクしないで、何となくやっている。親がやれって言っても、たいした動機づけにはなりません。それは集中できませんよ。
ワクワクする大人との出会い
「受験はひとつのきっかけ。その先に世界が広がって、いままで君のまわりにいた人とは違う人に出会えるよ」
私を指導してくれた坪田(信貴)先生にはよくそう言われていました。
「嵐の櫻井翔くんが通っていたから慶応を選んだ」と言うとウケがいいから講演ではそう話しています。でも、本当は坪田先生みたいなワクワクさせてくれる大人にたくさん出会える場所に行きたいと思っていました。
もし坪田先生と出会わなかったら、私はきっと狭い世界で生きていたはずです。大学で東京に出てきて、ビリギャルのおかげで知らない世界をたくさん見させてもらいました。
自分の環境を自分で選ばないと、狭い世界しか知らないで終わってしまう。そのことは強く伝えたいです。
新しい夢、見つけた
わたしはいまもワクワクしています。大学院に通って教育について勉強中です。近い将来はアメリカに留学したいと思っています。
坪田先生に「日本の教育しか知らないで教育を語るな」と言われているので(笑)。坪田先生に出会って、慶応に行っていなかったら、留学なんていう選択肢は浮かんでもこなかったと思います。
教育について学びたいと思うようになったのは、講演活動をするようになってからです。
大学卒業後はウェディングプランナーとして働いていました。数年ほどしてビリギャルの本が出版されて、全国の学校に呼ばれるようになりました。
先生や生徒、保護者と話していると、「ビリギャルが成功したのはもともと頭よかったから」と言う人がたくさんいたんです。でも自分ではそれは違うと思っています。
うまくいったのはもっとしっかりとした理由がある。坪田先生との出会いが大きかったのは言うまでもありませんが、なぜうまくいったのか自分で確かめたい、自分で解明したいと思うようになったんです。
経験談だけでは、単なるいい話で終わってしまいます。せっかくなら一人ひとりの将来に役立ってほしい。変わるきっかけになってほしい。だから、理論的なものを合わせたら説得力が増すと思ったんです。
もし私がスタンフォードで博士号をとれば、いよいよみんなちゃんと話を聞いてくれるでしょ?(笑)
ビリギャルのモデルとしてではなく、専門家として自信をもって、自分の言葉で伝えたい。それが今の私の夢です。
大人になって挑戦する姿見せたい
大人になるとどんどん挑戦するのが難しくなるじゃないですか。私は何かに挑戦し続ける姿をわかりやすく見てもらえるところにいると思います。
後輩たちがそれを見てくれるといいな。大学受験なんてとうの昔の話ですよ。(聞き手・鎌田悠)
こばやし・さやか
名古屋市出身。指導を受けた塾講師坪田信貴さんの著書「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」の主人公。自著「キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語」が発売中。
この記事は、LINE NEWSだけで読める朝日新聞の特別連載です。
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学校や人間関係がつらい――。そんな時、あなたはどう切り抜けていますか。
テレビ番組の美術制作をしながら作家として活躍し、ツイッターのフォロワー20万人超の燃え殻さんは、「逃げていい。生き延びて」と言います。その「逃げ方」に生きるヒントがありそうです。
学級新聞を書いたら破られた
10代は暗黒時代でした。中学も高校も全然なじめなくて。足が遅い、勉強ができない、集団行動が苦手で、友達もいない。24歳まで女の人と付き合ったこともなかった。
生徒手帳にカレンダーがついているでしょう?1日終わって帰るたびに「×」をつけていました。高校の3年間、生徒手帳3冊、全部「×」です。
当時は、ひとりで勝手に学級新聞を書いていました。先生の似顔絵とか4コマ漫画とかニュースとか。書いて学校に貼り出して、でも、2時間目までに不良に破られる。
今のようにSNSやブログといった表現の場はなかった。家に帰って書いて、朝学校にはって破られて。その繰り返しです。
支えは深夜ラジオ
いじめですか? 小3、4年ごろとか、ありましたね。あの頃、髪の毛がどんどん抜ける、ひどい円形脱毛症になっちゃって。花瓶を置かれたり、給食袋を捨てられたり。
毎日椅子がない、とか。いじめられても誰もかばってくれない。
「すみません」とこちらが言って、「受けるんだけど」と笑われて。良いことも悪いこともだんだん慣れてしまうんです、恐ろしいことに。
10代の頃は、今日をやり過ごせる言葉、今をやり過ごせる勇気を少しでいいからくれないか、ってずっと思っていましたね。
当時の支えの一つは深夜ラジオ。「俺だけに話しかけてくれている」と思ってすごく救われたんです。
ラジオも本も「1対1のメディア」だからいい。みんなで一緒に聴いたり読んだりするものじゃない。僕は本を書く時も、「誰も読まない」「誰も読んでいない」と思って書くようにしているんです。
今、文豪の「いい文章」をみんな読みたいかな? それより「これ誰にも内緒ね」って言いながら電車の中でラインしているOLや高校生の会話の方が面白い。
みんなが日々話していることって、本当はみんな読みたいぐらい楽しいし、かけがえのない日常。「一番の内緒の話をしよう」、そんな風に思いながら書いています。
僕らの頃は夢は破られなかった
今の10代の皆さんを見ていると「あきらめる装置」だけが発達しちゃったと思うんです。
僕らの頃は、学級新聞は破られても夢は破られなかったんですよね。
高校の同級生がサッカーをやっていて、こう言うんです。
「おれはシュート力はないけど、ドリブルはロマーリオ(元ブラジル代表選手)よりうまいかも」って。
でも今だったらネットを見れば、すぐ実力が分かるので「なめんなよ」で終わる。そいつは「ロマーリオよりうまい」と言い続けて、練習したんです。
絶対レアモノになる
今はみんな評論家にまわって、あの映画はダメだ、あの文章くだらない、とか、インスタも「映えないとつまらない」と言われて。でも、誰かの物差しで「おいしい・まずい」「楽しい・楽しくない」を判断して「つまらない」と排除するの、おかしいと思うんです。
人から馬鹿にされても、評論家に認められなくても、好きなものが自分にはある。それでいい。
そういうものを人生の中でいかに持てるか、が大切。僕は不良に毎日、学級新聞を破られても、「いつか絶対レアモノになるのにな」と言いながら書いていました。
この間、現代美術家の会田誠さんと対談したら「その学級新聞って残っていないの?」と言ってもらえて、約30年経って自分にとって本当に「レアモノ」になったんだから。
インスタグラムでハートマーク5個しかつかなかったから、「私の人生つまんない」とか思わなくていいですよ。今自分の日常がバズらなくても大丈夫。
逃げてばかりだった10代
僕は、10代のとき、よく逃げていました。受験から、部活から、友達関係から逃げた。
山手線で降りたことのない駅におりて、夕方の午後5時半に見知らぬ中華料理屋さんに入った。相撲のテレビ中継をやっていて、店主のじいさんは僕が頼んだチャーハンを作りながら相撲をずっと見ている。
そこにガラガラと、客のおじさんが入ってきて、3人で相撲を見るんです。「ああ、やっぱりダメだね」とか言いながら。次、ここで集まる約束なんてない。この人たちとは一期一会なんだと思った瞬間、緊張が解けるんです。
縁もゆかりもない駅で、ふと電車を降りてみる。扉がしまる瞬間に、自分にフェイントをかけるように。
知らない土地のドトールコーヒーに入って、ダラダラと過ごしてもいい。見知らぬ町の路地で、咲いている桜が見つかるかも知れない。
30代になっても40代になっても、つらくなって仕事を休んで、逃げた時がありました。
石垣島とか鳥取県とか。見知らぬ町に行くと、自分の人生のB面に出会うような感じがして、こういう人生もあるのか、と思うと、元の人生に戻っていけるんです。
それと、自分のいじめ体験もそうですが、生き延びれば必ず気の合う人と出会える。「いやー、あの時、最悪でさ」って言えば「でも、よくがんばったんだね」って言ってくれる人。そんな出会いが必ずくる。
だから逃げていい。逃げ切ってほしい。逃げ先はいっぱいあるよって言いたい。
書き方も知らない小説を始めたら
小説を書き始めたのは42歳の時。出会いがあって、人から勧められて書き始めたんです。書き方も知らなかったのに。
でも、戦い方はある。僕は本を書く時、実際に書けない漢字はひらがなにしているんです。後になって、「普段こんな言い方しねえなあ」と思えば変えちゃう。
自分で声に出して読んで、リズムや句読点の心地良さを大事にして、読者のストレスをできるだけ減らしたいと思って書いています。
僕は、本を書くまではあまり本を読んでこなかった。たくさん読んできた人には、だからこその武器がある。
でも、それがない人にも、ないなりの戦い方がある。最弱だろうが、最弱なりの戦い方はあるんだぞって思う。
10代のみんなだって、何だってできるよ、って言いたい。
高校時代のあの頃、2時間目でバリバリって破られていた学級新聞がもう破られない。
そんな文章を書きたい。今もそう思って書き続けている気がします。(聞き手・斉藤佑介)
もえがら
作家・美術制作会社員。1973年、神奈川県出身。2017年、デビュー小説「ボクたちはみんな大人になれなかった」がベストセラー。12月に「相談の森」を出版する。
この記事は、LINE NEWSだけで読める朝日新聞の特別連載です。
外部リンク
学校に居場所ないかも。そんなふうに感じた経験はありませんか。
恋愛リアリティーショー「バチェラー」への参加をきっかけに人気者になった「ゆきぽよ」ことモデルの木村有希さんにも、仲間はずれにされてつらい時期があったそうです。
ゆきぽよ流の楽しく生きるためのコツを聞きました。
小学生のとき、家の近所にギャルのお姉さんがいて、その人に弟子入りして私もギャルになろうって決めたの。
金髪で、スウェット着て、白い靴下にキティちゃんのサンダル履いて。かっこいいし、とにかくかわいいなって。
100均のピンで髪をとめて、公園とかで輪になって、お菓子食べながらおしゃべりして。そんな女の子たちがすごく楽しそうだなと思いました。
中学生になるときには、もう髪も染めて、カラコンも入れて。だめって言われてるのに、「チャリ通」してました。
指定のジャージーで来なさいって言われても、むだな反抗心で、もっとイケてる白に金のラインが入ったヤンキーが着るようなジャージーをはいて学校に行ってました。
ギャルだけど学校はちゃんと行っていた
友だちはすぐできました。同じにおいのする子ってわかるじゃないですか。
私が仲良くなったのは、パイナップルみたいな頭してて、当時はやっていたシュシュをしていました。
向こうから声をかけてきて、一緒に帰ろうよみたいになって。そこからその子と親友になって、まわりもギャルのかわいさに気づいて、気がついたら私が憧れてたギャルのグループができあがってましたね。
ギャルだったけど、学校にはちゃんと行ってましたよ。授業の時間になったら先生に引っ張られて教室には行く。授業受けてたんです。教科書は開かないけど。
性格的には結構フレンドリーなタイプだったんで、黒髪で真面目な子にでも、「ねえ今何やってんの」って言って絡みにいってました。
友だちからの無視、乗り切った方法
あまり悩んだことはなかったけど、つらいときもありました。女の子同士でけんかするじゃないですか。仲良しのグループで私だけが孤立した時期があって、それぞれの彼氏同士のけんかが原因だったんですけどね。
無視されて、そのときはつらかった。毎日その子たちといるのが基本だったから。
でも、もともと教室にちゃんと行っていたのがよかったと思う。フツーの子たちとも仲良くできてたから。
いつものグループと一緒にいられなくても、教室に居場所はあった。というか、居場所を残しててくれてて。
けんかしたことも相談できたし、相談する相手もいた。「そうなんだ。別にいいじゃん。うちらいるし」って言ってくれて。もとのグループとも時間が解決してくれて。
で、仲直りして。またいつも通り、こっちとも仲良く、あっちとも仲良くみたいに。
学校って必ず派閥ができるじゃないですか。1軍、2軍、3軍みたいに。でも30人ぐらいのクラスだったら、1人は手を差し伸べてくれる子が必ずいるの。
でもそれは、SOSを自分で出さなかったら助けてもらえない。気づいてもらえないの。
悪口はダメ
ゆきを助けてくれたのは学級委員の子だった。めっちゃいいやつだな、学級委員って最高だなと思ったから、その次は立候補したら、なんかなっちゃった。結局ゆきには務まらなかったけどね。
まわりとうまくやろうと思ったら悪口はダメ。
「バチェラー」に出ていたときも、悪口をあんまり言わなかったですね。参加者同士、どうでもいいことでけんかしたことはありましたけど。
恋愛リアリティーショーってそういう部分もあると思うけど、私はとにかく楽しんでた。まわりの空気を乱して、嫌な空気にする人はマジでダメ。他人の悪口を言って仲良くなるグループって、結局は腐るから。
大きな声で「おはよー」って言ってみて
テレビの仕事をするようになって、すごいと思ったのは今田耕司さんと明石家さんまさん。楽屋にあいさつ行って、「おはようございます!」って言うと、テンション倍になって返ってくる。すごい明るい気持ちになりませんか。
学校でも、教室に「おはよー」って大きな声で入ったら、すっごく変わるよ。悪い気持ち全然しないじゃない。
自分がそうなれば、みんなも返してくれる。友だちって鏡だから。そんなのできないっていう人、性格もあるけど、無理してそうなる価値はあると思う。仲間外れにされることもないし、絶対愛される。
中学3年のとき、いろんな高校の文化祭を見にいって、一番可愛くてイケてて、「本気でここで青春送りてぇ」って思った高校がありました。
その日家に帰ってすぐに「お願いします」って親に言って、塾に通わせてくださいって頼んで。親もびっくりじゃん? えーってなって、驚かれたけど、個別指導のめっちゃいい塾に行かせてもらいました。
そこでいっぱい勉強して、もともと中学校の成績は「1」か空欄かだったけど、それを中3で全部3にしたんです。それで行きたかった高校にギリギリ入学できました。
高校では、とにかく遊びまくってましたね。終わったらとりあえず渋谷行くっていう感じでした。高校3年生の進路面談で、担任の先生に「芸能の道、行くんじゃないの?」って言われて、そこでモデルの道一本に決めました。
夢の見つけ方
雑誌「egg(エッグ)」の専属モデルになって、表紙を飾ってそれをコンビニに並べるのが夢でした。それが休刊になって、冗談じゃなく「どう生きよう」って感じになった。高校で留年してもかなえたい夢だったから。
でもSNSのおかげでファンが増えて、モデルの仕事も少しずつもらえるようになりました。私は恵まれてましたね。
夢が見つからないっていう人は、好きなことを将来仕事にするための近道を選んだらいいんじゃないかな。
学校行くのがすべてじゃない。独学だっていいし、大学行くにしても何歳からでも通えるんだから。
合わなかったら目標を変えたっていいと思う。みんな働くってことにとらわれすぎ。嫌々苦しそうに働いてる。それよりも好きなことを楽しくやったほうが絶対いい。
もっと外で遊んで、夢を広げよう
私は職業といえばサラリーマンとOL、モデル、保育士ぐらいしか知らなかった。
でもいろんな職業の知り合いが増えれば、憧れの人が見つかるかもしれない。ネイリストとか美容師の友だちはいつでも来てって言ってくれるし、美容部員の友だちは試供品をたくさんくれるし。
いろんな人たちと知り合うのはマイナスもあるかもしれないけど、プラスのほうが多い。
いまの10代ってスマホですべて完結するから、コミュニティーが狭い。もっと外で遊ぼう。世界が広がるし、夢も広がるよ。(聞き手・鎌田悠)
きむら・ゆき(ゆきぽよ)
1996年、神奈川県出身。2017年にアマゾンの恋愛リアリティー番組「バチェラー」に「カリスマ動画クイーン」として参加。モデル業のほかテレビ番組にも活躍の場を広げた。
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「スターティン」のかわいらしいかけ声からは想像もつかない野太い歌声で披露するモノマネが人気のりんごちゃん。
小さなころからかわいいものが大好きで、小学生のころからメイクやネイルを始めたといいます。「自分らしさ」って何だろうと悩み、涙する日もあるといいますが、「りんごちゃんは、りんごちゃん」と夢をかなえてきました。
ものまねの芸風、子どもの頃から
ものごころついたころから、かわいいものが大好きでした。キラキラしたすてきな女性になりたいと、子どものころから憧れていました。
私がどんな子どもだったか、昔からの友だちはみんな「いまと変わらない」と言います。小学校の教室では武田鉄矢さんのものまねをしてみんなを笑わせていました。いまと同じ芸風です。
幼すぎて記憶はありませんが、自宅ではおもちゃの日本髪のカツラをかぶって着物を着て、美空ひばりさんのものまねをして家族を楽しませていたらしいです。
「あゆ」にあこがれた10代
小学校の高学年のころに浜崎あゆみさんがデビューしてからは、「あゆ一色」になりました。ぱっちりした目やネイルに憧れ、思春期の心には歌が響きました。
デビューシングル「poker face(ポーカーフェース)」の冒頭の歌詞「いつだって泣く位簡単だけど笑っていたい」は、まさに悩んでいた自分にぴったりでした。
10代のころは、とにかく日々色んなことで悩んでいました。当時は学校が生活のすべてだから、友だちとの関係で悩んでいることが多かったですが、私は泣き虫で泣いてばかりでした。でも、あゆの歌で、笑っている回数が多い方がいいな、って励まされました。
いまでこそ、「自分らしく生きているね」なんて言われることも増えましたが、憧れのあゆに近づくためには、一つひとつが挑戦でした。
実家の自分の部屋は、天井も壁もあゆのポスターだらけです。そのあゆを見ながら、どうしたら大きな目になれるだろうとアイプチをしたり、お小遣いやアルバイト代をためてネイルグッズを買ったり。雑誌を読みながら、いつも研究していました。
「あゆになりたい」と上京、両親は…
家族は両親と四つ上の姉で、かわいいものが好きなのは姉の影響も大きかったです。姉もあゆのまねをしていて、常に私より先にメイク道具やかわいいスカートを持っているから、お手本でした。
こっそりメイク道具を借りてはけんかもしました。姉とはいまも仲良しで、大親友です。
「東京に行ったら、あゆになれる」。10代のころは本気でそう信じていて、高校卒業後にすぐ上京しました。
両親は上京に賛成もなにも、「東京に行ってきます」と言ったら、「いってらっしゃい」みたいな。
両親は私が小さなころから、やりたいことを否定せずに応援してくれました。小学生のころから自宅でメイクやネイルを好きなようにやらせてもらえたのは、そのおかげです。自分ではわからないけど、大事に育てられたんだね、なんて周りによく言われます。
毎日泣いていた「箱入りりんご」
そんな「箱入りりんご」なので、上京してからは現実に打ちのめされました。あゆに憧れているひまもなくバイトをして、社会の厳しさを知りました。上京したころは、ホームシックで寂しくて毎日泣いていました。
いま、オシャレしてかわいいメイクをしてテレビに出ていることや、こうして取材を受けていることは憧れていたことで、家族も応援してくれています。
自分が思い描いていたりんごちゃんになることができ、夢をかなえることができました。
ただ、いまの私が自分らしく生きているかどうか、自分では断言できません。一日のうちでも色んな自分がいて、本当の自分なんてわからないからです。
バッチリメイクをしてカメラの前に立っている自分も、家で人には見せられないような格好の自分もいます。だから、大事なのはどんな自分も愛して、受け入れてあげることなんじゃないのかなと思っています。正直、自分のことをあんまり愛せない時期もあったんです。
いじめられた時にやったこと
子どものころは、いじめられたこともあります。でも、変わった見た目をしているとか、変わった行動しているとかいう理由で私も誰かをからかって傷つけてしまっていたこともぜったいにあったと思います。
いじめられるのも、いじめるのも気持ちのいいものではありません。
10代のころは、とにかくもうどうしようもないくらい悩んで、落ち込んだこともありました。
そんな時は、あゆのバラードを聞きながら、とことん泣きます。いまでもそうですが、ときどき大泣きするんです。
でも、人間はずっとは泣いていられません。いっぱい泣くと、「あれ? 私、いま何をしているの?」って、冷静になれるんです。
そうやって何度も泣いて気がついたのは、悩みは自分が変わらないと解決できないということです。
周りの人の態度や気持ちを変えることはできないから、とことん落ち込んだら、「よし、なんとかなる」って自分で立ち上がるしかないんです。
「性別は?」への答え
イベントやライブでは、お客さんからよく性別に関する質問をされることがあります。そんな時は、「りんごちゃんは、りんごちゃんです。みなさんが思う通りでいいです」と答えています。
女の子に見えるなら女の子だし、おっさんに見えるならそれでもいいと思っています。そうやって答えると、みなさん納得してくれるし、「その言葉に救われた」と手紙をくれたり、SNSでコメントしてくれたりします。
誰もがいろんな自分を持っていると思います。だから、誰も他人から自分を決めつけてほしくないと思うんです。
私と同じ悩みがある人たちも、「私は、私です」って言えるようになるといいなと思って、自分の性別のことはあまり話しません。
りんごちゃんの壮大なテーマ
私を励みにしてくれている人がいるからこそ、「自分らしく」は私にとっても壮大なテーマです。
いまは、SNSで自分のことや好きなことを発信している人が多いです。若いころから自分を表現できる場があるのは、うらやましいです。
私ももっとたくさんの人に私の姿で笑って、元気になってもらえるように、「理想の自分」に向かって挑戦していきたいです。(聞き手・斉藤寛子)
りんごちゃん
青森県十和田市出身。ものまねタレント。大友康平さんや吉幾三さんらのギャップのあるものまねで一躍人気に。YouTubeチャンネル「リン リン りんごちゃんネル」でも活動中。
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ツイッターで知り合った男性から精子提供を受けて出産したという30代女性から、暮らしの悩みや疑問を募って取材する#ニュース4Uに投稿があった。「男性が学歴や国籍を偽っていた」。ネット上には「精子ドナー」を名乗るSNSアカウントが多数あるが、医療機関を介さない精子提供に危険はないのか。その実態や背景に迫った。
取材班は6月上旬、この女性に会って話を聞いた。
苦しんだ不妊治療の末に…
女性は長男を出産してから10年以上が過ぎ、不妊治療に苦しんだ末、夫に内緒で精子提供を申し込んだという。ツイッターでのやり取りなどから、ドナーの男性が「京都大学卒」と女性は思った。女性の夫も東京の国立大卒で、ドナーの男性と血液型も同じ。「夫に近い男性」という希望にかなう相手だったという。
男性と直接会って精子の提供を受け、昨夏に妊娠した。しかし、妊娠後も連絡を取り合ううち、男性が卒業したのは、地方の国立大だと知ったという。中国から留学で日本に来たことも後から知った。すでに妊娠5カ月で中絶は難しく、今年2月に出産した。
女性は「正直に伝えられていたら提供を申し込むことは100%なかった」と話し、望まない形での出産になったことを後悔する一方で、「悪質なドナーを規制する法律が必要だ」と訴えている。
取材班は、ドナーの男性にも会って事情を聴いた。
大手企業に勤務する20代。不妊の夫婦の役に立ちたいと思ってドナーを始めたばかりだという男性は「女性にどこの大学なのかと聞かれ、『国立大』『京都方面の大学』と答えた」などと訴えた。その上で、「だますつもりはなかったが、将来、生まれた子どもが『自分の父親が知りたい』となったら困ると思ったので、個人情報を明かしたくなかった。こんなトラブルになるなら、精子提供は二度としない」と語った。
精子の「質」うたう書き込み
身長182センチ、二重まぶた、髪質ストレート、細マッチョ、非喫煙、大学院卒、精子濃度1ミリリットル中4500万個……。
ツイッターで「精子提供」と検索をすると、ドナーを称する数十ものアカウントが出てくる。容姿の特徴や学歴、精子の「品質」などが競うように書かれている。
多くは無償提供で、針の無い注射筒を使う「シリンジ法」と、排卵期に合わせて性行為をする「タイミング法」を依頼者が選べるようにしている。
複数のドナーの男性によると、依頼は不妊に悩む夫婦のほか、性的少数者や未婚のまま母親になる「選択的シングルマザー」からあるという。
都内在住の30代で慶応大卒だという精子ドナーの男性にツイッターのダイレクトメッセージを送って対面取材を求めると、「新型コロナウイルスで外出を控えている」との理由で、スマートフォンアプリのビデオ通話で話すことになった。
男性によると、ドナーを始めたきっかけは3年前。レズビアン(女性同性愛者)の友人に頼まれて精子を提供し、無事出産した。友人は大喜びで、「そこまで喜んでもらえるなら」と、無償で精子提供を始めたという。
出産につながったケースが多数あるという男性に「どんな気持ちなのか」と聞くと、「DNA的には自分の子だが、あくまで育てている方の子という認識で、自分の子という感覚はあまりない」と答えた。
マッチングサイトは「最後のよりどころ」
ドナーと提供希望者をつなぐマッチングサイトもある。その一つ「ベイビープラチナパートナー」には、全国各地、20~50代の約200人がドナー登録をしている。ドナー登録料として3万円を支払い、プロフィルを掲載。提供希望者が条件に合うドナーを選び、直接連絡を取り合うシステムで、運営者は取引には関与していないという。
自身も「精子ドナー」の経験があるという運営者の40代男性は「日本では精子提供のサポートが進んでおらず、(サイトが)子どもがほしくて困っている人の最後のよりどころになっている」と自負する。
ネット上での精子の個人間取引について、法的な側面から問題点を指摘する声もある。
人工生殖による親子関係に詳しい若松陽子弁護士(大阪弁護士会)は「提供に合意した人から精子を受け取る時、本当にその人のものかどうか証明できるのか。悪意が潜むリスクは絶えず生じる。しかし、家族の形が多様化し、SNSを使った精子提供は明確な法規制がなければ、子どもを得る手段として広がりは止まらないだろう」と話す。
民法は親子関係を定めているが、精子提供については想定しておらず、子どもの親権や扶養義務を巡るトラブルなどが起きることも考えられる。
若松弁護士は、「妻が夫の同意なく第三者(ドナー)から精子提供を受けて出産した場合、生まれた子と夫、ドナーの関係や権利義務など不明な点が多く、人工生殖による親子関係について法律で定める必要がある」と指摘する。
感染症や遺伝疾患…ぬぐえない懸念
医学的な側面からも懸念する声は上がる。
非配偶者間(第三者から)の人工授精(AID)を手がける慶応大学病院(東京)の産婦人科の田中守教授は「感染症や遺伝疾患などの懸念がぬぐえない」と指摘する。
慶大病院ではドナーの感染症が後から発覚する場合もあるため、精子を6カ月以上も冷凍保存して使用してきたといい、「検査後すぐにわからない病気もある。『生』で使えば安全の保証はない」と話す。
精子の個人間取引が増える背景にはAIDを手がける医療機関の減少もある。
日本産科婦人科学会によると、国内でAID登録をしている医療施設は12カ所(今年5月末時点)。2017年はAIDが3790件行われ、115人が誕生した。出産確率は約3%にとどまる。
朝日新聞が全12施設に問い合わせたところ、「AIDを実施している」と答えたのは7施設で、そのうち2施設は新規受け入れを停止していた。
その一つが慶大病院。2016年のAID実施件数は1952件で、国内全体のAIDの半数を占めた。しかし、翌17年にその数が大きく減り始める。
対象が限られるAID
それまで慶大病院が非公開としてきたドナーの個人情報について、子どもが情報の開示を求めて訴えた場合、裁判所から開示を命じられる可能性があるとの内容をドナーの同意書に明記したためだ。
海外で子どもが遺伝上の親の情報(出自)を知る権利を認める国がある状況を踏まえたものだったが、個人情報が公表され、子どもへの扶養義務がドナーに生じる可能性を否定できない懸念からドナーが減少。18年に提供希望の夫婦の新規受け入れを中止せざるを得なくなったという。
田中教授は「AIDは本当に子どもをほしい人が、子どもを産む手段。少子化が叫ばれる中、ゆゆしき状態だ」と話す。
AIDは日本では産科婦人科学会の規定で無精子症の夫婦に限られ、選択的シングルマザーや性的少数者は受けられない。医療機関の不妊治療には、体外で卵子と精子を受精させて子宮内に戻す「体外受精」や「顕微授精」もあるが、そもそも精子が必要だ。
米国や欧州の一部では、民間の精子バンクが提供活動を広げているが、日本では精子バンクの営業は認められていない。厚生労働省はAIDの対象拡大や、ネット上で精子がやり取りされている現状についても、厚労省は「特に見解などはない」としている。
「安全な精子提供、早く環境作りを」
だが、日本国内の環境整備の進展を待たず、それぞれの事情から、いま精子を必要とする人たちがいる。
漫画家の華京院レイさん(35)は、自身を男性とも女性とも思わない「Xジェンダー」で、男女どちらにも恋愛感情や性的欲求も無い「無性愛者」。結婚して出産することに違和感があった。でも子どもはほしい。どうすればいいのかと悩み、養子縁組で子どもを育てることも考えたが、未婚のまま子を産む方法として、悩んだ末にたどり着いたのが「精子提供」を受けての出産だった。
4年前に米国の精子バンクを利用して第1子を出産した。ネットで個人間で精子提供を受けることも考えたが、性行為での提供を持ちかける人もいて不信感を持った。日本には安心して使える精子バンクがないと感じ、海外のバンクを利用することに。費用は2回分で約50万円(送料込み)かかったという。
現在、第2子を妊活中。同じ米国のバンクを利用したが成功せず、欧州のバンクを利用しているという。
「自分だけ特殊な生まれ方をしたと子どもに思わせたくない」と話す華京院さん。「子どもの人権を守るためにも、安全なドナーから精子提供を受けられる環境を早急に整備してほしい」と願っている。
(朝日新聞 「ニュース4U」取材班・小林太一、杉浦奈実、波多野大介)
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ミュージカルをはじめ、オペラ、歌舞伎などジャンルを超える演出家として国内外で活躍する、宮本亞門さん(62)。
世界中で新型コロナウイルスの感染と闘う人々を応援するため、みんなで歌を歌う動画を作る「上を向いてプロジェクト」を展開しました。
学校が嫌いで、自殺未遂や不登校、ひきこもりも経験した宮本さんは、休みの間に見つけた自分の原石を失うな、と呼びかけます。
生まれ変わっても、学校はできるだけ行きたくないですね。実は、今でも集団って苦手なんです。
幼稚園の時から、いつも母にべったりくっついていて、友達といるより母といる方が気持ちが楽だった。
両親は新橋演舞場の近くで喫茶店をやっていたんですが、大人に囲まれて育っていたから、大人の中にいる方がほっとするんです。
小学校に入っても集団が怖かった。僕は日本舞踊や茶道、仏像が好きで、ほかの子が話題にするようなことは知らないし、恥ずかしがり屋でしゃべらなかったから、「変な子」「変わっている」と言われました。
身を守るには、合わせる演技をするしかなかった。大人もそうでしょ。周りの目を見て、流れにのるというか……。
今思えば、先生や友達は僕をどう思っているのか、両親は、大人たちはと、じっと観察して考えて、表の自分を作っていたんだと思う。中学から高校にかけて、本当の自分と、周りから思われる自分との闘いでした。
「普通はこう」「社会はこう」と言われ続けるのも耐えられず、中学で自殺未遂もして、高校で不登校になってひきこもりました。
演出家として生きた子どもの頃の経験
ただ、その経験を逆手にとって、いま演出家としてやっているところもあるんです。
なぜこの舞台を人に見せるのか、人はどう見るのかということを常に考えているし、見る人の心に響くのか響かないのか、をいつも大事に思っている。
みんなと作品を作りあげる時も「僕の言う通りにして」というタイプではないんで、いつも周囲を見る。
あそこに混乱している人がいる、求めている人がいる、と見えちゃって話しに行くと、「人の気持ちをわかってくれる」と喜んでもらえることもあります。
「ひきこもり」は創造的休暇
生きるって、自分と人とのことを考えていくことなんじゃないかと、思っています。死ぬ瞬間まで永遠に人間の矛盾と向き合っていかなきゃならない。
気のあう人だけでいられれば楽しいかもしれないけれど、それは現実逃避というか、生きるってことにはならないような気がする。
今回、新型コロナウイルスで、大人も子どもも家の中に「ひきこもり」ました。
ニュートンはペストの流行中に万有引力を発見し、その時間を「創造的休暇」と呼んだそうですが、これまでと違う生活の中で何かを発見した人って、案外多いんじゃないでしょうか。
僕の周囲でも、今回、役者をやめた人が何人かいます。
舞台がなく生活の問題もあるんだけれど、ある人は休み中に小学生のお子さんとずっと向き合って、「こんなに子どもがかわいい、いとおしいと思ったことは人生になかった。舞台で地方へ行くのはやめて子どものそばにいつもいたい」と。
残念ですが「すてきだなあ」と思いました。
自分の中の原石、見失わないように
僕も高校で1年間、ひきこもった時は、同じレコードを何百回も聴いて、空想を広げました。
窓もない部屋だったけれど、誰にも気を使わず、頭の中はファンタジーにあふれかえって楽園だった。その時間があったから今の自分がある。
今回の長期休校で、不登校になった子もいると聞きます。でも、その間に、将来に生きる素晴らしい原石が生まれているかもしれない。
一時の「遅れちゃダメ」「負けちゃダメ」「みんなと同じじゃなきゃダメ」という流れにのみ込まれたら、原石を見失ってしまうかもしれない。だから家族も本人も焦らず、その原石を大事にしてほしい。
結局、僕は、自分の中にあふれるファンタジーを誰かに話したくて仕方なくなり、聞いてもらううち、ひきこもりから脱しました。
人間は人と人との間で生きている。心のどこかで人とのつながりを欲している。
今回、コロナと闘っている人々に向け、知人や一般の人に呼びかけて「上を向いて歩こう」を歌う動画をつくる「上を向いてプロジェクト」をしました。
お願いしたのは「語りかけるように歌ってください」ということ。画面とはいえ、近くで目をみて語りかけるように歌ってもらえる経験はなかなかない。
障害や病気の方、本来なら勇気づけられたい立場の方々も参加してくださり、人は人のことをこんなに思っているんだということに、驚かされました。
みんなと生きていると実感することで、勇気づけられます。
なぜ?と自分を責めないで
子どもも、これだけ長期間自宅にいたら、登校したくなくなるのは当然です。いきなり切り替えられないのも当たり前だし、先が見えなくて、先生もピリピリしている学校では緊張してしまうのも自然だと思う。
周囲も自分自身も「なぜ」と責めないで、ゆっくりでいいから人とつながることを考えてほしい。
どうしても苦しかったら海外に目を向けてみてはどうだろう。これが学校、これが教育、こうすることが正しいと思っていたことが、国が変わるだけで全く違うと実感できると思う。
日本と海外の演出の違い
演出だって、日本と海外では全然違う。日本では、まず話を聞いて、それから考えるという発想。
役者の中にはあまり台本を読んでこない人も多くて、先生のように演出家があれこれ話して、みんなはその指示通りに動こうとする。質問も出ないことも多い。
もちろん、大竹しのぶさんとか、どんどん意見や疑問をぶつけてくれる方もいますし、わからないことをわからないとはっきり言える人こそ、いい役者になる。それでも、日本では批判的に見られる面もあるんです。
アメリカやロンドンでは、演出家が一方的に話したら誰もついてきません。まず台本を読んできたみんなで、意見を言い合う。
間違った意見も大歓迎。違う人間同士が違う意見を持って、一緒に作りあげるから意味があるという考え方なんです。
本当にいろんな意見をぶつけあって1週間もすると、みんなのめざすものが見えてきて、一気に素晴らしい作品になる。
自分の意見を変えるのも怖がらずに
日本も少子化で、どんな分野にも海外の人たちが入ってくるでしょう。そうしたら、海外のように自分の思いを伝えることが重要な時代になる。
かたくなに自分の意見を通すのではなく、すごくしなやかに、自分の意見を変えることも怖がらずに。それが、これからの時代だと思う。
あとは、考える。人が作ったわかりやすいもの、動画やネットなどにのっかって、想像したり考えたりすることをしない人が、年齢を問わず増えています。
観客でも、わからないで終わってしまい、探ろうとしない方もいる。
立ち止まってもいい。考えて、想像して、自分の世界を広げてください。感性や個性が豊かな子こそ、すばらしい可能性を持っていると思います。(聞き手・宮坂麻子)
上を向いて〜SING FOR HOPE プロジェクトより「夏〜Summer」。歌は「春」「秋」の他、ダンスバージョンもある=上を向いてプロジェクト公式YouTubeチャンネルより
みやもと・あもん
1958年、東京都出身。振付師などを経て87年に演出家デビュー。2004年にミュージカル「太平洋序曲」で東洋人の演出家として初めてブロードウェーに進出、トニー賞4部門にノミネート。 今秋、黒澤明生誕110年記念ミュージカル「生きる」を東京、名古屋、福岡などで公演予定。
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国際的に活躍するピアニスト、辻井伸行さん(31)。幼少期からピアノに親しみ、10歳でデビューしました。
ショパンやベートーベンといったクラシックだけでなく、映画やドラマのテーマ曲の作曲も手掛けています。「ピアノは友達のようなもの。嫌いになったことは一度もない」と言います。その言葉の背景には、辻井さんが育った環境が関係しているようです。
ピアノは小さい頃から体の一部で、友達みたいなもの。僕は言葉で表現するより、音楽で表現する方が得意なので、なくてはならないものなんです。
10歳でオーケストラと共演し、12歳でソロリサイタルを開きました。17歳でショパン国際ピアノコンクールに参加し、「批評家賞」をもらいました。
20歳で参加したバン・クライバーン国際ピアノコンクールは優勝することができ、珍しく涙が出ましたね。
2歳でおもちゃのピアノの鍵盤をたたいている写真がありますが、ピアノを弾いている記憶があるのは4歳くらいから。
ピアニストになるんだと決めたのは10歳の時でした。コンクールで優勝した時に決意したんです。
バイオリンも4歳から小学2年生まで習っていたけど、ピアノの方が表現の幅が広いし、いろんな音が出せるところがいい。ピアノの方が向いているなと思いました。ピアノが嫌いになったこと? 一度もないですね。
盲目のピアニストと呼ばないで
生まれつき全盲の視覚障害があり、何で見えないんだろうと思ったこともあったけど、ピアノも弾けるし、普通の人と同じことも出来る。
障害者には出来ることと出来ないことはもちろんあり、障害者のことを理解してほしい部分もあるけど、普通の人と同じように接してもらえるとうれしいですね。だから、「盲目のピアニスト」と呼ばれるのは嫌でした。1人のピアニストとして見てほしかった。
10代の頃はみんなと同じように学校に通い、学校行事に出たり、友人と遊んだり。ピアノの練習がメインでしたが、やり残したと思うことはないですね。
「反抗期」もありました。母はいつも前向きで、僕のピアノを応援してくれました。コンクールで優勝しても褒めてくれるし、世界にいけるんじゃないか、ということもすごく言ってくれた。
逆に父からは「ピアノ以外のことをもっと勉強して、将来困らないようにしないとダメだ」ということをよく言われ、中学生の時はうるさいなあと思っていましたね。
「うるさい」父、関係が変わったきっかけ
父との関係が変わり始めたのは高校生になってから。一緒に散歩に行く機会があり、この辺りから、いろいろ言ってくれるのは僕のためなんだなと思えるようになりました。
父と川沿いを歩いた思い出をもとに「川のささやき」という曲を作りました。高校生の時でした。父と過ごした時間をもとに作った曲はこれだけですね。
父が認めてくれていると感じたのは、20歳の時に米国のバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した時です。
それまではコンサートの感想はあまり言わなかったし、「うまく弾けたね」と言われたこともなかった。このコンクールでようやく、「うまかったね」と言ってくれました。
父は日本にいて、インターネットで結果を見ていたんですが、メダリストが呼ばれる時はアクセスが集中したあまり、回線が途切れてしまったようなんですね。回線が直ったら僕がメダルを下げていたので、びっくりしたと話していました。
産婦人科医の父も忙しく、今もなかなか時間がとれませんが、時には二人でご飯を食べたり、お酒を飲んだりしています。
10代の時はうるさいと思ったけど、いろいろ言ってもらえて今がある。今ではとても感謝しています。
コンサート開けない今、新たな表現を
今は新型コロナウイルスの影響でコンサートを開けないため、YouTubeにいろんな曲を載せたり、オンラインコンサートを開いたりしています。
オンラインコンサートでは手元をアップで映したり、曲の解説を入れたりしました。コンサート会場では手元を見たくても見えない席の方もいますが、そういう制約が取り払えるのはオンラインならではの良さですね。
自粛生活の中で音楽家として何ができるか、考えましたが、やはり音楽の力ってすごく大きいと思いました。
練習よりも人前で弾くことが本当に好きなので、聞いてもらってこそ、ピアノを表現できるなといつも思っています。
緊張することもありますけど、ピアノの前に座って、弾き始めたら緊張は消えますね。本番に強くなるためには、とにかく楽しんでやることが大事なんじゃないかと思います。
ピアノ以外にやっていること
僕はピアノのほか、陶芸をしたり、釣りを楽しんだりしています。指先を集中させるのがピアノと似ているんです。陶芸で作ったお皿や湯飲みは父や母にあげたり、自分用にしたり。温泉も好きですね。
ツアー中にオフがあると近くの温泉に立ち寄って、地元の人にお勧めのレストランを聞いたりします。食べるのも好きなんです。
かつて、インタビューで「お嫁さんをもらいたい」と話したことがありましたが、今は意中の人はいません。仕事で忙しくなってくると時間がないですけど、プライベートと仕事の時間をうまく切り替えてやっていきたいですね。
子どもができたら好きなことをやらせてあげたい。ピアノは好きならやらせますけど、それよりも好きなことをやってほしいですね。
僕も好きなことは何でもやらせてもらえ、母は目が見えないからといって避けるのではなく、あえていろいろなことを経験させてくれました。
僕が好きなことをやらせてもらったように、みなさんもとにかく好きなことを見つけて、気分転換もしながら夢に向かってほしいです。いろいろなことに挑戦したらいいと思います。
(聞き手・西村奈緒美)
辻井さんがコロナウイルスの影響の中で、今感じている想いを即興で作曲=辻井さんの公式YouTubeチャンネルより
つじい・のぶゆき
1988年、東京都出身。映画「羊と鋼の森」でエンディング曲を演奏。作曲家としても活躍しており、映画「神様のカルテ」で日本映画批評家大賞を受賞した。
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沖縄の青い海を背に、赤色のふんどしとティーシャツ姿で政治や社会の話題を叫ぶおじさん、といえばこの人、「せやろがいおじさん」。
ユーチューブだけでなく、最近はテレビやネットニュースでも取り上げられ話題になっています。奈良県出身で沖縄在住の芸人ですが、実は、多くの芸能人がツイートした「#検察庁法改正案に抗議します」のツイッターデモの火付け役でもありました。10代に伝えたいこととは?
「さすがにヤバすぎ」と発信したら
「お~い、10代のみんな、これからも世の中のことに目を向けてこ~」
コロナ禍の今だからこそ、若者たちにはこう伝えたいですね。
僕は沖縄の地方芸人で「リップサービス」というお笑いコンビで突っ込み担当をしています。
3年前から、「せやろがいおじさん」の芸名で、沖縄の美しい青い海をバックに、赤いふんどしとティーシャツ姿で政治や社会の問題を叫ぶ動画をユーチューブで配信しています。最近は、安倍政権が進める検察庁法改正案について「さすがにヤバすぎ」などと2回配信しました。
秋元才加さんや、井浦新さんら多くの芸能人がツイートした「#検察庁法改正案に抗議します」を最初に投稿した女性と先日、直接お会いして話をする機会がありました。なんと、女性がツイートしたきっかけは、せやろがいの動画を見たことだったそうです。
検察庁法改正案の成立は、いったんは見送られました。その流れをつくった今回の爆発的な「ツイッターデモ」に、せやろがいも貢献していたんですね。
コロナで海で撮影できず
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で緊急事態宣言が出て、外出を自粛する生活が続きました。僕も4月以降、海に出かけていくことができず、撮影は室内で行っています。
動画は週に約1回配信しているけれど、背景は合成映像でつくっています。絵的に単調になってしまっているのは否めませんが、緊急事態だったので仕方ないですよね。みんなもストレスがたまってきつかっただろうと思います。
そんな時、政府が数百億円かけて全戸配布を決めた「アベノマスク」が全然届かない。
感覚的に、「今の政府って大丈夫なん」って思わなかった? 自粛生活をしている間、ニュースを見る機会も増えたと思うけど、家にいたからこそ、今の政治のおかしさに気づいた人もいたんじゃないでしょうか。
世の中の問題、まったく興味なかった
僕はアラサー(30歳前後)になるまで、世の中の問題にまったく興味はなかった。政治や社会のことは、一部の頭のいい人たちや、選挙で当選した人たちに任せておけばいいと思っていました。
生まれは奈良県。小学校から高校までバスケットボールに熱中し、高校ではキャプテンを任され県大会のベスト4まで進んだ。
お調子者のいじられキャラで、高校の卒業文集には「面白い人」のランキングで1位になっていました。その代わり、成績は下から数えた方が早いぐらいで、勉強はほとんどしなかった。
ただ、将来は高校教員になってバスケを教えたいと思い、進学先は教職課程がある沖縄の大学を選びました。一人暮らしがしたかったのと、海がない奈良県でずっと生活していて、きれいな海に憧れていました。
ところが在学中に友人に誘われ、地元のお笑い芸能事務所「オリジン・コーポレーション」に入りました。「天下とるぞー」って思っていましたね。
M1では2回戦どまり
2014年から、地元テレビのお笑いコンクールで4連覇したけれど、なかなか仕事に直結せず、苦しい生活をしていました。M1グランプリも4~5回挑戦したけれど、最高でも2回戦どまり。
沖縄の瓦工場やコールセンターなどで働きながらの生活で、「賞レースだけでは食べていけない」と思って始めたのが、動画配信でした。
最初は、日常の出来事を面白おかしく話す「あるあるネタ」などを配信していました。政治ネタを初めて配信したのは、2018年の沖縄県知事選直後です。
自民党公認候補が負けた選挙の結果について、当選した玉城デニー知事を支持しない自民党支持層から「沖縄終わった」と言う声が特にネット上であがり、違和感を持ちました。
動画で「対話が大切や。力を合わせて新しい沖縄始めてこ~」と訴えました。すると「前向きになれた」とか「家族で見ました」とか、たくさんコメントが寄せられ、モチベーションが上がりました。
取り上げる問題、自分で勉強
その後も、沖縄の米軍基地の問題や消費税増税など、時事問題で自分が「おかしくない?」と思うことを配信し始めたら、今ではチャンネル登録数が約30万人になっています。
毎回取り上げるテーマは自分で決めています。SNSやラジオなど様々な情報に接し、気になったり「変だな」と思ったりしたことについて、まずは自分で勉強します。
間違った情報を発信しないように、できる限り情報の発信源を確認し、弁護士や学者などの様々な意見や解説を新聞やテレビで知り、自分の意見に取り入れます。
笑いのポイントは忘れない
もちろん、面白くないとなかなか見てくれないので、1本3~4分の動画に、たとえ話やツッコミなど、必ず笑いのポイントを入れるようにしています。
テーマが自分に関係なかったり取っつきづらかったりすると、若い人に限らず誰でも避けがちになりますよね。笑えて、分かりやすく、身近な問題として感じてもらえれば見てもらえる。
視聴者が世の中のことを知るきっかけになってもらえたらうれしいです。
政治的な発言に中傷、絶対おかしい
政治的な発信をすると、時には中傷されたり事務所にクレームが来たりします。でも、気になることを語りにくい世の中って絶対おかしいと思う。
もし、コロナ禍の自粛生活をきっかけに、少しでも政治や社会に関心を持てたなら、みんなのその時間は無駄じゃなかったんじゃないかな。
差別について語った最近の動画=YouTubeチャンネル「ワラしがみ」より
せやろがいおじさん
本名・榎森耕助。1987年、奈良県出身。2007年、お笑いコンビ「リップサービス」を結成し、14年から琉球朝日放送の「お笑いバイアスロン」で4連覇を達成。17年9月からユーチューブで動画配信を始める。日本ふんどし協会の「ベストフンドシストアワード2018」を受賞。昨年9月から、TBSの情報番組「グッとラック!」に毎週金曜日、レギュラー出演中。