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「確かに距離は短いけどさ、いざ走ればいろんなことを考えるだろうなと思ってたんだよ。こんだけオリンピックというものにこだわってきた俺が走れば、万感迫るものがあってもおかしくないだろ」
「だけど実際走ったら、なーんにも考えられなかったな。どこかでマスク取ったほうがいいのかな、とか思ってるうちに、あっという間に終わっちゃった。ま、これが人生だよ、ハハハ」
■メダル獲得の「期待大」
「リレーを辞退する考えはなかった。だって、熱さがちがう」
「同じアマレス五輪代表だったジャンボ(鶴田、00年に死去)も長野五輪で聖火ランナーを務めたし、マサ斎藤さん(1964年東京五輪日本代表、18年に死去)も、今回の東京五輪の聖火ランナーを目指していたんですよ。俺は、そういう人たちの思いも乗せて走ったんです」
「世界で善戦できる自信はあったよね。20歳と24歳では、やっぱり実力が全然違うから。あのときは出場できなかった悔しさもそうだけど、支援してくれる人たちに対して申し訳ないという気持ちが強かった。当時、足利工業大(現・足利大)の理事長が、俺にメダルを取らせるために武者修行のための海外遠征費を何百万円も出していてくれたんですよ。重量級は国内に強い練習相手がいなかったから」
■破格の扱いでデビュー
「勝手にボイコットされて、それまで使った費用をどうしてくれるんだと。困ったよね」
「これだけは言える。モスクワに出場していたら、俺のプロレス入りはなかった。大学に残ってアマレスを教えていたよ」
「玉石混交という言葉があるけれども、当時の谷津は、玉のなかの玉だったでしょ」
「モスクワ五輪に出場できなかった大物アマレス選手がいると知ってね。私はぜひウチ(新日本プロレス)に入れるべきだと思った。あのとき、民放のテレビ朝日がモスクワ五輪の独占中継権を買って、テレビ局として勝負に出た。ところがまさかのボイコットですよ。当時、新日本プロレスの中継をしていたのも同じテレビ朝日。これも何かの縁でね、モスクワに出場できなかった谷津を獲得すれば、テレ朝も一丸となって応援してくれるはずだと。そういう気持ちがあったんです」(新間さん)
■プロレスの奥の深さ
「“ヤツ、ヤツ、凄いヤツ”とさんざん持ち上げて、最後は落とす猪木流に見事にやられたよな(笑)。あそこで勝っていたら、俺の人生はまた別のものになったかもしれない。アマレスは、ひたすら強さを求めればいいけれども、プロレスは違う。でも俺はその仕組みを知らないままプロレスの世界に飛び込んでしまったもんだから、最初は驚いたし、戸惑ったんです。難しいし、奥が深いんだよ、プロレスって」
■「俺の五輪は完結した」
「私もその日、長州力ら所属選手たちとともに、駒沢体育館に応援に行きました。彼はちょっと緊張しているように見えましたね。どういう形であれ、プロレスラーである自分がアマチュアの選手に負けたら示しがつかないと思っていたんでしょう。でも試合は圧勝で、私たちもその実力を再認識させられましたよ。谷津さんがアマレス復帰し五輪代表になれば、プロレス界にとっても大きな宣伝になるという考えでした」
「右足はもうないけど、まだ前に進まなきゃいけないから。区切りをつけておきたかった。モントリオールから45年……これで俺の五輪は完結したよ」
※AERA 2021年4月12日号
【五輪イヤーだった57年前、静まり返った元日を走る都電と「日比谷」の変貌】