ダイヤモンド・プリンセス号の感染症対策を告発する動画を公開し、一躍知られるようになった。「失敗したことではなく、責任者が失敗と向き合えないことが問題だ」とこの国の本質的な問題を突く。真実を前に一切忖度しない感染症の専門医は第一人者か、アウトサイダーか。
AERA 2020年9月7日号に掲載された「現代の肖像」から一部紹介する。
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26年前の8月、長野県の乗鞍で医学生向けの一風変わったセミナーが開かれた。全国の微生物学の教授たちが、自分たちの身銭を切って合宿施設を手配し、有志学生を集めて行った感染症についての勉強会であった。今でこそ、新型コロナウイルスの出現で微生物研究は医学界のトッププライオリティだが1990年代前半は感染症を学ぶことはもはや時代遅れ、という考えが一般的であった。医学生たちの大半ががんや生活習慣病の研究に流れていく中で、このままでは微生物学に関心を持つ学生が途絶えてしまうという危機感のもと、同学を専門とする教授たちが、若い学究をリクルートしようと開いたものである。順天堂大学の教授・平松啓一を筆頭に当代随一の講師たちによる最新微生物学の講義が惜しげも無く行われた。
なぜ、今頃、感染症なのか? これをやって出世やカネになるのか? そこに即物的な解答は無い。それでもジリ貧とさえ言われたジャンルの学問を学ぼうとしただけあって、全国からやってきた18人の学生はいずれも個性的な若者で、そのひとりに島根医科大学(現島根大学医学部)の4年生、岩田健太郎(49)はいた。
産業医科大学5年生でこのセミナーに参加し、今は職業性感染症学の権威として労働安全衛生総合研究所統括研究員の任にある吉川徹は振り返る。
「乗鞍セミナーは先生方の熱意と感染症の世界の面白さから、その後の医師としての人生に大きな影響を受けました。学生たちもユニークでしたが、中でも岩田さんはあの頃から、抜きん出ていました」
岩田の、どんなところが抜きん出ていたのか。
「英語のレベルが高くて他言語の文献からも情報を得て物事の本質を考えていた。医学は本来、美術や哲学、自然科学などすべての基礎学問の土台の上に存在するものですが、日本では偏差値重視で医学に入ってしまうので、その大事な分野が薄いまま医者になる人が多い。そんな中で彼は、必要なリベラルアーツがしっかりとあったわけです」
特に感染症は……、と吉川は続ける。
「特に感染症は、人の生活にものすごく関わります。生き死にはもちろん、家族や社会とのつながりに大きな変化をもたらす。生活すべてに関わるわけで、芯がある岩田さんがその道に進んだことは大きいと思います」
感染症のプロは、世の中の様々な価値観を念頭に置いてその中で感染症を考えないといけないというのが、岩田の持論である。ジャズのプロはクラシックとの違い、あるいは絵画などとの類似を語れる。感染症のプロもコロナ対策と経済も両方考えて、社会の中でコロナの問題を相対視できないとダメなのだと言い続ける。
だから、岩田の関心領域は今でも多ジャンルに及ぶ。デスクには、常に読みかけの本が積まれているが、2020年8月のそれは、ウディ・アレンの評伝、ルソーの哲学書、日本の古典小説、数学の専門書など6冊、これらを同時並行で読んでいく。時間が空くと、語学学習に余念なく、これも6カ国語を1・5倍速で耳に入れる。日課にしているジョギングも必ず、好きな春風亭一之輔の落語を聞きながら走るのだ。
しかし、一秒も時間を無駄にしない日常についてストイックと他者から修飾されると首を振る。
「僕は自尊心が低いからなんです。田舎育ちで世界を知らないという自覚があるんです。だからそれを知りたいという欲望に転化する。調べれば調べるほど、分からなくなるからまた学ぶんです」
(文・木村元彦、撮影・植田真紗美)
※AERA 2020年9月7日号から抜粋
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