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音に反応しなくなった聴導犬レオン 最期まで一緒に、私の恩返し

2021年9月11日 11:00 朝日新聞デジタル

朝の光が窓から差し始めた。布団で寝ている安藤美紀さん(52)=大阪府東大阪市=の隣で床に横たわり、まどろむレオンは、夢でも見ているのか、口をパクパクさせている。

安藤さんの枕元に置いた携帯電話のアラームが鳴り始めた。レオンは跳び起き、しっぽを振りながら安藤さんの顔に鼻を近づける。

目覚めた安藤さんは手話でレオンに合図し、アラームを止めた。行儀よくお座りをして待つレオンに、ご褒美のエサをあげる。

安藤さんは、生まれた時から耳が聞こえない。

現役の聴導犬だったころ、レオンはそんな風に安藤さんの「耳」の役割を果たしていた。

聴導犬は、目の見えない人を支える盲導犬と法律上は同じ「補助犬」。自動車が近づく音、赤ちゃんの泣き声、火災報知機の音など、生活に必要なものを判断して知らせる役割を担う。


レオンは安藤さんの元で8年ほどその役割をつとめた後、2017年12月に引退。その仕事は、後継のアーミ(メス、8歳)に引き継がれた。

その後も安藤さんのもとでペット犬として暮らしていたレオンに異変が起きたのは、19年秋ごろからだ。

呼んでも反応が鈍くなり、半年もすると呼びかけに応答しなくなった。時折、音に反応するかのようなそぶりを見せることもあるが、聴導犬として活躍した時のような聴力はなくなっていた。

今年で14歳。人間で言えば、かなりの高齢になっていた。


「2人」をつないだのは、かつて、安藤さんが禁じられていたコミュニケーション手段だ。

保護犬だったレオン

レオンはもともと、飼い主がおらず施設で暮らす保護犬だった。

聴導犬を育てる公益社団法人「日本聴導犬推進協会」(埼玉県)によると、訓練士が保護施設でレオンと出会ったのは、07年秋。レオンは、生まれて数カ月ほどの子犬だった。


協会では、保護犬を引き取り聴導犬に育てている。聴導犬になるには、人に対して興味を持てるかや、環境に順応できるかが重要だ。

10~20頭の保護犬の中で、特に人なつっこかったのがレオン。最初の「審査」をパスし、聴導犬の候補になった。

ただ、候補になっても必ず聴導犬になれるわけではない。1~2年の訓練を経て聴導犬になれるのは、10頭のうち数頭だ。レオンは真面目で、聴導犬としてパートナーを支えるという意識が強かったという。


あきらめた夢

安藤さんとレオンが初めて出会ったのは、訓練開始から1年半ほど経った09年のことだ。

聴導犬のユーザーとなることを希望した安藤さんに、協会がマッチングしたのがレオンだった。

その頃、安藤さんは、人生に疲れていた。

安藤さんは母親に、「健常児」として生活していけるように育てられた。

幼い頃は、相手の唇の形から単語を読み取り、自らは声を出して伝える「口話」の習得に必死だった。母親の「訓練」は厳しく、泣きながらくらいついた。手話は口話の妨げになるからと、家でも学校でも禁じられた。手話を本格的に学んだのは20歳を過ぎてからだ。


普通小中高校を卒業。雑誌の企画で入賞した得意の漫画で生きようと九州から上京し、東京の短大で美術を学んだ。

出版社に漫画を持ち込んだが、デビューの機会には恵まれなかった。

アシスタントとして漫画家の元で腕を磨くことも考えた。ただ、相手の唇の形を読み取るには正面で言葉を発してもらった方がいい。「多忙な漫画家に、それを求めるのか?」。編集者に言われた。

漫画の道をあきらめた。

24歳で聴覚障がいのある男性と結婚。翌年、長男の一成さん(26)を産んだが、「聞こえない2人が子どもを持つことは無理」と母親に猛反対された。双方の実家を巻き込み、やがて夫婦もいがみ合うように。結婚5年で離婚した。

ひとり親で家計を支えるため、「障害者枠」で正社員の総務の仕事を見つけ、夜遅くまで働いた。幼い一成さんはテレビを見て帰りを待った。どれだけ働いても、障害者枠では昇進と縁遠いことも分かった。

子どもへの申し訳なさと、仕事への空しさが募った。

正社員の仕事を辞め、障がい児向けのパソコン教室を04年に開いた。後に聴導犬を普及する拠点となるNPO法人「MAMIE」は、この時立ち上げた団体が発展したものだ。以来、パソコン教室の授業料やホームページ制作料といったNPO法人で得た収入の一部などが、安藤さんの暮らしを支えている。

同じ頃、安藤さんは息子とオーストラリアに旅行に出かけた。現地で、聴導犬に出会った。


安藤さんは幼い頃、犬を飼っていた。名前は、NPO法人名にも使った「マミー」。誰かが近づいたり、お風呂があふれていたりすると知らせてくれる聴導犬のような存在だった。

「聞こえないことで諦めたり、ぶつかったり。外の世界とつないでくれる聴導犬との暮らしが、私の生き方だと思いました」

日本に戻り、聴導犬のユーザーになることを決意した。そうして出会ったのがレオンだった。

悔し涙をぬぐってくれたレオン

レオンは10年に聴導犬と認定された。

レオンとの生活で得られたものは、安心感だった。

例えば、インターホンが鳴った時。レオンはただ鳴ったことを教えてくれるだけではなかった。足音やにおいで知人と分かれば直接玄関まで連れて行き、初対面であれば確認するようモニターの前へ促す。

車を運転している時は助手席に座り、死角になりがちな場所にバイクが近づいてくると首を振って知らせてくれた。

自分を気遣い、思ってくれる。その存在感は、大きかった。

聴導犬に対する理解のなさに苦しんだ時も支えてくれた。

聴導犬は、ペットと区別され、飲食店やショッピングセンターへの同伴は「拒んではならない」と法律に記されているが、たびたび同伴拒否された。飲食店で同伴を断られ、自宅で涙を流しながらお弁当を食べていた時には、レオンがペロペロと安藤さんの涙をぬぐってくれた。

「『頑張ろう』って励まされているようでした」

安藤さんは、レオンと共に全国の自治体や学校、企業などを回り講演するようになった。聴導犬は盲導犬と比べると知名度が低く、現在は63頭(21年4月時点)しかいない。その役割を伝え、理解を深めるためだ。耳の聞こえない人がどんな場面で困るのか、聴導犬がどう活躍するのかを、実演を交えて話す。


レオンが17年12月に引退してからは、その役目はアーミに引き継がれた。

後継のアーミは、「おおざっぱ」。インターホンが鳴れば、誰でも歓迎だ。だからこそ安藤さんは、アーミといる時はレオンのようなしっかり者になろうとする。そんな時、レオンが果たしてくれた役割の重さと、自身の成長も思う。

安藤さんがNPO法人の事務所へ仕事に行く時は、レオンもアーミと一緒に車で仕事場へ。帰宅後は、自宅周辺を散歩し、晩ご飯を食べて寝る。安藤さんが講演などで外出する時は留守番――。

そんな穏やかな生活が、しばらく続いた。

手話でコミュニケーション

レオンはこの春、大きく体調を崩した。

階段の上り下りがゆっくりになり、食べた物を吐くことも。耳だけでなく、目も衰えているようだった。


1日の大半を部屋の片隅でじっとして過ごし、名前を呼んでも、反応することはほとんどなくなった。

21年8月、そんなレオンのあごに手を添え、安藤さんは手話で話しかけた。

「おやつ 食べる?」

レオンはペロリと舌を出す。「食べたい」の合図だ。安藤さんが消化しやすいように手作りしたごはんに、むしゃむしゃとかぶりつく。

長年、安藤さんが手話を使って話しかけていたのを覚えているようで、「ごはん」「トイレ」「散歩」といった手話に反応するようになったのだという。


「レオン、よー頑張った」

安藤さんは仕事をセーブし、看病を続けた。

安藤さんの姿が見えなくなるだけでも不安そうになるため、トイレに行く時も、必ず手話でレオンに伝えた。


「次の朝は目覚めないかもしれない」。そんな不安がよぎり、つい弱気になることもあったが、レオンの前ではなるべく笑顔を心がけた。

「レオンに出会えて、私は幸せでした。くじけそうな私を導いてくれた。今度は、私が支えてあげたいです」


けれども、別れは訪れた。

21年9月に入り、けいれんを起こして呼吸が荒くなるように。いったんは持ち直したかに見えたが、9日昼、レオンは静かに旅立った。安藤さんの腕の中で、穏やかな表情を浮かべていた。

「偉大なる聴導犬のレオン、私に多くのことを教えてくれたレオン、いつも見守ってくれたレオン、よー頑張った、ありがとね」

安藤さんは、そうレオンに語りかけた。(高橋健次郎)

※この記事は、朝日新聞デジタルによるLINE NEWS向け特別企画です。

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暴走族、少年院を経て総合格闘技の看板選手に 朝倉未来さんが支えたい 挑戦しても笑われない世界

2021年3月22日 10:00 朝日新聞デジタル

 総合格闘家としてもユーチューバーとしても、最前線で活躍する朝倉未来さん。けんかに明け暮れた10代を経て、総合格闘技と出会って夢をつかんだ朝倉さんは、「夢を持って挑戦してほしい」と若者を応援する強い気持ちを持っています。

 自身の経験、これまで貫いてきた考え方を語ってくれました。

隠された上靴、親に言えなかった

 子どものころから、大人や年上の人が言っていることって正しいことも正しくないこともあるよなって思っていました。

 それは違うでしょって思うことも、「子どもだから」と従わされて、みんなロボットみたいだなと。それで思ったことをはっきり言うので、先生含めて学校で嫌われることも多かったと思う。

 小学6年の時、上靴を隠されたことがありました。転校してきた僕が、運動神経が良くて女子に目立っていたからなのかな。親には穴が開いたとかうそを言って新しいものを買ってもらった。ショックだったし、悔しかった。

 そういう時に、自分が親や先生だったら子どもが相談しやすいようにしたいし、まず一番大切なのは周りの大人の環境づくりだと思います。

いじめてくるやつより成長できる

 ただ、自分でもできることはあると思っていて、なにが原因でそういうことをされたのか客観的に考えてみてほしい。僕の場合、原因は「いけすかない転校生が現れた」ってことだろうから、例えば女子よりも男子と話そうと意識するとかね。まあ僕はけんかが強かったんで、隠した男子をやっつけたけど。

 自分が悪いと受け入れろということじゃなくて、問題を解決したいとか、目標を実現したい時にどうしたらいいのかと、客観視して分析するということです。そうすると、冷静になれるし、ひとりで抱え込まないようにしようとか視野も広がって行動的になれる。

 それが身につけば、いじめてくるやつなんかより何倍も成長できると思います。僕はずっとそうしてきた。

母から毎日のように手紙

 僕が育った愛知県豊橋市の地元って、港町で気性が荒い人が多いというか、不良が多かった。小学校まで仲良くしていた年上の友達が、中学に入って不良になって「敬語使え」とかえらそうにしてくるのが疑問で。それを隠さないから「生意気だ」と絡まれて、僕も負けず嫌いだったからけんかばかりしていた。

 「○○中のあいつ強いらしい」みたいな誰が一番強いのかって、不良に限らず男は好きじゃないですか。それで僕がけんか強いとうわさが広まって、高校でも絡まれてばかりだった。

 ある日、「けんかしよう」と暴走族に呼び出されて現場に行くと50人もいて、僕と仲間50対2でなすすべなくやられた。また挑んでも袋だたきにされるだけだから、やり返すためにはどうすればいいか考えて「俺も同じ力を持って、タイマン(1対1のけんか)に持ち込もう」と思って、群れて動く暴走族が元々大嫌いだったけど、僕も暴走族に入りました。

 入学3カ月で高校をやめて、そこからはけんかとバイクの日々。もちろん、50人はタイマンでやり返していった。3日ごとに現場仕事して、あとはけんかざんまい。今思えばどうしようもない生活ですけど、子どものころからしきたりや慣習に疑問を持つことが多かった僕にとっては、自由で楽しかった。

 でもそれは長くは続かなかった。16歳の秋、家に帰ると警察官が6人ぐらい待っていて、無免許運転で逮捕されました。罪を逃れるために自分のやってきたことにうそをつくのは違うと思ったので、裁判所でもありのまま話して反省していると言わなかった。そこから1年4カ月、少年院に入ることになりました。

 出所後は極道の世界で日本一になろうと思っていました。だけど、母が毎日のように手紙をくれて、毎月面会に来てくれて。「迷惑かけられないな」って思って極道を目指すのはやめました。母との面会の中で、友達が格闘大会に出ようとしていることを聞いてずっと気になっていた。18歳の春、出所した時に真っ先にその友達の家へ行きました。

格闘大会との出会い

 18歳の春に友達が教えてくれたのが、けんか自慢が集まる格闘大会「THE OUTSIDER(ジ・アウトサイダー)」。けんか最強だと思っていた「俺が出るべき大会じゃん」と思ったけど、書類選考で落ちた。

 じゃあどうすると考えて、実績をつくろうと道場に行って総合格闘技に出会った。けんかにはない寝技でこてんぱんにされて、こんな世界があるんだと。それから練習、試合の経験も積んで、アウトサイダーへの出場がかないました。

 それからアウトサイダーで二階級制覇して、総合格闘技イベント「RIZIN」(ライジン)のメインカードで闘う今まで、突っ走ってきました。

 ちょうど10年前か、少年院出たのが。18歳の僕に「アウトサイダーで二階級制覇して、RIZINに出ている」と言っても信じないでしょうね。みなさんも10年後の自分がどうなっているかわからないと思う。

「勉強」は学業だけではなく

 僕は学業で結果を残していないから「学校の勉強はやらなくていいよ」なんて説得力がないことは言えない。

 ただ、勉強というのは学業だけでなくて、目標や目的、人生を生きる上で必要だと思ったことに対しての努力や情報収集だと僕は思う。まんべんなくやるよりも、やりたいことをみつけたらそこにかけて勉強したほうがいいと思います。

 僕は最初に言った考え方で、挑戦し続けてきた。格闘技といえば「ボクシングかプロレス?」と言われるのが悔しくて、総合格闘技を広めたいと思って始めたユーチューブも、人の動画を研究してしゃべりも練習して、今ではチャンネル登録者数174万人、総再生回数6億回を超えた。

 今は、総合格闘技の普及や若者の夢の支援にも取り組んでいます。まだやりたいこといっぱいありますよ。僕は物事を分析して勉強して、それに向かって行動すればなんでもできると思っているから。やる前から無理と思っていたら、なにもできないんで。

 今の世の中って、でかいことを言うと笑われる時代になっていると思うんですよね。他の人と違うこと言ったら馬鹿にされたり、挑戦することを笑われたりする時代というか、そういう人が多いと感じる。

 僕は逆だと思っていて、みんながでかいことを発言すべきだと思う。みんなが夢を持って、志あふれていたら、自分も周囲ももっと成長できると思いませんか。消極的なことを言ったら笑われるぐらいの世界になってほしいですね。(聞き手・杉浦達朗)

 あさくら・みくる

 総合格闘家。1992年、愛知県生まれ。高校を中退し、18歳で格闘家に。格闘技イベント「RIZIN」の看板選手で、チャンネル登録者数174万人のユーチューバーでもある。
この記事は、LINE NEWSだけで読める朝日新聞の特別連載です。

朝倉未来さんのYouTubeチャンネルより

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「DASH村」人が住めなくなって10年、春には学校も…時計は止まったまま #あれから私は (withnews)

2021年3月7日 11:00 withnews

「あの土地」を無償提供しようと思うんだ――。

えっ、と僕は驚いた。
「あの土地」とはすなわち、「DASH村」の土地を意味するからだ。
 
東京電力福島第一原発から約25キロ。

福島県浪江町の「旧津島村」(現・津島地区)の古民家で、僕は三瓶宝次さん(84)と向き合っていた。浪江町議を6期24年務めた「村」の古老だ。

彼は同時に、かつて日本テレビ系列のテレビ番組で、アイドルグループ「TOKIO」が農業体験のために住み込んだ「DASH村」に土地を提供している地主でもあった。

その彼が「『DASH村』の土地を無償提供したい」と言い始めたのだ。

二つの疑問が胸に浮かんだ。

なぜ、無償提供なのか。

そして、なぜ「今」なのか、と。

(取材・執筆=朝日新聞記者・三浦英之、映像協力=野田雅也、構成=朝日新聞withnews編集部)

ある日、アイドルグループが……


「あんなに有名になるとは思わなかった」

昨年12月、数枚の選挙ポスターが貼られた古民家の応接室。三瓶さんは僕に向かって「DASH村」に土地を提供した経緯について語り始めた。

旧津島村は東京電力福島第一原発から北西に20~30キロ離れていたが、原発事故で放出された大量の放射性物質が風に乗って北西方向へと運ばれた。

やがて雨や雪と一緒に降り注いだため、今も住民が1人も自宅に帰還できない「帰れない村」になっている。

帰還困難区域のままになっている浪江町津島地区=野田雅也撮影

僕はこの日、三瓶さんが古民家の荷物を避難先の福島市へと運び出すと聞いて、旧津島村の自宅を訪れていた。

「ある日、福島出身のディレクターがやってきて、『ロケ地に使いたいので土地を貸してほしい』と頼まれたんだ」

三瓶さん自身は、ディレクターが語る番組名も、TOKIOというアイドルグループも、聞いたことはなかったが、親類から買い取って管理していた約4ヘクタールの山林や田畑を貸すことにした。

農作業に懸命だったTOKIO


2000年、「DASH村」が始まった。ディレクターからは番組にも出て農作業を指導してほしいと頼まれたが、それについては断った。当時町議だった三瓶さんが出演すると、ロケ地がばれてしまう。番組では「DASH村」の場所は秘密にされた。

三瓶さんは裏方に徹し、番組には妻や知人を登場させて、TOKIOのメンバーに農作業を教え込んだ。

「彼らはいつもハキハキとしていて、一生懸命農作業に取り組んでくれた」

古民家を舞台に、アイドルが田植えや炭焼きを体験し、自給自足の生活を送る。そんな農作業の風景が、高齢者には懐かしく、都会の若者の目には新鮮に映った。TOKIOは「農業アイドル」として有名になり、若者の間に田舎暮らしのブームが起きた。

DASH村、復興の足掛かりに


しかし、2011年の原発事故で旧津島村は帰還困難区域になり、「DASH村」にも入れなくなった。それでもいつか「村」が再開される日が来ると信じて、三瓶さんは草刈りなどの管理を続けてきた。

「TOKIOにも色々と事情があるのは報道で知っている」と三瓶さんは言った。

「でも、『DASH村』は今も多くの人の心に生き続けている。撮影は無理でも、ファンが当時使われていた古民家を訪れたり、若者が実際に農作業を体験したりできる、そんな津島の復興の足掛かりにできないだろうか」

最後にポツリとつぶやいた。

「この春にはこの地域から学校が消える。将来に向け、人が集える拠点をなんとかして津島に残したいんだ……」

あの日、子どもたちといた指導員 今も残る後悔


人口約1400人が暮らしていた旧津島村には原発事故当時、町立の津島小学校と津島中学校があり、それぞれ児童約60人、生徒約30人が通っていた。

しかし全町民が町外への避難を強いられたことで、二つの学校も隣の二本松市へと移転。この3月にたった1人で授業を続けている6年生が卒業するため、両校は「休校」となり、旧津島村から学校が消える。

野田雅也、三瓶章陸撮影

あの日、学校で何があったか。

「当時のことを思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになります」

佐々木加代子さん(58)は当時、旧津島村で放課後の子どもたちを預かる児童クラブの指導員だった。

激震の直後、老朽化した建物では危険だと判断し、児童クラブにいた子どもたち6人を車2台の中へと避難させた。激しい揺れで泣き叫ぶ子どもたちに「大丈夫よ」と声を掛け、午後6時にはなんとか家族に引き渡すことができた。

屋外で手伝い「子どもたちを守れなかった」


翌日の早朝、原発が危機に陥ったことで、沿岸部から多くの浪江町民が旧津島村へと避難してきた。津島の子どもたちは大人に交じり、屋外で避難者の世話や炊き出しを手伝った。

「お手伝い、頑張って」

そう声を掛けたことを、今も深く後悔している。

「子どもたちを守れなかった。『放射能が危ないから、子どもたちは家から出てはダメよ』。そう声を掛けるべきだったのに……」

2日後の3月14日、外で炊き出しをしていると、全身を防護服で包み、重厚なマスクを着けた男性たちがやってきて、「何をしているのですか、家の中に入りなさい!」と大声で怒鳴られた。周囲の大人たちはポカンとし、何が起きているのかわからなかった。

「あの時、国や東電は津島が危険だと知っていたのではないか、と思うのです。なぜ教えてくれなかったのか。もし知っていたら、私は子どもたちを絶対に外には出さなかったのに……」

保育園から「一貫校」の故郷、襲った原発事故


慣れない土地で避難生活を送らざるを得なかった子どもたちには、今も心の傷を抱えたままの人もいる。

「最大の気がかりは、2人の娘たちです」

二本松市で避難生活を送る柴田明美さん(56)と夫の明範さん(54)は、家族のアルバムを前に力なく笑った。

原発事故時、2人の娘がいた。長女は中学3年生、次女は小学6年生。子どもが少ない津島では「保育所から高校までがまるで一貫校」(明美さん)で、長女も次女も地元の友達とそれぞれ浪江高津島校と津島中に進学することを楽しみにしていた。

そんな姉妹を原発事故が襲った。

野田雅也撮影

一家は栃木県の親類宅に避難し、浪江高津島校が二本松市で再開すると、長女の通学のために二本松市のホテルへと移った。

「帰りたい……」懇願しながらも勉学に励んだ次女


次女はそこから二本松の地元中学に通うことになった。しかし、1学年約180人が通う中学校に転校後、次女は通学を嫌がるようになった。

「人が押し寄せてくる感じがする」

「浪江からの転校生が『放射能を浴びてきたんだから寄るな』と言われていた。私も同じだ」

次女は次第に避難先のホテルに閉じこもるようになった。津島に帰りたいと懇願する次女に向かって、夫婦は「津島は放射能に汚染されたの。今はここで頑張るしかないんだよ」と諭すことしかできなかった。

二本松市で再開した浪江中に転校しても、次女は学校に通えなかった。中2の夏には校長と一緒に通学し、門にタッチして帰ってくるだけ。それでも冬には保健室で30分自習できるようになり、少しずつ努力を重ねていった。

卒業前、夫婦は次女に浪江高津島校の進学を勧めた。「高校に行かないと、どこの職場も雇ってくれないよ」。次女は「うん、わかった」と声をあげて泣いた。

その言葉通り、次女は高校で勉強に励み、学年トップの成績を収め、生徒会長まで務めた。

「一番楽しいはずの思春期に、娘たちには本当に苦労をかけてしまった」と明範さんは悔やむ。

「でも、娘たちからは今も、『私たち子どもを産めるのかな?』という話を聞かされる。我々は何もできない。親としてこれほど苦しいことはありません」

消える学校、撮り続ける「小さな先生」


目に見えない原発事故は、目に見えない傷を人々に残した。

そんな旧津島村の子どもたちを励まそうと、カメラを抱えて津島を駆け回っている元教師がいる。

馬場靖子さん(79)。22歳で教職に就き、28歳で夫と結婚して旧津島村に移り住んで以来、津島小や浪江小に計20年間務めた。

身長143センチ。「小さな先生」と呼ばれた。小学校の高学年になると、背丈を追い越され、教え子を見上げながら話さなければならない。だからだろうか。多くの教え子に親友のように慕われた。

自然豊かな津島の暮らしは、驚きと喜びの連続だった。でも残念なことに、子どもができなかった。教え子を我が子だと思って一生懸命授業に取り組んだ。

見えない原発事故は、そんな豊かな暮らしのすべてを変えた。

教え子たちは強制避難で散り散りになり、誰がどこに避難しているのかもわからない。東電に就職した教え子もいたが、事故直後、仮設住宅で母親に近況を尋ねると、「みんなに合わせる顔がなく、部屋に閉じこもっています」と告げられた。

避難先の学校で「放射能が伝染する」といじめられた子どもがいる。「東電から賠償金をもらっている」と陰口をたたかれた教え子がいる。そんな話を聞く度に、あまりに不憫で涙があふれた。

そして、思った。

「子どもたちにためにも、『ふるさと』をしっかりと残さなければいけない」

ふるさとの記録、私が


津島はどんな場所だったのか。どんな人々が暮らしていたのか。あの日何が起きたのか。いつか教え子たちが思い出せるように――。

馬場さんは避難先に出向いたり、許可を得て津島に立ち入ったりして、シャッターを押し続けた。

仮設住宅で必死に支え合って生きる住民たちがいる。津島の祭りや文化をなんとか継承しようと、踊りを続ける人もいる。故郷を元の姿に戻して欲しいと、裁判を起こして国や東電に立ち向かう人もいる。

震災直後の数年は、津島の風景に変化はなかった。でも年を追うごとに、民家は夏草に覆われて屋根が朽ち落ち、田んぼには楊が林のよう生い茂っていく。

馬場さんはいつからか、カメラと一緒に震災前の津島を写した写真を持ち歩くようになった。出会えた人に、「昔はこんなに美しい村だったのよ」と説明するために。


かつて教え子たちが里帰りした際に一緒に見返して笑えるようにと撮影した、地元の祭りや農作業の光景、成人式に集う教え子たちの写真。それは馬場さんにとって人生の「宝」だ。

昨年12月、馬場さんは教え子たちと撮った思い出の写真を持って、津島小を訪れた。

「校舎は全然変わってないわ。目を閉じれば、今でも子どもたちの声が聞こえそう」

同行した僕に向かって「どうか、こう記事に書いて頂けませんか」と言った。

「みんな元気? 津島は随分変わっちゃったけど、大丈夫。あなたたちの故郷は『美しい』。いつかそう胸を張って思い出せるように、先生はみんなの思い出をしっかりと記録しておくね」

「村」の時計、ゼロで止まったまま


東日本大震災から10年を迎える。

でも、僕は「震災10年」という言葉が嫌いだ。その言葉の響きの持つ残酷さに、時々立ちすくんでしまいそうになる。

日本には古来、「一〇年一昔」という言い回しがある。「震災10年」を過ぎた後には、多くの人があの震災をもう過去のものだと思い込んでしまうのではないか。記憶から忘れ去ってしまうのではないか。

でも、違う。 断じて違う。

旧津島村に限って言えば、今も誰1人として自宅には戻れない。「復興」どころか、「復旧」さえも始まっていない。「村」の時計は「震災10年」ではなく、針が「0」(ゼロ)で止まったままなのだ。

野田雅也、三瓶章陸撮影

10年前の3月11日午後2時46分。

千年に一度と呼ばれる巨大な地震が発生し、東北地方の沿岸部を大津波が襲った。安全だと言われていた原発が爆発し、多くの人が故郷を追われた。

その延長線上に今、僕たちは生きている。

だから、忘れないでいよう。

もっともっと考えよう。

どうすれば、災害に強い社会を築けるのか。

どうすれば、子どもや高齢者を守り抜けるのか。

2021年3月11日は、10年前を振り返る記念日ではない。

それは未来について考える日だ。

※東日本大震災の発災10年に合わせ、LINE NEWS提携媒体各社による特別企画を掲載しています。今回はwithnews「帰れない村」編集チームによる特別企画記事です。

三浦英之
2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』と、震災直後に宮城県南三陸町で過ごした1年間を綴った『災害特派員』。

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名門校で理不尽さを経験、金髪に染めた10代 ブレイディみかこさんが救われた言葉

2021年2月28日 10:00 朝日新聞デジタル

 ライターのブレイディみかこさんは、英国に移住して25年になります。著書『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』をはじめ、英国社会の実相を日本に伝え続ける彼女の原点は、生まれ育った福岡での高校時代にありました。自身の過去を振り返り、いまの10代に伝えたいこととは…。

荒れていた地元中学から進学校へ

 福岡市の郊外で育ちました。通った中学には、貧乏で家庭に問題を抱えている子が多く、荒れていました。

 同級生の多くは近場の高校にいきましたが、私は、中学の先生から市の中心に近い県立の進学校の受験をすすめられたんです。

 バス通学になるので、親は「お金がかかる」と乗り気ではなかったのですが、「アルバイトをして定期代を自分で稼ぐ」と説得しました。

 でも、入学してすぐに「ここは私のいる世界じゃないな」と感じました。藩校の流れをくむ名門校で、親が医者、弁護士、会社役員という同級生がけっこういました。

 エリートっぽい同級生が多く、なじめませんでした。

 学校と決定的に衝突したのは、禁止されていたアルバイトをしていると、ばれたのがきっかけでした。

 放課後のスーパーでのバイトで、いつもは着替えるのですが、その日は慌てていて制服のまま店のエプロンをつけてレジに立っていたところを、OBに見つかり、高校に通報されました。

髪を染めたら二度見され

 「アルバイトは禁止なのに、なんでやっているんだ」と担任に問いただされ、「バスの定期代を稼ぐため」と説明しても、「いまどき、そんな家庭があるわけない。遊ぶ金ほしさにやっているんだろう」と。

 理不尽な対応に腹が立って、その日の夜、髪を短く切って金色に染めました。

 翌朝、わざと遅れて登校すると、門をくぐったときに、窓ぎわの生徒が一斉に二度見したのを、いまも覚えています。

 担任への反抗の気持ちからでしたが、母親が学校に呼び出され、翌年からの担任の引き受け手がいない状況になりました。

 そのときに「2、3年は僕が担任をします」といってくださったのが、現代国語の先生でした。

 白紙の答案用紙の裏側に、時々、パンクロックやアナキズムについての感想を書いていたんですが、先生はそれを読んで、なぜか、おもしろいやつだと思ってくれたんでしょう。

 先生は「たくさん本を読め。君は、もの書く人になるといい」と声をかけてくれました。

 「受けたくない教科のときは図書館で本を読んでいていい。だから、学校には来なさい」とも。

 わざわざ家にも訪ねてきてくれました。

 あんなに自分を信頼してくれる大人と出会ったのは初めてでした。先生がいなかったら、自分から高校をやめていたか。退学させられていたか。どちらかだったでしょう。

 先生の父親は、大学紛争で全共闘の学生を支持する立場を貫いて辞職した九州大学の教授でした。

 そうした親に育てられたから、あんなにも生徒の立場に立ってくれたのかなと、いまになって思います。

 先生は、私が本を出すようになる前に亡くなりました。いまでも感謝しています。

 子供にとって、親以外の大人の視点は大切だと思います。私はたまたま、その先生に会って視野が開けた。

 中学までは、身近に「物書きになるといい」なんていってくれるような大人はいませんでした。

 いまの高校生は、私の高校時代の1980年代よりも大変に見えます。デフレがずっと続いて先の展望が暗いと、みんな思い込んでいる。私の若い時とくらべ、日本社会から明るさが失われている気がします。

大学は行かず、でも楽観的だった

 私は高校卒業後、結局、大学には行かずにアルバイトをしながら、英国と日本を行き来していました。

 それでも、いずれは落ち着くべきところに落ち着くだろうと、楽観的でした。

 いまは、そんなことは許されない雰囲気があります。道を踏み外したら終わり。

 このレールにのって走らないと危ない。

 親も子供も、そんなふうに思えば思うほど、息苦しさが増していくのではないですか。

 日本に一時帰国したときに大学生と話をしましたが、入学後すぐに就職を心配していました。

 10代から「どう生き延びるか」を考えているなんて、悲しくないですか。

 いま見えている日本社会だけが世界ではないし、上の学校に行くことだけが正解でもないでしょう。

救ってくれる大人が周囲にいないなら

 自身の体験を踏まえて、そんな思い切ったことをいってくれる大人の存在に救われる子供が、たくさんいるのではないでしょうか。

 学校の先生を含めて、そんな大人が周囲にいないとしたら、違う大人の声に触れる機会があるのは、本や映画の世界だと思います。

 名作と呼ばれる作品を手に取ってほしいと思います。

 みんな、たまたま現代の日本にうまれただけで、ここが自分に合っているとは限らない。

 いま、生きている世の中より、もっと広い世界がある。そう信じられれば、絶望しません。

 だから、ここがいやだったら、逃げていい。

 いまの日本では死んだようにしか生きられないなら、海外に出た方がいい。コロナ禍で移動は制限されていますが、でも、いずれ必ず元に戻ります。

 いけば、なんとかなるよ。そういうことをいう大人がいま、あまりいませんよね。

 大人もどうやって自分が生き延びるかというムードになっているから。

ネットで伝わる「かけら」を超えて

 私は外に出ていけば、いまと違う世界が必ずあるし、なんとかなると、思っています。

 ネットの隆盛で海外が近づいたといわれるけれど、SNSで伝わるものは限定的です。

 本でも映画でも、しっかりした作品の翻訳ものは、逆に少なくなっている印象があります。

 ネットニュースで海外の動向はわかるけれど、そこにあるのは「かけら」です。ひとつの作品としてつくられた長いものを、読んだり、みたりしないと、本当の姿はわかりません。

 いま日本でなされるべきは若い世代にもっとお金を投入し、少数精鋭で世界と渡り合っていけるよう育てていくことでしょう。

 これまでのように教育に投資を渋る国のままだったら、将来の借金を心配する前に、少子化が取り返しのつかないレベルまで進み、若い世代がいなくなります。

 10代は、もっと声をあげてほしいなと思っています。(聞き手・土屋亮)

ぶれいでぃ・みかこ

 ライター。1965年、福岡市生まれ。福岡県立修猷館高校を卒業後、日英を往復し、96年に英国に移住。託児所で働く傍ら、ブログでの発信を続けてきた。著書に『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』など。
この記事は、LINE NEWSだけで読める朝日新聞の特別連載です。

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池松壮亮さんが10代で感じた溝 矛盾だらけの世の中でも、自分の時間は止めないで

2021年1月25日 10:00 朝日新聞デジタル

 いまや日本映画界に欠かせない存在である俳優の池松壮亮さん。

 クールな中に情熱を秘め、時代の揺らぎを真っすぐ見つめて、「人間とは何か」を模索しながら役と向き合ってきました。高校卒業まで福岡で過ごした日々を振り返り、いまの10代に伝えたい言葉とは――。

演劇の世界と現実のバランス

 10代の始めから俳優の仕事をしています。

 東京で1、2カ月全然次元の違う虚構の物語の中で「誰か」を演じる仕事を終えて、福岡に帰ってくると、いつも周りとの溝を感じていました。

 クラスでは異質な存在で、周りから浮かないようにしていました。すごく不安定で、いろいろな感情が渦巻いていました。バランスがとれている自覚はなかったです。

 学校を好きだと思ったことはありません。なぜ、たまたま同じ場所で同時代に生まれただけの人たちが集められて、「同じ行動をしろ」と学ばせられるのか……。「本当に変だな」という感覚はありました。

支えになった野球と仲間

 幸い、周りの人には恵まれました。

 中学、高校時代、一番重きを置いていたのが野球です。野球をしている時間が唯一楽しくて。野球が自分を支える何かになっていたんです。中高ともに野球のメンバーとは気が合ったので、ずっと一緒にいましたね。その人たちのおかげで、不登校にならなかったです。

 周りからは、中学を卒業したら拠点を東京に移して、通信制の高校か芸能人が多く通う高校に進むものだと思われていました。でも、なぜか福岡にいることにこだわったんですよね。「まだ自分の青春をこっち(福岡)にも置きたい」と思ったんです。

あえて選ばなかった、俳優業100%の生活

 すごい生意気な考えですが、働いて人気者になって、福岡にいる人たちに良い知らせを届けることって、簡単にできる気がしたんです。

 でも、もっとブレーキをたっぷり踏んだ上で、アクセルを踏まないといけないような気がしていたんです。高校卒業後に上京しても、俳優業を生活の100%にするのではなく、大学に進みました。きっと、人生の足りないピースを埋めようとしたんでしょう。

 両親も「自分たちは俳優じゃないから業界のことは知らんけど、そんな簡単にいくものかな」と考えていたようです。

 父親は、建築業で、何かを一から作り上げたり建物をプロデュースしたりする仕事をしていたんですが、「日々の感覚を持ってないやつが、何かを演じることができるのか」ということを、割としょっちゅう言っていました。

 僕は10代の頃、大人たちからどんな言葉をかけられても、自分に当てはまるとは思えませんでした。「10代は未来への可能性がたくさんあふれている」という言葉をたくさん浴びせられても、信じられなかった。

 大人は「友だちを作りなさい」「恋をしなさい」という。だけど「そんなことできるかい」って思う人、結構いるんじゃないですかね。

 僕もそうでした。「じゃあ、あんたたち大人は、『人生の同志だ』と思える人に、人生で何人出会いましたか」と、ずっと考えていましたね。

「球体」のような生き方

 僕が変わり者だったのかもしれませんが、周りから差し伸べられた手に対しても、「いや、そうじゃないんだよな」と思っていました。

 僕が言えるのは、どんな言葉をかけられたって、どんなきっかけを与えてもらったって、やっぱり動けないことってあるんですよ。

 もちろん俳優の仕事をする中で、いろいろな出会いや気づきはありました。でも「これが転機だった」とか「電気が走るような衝撃的な出会い」みたいなわかりやすいエピソードがないんです。なかなか記事で紹介しづらいでしょうね(笑)。

 僕の人生を形で表そうとすると、起きた出来事を点でつないで線にするのではなく、球体になると思います。

 この人に出会って、こういう気持ちが芽生えて、その感情があのときのあの出来事とつながって、でも引き戻す力も強くて……。常に球体の均衡を保とうとしながら、スライムのように絶えず球体のあちこちがうごめいている感じです。

 もし僕の人生が単純な直線だったとしたら、うまく生きられなかったんじゃないかなと思います。意味が伝わりますかね?

 親や大人が言うよりも、尾崎豊(注:池松さんは2018年公開の映画「君が君で君だ」で熱狂的な支持を集めたロック歌手、尾崎豊になりきる青年役を演じた)が言うよりも、もっともっと複雑な時代を生きてきた感覚があります。

 尾崎豊は「親にこう言われた、あの人にこう言われた、世の中は矛盾だらけだ」と歌いました。その当時よりも、さらに社会がもっと複雑になり、もっともっと矛盾を感じる世の中になっています。

 この世界には、あまりに大勢の他者がいて、あまりに多くの情報があふれている。選択肢がどんどん増える中から「一つ選べ」と言われても、これもあれも正しいと思えて、僕は正しい一個が選べませんでした。踏ん切りをつけるのが、すごく下手だったからかもしれませんが……。

自分の時間を止めることさえしなければ

 今、30歳になりましたが、10代の頃からの人生に対するモヤモヤとした問いの答えは、出ていません。そもそも人生は人それぞれだから、人類の誰も答えを出していないのかもしれない。

 でも、自分が立ち止まっていようが、時間も周りも動いていることが、なんとなく肌感覚でわかるようになってから、だいぶ楽にはなりました。

 自分の意思も、周りを取り巻く人の意思にも関係なく、勝手に世界は動いています。自分が立ち止まっているこの瞬間も、物事は動いている。

 だから10代の人には、「立ち止まるにせよ、振り返るにせよ、歩き出すにせよ、周りを無視して走ることにせよ、人生にはいろんな選択がある。自分の時間を止めることさえしなければいい。大丈夫だよ」と伝えたいです。(聞き手・伊藤恵里奈)

いけまつ・そうすけ

 俳優。1990年、福岡県出身。「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」「斬、」「宮本から君へ」など出演多数。映画「アジアの天使」(石井裕也監督)が今年公開。東日本大震災10年特集NHKドラマ「あなたのそばで明日が笑う」が3月6日に放送。
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DASH村は今も人が住めない「帰れない村」 東日本大震災から10年の現実 (withnews)

2021年1月1日 11:00 withnews

君は知っているだろうか。
日本には人が住めない「村」があることを。

福島県浪江町にある「旧津島村」(現・津島地区)。かつて日本テレビ系列のテレビ番組で、アイドルグループ「TOKIO」が農業体験のために住み込んだ「DASH村」と言われれば、聞いたことがあるかもしれない。

番組ではファンに特定されないよう、場所は秘密にされていたが、ロケ地は旧津島村にあった。人口約1400人が暮らす、山間の小さな村だった。

そんな牧歌的な農村を2011年3月、東京電力福島第一原発の事故が襲った。
「村」は原発から北西に20~30キロ離れていたが、大気中へと放出された大量の放射性物質は風に乗って北西方向へと運ばれ、やがて雨や雪と共に野山へと降り注いだ。

住民は避難を余儀なくされ、今も1人も戻れないでいる。そこは放射線量の極めて高い「帰れない村」になった。

2021年はあの震災からちょうど10年の節目を迎える。

彼らは今、どんな気持ちでいるだろう? この10年をどんなふうに過ごしてきたのだろう? 

福島に赴任した3年前から、僕は「帰れない村」に通い続けた。ペンとカメラと線量計を持って。

(取材・執筆=朝日新聞記者・三浦英之、映像協力=野田雅也、構成=朝日新聞withnews編集部)

末期がんの21歳。願いを阻んだのは…


旧津島村へ入る道は、すべてバリケードで封鎖されている。

事前に役所に申請を出して、指定の時間にバリケードを開けてもらう。かつてそこで暮らしていた住民でさえも、役所の許可なしには「自宅」に帰ることができない。

「村」に一歩踏み込むと、朽ち果てそうな家々が背丈を超える枯れ草に覆われている。民家の軒先からは突然巨大なイノシシが飛び出してくる。まるで宮崎駿監督が映画で描いた「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」のような光景が広がっている。

野田雅也撮影

「今でも2011年の夢を見ます」

佐々木やす子さん(66)は坂道の途中で僕に言った。今も毎月、避難先から山の中腹にあるお墓の掃除に通い続けている。

2011年の元旦は津島の自宅で一家だんらんを楽しんだ。息子2人は習志野駐屯地で働く自衛隊員。1月2日の夜、やす子さんが車で習志野まで送っていった。

ところが翌3日朝、次男が千葉県内の病院に搬送されてしまう。悪性のガンとの診断だった。手術を受けたが、全身に転移し、医師からは「厳しい」と宣告された。

やす子さんは病院に泊まり込みで次男の看病を続けた。すると2月18日、今度は津島の自宅で、肝硬変を患っていた58歳の夫が吐血して亡くなってしまう。

やす子さんは次男がショックで体調を崩さぬよう、夫の死を伏せて津島の自宅に帰宅した。葬儀や納骨を済ませて病院に戻ると、「何があったの? 顔を見ればわかるよ」と次男から何度も説明を求められた。

「お父さんが死んだの」

そう伝えると、次男は頭から布団をかぶり、声を押し殺して泣いた。やす子さんは布団の上から次男を抱きしめることしかできなかった。

同じ墓に納骨も「放射線量が高いので…」


「津島に帰りたい。お父さんの墓参りに行きたい」

次男はしきりに思い出の詰まった自宅に帰りたがった。少しでも故郷に近い場所へと、津島から約40キロ離れた郡山市の病院に転院したのが3月8日。その3日後に原発事故が起きた。

津島には大量の放射性物質が降り注ぎ、間もなく立ち入りができなくなった。

「津島に帰りたい。お墓の前でお父さんと話がしたい」

次男はそう懇願しながら8月11日、21歳で亡くなった。やす子さんは次男の願いをかなえようと夫と同じ墓に納骨したが、立ち会いを頼んだ住職からは「放射線量が高いので、行けません」と断られた。

やす子さんはこの10年間、次男の写真をいつも大切に持ち歩いている。
お墓を見つめ、疲れた表情でつぶやいた。

「私も同じお墓に入りたい。でもその時に私は津島に帰れているのでしょうか」

難病でも「地域の宝」


旧津島村は1956年に合併して浪江町になったが、人々はその後も役場がある海側の市街地を「浪江」、山側の旧村部を「津島」と呼び、独自の共同体を維持し続けてきた。

最大の特徴は「集落の人間であれば、互いの家の冷蔵庫の中までわかる」と言われる結びつきだ。住民同士がまるで一つの家族のように支え合って生きてきた。

野田雅也撮影

「津島じゃなかったら、私は子どもを育てられなかったかもしれない」

門馬和枝さん(53)は旧津島村での暮らしを思い浮かべながら家族のアルバムをめくった。

3人の子どものうち、長男には先天性の軟骨無形成症という病気があった。足の湾曲や水頭症などのリスクを伴う難病で、成人した今も身長が約130センチしかない。

そんな長男を、津島の人々は「地域の宝だ」として、他の子どもと分け隔てなく、大自然の中で温かく育ててくれた。

どこへ行っても「元気かい?」「学校は楽しいかい?」と声を掛けてくれる。小学校の学芸会や神社のお祭りで、長男が劇や踊りを披露する度に、たくさんの拍手や声援が送られた。

長男はうれしくなって行事に積極的に参加するようになり、地域の人気者として明るく社交的な性格に育った。

長男を通じて知る"失ったもの"


そんな温かな地域コミュニティーを、原発事故はバラバラに打ち砕いてしまった。

最も変化したのは長男への視線だ。避難先ではどこへ行っても、好奇の視線にさらされる。

長男は当時10歳。児童が計約120人の小学校を選んだが、それでも旧津島村の学校に比べれば「マンモス校」。親に心配をかけたくないと思っているのか、長男は泣き言を言わずに、「津島に戻りたい」とだけ繰り返した。

津島では長男のことを特にかわいがってくれていた近所のおばあちゃんがいた。故郷を離れて足腰が弱り、今は関東地方の老人ホームに入っている。
長男はたまにおばあちゃんに会いに行き、そこで昔のようにトランプをして過ごす。すべてが平和だった、津島の空気がその瞬間だけ戻ってくる。

「私は長男を通じて、原発事故で失ったものの大きさを知ったような気がします」と門馬さんは言う。

「人と人とが気兼ねなく交流できる地域コミュニティーが持つ温かさ。それは決してお金では買えないものでした」

「この劇薬では死ねないぞ」


旧津島村は7つの集落からなり、いずれも阿武隈山地の深い原生林の中にある。

広さは山手線の内側の約1.5倍に相当する約9550ヘクタール。終戦後に旧満州(現・中国東北部)からの多く引き揚げ者を受け入れ、「米が食えない」と言われるほど貧しい生活が長く続いた地域もあった。

野田雅也撮影

岸チヨさん(90)と一緒に旧津島村の旧宅を訪ねたのは、2018年4月だった。

古い民家は枯れ草に覆われ、周囲の道路は崩落していた。岸さんは旧宅の前で深呼吸をして「うん、津島のにおいがする」と言った。

福島県の上川崎村(現・二本松市)で生まれ、1942年、国策で推し進められた満蒙開拓団として旧満州に渡った。
当初は楽しく現地の学校に通ったが、戦況が悪化すると、大人から小銃の撃ち方を教わったり、敵を出刃包丁で刺したりする訓練などをさせられるようになった。

敗戦を知ったのは、1945年8月18日。ソ連軍が進駐してくるという話が広まると、住民に集団自決用の手投げ弾と劇薬が配られた。
父は家族に劇薬を手渡し、「これを飲め。俺はお前たちの最期を見届けてから手投げ弾で自決する」と告げた。

岸さんは親友に別れを言おうと外に出た。すると集落のあちこちで「飲むな。この劇薬では死ねないぞ」と叫ぶ声が聞こえる。

急いで家に戻ると、家族は劇薬を飲んで、もがき苦しんでいた。
慌てて解毒剤を飲ませると、胃の中の物を吐き出し、しばらくして快復した。

忘れられない、母の「言葉」


ただ1人、解毒剤を拒んだ人がいた。

最愛の母だった。

日本の勝利と発展を信じ、旧満州の土になろうと大陸に渡ってきていた母は、解毒剤を勧める岸さんの手を振り払い、言った。

「親不孝者!」

岸さんは今もその母の言葉が忘れられない。

15日後、母は苦しみながら42歳で死んだ。

4歳年上の姉は隣家で睡眠薬を飲んだ後、家に火をつけて焼け死んだ。1歳のめいは「連れて行ってもいくらももつまい」と父が首を絞めた。

ようやく得た安住の地。なのに…


一家はドブネズミのようになって大陸を逃げ回り、1年後、日本へと向かう引き揚げ船に乗った。

帰国後、落ち着いた先が旧津島村だった。
山林を切り開き、ササで屋根をふいただけの小屋で寝泊まりしながら炭やジャガイモなどを作った。岸さんは旧営林局の職員と結婚し、浪江町内で2人の娘を育てた。

そして2011年3月、原発事故に遭遇する。
敗戦から約半世紀。岸さんは再び家を追われることになった。

満蒙開拓、引き揚げ、原発事故。
国策に翻弄(ほん・ろう)された人生を振り返る時、胸にこみ上げるのは国家に対する憎しみではないという。

「国が決めることはいつも大きすぎて、私にはよくわからないのよ」

でも、一つだけ、と悔しそうに言った。

「あの時、無理にでも母に解毒剤を飲ませるべきではなかったか。そう思うと胸が苦しくなるときがあるの」

少しだけでいい。福島に思いを…


僕たちはすぐに多くのことを忘れてしまう。あの震災だってきっとそうだ。10年前、あれほど津波や原発事故の被災地の惨状に心を痛めたはずなのに、今はもう新型コロナウイルスや日々の生活のことで頭がいっぱいになっている。

でも、それは仕方のないことなのかもしれないと僕は思う。僕たちには僕たちの生活があるし、人生をかけて夢を追っている人もいれば、大切な人を守っていかなければならない人もいる。「だって、私たちにできることなんて何もないじゃない」と言う人だっている。

そう、僕たちにできることはあまり多くはない。

だから、少しだけでいい。このサイトを読み終わった後に少しだけ福島について考えてほしい。今も自宅に戻れないでいる、「帰れない村」の人々に心の中でエールを送ってほしい。

野田雅也撮影

「僕らはちゃんと知っています。日本には人の住めない『村』があることを」

そう知ってくれただけでも、彼らはきっと喜ぶはずだ。

なぜか?

彼らが一番恐れているのは、人々の記憶から消し去られることだから。彼らは、彼ら自身が生きているうちに、故郷には帰れないかもしれないと思い始めているからだ。

たとえ故郷に戻れなくても、この先地図から消されるようなことになっても、「村」は人々の記憶の中で存続し続ける。

それが「帰れない村」の取材を続ける、僕の小さな願いです。

※この記事はwithnews「帰れない村」編集チームによるLINE NEWS向け特別企画です。

三浦英之
2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』(http://www.shueisha-cr.co.jp/CGI/book/detail.cgi/1765/)。

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進む、無毛社会 男女・年代問わずツルツル志向…でもほんとに「ムダ毛」なの?

2020年12月18日 10:00 朝日新聞デジタル

 街中やインターネット上の至る所で、美容脱毛の広告を目にする。いま、脱毛は世代や性別を問わなくなり、処理をする体の部位も広がっている。

 処理はすべきなのか。そもそも体毛は「ムダ毛」なのか。悩みや疑問を募る「#ニュース4U」取材班には、体験談が次々と寄せられた。

そらずにはいられず…


 「脱毛しないと恥ずかしい」。千葉県習志野市の大学生の女性(20)は、カミソリで自らそっている。指の毛は毎日。脚の毛はアルバイトでスカートスーツを着る時だ。

 周りの誰かに毛のことを言われた経験があるわけではない。それでもそらずにはいられないという。「毎回大変です」。

 カミソリをあてた部分は翌日かゆみが出る。なのに、またすぐ生えてくる。「脱毛サロンに行こうか」。

 でも数十万円もかかる。手が届かない。


 動画サイトの広告にも、小中学生向けの雑誌にも。「体毛は処理すべきもの」というメッセージは色々なところに出てくる。

 「黒くて太い体毛」が悩みだという東京都の会社員の女性(27)は、子どもの頃から読んでいた雑誌などの影響から、「女性はツルツルでなければという強迫観念がある」と明かす。

 最近は電気シェーバーや家庭用の光脱毛器で処理しているが、産毛の濃さが気になるという。「半袖やノースリーブを着ることはないです。冬は長袖や黒いタイツでごまかせるので、ほっとしています」

 体毛の処理はどれほど浸透しているのか。

 「装いの心理学」の編著書がある東京未来大学の鈴木公啓(ともひろ)准教授が3年前、インターネット上で10~60代の男女約9千人に調査したところ、脚や足の指の毛、脇の毛を処理したことがあると答えた20代女性は、いずれも9割超に上った。

 60代も、脚や足の指の毛が4割余り、脇が7割近くで脱毛を経験していた。


 鈴木准教授は「女性にとってムダ毛の手入れをすることは、個人の選択というより、社会の暗黙の了解となっているのでは」と分析する。

 女性は男性より、季節によって肌を露出する服が増えたり、外見が他人の評価にさらされる機会が多かったりすることが考えられるという。

男子高校生も悩む


 脱毛は、男性でも若い世代を中心に浸透してきている。鈴木准教授の調査では、20代では脚も脇も4割超で経験があった。一方で、60代は1割に届かなかった。

 取材班には、男性からも悩む声が寄せられた。

 埼玉県の高校生の男性(17)は、体育の着替えや友達とプールで遊ぶときに、わき毛の処理をするかしないか気になるという。「すべてそるのは恥ずかしいけど、結構毛が濃い方なのでそのままというのも……」。

 同級生の男子の間で「すね毛はどうすればいいんだろうね」と話題にあがることもあるという。


 小中学生の子どもが脱毛をするケースも珍しくない。取材班にも、保護者からの声が数多く寄せられた。

 東京都の主婦(50)の娘は中1で、バレエのレッスンでわき毛を気にしていた。それをきっかけに今夏、エステサロンで全身脱毛を始めたという。50万円ほどかかったが、「自己流で肌を傷める前に施術できて、親としても安心しました」。

キッズ脱毛や介護脱毛、高い関心


 大手エステサロン「TBC」は、7~15歳対象の「キッズ脱毛」を行う店舗を2011年に開いた。利用客からは「子や孫にも受けさせたい」という声が寄せられ、水泳やバレエなどの習い事や、中学の部活が始まる前に利用するケースが多いという。

 利用者は年々増え、大阪エリアでみると、15年に比べ19年は3割ほど増加したという。


 中高年が脱毛を始める理由には、「介護脱毛」がある。将来受ける介護をみすえ、アンダーヘアの脱毛をするケースなどだ。

 医療脱毛のリゼクリニックによると、開院当初の10年からの10年間で、40歳以上で契約した女性の数は75倍にまで増えた。今年も去年から1・6倍になるなど、増え続けている。

 14年に男性専門のクリニックを開院したが、今年の契約者は前年の1・4倍になった。

 同院の大地まさ代医師によると、陰部を脱毛すれば、炎症や感染症のもととなる排泄(はいせつ)物が拭き取りやすくなり、清潔さを保ちやすくなるなどの効果がある。大地医師は「介護する人、される人の双方にメリットが大きい」と話す。


脱毛ブーム、実は日本ならでは?


 老若男女で「脱毛」に抵抗がなくなりつつある。この「無毛社会」とも言える状況は、歴史的にも世界的にも珍しいとの指摘がある。

 日本スキン・エステティック協会の清水京子さんによると、江戸時代では処理をしていたのは遊女が中心で、広く普及はしていなかったとみられるという。

 ただ、この時代の浮世絵のほとんどには体毛が描かれていない。清水さんは「体毛が少ない方が好まれていたのでは」と分析する。このころには、軽石を砕いて油とまぜ、手足にすり込んで摩耗させて毛を切る脱毛法がすでにあったという。


 体毛の処理が一般的になったのは、ミニスカートやストッキングが流行した高度経済成長期の1970年代ごろ。美容脱毛サロンが登場したのもこのころだ。


 2000年代にはさらに市場が広がり、手頃に脱毛できるようになったことから、清水さんは「毛がない方が当たり前になってきた」とみる。海外の事情は国によって異なるものの、「脱毛がこんなにブームになっているのは、日本の特徴と言えるかもしれない」と話す。


皮膚科医は「リスクもある」


 「ムダ毛」と呼ばれることもあるが、人間にとって本当に無駄なのだろうか。

 ウォブクリニック中目黒(東京)総院長で皮膚科医の高瀬聡子さんは、「むだではない、と本来は言えると思います。ただ、日本や先進国では毛をなくしたからといって生命維持に大きな影響はない」と話す。


 例えばわき毛は、汗を蒸散させ、その気化熱で体温を下げる役割がある。「ただ、生えていない人でも機能はほとんど下がらず、多くの人が処理をする中でも特に大きな問題になっていない」と言う。

 一方で、高瀬さんは「慎重に処理をした方がいい部位もある」と注意も促す。アンダーヘアだ。

 「毛が生殖器官をウイルスや細菌などからブロックしている。毛をなくせば、その機能の一つが減る。研究のデータはまだないが、感染症などのリスクが高まる可能性はある」と話す。

「自分の価値観で決めよう」


 体毛の処理について、考えが変わった人もいる。


 ムダ毛処理をテーマにした楽曲「エビバディBO」を18年に発表したラッパーのあっこゴリラさん。「はみ出したとこがきみの才能」と歌い、ブログには緑に染めたわき毛の写真を載せた。

 「なんで毛が生えているとだめなんだろう」と思ったのが、曲作りのきっかけという。


 「生やしたいときに生やして、そりたきゃそりゃいい」。そう話すあっこゴリラさん自身、学生の頃は「ツルツル絶対正義」と思っていたが、今は、処理するかしないか気分で決めているという。

 「自分の価値観のものさしを作って、なにを選ぶのか。みんなが、自分の世界の王様・女王様になることが大事だと思います」

(朝日新聞 「ニュース4U」取材班・田部愛)

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やらされる勉強は続かない 気づいた10代、世界が広がった ビリギャルのモデル・小林さやかさん

2020年12月15日 10:00 朝日新聞デジタル

 「ビリギャル」は今年、32歳になった。映画にもなった慶応大学合格までのサクセスストーリー。

 「もともと頭がよかっただけ」という冷めた声に対して、原作本のモデルになった小林さやかさんは、ずっと抱えている心のモヤモヤがあるという。

 彼女の物語には、どんな続きがあったのか。受験や進路で悩む10代に、先輩が送るメッセージ――。

「キャラ変」したくて受験

 小学校のころは、自分のことがすごく嫌いでした。3月生まれなのもあって、まわりよりもできない自分には才能がないと、何となく思っていました。

 自己肯定感が低い子どもでしたね。友だちもあまりいなくて、輝ける場所は1ミリもありませんでした。

 そんな自分を「キャラ変」したくて、中学受験をしました。いままでの私を誰も知らない世界に無事行けたので、やっと楽しい人生が送れるようになると思いました。

 人生ここからだぞ、と。自分の環境は自分で選べる。それを学べたのが大きかった。

 今の子はすごくまじめで、ギャルとかヤンキーってあまり見かけなくなりました。「なんでこんなことしないといけないの?」「なんで受験とかするの?」という当たり前に誰もが抱えている疑問を彼らなりに表現してきたのが、ギャルとかヤンキーだと思います。

 そんなものに乗るかっていう子がいなくなってきたと感じています。ネットいじめなど別の陰湿なかたちで出てきているのではないかと思います。だから大人は余計に手を焼くのではないでしょうか。

 大人の言うことに、子どもが何の疑問も感じなかったらそれは問題です。なぜ大学受験をするのか。なぜその道に進むのか。

 私はそういう意味で、少ない経験と狭い価値観のなかではよく考えていた10代でした。

 校則でツーブロックが禁止されているとします。先生たちはなぜかちゃんと説明できますか。生徒たちもただ反抗するだけではなくて、なぜ禁止なのか理解しようとしていますか。

 ちゃんと突き詰めて考えて、納得できればそのルールは長続きします。

やらされる勉強は続かない

 なぜ勉強をするのかも同じ。もし言われた通りにやるだけなら、とにかく走ってくださいっていうマラソンと一緒だと思う。水がどこでもらえるのかも分からないし。いつ終わるのかもわからないと地獄です。

 それをみんな学校でやらされているんだと思うと気の毒です。納得していれば必ず私みたいに走れるはずです。

 今の子どもたちは、「自分の人生こんなもんだ」って思っている人が多い気がします。

 受験だってワクワクしないで、何となくやっている。親がやれって言っても、たいした動機づけにはなりません。それは集中できませんよ。

ワクワクする大人との出会い

 「受験はひとつのきっかけ。その先に世界が広がって、いままで君のまわりにいた人とは違う人に出会えるよ」

 私を指導してくれた坪田(信貴)先生にはよくそう言われていました。

 「嵐の櫻井翔くんが通っていたから慶応を選んだ」と言うとウケがいいから講演ではそう話しています。でも、本当は坪田先生みたいなワクワクさせてくれる大人にたくさん出会える場所に行きたいと思っていました。

 もし坪田先生と出会わなかったら、私はきっと狭い世界で生きていたはずです。大学で東京に出てきて、ビリギャルのおかげで知らない世界をたくさん見させてもらいました。

 自分の環境を自分で選ばないと、狭い世界しか知らないで終わってしまう。そのことは強く伝えたいです。

新しい夢、見つけた

 わたしはいまもワクワクしています。大学院に通って教育について勉強中です。近い将来はアメリカに留学したいと思っています。

 坪田先生に「日本の教育しか知らないで教育を語るな」と言われているので(笑)。坪田先生に出会って、慶応に行っていなかったら、留学なんていう選択肢は浮かんでもこなかったと思います。

 教育について学びたいと思うようになったのは、講演活動をするようになってからです。

 大学卒業後はウェディングプランナーとして働いていました。数年ほどしてビリギャルの本が出版されて、全国の学校に呼ばれるようになりました。

 先生や生徒、保護者と話していると、「ビリギャルが成功したのはもともと頭よかったから」と言う人がたくさんいたんです。でも自分ではそれは違うと思っています。

 うまくいったのはもっとしっかりとした理由がある。坪田先生との出会いが大きかったのは言うまでもありませんが、なぜうまくいったのか自分で確かめたい、自分で解明したいと思うようになったんです。

 経験談だけでは、単なるいい話で終わってしまいます。せっかくなら一人ひとりの将来に役立ってほしい。変わるきっかけになってほしい。だから、理論的なものを合わせたら説得力が増すと思ったんです。

 もし私がスタンフォードで博士号をとれば、いよいよみんなちゃんと話を聞いてくれるでしょ?(笑) 

 ビリギャルのモデルとしてではなく、専門家として自信をもって、自分の言葉で伝えたい。それが今の私の夢です。

大人になって挑戦する姿見せたい

 大人になるとどんどん挑戦するのが難しくなるじゃないですか。私は何かに挑戦し続ける姿をわかりやすく見てもらえるところにいると思います。

 後輩たちがそれを見てくれるといいな。大学受験なんてとうの昔の話ですよ。(聞き手・鎌田悠)

こばやし・さやか 

名古屋市出身。指導を受けた塾講師坪田信貴さんの著書「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」の主人公。自著「キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語」が発売中。
この記事は、LINE NEWSだけで読める朝日新聞の特別連載です。

外部リンク

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勝利めざさない「ゆる部活」 体力向上部・ヨガ同好会…

2018年11月7日 07:20 朝日新聞デジタル

 これまでのスポーツ観と一線を画す運動部活動が、中学、高校で徐々に広まっている。勝ちを目指さなくてもいい。一つの競技にこだわらなくてもいい。そんな「ゆる部活」。どんな活動なのか。

 東京都世田谷区の東深沢中に6年前に作られた「体力向上部」の活動は、午前7時15分に始まる。校庭でハードルを跳び越えたり、ジョギングしながらボールをトスしたり。45分間、体を動かしてから授業へ向かう。

 部員は約60人。女子が3分の1ほどだ。野球や柔道に打ち込む生徒もいれば、文化部所属の生徒もいる。体力レベルは様々だが、目標はあくまで体を動かすこと。月曜を除く平日の朝に活動している。

 ある3年生男子は、地域の野球チームの活動が週2回しかなく、「もっと体を動かしたい」と入部。美術部の2年生女子は「運動はしたいけど、やりたいスポーツがなかった」と友達と一緒に入った。顧問の佐々木政紘教諭は「無理はさせない。自分のペースでやって、少しでも体力が上がればいい」と話す。

 世田谷区によると、ボクササイズを含めて色々な運動をする軽運動部など、体力向上や体を動かすことを目的にした運動部は区内10校に広がっているという。

 近年の運動部は、長時間の活動や暴力的な指導などの「ブラック部活」の解消が課題となっている。

 そんな中、スポーツ庁が今年3月にまとめた運動部活動に関するガイドラインには、「週2日以上の休養日」などの活動時間の制限だけでなく、運動が苦手な生徒も入りやすい「ゆる部活」の設置も盛り込まれた。行きすぎた活動に釘を刺すだけでなく、多様性も認めていこうという方向性だ。

 2017年度の「全国体力・運動能力、運動習慣などの調査」では、1週間の総運動時間が60分未満の中学2年女子は19・4%。全く運動をしないという層も13・6%いた。

 また、運動部や地域のスポーツクラブに所属しない中学2年生に「運動部活動に参加する条件」を聞くと、「好きな、興味のある運動やスポーツができる」が男子は42・9%、女子は59・1%。「自分のペースでできる」が男子は44・4%、女子は53・8%を占めた。

 こうしたことから、現在の運動部活動は生徒の潜在的なニーズに応え切れていないと分析。競技志向を離れ、「自分のペースで体を動かしたい」「色々なスポーツをしたい」という生徒のニーズに応える部の設置を推奨している。(野村周平、中小路徹)

外部リンク

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「夜10時にスマホの電源オフ」つぶやきシローさんが語るSNS

2018年10月15日 10:00 朝日新聞デジタル

 日常の「あるある」ネタで笑いを生むつぶやきシローさんは、ツイッター上の「つぶやき」でも100万人近いフォロワーを持つほどの人気です。一方で、他のSNSとは距離を置いている、と言い切ります。ほぼ1日1回のペースでつぶやき続ける生活や、ネット上の様々な声とどう付き合うか、などについて聞きました。

「つぶやき」だからツイートの企画


 ツイッターを始めたきっかけは、2009年の雑誌「週刊プレイボーイ」(集英社)の企画ですね。「ツイート=つぶやき」だから、つぶやきシローにやらせてみたら、という感じで。「10日くらい後の発売日までやってくれたら、ありがたいです」と言われたので、「そこまでならやれるかな」と思いながら続けて……今に至ります。

うだうだしていたら9年経った


 「あるあるネタ」を、「一日ひとつぶ(やき)」って自分に課しているわけです。意外とフォロワーが増えちゃうと、なんかやめづらい。わかります? 「やめるときは『すみません。仕事で無理やりやっていたのでやめます』とかあいさつするのかな、どうしようかな」とうだうだしていたら9年経ちました。フォロワー数は100万近くです。

 ただ、俺自身は「やめづらいな」ってだけで、フォロワーはそんなに気にしてないんですよ。言いっ放しなんで、僕。ただの一方通行で申し訳ないです。

知っている言葉は既読スルーだけ


 ツイッター以外のSNSは、LINE(ライン)も含めてやってません。僕がLINEに関して知っている言葉は、「既読スルー」だけです。「トラブルの元」っていうイメージです、いまだに。若い子は使いこなせて、わかってるだろうからいいですけど、なまじっか知らないヤツが手を出すもんじゃねえって。

 ツイッターは、ネタ帳として便利です。番組のロケで「どうも、つぶやきシローです」っていうシーンがよくあるじゃないですか。そのときに、あるあるネタを言うようにしてるんですよね。なんかないかなってときにこれまでのツイートを見て、「あ、昔のこれ、いいんじゃない」って。

ツイートは毎日のルーティン


 ツイートは、字面を気にするくらい。漢字がいいかな、カタカナかな、ひらがながいいかな、と。1行で終わらせた方が美しいかなとか、句読点を打たず、一気にいった方がいいかな、とか。たかが、こんな1行くらいの「あるある」で引っかかって欲しくないですから。

 真面目な話をすると、自分に対して「お笑い(芸人)なんだから、1日1個くらいネタを考えなさいよ」と、自分に負荷をかけているところがある。「ネタ番組あんまないし、呼ばれないんだから。金にもなんないけど、とりあえずやりなさいよ」と。毎日腕立て(伏せ)を10回やる人とかいるじゃないですか。そんな感じです。

義務になるとすごい苦痛


 でも毎日じゃない。夜中、寝る前にやるんですけど、最近は酒飲んでると寝落ちしちゃうんですよね。昔はそれでも「待っている人がいるかもしれない」と思ってやったけれど、もう「ごめんなさい」って甘えるようにしてるんです。

 気晴らしで趣味のつもりだったのが、義務になるとすごい苦痛。ジムもそうじゃないですか。そうなりたくないから、嫌なときはやんなくていいんじゃないか、と。そうじゃないと今後続かないと思ったんだよね。やらない自分を許す日があるから、まだ続いてる。自分でコントロールしています。

リツイートは見ないのが一番


 最初はリツイートも見ていました。それまでmixi(ミクシー)とかブログも一切やってなかったので、教えてもらって「こういうことなんだ」と。でも悪口も来るし、「なんだよ」とも思う。「ああいうのは見ない方がいいですよ」と聞いて、全然見なくなりました。こっちは顔を出してやっているわけで、そうじゃない人の相手をしてもしょうがない。時間の無駄で、見ないのが一番だと思います。

 SNSはいろんな情報が入ってきて、時間の「短縮」と言うけれど、「その情報、本当にいる?」って思っちゃう。スタバでも、電車でも、風呂の中でも袋に入れてスマホを触ってる人がいる。依存症でしょ、完全に。「SNS禁止の日」をつくって、国民全員が休む日を作った方がいいですよ。

個性を出すって、今の子は大変


 僕は寝るとき、夜10時になったらスマホの電源を切ります。みんなにびっくりされるんですよ。「え?」って。俺は逆に「え、電源切らないの?」って思う。「俺は今日は誰とも(つながるのは)嫌です」って、電源切るんです。緊急ならパソコンのメールや家の電話もあるし。出かけるときだけ電源を入れる。切るっていいですよ。「もう受け付けません」「自分の時間です」って。

 みんな、SNSから自分のためになる何かを得ようとするから、のめり込むんでしょうね。本を読んだり、人と遊んだり、足で稼ぐことをやらなくなっている。これだけ個性的なのに、同じものを見て、同じところに向かっている気がする。これで個性を出すって、今の子は大変ですね。

そんなにつながりたいですか?


 ツイッターでフォローしている人はいません。人間関係のトラブルのもとなんでしょ、聞くところによると。「俺はフォローしたのに、してくんない」とか、「『いいね』をくれない」って怒る上司がいるとか。だから最初からゼロが一番なんですよ。めんどくさいことはやらない。

 フェイスブックをやらないかと誘われた時も、「やらない」って言いました。そんなにつながりたいですか? やらない人はダメとか、入ってない人は友達がいないとか、全然思わないですね。つながりすぎてしんどいって悩んでる人だっている。リセットの日を作ったらいいと思うんです。「みなさん、1回整理しませんか」って。

「物言わぬ支持者」はいる


 電話番号だって、「これまだ使えてんのかな」っていうのばっかりじゃないですか。相手に2年連絡しなかったら、まあいらない。何か自分の役に立つかもしれないからってつなげておく、その欲がトラブルのもとですよ。そういうヤツから、ねずみ講の電話がかかってくるんですよ、たまに。「布団買って」とか。ろくなことがないですよ。

 リツイートの数も振り返らないです。だってツイートの内容にもよるし、時間帯にもよる。悪口を書いてくる人もいるけれど、「物言わぬ支持者」がいるのが常。何も押さない人、リツイートもしない人がほとんどで、その「物言わぬ支持者」を俺は支持するから、押す人という狭い中の数字は、どうってことない。その評価が標本調査だとも思わないですね。(聞き手・荻原千明)

つぶやきしろー

 1971年、栃木県出身。94年にホリプロお笑いオーディションに合格。栃木弁でぼそぼそとつぶやく芸で知られ、「イカと醤油(しょうゆ)」などの著書もある。

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