4島の名前と位置 問題の経緯を確認
北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)をめぐる問題に対して、大きな転機になるのでしょうか。安倍晋三首相が訪問先のシンガポールでロシアのプーチン大統領と会談し、1956年の日ソ共同宣言を基礎に、平和条約の交渉を加速させることで合意しました。この宣言では平和条約を締結後に色丹島、歯舞群島を引き渡すと明記。日本政府はこれまで4島の一括返還を求めていましたが、2島の先行返還を軸に進める方針に切りかえたかたちです。
北方領土は入試で頻出です。特に公立高校の入試では、地図上での位置やそれぞれの島の名前などがよく問われます。
ロシアとの北方領土問題は19世紀までさかのぼります。1855年に結ばれた日露和親条約では、千島列島のうち択捉島以南を日本領、樺太(サハリン)は境界を定めないことにしました。1875年の樺太・千島交換条約で、樺太全島がロシア領、千島列島が日本領に。日露戦争後のポーツマス条約(1905年)では、北緯50度以南の樺太などが日本領になりました。
第2次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年、日本がポツダム宣言を受諾後にソ連(いまのロシアなど)は北方領土に侵攻して占領。1956年の日ソ共同宣言で国交は回復したものの、北方領土問題が存在するため、日本とロシアのあいだでは平和条約が結ばれてきませんでした。
戦後の国際社会では社会主義のソ連と、資本主義のアメリカを中心とする対立が加速しました。「冷たい戦争(冷戦)」といい、砲火を直接まじえないものの、政治的、経済的、軍事的に激しく対立しました。ソ連は東ヨーロッパ諸国を、アメリカは西ヨーロッパ諸国をそれぞれ支援したため、ヨーロッパは東側諸国と西側諸国に分かれました。ドイツは社会主義の東ドイツと資本主義の西ドイツに分かれ、現在の首都ベルリンも東西に分断。1961年には東ドイツが境界に「ベルリンの壁」をつくりました。当時の東ドイツは経済が伸び悩み、西側へ逃げる人が相次いだため、壁を築いて市民が自由に行き来できないようにしたのです。
それぞれの勢力は軍事的な結びつきも強め、西側は1949年に北大西洋条約機構(NATO)、東側は1955年にワルシャワ条約機構を結成しました。こうした対立の構図は徐々に変化。1980年代後半からは東側諸国の民主化などが進みました。冷戦の象徴といわれたベルリンの壁も1989年にこわされ、90年に東西ドイツが統一。ソ連ではゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)を唱えて市場経済を導入し、1989年に地中海のマルタ島でおこなわれた米ソ首脳会談で冷戦の終結が宣言されました。
北海道のあらましや歴史も
北海道の「あらまし」もおさえておきます。面積は約8万3400平方キロメートル。都道府県別にみてみると日本で一番広く、日本全体(約38万平方キロメートル)の20%以上を占めます。人口は540万人ほどで、気候はおもに冷帯に属します。
北海道の歴史をみるとき、決して忘れてはならないのがアイヌ民族。古くから狩猟や漁で生活していた先住民族です。
明治政府は1869年、開拓使という役所を置き、「蝦夷地」を「北海道」と改めて、西洋の技術を取り入れた開拓事業に乗り出しました。その中心を担ったのは屯田兵でしたが、アイヌの人たちも動員されました。開拓が進むなかで、アイヌの言葉を使うことやサケ漁などを禁止、日本人への「同化」政策も進められました。
1997年にアイヌ文化と伝統の振興、普及をはかる「アイヌ文化振興法」が制定されました。2008年にはアイヌの人々を先住民族とすることを求める決議が、国会で採択されました。
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編集委員・大島淳一
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